次の日、バスから降りると誰かが傍に近づいてきた。



「おはよう、秋山さん」
「あ……」



 話しかけてきたのは、××さんだった。
 ここ最近いつも私と律の会話に入ってきて、理学部の子の言伝を伝えてくる××さんである。


 昨日律をカラオケに誘っていたのもこの人だった。いや、昨日のはあのメンバー全員かな?
 私はこの人に何度も会っているけど、実際に二人だけで話したことはなかった。
 名前もお互い知っているのに、呼び合うような仲でもない。


 実際私にとって、律以外の誰かを名前で呼び合うような間柄の人は誰もいないのだ。



 バス停からは約徒歩五分ほどで大学に到着する。
 律はいつも大学の学部棟の玄関で私を待っていてくれるので、すでに先に行っているだろう。



 私は××さんと一緒に、大学までの道のりを歩くことになってしまった。
 なぜこの人がバス停で私を待ってくれていたのかわからない。
 彼女は私と並んで歩きながら、話題を吹っ掛けてくる。




「……秋山さんは、りっちゃんの事どう思ってる?」
「えっ?」



 どうしていきなり律の話題が出るんだ。



「ど、どう思ってるって……」




 突拍子もない話題。関連性のない話題。
 ここ最近毎日律のことで頭や胸が詰まりっぱなしだった私は、余計にその話題が提示されたことに反応してしまった。
 ドキッとして、変な声を出してしまう。



 彼女は楽しそうに話している。
 私は緊張しているけれど、彼女はニコニコして言葉に淀みがなかった。



 どう思ってるって? それはどういう意味なんだろう。
 友達っていう関係の事? 優しい奴だとかかっこいいし美人だとかいう外見的な私の評価?
 どれをとったって『私が律をどう見ているか』『どう思っているか』の項目にあてはまるだろう。

 彼女の意図しているのはどれなんだ。



「そうね曖昧ね……うーん」
「……」







「りっちゃんの事、好き?」








 直球すぎて、私は頭を殴られたような気がした。





「すっすす好きって……?」
「恋愛感情としての、好きかってことよ?」
「れ、れんあい……」



 聞き慣れない単語に、私は狼狽した。


 れんあいかんじょう?

 すき?

 私は今まで友達もいなかった。まして恋愛など一度もない。
 だから私にそんな気持ちがあったとしても、それが果たして恋愛感情で、相手のことを好きであるという気持ちなのかの判別さえ付かないのだ。
 だから彼女の質問だけで、はい、いいえの判断は自分ではできなかった。



「……わかりません」
「ふうん……」


 私がそれだけ返すと、彼女は納得したように頷いた。
 そして思いついたように人差し指を立てた。



「じゃあいくつか質問するね。それで私が、秋山さんのりっちゃんに対する感情が一体何なのか判断してあげる」


 なぜそこまでするのだろうか。
 時折彼女がとても楽しそうにするのが、まるで私の苦しみみたいなものを楽しんでるかのように思えてちょっとだけ複雑な気持ちだった。

 多分彼女に悪気などないのだろうけど……でも、ただでさえ最近律のことで頭が混乱しているのに。
 私のそんな思いとは裏腹に、彼女は意気揚々と口を開いた。



「第一問。りっちゃんと話すのは楽しい」
「……」
「はいかいいえで答えて」



 彼女は人差し指――多分第一問という意味――を立てたまま、少しばかり不敵に笑った。
 私はといえば第一問目から答えにくくて喉が詰まった。



 話すのは楽しい。


 それを頭で考えるとなると、簡単に律と会話している自分や光景が頭に浮かんだ。
 出会ってからまだ十カ月程度だけど、たくさん話をした。
 最初は大変だとか苦手だとか思ってたかもしれないけど、でもいつからか律と話すのは……。



