澪ちゃんは読書が好きなようだ。
 私が講義室に行くと澪ちゃんはやっぱり先についていて、いつもの一番前の席で一人座って読書している。
 文庫本を細くて長い指で支えて、麗しい横顔と瞳でそれを読んでいる。
 私はそれに見惚れるしかない。


「おはよ、澪ちゃん」
「あっ……お、おはようございます」


 挨拶すると、澪ちゃんは顔を上げてぎこちない笑みを作ってくれる。
 愛想笑いなのか、それとも本当に笑ってくれてるのかわからないけれど。
 できれば後者であってほしかったし、少しでもいいから私に心を開いてくれてるといいなって思った。
 澪ちゃんの隣に座って、頬杖を突く。


「ねえ、何読んでるの?」
「えっ……あ、いや……その」


 当然の反応だ。
 あんまり期待してなかった。今までも質問してもすぐに会話が途切れちゃうから。
 だから今度も同じように、ただちょっと焦っちゃう澪ちゃんの姿を見てみようかな、というぐらいな軽い気持ちだったのだ。


 が。
 バッと私の目の前に、澪ちゃんは読んでいた本を突きつけてきた。
 澪ちゃんは顔を真っ赤にして目を閉じている。
 えーと、テレビで良く見るバレンタインチョコを渡す時の『受け取ってください!』みたいな図だった。
 う、受け取っていいのかな。


「あ、えーと。ありがとう」


 私は澪ちゃんのいつもと違う大胆な反応に驚きつつも喜んだ。
 澪ちゃんの不器用な差出しに応じる。

 突きつけてきた本を受け取って、パラパラと最初の数ページをめくってみた。
 タイトルと目次。どこかで聞いたことがあるようなタイトルと作者だ。
 読書自体そんなにしないから覚えているわけがないけど、でも私にでもタイトルがわかる作品ってことはそれなりに有名な本なのかな。


「澪ちゃん、何かオススメの本とかない?」
「えっ……あ、えっと」


 読書が好きなら、何か教えてもらいたかった。
 もしオススメの本があったとしたら、それを貸してもらったりして共通の話題が増えたりするし。
 澪ちゃんも好きなことなら語りやすいんじゃないかなと思ったのだ。
 予想外の質問だったのか、澪ちゃんはやっぱり不安そうにそわそわして目を逸らす。
 私は唐突過ぎたことに少し反省して、ちょっと言葉を付け加えてみた。

「私あんまり読書が得意じゃなくてさ。初心者にもオススメの本とかないかな? できれば澪ちゃんが好きな奴で」
「……『――』、です」


 澪ちゃんは、恥ずかしそうに本のタイトルを口にした。
 見事に知らなかった。
 でも、教えてくれたということは私を喜ばすのに十分な理由だった。

「面白そう! 明日……は、土曜日だった。じゃあ、月曜日持って来てよ! 読んでみたいな」

 読書が好きじゃなくても、澪ちゃんが好きなら読んでみたい。
 それで一緒に、物語の話をしてみたい。
 一緒の物が増えていくって、きっと楽しいんだろうなあ。

「じゃ、じゃあ……持って、きます」
「うん、よろしく!」


 ちょっとだけ澪ちゃんの顔が綻んだのを、見逃さなかった。


 少しは。
 少しはさ。
 距離、縮まってるのかな。










 4月25日 晴れ



 やってしまった。変な子だと思われたかな。
 恥ずかしくて無理に強引に本を突き出してしまった。
 そこは失敗だった。


 でも、好きな本を貸す約束をした。
 嬉しかった。そんなの初めてだったから。


 ――










「やっべー。晩御飯の材料がないや」


 私は冷蔵庫の中を覗いて、開口一番そう言った。
 あーくそ、昨日の時点で気付いとくべきだったなあ。
 まさか野菜がちょっとしかないなんて。
 これじゃ野菜炒めですらまともに作れないぞ。
 炊いたご飯だけでなんとかするしかないのかも。


