正座のまま、がっくりと頭を傾かせ前のめりに近い形になっている。
私は立っているので、頭を垂らしている澪の顔は見えないけれど、どう考えても寝ていた。
こんなにピクリとも動かないなんて、どう見たって寝ている。
私はゆっくりと足音を鳴らさないように近づき、DVDを止めた。
激しかった音が突然なくなるので一気に部屋はシーンとなる。
私は取り出しボタンを押してディスクを取り出すと、ケースに入れてパソコンの横に置いた。
エプロンを投げ捨て、澪の横に座る。
(……やっぱりつまらなかったか)
仕方ないよな。そりゃ……意味のわからない英語だし、澪みたいな女の子らしい女の子が、ザフーみたいなロック聞いたって興味は持ってくれないだろう。
それは偏見かもしれないけど、実際寝てるんだから退屈だったんだろうなあ。
私は、さっきまで澪と音楽の話ができるかもって内心喜んでたけど。
高校時代入ろうとしてた軽音部。バスケ部よりもやりたかった音楽。
結局廃部になって、バスケを選んじゃったけど。
でも、私は確かに音楽がやりたかったんだ。
澪となら、その楽しみを分かち合えるかもって思ったけど……。
それも無理かな。
(当然だろ)
私は座ったまま寝かしているのも何だから、澪を横に寝かせた。
(……)
澪は可愛らしい寝顔を見せる。
少しだけ口をあけて、スースーと寝息を立てていた。
無防備すぎる格好。
露出が多い格好というわけではない。
でも、澪が寝ているという事実が私の理性をザクザク突き壊してくる。
閉じられた瞳。
麗しいまつ毛。
ピンクの唇。
白い肌。
長い黒髪。
豊満な、胸……。
おかしい、おかしい。
やめろ。なんだよ痛いぞ胸が。
違う、そうじゃない!
何を考えてるんだ、私は。
澪の体を見て、顔を見て、今何を考えたんだよ。
胸が高鳴ってるなんて。
さっきと同じだ。
澪と見つめあって、上目遣いと唇に色気づいて。
私は何をしようとしたんだ。
(くそっ……)
私は立ち上がって、クローゼットに近づいた。クローゼットの下の棚には、確か薄めの毛布をしまっていたはずだ。
私は澪から逃げるようにそこへ向かった。
棚を漁って目的のものを見つけると、それを持って澪のところへ戻る。
澪の体をやけに意識する。
お風呂上りのように体がぼわっと熱くて、頭に血が上っているようにくらくらするのだった。
風邪をひいたときと同じだ。なんか意識がはっきりしないけど、でもなんかいつもよりも頭は冴えている。
そんな意味のわからない矛盾が、余計に私の混乱を助長する。
混乱なんてしていない。
だけど、でもどうしようもないくらいに澪を意識する。
さっき二人で話していたときよりも。
なんでだ。
寝ている澪を見て。
私は、私は――。
(…………)
自分が自分でよくわからないけど。
とりあえず澪に布団を掛けてあげた。
時計を一瞥する。
八時半。
このまま、そっとしておけば澪は今日は帰れなくなっちゃうかもしれない。
私が今起こせば、どうにかバスを捕まえれることだってできるだろう。
だけどここで起こしてしまったら、澪は……。
「ごめん」
私は、澪とずっと一緒にいたい、のかもしれない。
だから起こさないで、いいかな。
●
その後、律が晩御飯を作ってくれた。
それが本当においしかった。ママと同じぐらいおいしかった。
レストランに並んでいても違和感のない出来のハンバーグ。
律って、見掛けによらないなって思った。
すっごく明るくて、バスケ部だったみたいだし、一見家庭的には見えないのに。
でも中身は、とっても女の子らしいんじゃないかなって思った。
料理もできるし、頭もいいし、明るくて、友達が多くて……。
何もかも私と正反対なんじゃないかな。
でも、最悪な失敗もした。
律が片づけをしている間に、寝てしまったのだ。
もう最悪だと思う。律にも迷惑だっただろうし。
何より、律と一緒にいられる時間を自分から削ったのだから。
初めて行く友達の家。だから嬉しかったのに。
寝ちゃうなんてもったいない。寝ている時間、もっと律と遊べたはずなのに。
朝起きたら――
■
薄目で、辺りを見回した。
私はどうやらいつの間にか寝ていたようだ。
最初は壁に背中を預けて座り、寝ている澪の様子を眺めていた記憶がある。
でもそのまままどろみに沈むように記憶がポッカリとなくなっていた。
多分、眠くなって寝たのだろう。
そしてなぜか、体育座りの私に布団が掛かっている。
おかげで暖かいけれど、確かこの布団は澪に……――。
澪?
