「終わったー……」
「お疲れ様」


 私はキーボードから手を離し、仰け反って寝転んだ。
 澪も息を吐きながら私に声を掛けた。寝転んだまま、澪に返す。



「いやお疲れ様なのは澪だろ。ほとんど澪のおかげだよ」
「私はヒントを言っただけで、考えたり書いたりしたのは律だよ」


 澪は教え方が上手すぎた。直接的な答え……まあこれは論文だから、答えなんてものはないのだけど、でも実際そのまま文章で使えそうな言葉を教えてはくれない。
 だけどその遠回しな言葉たちは、どういうわけか私にアイデアを与えてくるのだ。
 そこからテキパキとキーボードを打って、なんとか完成した。


「あ、でも……澪は自分の終わってないんじゃないのか?」


 さっきの手帳を見れば、今日の時点ではまだ終わらせる予定ではなかったはず。
 確か明後日あたりに完成って書いてなかったかな。


「うん。まだだけど」
「……なんかごめん。澪の分終わってないに、手伝わせちゃって」
「いいよ別に。全然間に合うよ」
「本当にごめんな」


 私は寝転んだまま、窓の方を見た。
 真っ暗だった。
 ヒヤッとしながら、視線を壁に掛かっている時計に向ける。
 ……七時半、だって。


 私は勢いよく起き上がって、澪に言った。


「澪……すまん!」


 私は合掌して、澪に謝った。そーっと澪を見る。



「え、えっと……よく意味が」


 澪はよくわからないという訝しげな表情で首を傾げた。


「せっかく遊びに来てくれたのに、丸一日課題手伝わせちゃって」


 私は時計を指差した。澪はそれを追うように時計を見る。
 何か反応するかと思ったが、あまり表情は崩さず、ふっと呆れたように目を細めて私を見た。



「いいよ。楽しかったし」


 そう言ってくれるけど、私は申し訳ない気持ちで一杯になった。
 何か、お礼とか。
 私は澪の笑顔にいてもたってもいられなくなって、立ち上がった。
 妙に底気味の悪い感覚がお腹から来るなあとは思っていたけれど、それは晩御飯を食べていないからだった。
 考えてみると三時辺りにおやつとして出そうと用意していたお菓子も結局出してないし……それだけ夢中だったんだろうか。


「お詫びに、ご飯でも食べていってよ」
「そ、そんなお構いなく……」


 澪が遠慮がちに両手を広げた。


「いいや私がそうしたいんだ。ご馳走作ってやるよ」


 私は服の袖を捲り上げた。冷蔵庫の横のフックに掛けてあったエプロンを付ける。


「澪は、えーと……パソコンでインターネットとかしててもいいし、そこに積んである雑誌とか読んでて待ってて」
「う、うん……」


 澪は、はにかんで言った。
 私は気合を入れてキッチンに立った。



 手を洗う。
 それから冷蔵庫を覗いて、食材を確かめた。
 普段自分が食べる適当な晩御飯じゃ駄目だ。少しばかり豪華にしなきゃ示しがつかないだろう。
 私が食べるんじゃなくて、澪も食べるんだ。ここで手を抜いている場合じゃない。
 さっき澪も関心してたけど、料理できるよって言っちゃった手前下手糞だとやっぱりどうもなあ。

 豆腐もあるし味噌汁作るか。あっ……ご飯炊いてない。
 しまったな……朝の残りがラッピングして残してあるからそれをレンジで温めるしかない。
 申し訳ないけどそれで我慢してもらうしかないな。

 合い挽き肉もあるなあ。久しぶりにハンバーグでも作るかな。
 一番得意料理だけど最近全然食べてなかった。
 だって自分一人しか食べないから、どうしたって料理は手を抜いてしまう傾向にあるし。
 でもたまには本気出さないと。


 冷蔵庫を閉めるのと同時に、澪の方を見た。
 澪は、雑誌を読んでいた。


(……あれ、ドラムマガジンか)