「明日は土曜日か……」


 冷蔵庫を閉めて、壁に掛かっている時計を見た。
 時刻は六時手前。澪ちゃんと別れてからもう一時間ぐらいかな。
 講義が終わって、少しだけ澪ちゃんと話して。
 それで帰って、少しだけ昼寝したんだっけ。


 私はあんまりはっきりしない記憶とぼやっとする頭を回転させる。
 息を吐いて、後頭部をかいた。
 細かいことはいいか。近くのコンビニに行って適当に弁当でも買って食べる事にしよう。

 明日はちょうど土曜日だから、駅前のデパートにでも行って食材やらなんやらを買い込まなきゃなあ。
 投げ捨ててあった鞄を手にとって、歩きながら中を確認する。
 財布はちゃんと入ってる。小銭もちょっとぐらいは入ってるだろう。
 弁当代ぐらいは常に入ってるようにしてるし。



 外に出た。
 微妙に寒かった。
 私は下宿である二階建てのアパートの二階に住んでいるので、一番端っこの階段から降りる必要がある。
 実家は当然一戸建てなわけだから、この動作にすら最初は慣れなかったもんだ。
 今ではもう軽々しいけれど。


 階段を下りて、歩き出す。
 閑静な住宅街と言えばいいけれど、実際住宅街ばかりじゃない。

 まあ結構田舎っぽい風景だった。
 もちろん駅前まで行けばかなり都会の風景に様変わりする。
 でもこの下宿の辺りは少しばかり閑散としていた。
 大学までは徒歩で二十分ほど。目指しているコンビニは徒歩十分だ。
 大学とは逆方向なので学生がコンビニに溢れているということもあまりない。
 下宿の近くにコンビニがあるのはかなり助かった。


 歩いていると、否応なしにいろいろと考える。


 澪ちゃん今頃何してるんだろうなあ、とか。


 最近は隙間さえあれば澪ちゃんのことばっかり考えてる気がする。
 まあ友達になったばかりで、どうすればもっと仲良くなれるのかなあなんていろいろ考えてみたりするのが要因かもしれないけど。
 でも、それだけじゃなくて。
 なんか仲良くするしないは関係なくて……もっと、なんか言いようのない高揚っていうか。


(……なんだろうなあ、この気持ち)


 ふわふわっとしてるんだよなあ。
 でもズキズキするし。痛みもするし。だけど嫌な痛みってわけでもない。
 別れ際が寂しかったりもすれば、夜中に急に澪ちゃんに会いたいなって思ったりもする。
 それがどういう感情なのかも理解できないけど、でも確実に澪ちゃんのことばかり考えているのは確かだった。


 よくわからない。
 いろいろと経験したことのないことが多すぎる。
 ……コンビニが見えた。
 澪ちゃんのことを考えるとなんか胸が痛いので、とりあえずさっさと弁当を買ってきた方がよさそうだな。
 減ったお腹もいい加減限界だ。
 私は暗い中、一際輝くコンビニに向かって走り出した。









 ――嬉しかった。そんなの初めてだったから。



 だけど私はまた馬鹿だ。
 その約束の本を実家に置いてきてしまったみたいだ。
 せっかく田井中さんと約束したのに。


 明日は土曜日だから、駅前のデパートに買い出しに行く。
 その時ついでに書店でその本を買ってこよう。
 約束破りたくない。


 晩御飯は――
 最近書くスペースがない。田井中さんのことを書きすぎかな。
 でも、書きたいんだから仕方ない。










 駅前までは徒歩だとさすがにかなり時間が掛かる。
 徒歩で行けば四十分ほどになるんじゃないか。

 別にそれはそれでいいのだけどさすがに大変だ。
 しかも今日の目的は食材の買い出し。どうしたって荷物は多くなる。
 それを帰りに四十分間持って歩くというのはなかなか重労働だろう。


 そこで今日はバスを使うことにした。大学前のバス停から駅方面へとバスは走る。
 家から出て一旦大学前まで行き、そこから駅前まで行く方が徒歩よりは楽だった。
 私は今、大学前のバス停で待っている。
 そのバス停からは大学の入口が見えていて、ときたま学生が入っていくのが見えたりする。
 講義がある学科があるかもしれないし、サークルだったりがあるかもしれない。