私は布団から視線を上げて、正面を見た。
寝ている澪を眺めるに最適な位置を選んで壁際に座っていた私。
だから正面には澪がいた。
だけど、寝てはいなくて。
少しだけ崩れた格好で座ったまま何かを見ている。
(……雑誌、見てるのか?)
ぼんやりとする頭と視界。まだ眠気は収まらないし、状況を頭で考えるほど回転してはいなかった。
指先にも感覚はない。
わずかに開いている瞼だけが、今私が得られる情報を思考に与えていた。
澪は、雑誌を読んでいた。
……あの雑誌は、ギグス、か? バンドスコアや楽器の奏法が載った雑誌……バンドなんか組んでないくせに調子付いて買った雑誌だ。
いやもちろんバンドだけじゃなくて、各楽器の情報もあるからドラムをやる参考にもなったのだけど……。
この位置からじゃ、よく見えない。
澪の顔も、垂れ下がった黒髪で見えない。
……待てよ、ページが見えるぞ。
私は目を凝らして、驚いた。
ベース?
でも、この位置から見えるのは……確かに、ベースの写真が載ってるページだ。
ギターの見間違えかもしれないけど、でも明らかにネックが長い。
ということは、澪は今、ベースのページを見てるのか?
なんで?
音楽にさほど興味もなさげだし、個人差はあってもライブDVDを途中で寝ちゃうような澪のはずなのに。
それなのにどうして、今音楽雑誌のギグス……しかもベースのページを見てるんだ?
ぺらぺら捲っている途中にたまたまベースのページを見つけたから読んでるってことだろうか。
いや違う。もう私が目覚めて一分ほどだ。
もし興味がなかったり流し読みの途中ならさっさとページを飛ばしている。
でも澪はそんなことせずに、じっとベースのページを見つめ続けていたのだ。
私は、壁掛け時計を見た。
六時半だった。
……まだ寝れる――る? 六時半?
え? さっき八時半だったよな。
つまり、え? もう一夜明かしちゃったってことか?
だとしたらえーと、どういうこと?
あと数時間で、講義が始ま……え?
ということは――。
「澪……」
「あ、おはよう……律」
私が微妙に渇いた喉を震わせて名前を呼ぶと、澪はこちらに振り返った。
「……まさか、泊まったの?」
恐る恐る問う。
だって、朝の六時半に澪が家にいるんだぜ。
「……ごめん。起きたら、朝の五時だったんだ」
「……そっか。澪、よく寝てたもんな」
澪は雑誌を閉じて、それを元あった棚に戻した。
部屋の電気はつけっぱなしで、どうやら昨日からつけたままだったようだ。
そりゃ当然だ。私は全然寝るつもりはなかったのだから。
だけど澪も私も、お互い無意識のまま眠っちゃってたんだ。
だから電気がついたままで……。
澪は、私の家に泊まったんだ。
意識的には覚えていないけど。
でも確かに、澪は私のすぐ傍で……。
なんてことのないことだけど、それは私の胸を締め付けた。
それは痛いとか辛いとかじゃなくて、その事実というか結果が、どうしようもなく胸を震わせたのだ。
嬉しいのかどうなのかは判断がつかないけど。
一晩、一緒にいた。
一緒にいたんだ。
なんか、すごい。
「寝ちゃって、ごめんなさい……」
「ああ、いいよいいよ。起こさなかった私も悪いんだから」
「……本当に、ごめん」
澪は自分を責めているように悲しそうに目を伏せた。
澪は、私が澪を一晩泊めたことが迷惑なことだと思ってるんだろうか。
そんなことまったくないのに。むしろ泊まって欲しかったぐらいで……だからこそ、私は起こさなかったんだ。
起こせるのに起こさなかったんだよ。
「いいよ。それよりさ、朝御飯作るから!」
私は自分も澪も奮い立たせるように、思いっきり元気な声を張り上げて立ち上がった。
あと二時間ほどで講義は始まってしまう。
それまでに朝食を……今日は二人分作らなきゃいけないけど、基本的に簡単だから手間も掛からないだろう。
「あ、手伝う……」
「いいよ澪は。すぐできるし」
「で、でも……いろいろ迷惑掛けたし……できること、したいなって」
いい加減私をドキドキさせるのやめてくれないかな。
そんな声で頼まれたら。そんな視線で物言われたら、断れるわけないだろ……。
私は呆れて返した。
「……わかったよ。じゃあ一緒に何か作ろう」
「あ、ありがと……頑張る」
私たちは立ち上がって、キッチンに向かった。
普段通りに食パンや目玉焼き、ウインナーを作ったら二人でやる意味などない。