 黒っぽくてサーチライトが光ってる表紙。
 よく知らないけどどこかのバンドのドラマーがスティックを構えている表紙だ。
 別にそのバンドのファンというわけではないけれど、ドラムの情報が詰まっているので気分で購読していたのだ。


(……ドラムのことを他人に知られるのは、初めてかな)


 私はフライパンとまな板、包丁を用意しながら考える。動作自体は慣れている。
 学校までの道のりを考え事しながらでも間違えないのと同じだ。
 無意識でも体は覚えている。自然とやろうとしていることに指は動く。
 お湯を沸かす。その間に合い挽き肉をボールに移し替える。


 ……バレた。
 私は、今まで誰にもそれを見せなかった。
 小さい頃から好きだったけれど。


 私はそれを誰かと分かち合おうとしたことなんて――。
 フライパンに油を引く。お湯が沸いてきた頃、おたまと菜箸を使って味噌を溶かしていく。
 それでも行動には、力が込められない。
 今、澪は、私の趣味に触れているんだ。


 趣味の『あれ』は、ドラムのことだった。


 DVDは、ザ・フーばかり見てた。


 だけど、それを誰にかに教えることはなくて。
 私ドラムやってるんだぜって。ドラム大好きなんだって。
 そういう風なことを誰かに言ったことはなかった。


 言いたいと思うような誰かに出会わなかったのもあるし、私自身が怖かった。
 そういう相手に出会わなかったというのは言い訳だけど。
 実際、言った相手はいない。


 一人こっそりドラムを叩いてた。
 それでもよかったけどね。
 私は手を洗って、合い挽き肉をこね始めた。







「完成ー!」
「す、すごい……」


 私はパソコンをとりあえず退けて、テーブルに二人分の品々を並べた。
 ご飯に味噌汁。
 それとハンバーグに、即興で作ったフルーツポンチだ。果物の缶詰があったからそれを混ぜただけで味は保証できない。
 ご飯もレンジで温めただけだからそっちも同じだ。

 澪を待たせたら悪いと思って早く作った結果か、雑さが目立つ。
 しかし、並べられた料理を見ると澪は感嘆の声を上げた。


「これ全部律が作ったの?」
「当たり前だろ? 急いで作ったから味は保証しないけどな」


 食べてみて、と促した。
 澪はナイフとフォークを使ってハンバーグを切り分ける。
 私は横に座って、その様子をじっと見ていた。 
 作った手前感想と反応は非常に気になる。

 相手が澪ならなおさらだ。


 澪はゆっくりとそれを口に運んだ。
 私の視線を気にする澪。
 チラチラと目が合う。
 澪は口元を押さえながら、咀嚼する。
 私はうずうずして、こぶしを握る。
 息を呑んだ。



「おいしい……!」


 澪は笑った。


「っはああ……よかった……」


 私は緊張を解いて、思いっきり息を吐いた。握りこぶしを開いて、床につく。
 強張っていた体が一気に伸びて脱力。
 合格発表が終わった後のような、不安で仕方なかったけど実際上手くいってよかったって感じの解放感だった。
 澪は頬を緩ませて言う。


「レストランみたい」
「それは言い過ぎじゃね?」
「いや本当。すっごくおいしいよ」
「……ありがと」


 そう言ってもらえて本当によかった。
 レストランはさすがに澪も言い過ぎだとは思うけど、でも笑ってくれたという事実は私にとってこれ以上ないご褒美だった。
 料理を家族以外に食べてもらうということも初めてだったし、何より澪だったからとにかく満足して欲しかったのだ。


「ご飯はどう? レンジで温めただけなんだけど……」
「普通に大丈夫だよ。お味噌汁もちょうどよくて」
「そう?」


 澪の言葉は謙虚で遠慮がちに聞こえるけど、でも箸が進んでいるので嘘じゃないみたいだ。
 私はその様子を見ながら胸を撫で下ろすと同時に、微笑ましような気持ちにもなったし、気恥ずかしいような感覚にもなった。