 それぞれの時間が土日にもあるんだろう。
 私の学科は土日は講義はないし、私はサークルにも入っていないので土日は暇といえば暇である。
 まあDVD見たり、趣味のあれをちょっとやってみたりという程度だった。
 でも大抵は土日は寝てばっかりだ。
 腕時計を見る。九時二十三分。そろそろか。


 それから少ししてバスがやってきた。
 気の抜けるようなぷしゅーという音と同時にドアが開く。中からまず私と同い年ぐらいの若い人たちが出てきた。多分大学に行くのだろう。
 なんか皆大学に行くのに私はお休みですいませんというような申し訳なさも一瞬出てきたけど、皆が皆楽しそうにしててそれもなくなった。


 高校よりも比較的自由だし、皆サークルとか楽しいんだろうなあ。
 全員が降りたのを確認してバスに乗り込む。席はかなり空いていて、適当なところに座った。
 私の後ろからはおばあさんと、女の人が入ってきて、やっぱり思い思いのところに座る。


 私は窓の縁に頬杖を突いて、景色を見つめることにした。
 発車と同時にガタンと大きく揺れるけど、私の体は揺れなかった。
 この土地に来てもう三週間になるか。


 家と大学の二十分間の景色は、見慣れた。
 あと、駅前に一度だけ徒歩で行ったことがあるけど、そのときの景色もなんとなく覚えてる。
 だけどバスで駅前まで行くのは初めてだった。
 がたがた揺れる車体。景色はそれでも流れる。



(そういえば……)
 澪ちゃんって、バスで大学に来てるんだっけ。
 私はバスの中を見回した。つまりこのバスで澪ちゃんは毎日家と大学を行き来してるんだよなあ。
 そう考えると、やっぱり澪ちゃんと何かを共有できてるのか持って思えて少しだけ嬉しくなった。


「……あはは」



 呆れた。
 また澪ちゃんのこと考えてるよ……。
 自分で自分を笑った。
 景色は少しずつ、家が増えて。
 ビルも増えてきた。




 デパートの中は、まだ開店して一時間だからかそれほど混み合ってはいなかった。
 基本的にデパート内のスーパーはいつ行ったって人で溢れている場合が多い。
 でも今日はそれなりにいるかな、という感じである。


 私はとりあえず野菜や肉のコーナーを回ることにした。
 これは必要かな、というものを値段や量、賞味期限を考えて買い物カゴに入れていく。
 重いものは下、軽いものは上。
 まだカゴの段階ではあるけど潰れないように注意しながら入れる。
 私は『今晩はこれを作ろう』とか『今度はあれを作ろう』という、何かを目的にした買い出しはしなかった。
 それだと計画的でうまく消費できるけれど、どちらかといえばその日の気分で食事を決めるほうがいい。
 だから適当に好きな食材や、バランスや栄養を考えて食材を買っておく。
 それで保存しておいて、いざ食事を作ろうという時に『これとこれがあるならこれを作ろう』と、あるもので何かを作るほうが性にあっていた。
 うん、非難されそうだ。 賞味期限も切らしやすいし。


(よし、こんなもんか)


 カゴがいっぱいになって、食材が偏りすぎてないかを確認する。
 肉系、野菜系……あと、その他諸々。魚や肉は早いうちに食べちゃった方がいいな。
 野菜もそれほど長くは持たないだろうから、まあもって来週だろうか。
 毎週ここに買い出しに来た方がいいかもしれない。


 少し重いカゴを持ってレジに並ぶ。時刻は十一時前で、レジは少し込んでいた。
 どうやらスーパーの中を回っている間に結構時間が経ってたみたいだ。


 見れば店内はそれなりに人が増えていて、人ごみとまでは行かないまでも人で溢れていた。
 私の順番が回ってくる。カゴを台に乗せて、レジの女の人がピッピッとカゴの中の物を機械に通し、商品名を口に出していく。