二人で協力して作れるようなものじゃないとな。となると、何が作れるんだろうか。
「澪は、得意な料理とかあるの?」
「料理自体得意じゃないから……」
「じゃあ作れるものを作ってよ。澪の料理食べてみたいって言ってただろ?」
「たまご料理しか、まともなものは作れないよ」
「いいよそれで! むしろ朝食にピッタリじゃん」
「そうかな?」
「じゃあ澪は何か作れるたまご料理を作ってて。私は……澪は、朝は和食と洋食どっちがいい?」
私は普段洋食……つまりさっきも言ったようにパンとウインナーとたまご料理一品という感じだ。
もちろん和食に比べると栄養価も低いしお腹はあまり膨れないからお昼にとてもお腹は空くのだけど……。
でも時間やコスト的な意味ではパンとそれらはとても便利だった。
澪は胸の前で手を組み、迷ったような素振りを見せた。
私はとりあえずもう一度答えやすいように言葉を促す。
「普段は朝食、どっちなの澪は?」
「パン……だけど」
「じゃあパンでいい?」
「うん」
「じゃあ私はパン焼くよ……あと、お風呂入る?」
私は何気なく質問した。
が、澪はものすごく驚いて仰け反った。実際に体が仰け反ったわけじゃないのだけど、見慣れない表情になった。
ピクッと眉をあげて目を丸くしたのだ。
「お、お風呂?」
なぜか顔を赤くしている。
「うん。だって私たち昨日寝ちゃってお風呂入ってないじゃん。だから今から沸かそうと思うんだけど」
普段澪がいつ頃お風呂に入っているかは知らない。
でも私はといえば普段は夜の十時頃に入っていた。
朝にお風呂は慣れてないかもしれない。
「え、でも……迷惑じゃない?」
澪は昨日から迷惑迷惑言っている気がする。
当然だと思う。
澪は……私にオススメの本を買ってくれた時、約束を破って私に嫌われたくなかったと言っていた。
私はその言葉を聞いて、嬉しかったような寂しいような微妙な気持ちになってしまったのだ。
私は澪を嫌うことなんてないのに。
だけど、もしかすれば嫌われるかもという気持ちが澪にあるんだって。
「迷惑じゃないよ。むしろ楽しいぐらいだよ」
それは純粋な気持ちだった。
私は、澪と少しでも長く一緒にいたいという気持ちで澪を起こさなかった。
お風呂に入れるぐらい、なんてことない。
「そ、そう……?」
「うん。じゃあ、澪は料理に集中してて」
「わかった」
澪は置いてあったボールにたまごを割って、菜箸で溶かし始めた。
見たところ卵焼きのようだけど、別の誰かの卵焼きなんて新鮮で楽しみだ。
自分のとは隠し味も調味料の量も違うだろう。他の誰かに料理を作ってもらうなんて母さん以来かもしれなかった。
私はパンを二枚袋から取り出しオーブンレンジに入れた。『トースト』のボタンを一回押すだけできちんと焼ける。
便利な世の中になったもんだなあ。私が小さい頃は、あの焼きあがったら跳ね上がるオーブンだった気がする。
オーブンレンジの扉を閉めてスイッチを押し、その場を離れた。
お風呂の部屋に入って、浴槽は一日使っていないので完璧に乾いていた。
私は一度丁寧に浴槽を洗い、蛇口を捻ってお風呂を溜め始める。溜まるのは十五分後くらいかな。
ちゃんとお湯が出ていることを確かめると、私はお風呂場を出た。
澪は、まだ作っている。だけど油の跳ねるような綺麗な高温や、たまごのいい匂いがし始めていた。
本当に料理が苦手なのだろうかと思うほど、違和感のない佇まいをしている。
私はそろっと横を通り抜け、冷蔵庫まで近寄った。
ヨーグルトと、バター、チーズを取り出しておく。
澪の横顔は一生懸命だった。
なんか、同棲してるみたいだ。
こんなこと思うの、澪に迷惑かなあ。
……って私も澪と同じじゃん。相手の迷惑を気にしてるじゃないか。
●
朝起きたら、律はまだ寝ていた。
私は目が覚めてしまったので、雑誌を読んだ。
実は、音楽にまったく興味がないわけじゃなかった。
律はたくさんDVDや音楽雑誌を持っているみたいので、音楽が好きなんだろう。
特にドラムの雑誌が多いから、ドラムをやってるのかな。
ということは、律はバンドとか組んでるのかな。
正直言うと、律が他の人と仲良くやってるのを想像すると胸が痛いよ。
こんなこと今までなかったのに。
律がドラムなら、同じリズム隊のベースをやってみたい気もする。
朝食は、私が作った。
律に卵焼きを作って――
最終更新:2012年06月01日 08:14