「律は食べないの?」
「えっ? お、おお。た、食べる食べる」


 自分の分が冷めてしまう。
 私もナイフを手にとって、ハンバーグに手を掛けた。
 久しぶりに作った割に、自分としても上出来だった。


「なんでこんなにおいしくできるの?」


 澪は真剣な眼差しで聞いてきた。


「いや、別においしくしようと工夫したわけじゃなくって……いやもちろんおいしくしようとは思ってたけど。ただ慣れてたんだ調理に」
「慣れてたの?」
「うん。小学校卒業してから親がすげー忙しくなってさ。それで、私がほとんど家事やることになったんだ。
 おかげで料理はそれなりにできるし、裁縫も身についたよ」
「すごい! 本当に尊敬するなあ」
「よ、よせよ。別にすごいことじゃないって」
「いやすごいよ。……さっきも言ったけど、私の料理すっごくおいしくないんだ」


 でも澪が作るものがおいしくないっていうのは、全然想像つかないなあ。
 なんでも完璧にこなせそうな感じを受けるから。

 だから、おいしくないよと自分で言って見せる澪が酷く寂しそうに見えたのだ。
 謙遜かもしれないし、もしかしたら澪がおいしくないと言っても私が食べたらおいしいかもしれないじゃないか。
 味覚は一人一人違うし好みも違うんだ。
 だから私は、ほぼ無意識に口に出していた。


「……私も、食べたいよ」
「えっ?」
「澪の料理、食べてみたいな」
「……本気?」
「本気。いや、でも今日は無理かな」


 私はご飯を口に運んだ。澪は箸を持ったまま、何を言ったらいいのかわからないという風に視線を泳がせている。
 さすがに突然すぎたか。
 それに私もよくよく考えると結構恥ずかしいことを言ったかもしれなかった。



「あ、いや、無理ならいいんだ。それに、今日はもう食べちゃったから……」


 今更取り繕うように言う。


「……そんなに食べたい?」
「だって澪が自分のをおいしくないって言っても、私が食べたらおいしいかもしれないだろ?」
「それは……そうだけど、でも……」

 押し付けがましいかな。
 澪は少し考えて言った。


「……わかった。作る」
「マジで! うわー楽しみ!」
「でも、今日は無理だよ。律の料理食べるんだから」


 澪は嬉しそうにそう言ってくれた。


「それもそーだ。また今度よろしく」


 私も笑い返して、ハンバーグを食べた。











「食器片付けてくるよ」


 私が二人分の皿を重ねてお盆に載せる。


「あっ、手伝う……」
「澪はお客さんなんだし、手伝ってもらってばっかじゃ悪いだろ。だからゆっくりしててよ」


 課題も手伝わせて食器洗いも手伝わすなんて申し訳ないを通り越して私が情けないってことになってしまう。
 一緒に食器洗いもいいけど、でも今はゆっくりしてもらいたいという気持ちが強かった。


 ……ゆっくりしてもらいたいは言い訳か?
 時刻は八時過ぎだ。もう外は真っ暗。物騒だし、澪も早く帰ったほうが――。
 そう思うのに、それを言わないのは何でだ私……。
 私はお盆を抱えた立ち上がった。
 澪の上目遣いが、ドキっときた。




 そっか。
 心のどこかで、澪に帰って欲しくないと思ってるんだ。





 だから、ゆっくりしててだなんて……。
 私は本当にどうしちまったんだ。



「で、でも……」
「でもじゃないってば。ほら、DVDもあるから見てて」


 一旦お盆を置いて、雑誌が入っていた棚からDVDを引っ張り出した。
 いくつか実家から持ってきたDVDが同時に出てくる。
 私はそれらを見つめた。ほとんどザ・フーじゃないか。それ以外のもほとんど洋楽だし。
 ……キッズ・アー・オールライトか。春休みに見た覚えがあるな。
 こっちは四重人格。フーズネクストもある……結局こっちに来てからいろんなDVD見てるみたいだな私。
 サークルも入っていないし家でやることもないからDVDを見るしかないのだけど。