 私は財布を取り出して、それをじっと見ていた。
 目の前の表示画面の金額がぽつぽつ上がっていく。




 ふと向こう側を見た。
 ここはデパートの中なので、スーパーから出ればすぐそこは別の店舗だ。
 デパートっていうかショッピングモールっていうか。ここはスーパーの区画。
 向こう側に出れば服屋さんだったり靴屋さんだったり。いろんなお店がずらっと向こう側まで続いているのだ。
 ここは一階で、二階に上がれば書店だったりおもちゃ屋だったり、やっぱりいろんな店舗が連なっている。
 二階に上がるための、エスカレーターがそこにある。




 そのエスカレーターの途中辺りに、長い黒髪の女の子がいた。
 ……もしかして。



(澪ちゃん……?)
 その女の子――もしかして女の『子』じゃなくて、普通の女性かもしれないけど、でもここからでも若く見え……あ、見えなくなった。


「二千八百六十円になります」
「あっ、えっはい」


 私は呼びかけられて、慌てて財布からお金を出す。千円札を三枚と、十円。
 店員さんは確認の言葉と同時に器用に素早くレジスターのボタンを押し、お釣りを差し出してくる。受け取って、カゴを持ってレジから離れた。
 買い物袋に詰めるスペースのテーブルまで移動して、食材を袋に詰める。


 あー、エコバッグ持ってくるんだった。まあ仕方ないか。
 とりあえず潰れてもよさそうな物、箱に入っているものを底の方にいれて、肉や野菜の軽めな物を上に置いて行く。



 なぜか急いでいた。
 さっき見たエスカレーターの女の子。
 もしかして、澪ちゃんだったりして。
 そんな期待があったからかもしれない。



 袋は一袋だけで収まった。
 片手にそれを持ったままエスカレーターを上る。
 もしかして澪ちゃんだったら、というかまあ澪ちゃんであったらいいなあという願望に変わっていた。
 土日は会えないからちょっと寂しいと思っていたので、まさかばったり会えるなんてすごい、と勝手に気持ちが高ぶっていた。


 澪ちゃんだったらいいなあ、なんて。
 馬鹿か私は。



 二階は専門店街のように結構いろんなお店が揃っている。
 でもなんかいかにも都会の子が行きそうな高級感溢れるお店だったり、高い靴が揃ってたりするようなお店が多かった。
 澪ちゃんはそういうのあんまり好きそうじゃないな。偏見かな。


 となると澪ちゃんが行きそうなのは書店か。
 私はそう思って書店の区画へ行ってみる。さすがデパート、それなりに広く人も結構入ってる。
 皆雑誌を立ち読みしてたり、文庫本のコーナーを歩き回ったり。私はその人たちの中で長い黒髪の人を探して回った。
 綺麗な黒髪は目立つからすぐ見つかるだろう。そう思った。


 だけど、いなかった。


(あれー?)


 見間違いだったのかな? 澪ちゃんに似てただけで違う人だったとか? 
 でも、確かに長い黒髪の子は見たんだ。
 書店には澪ちゃん見間違うような長い黒髪の人はいない。
 澪ちゃんじゃなかったとしても、それに似たような長い黒髪の人がいるはずなのに。


 でもここにはいなかった。ということは他のお店か。
 でも二階の他のお店ってブランドのお店やゲームセンターとかぐらいな気が……。
 でも人は見掛けによらない。


 澪ちゃんは引っ込み思案に見せかけて実は結構ブランド物の高ーい服とか持ってたりするかも知れないぞ。



 荷物を提げたまま二階を回るのは大変だ。
 私はそう思って、二階の端っこのエレベーターやトイレがあるような一画まで行った。
 そこにはコインロッカーがあって、重い荷物を一旦置いておくのに便利だ。
 重い荷物を持って歩き回るよりか、澪ちゃんがいるいないに関わらず身軽なまま歩いたほうがいいだろう。




 ところが。
 コインロッカーの近くまで来た時。
 そこで。






 澪ちゃんが男に絡まれていた。


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最終更新:2012年06月01日 08:03