 澪はこういうの好きなのかなあ。音楽に興味はないかもしれないしあるかもしれない。
 文芸部で詩を書いてたって言ってたから、音楽の作詞とかは好きかもしれないけど……洋楽に興味はないんだろうなあ。
 私は苦笑いしながら澪に尋ねた。


「ちなみに音楽のDVDしかないんだ……けど……」
「う、うん……見てみる」
「そう? ごめん」


 見てみる、の時点でそういう物に興味がないのは明白だった。
 私はとりあえず適当なザ・フーのDVDをパソコンにセットした。
 内臓のプレーヤーが勝手に起動して、画面に窓が起ち上がる。
 四重人格のダーティジョブスのムーンのドラミングが最高にかっこいいんだよ! と言えないのが悔しい。

 私は今まで誰かと音楽の話をしたことはなかったのだ。
 あー、澪はそんな相手になってくれないかな。

 って馬鹿か私は。別に音楽の話をする相手なんて作ろうと思えば作れただろ。
 勉強を教えたもらう相手も同じだ。



 『どんな音楽が好きなの?』
 『勉強教えてよ』
 『一緒に勉強しようよ』
 『私、ザ・フーってバンドが好きなんだ』


 ……きっかけは些細なことじゃないか。
 自分から話題を提示するだけでよかったのに。
 それをしなくて、だけどしなかったことは後悔してなくて、でもいないことは悲しくて。
 私は、わがままだ。


「じゃ、ちょっと待っててな」


 私は今度こそお盆を持ち上げて、キッチンへ戻った。
 まずハンバーグを乗せていた皿に水を流し、しばらく水に浸してシンクに置きっぱなしにしておく。
 二滴ほどの洗剤でスポンジを泡まみれにし、皿を擦る。皿を一通り泡で綺麗にしたら、また水に浸しておく。
 油物を載せていた皿は洗ってもヌルヌルしてるからなあ。ちゃんとやっとかないと。

 続いてご飯と味噌汁の茶碗だ。
 しかしここで気付くが、澪は驚くほどに綺麗に食べてくれていた。
 それは当たり前のことかもしれないけれど、でもどういうわけか私の手が急に止まってしまった。
 そんなのなんでもないことなのに、澪が私の料理に満足してくれたのかもって思うと、急に動きがぎこちなくなってしまったのだ。

 ……なんなんだよ。
 くっそ。
 焼けるように胸が痛いし、焼けるように顔が熱い。


 水道は依然として冷たい水を出し続けている。それで指先を冷やしたって、頭は冷えてなんかくれない。
 喉が渇き始めて、それでも手は離せずに皿を洗う。
 澪の様子が気になって仕方ないけど、さっき振り返ったばかりだ。
 こう何度も振り返ってしまうと恥ずかしいし……。


 私は黙々と皿を洗った。
 気付けば、澪の見ているDVDの曲が耳に入ってくる。
 ただところどころ曲が飛んでいる……のではなくて、私が聞き飛ばしているようだった。

 どうやら皿洗いに集中しすぎて、音を遮断しているらしい。
 でなければずっと流れているはずのDVDの音が、私の記憶の中で途切れているわけがない。
 集中すると周りの音が聞こえなくなるってのは、まあ何度も経験したことだ。


 でもそのおかげで、皿洗いも終わった。
 綺麗な布巾で皿を拭き終えると、それを元にあった棚にしまう。
 綺麗さっぱりしたので気分もいい。タオルで手を拭き、首をひねってパソコンの方を見た。


 空しくボーカルが響いている部屋。
 机の横。




 澪は、寝ていた。


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最終更新:2012年06月01日 08:13