「……はい」
「はいということは、楽しいというわけね」


 確認まで取られた。私はすごく恥ずかしかった。


「……念のために言っておくけど、私が秋山さんと話したことは二人だけの秘密ね。
 この会話の内容とか、秋山さんの質問の答えなんかも絶対に誰にも言わないから」


 彼女は私の意志を汲み取った。
 私は、自分の『律と話すのは楽しい』という答えが彼女を通していろんな人に伝わってしまうのではないかと一瞬だけ怖くなった。
 もしかしたらその怖いという思いが表情に出てしまっていて、彼女はそれを読み取っただけなのかもしれない。
 どちらにしても、他言しないというのは安心した。


 しかし一体この質問に何の意味があるのだろう。


 私の、律に対する感情が何なのか判断する……。


 律のことを考えると胸が痛いとか、そういうものの原因がわかった時、私は平静でいられるのかな。



「第二問……の前に、大学に着いちゃったようね」


 え? と前を見ると、すでに大学が目の前にあった。
 彼女の質問は終わりなのだろうか。それはよかったかもしれないけど、でもこの感情が一体何なのか気にならないわけでもなかった。
 だから逃れられたのは安堵する半面、まだ解消しきれていない不安が中途半端に残っている底気味の悪い感覚も胸に渦巻いている。



「秋山さん。昨日、私がりっちゃんをカラオケに誘ったの覚えてるわよね」
「……うん」



 またしても脈絡のない質問に私はそれしか言えなかった。
 彼女はまだ微笑んでいる。



「どう思った? これが第二問よ」
「――」



 私は。
 律が彼女にカラオケに誘われてて――もちろん二人っきりでではなく、律が大学に入って最初に仲良くなった数人のメンバーで行こうという意味だ。
 律が他の誰か数人とカラオケに行かないかと誘われた時、私は……。
 律に嫉妬した、ような気もするけど。
 わからない。


 でも、どうしようもなく不安になって。
 律が離れていくような、律は私をどうとも思っていなくて、特別だとも何とも思っていないんじゃないかって。
 変に律に対するモヤモヤが強くなった。それが何かもわからないまま。
 律に対して、モヤモヤしてたのか。
 それとも……。
 私は戸惑ったまま返事をする。



「……胸が痛かった」
「――それよ! 聴かせてくれてありがとう」



 彼女は何が聴きたかったのかわからないけど、それで満足したようだった。
 そして掌を合わせて、謝るような仕草をした。



「昨日はりっちゃんをカラオケに誘っちゃってごめんね」

 なぜそれを私に謝るのかよくわからない。

「実はね、昨日田井中さんをカラオケに誘って、私はこっそり抜け出して秋山さんと二人でお話しするつもりだったの。
 あなたたち二人を見てると、とても楽しいのよ」


 私たちを見ていると楽しい?
 それはどういうことなのだろうか。私はまだ彼女の事を――まだ、というよりこれからも知る必要はないのかもしれないけど……
 一体何が彼女を楽しくさせるのか見当もつかないぐらい知らないのだ。

 赤の他人と言っても差支えないぐらい、私と彼女は交流がないのだから。
 しかしどういうわけか、彼女は私の反応を楽しんでいるようだった。
 本当に彼女はわからない。


 さらには、昨日律をカラオケに誘ったのは、『律をカラオケに誘いたかった』からではなくて、『私と二人で話そうと思ったから』らしい。
 ますますよくわからなくなってしまった。どうして私と二人で? 交流もあまりないのに。
 しかもさっきから私と話したのは律の事じゃないか。


「なんで私と、二人で……?」
「うーん、まあ簡単に言うとね。いつも秋山さんはりっちゃんと一緒にいるでしょう? 
 だから、秋山さんに『りっちゃんをどう思ってるか』みたいな話が、りっちゃんと一緒だとできないのよ。
 カラオケにりっちゃんを誘ったら、多分あなたは行かなかった……そうなると秋山さんは一人で帰らなきゃならなくなる。
 私はその秋山さんが一人の時に、二人で話そうと思ってたの」



 そこまでして、私と話したいのはわかったけど。
 でも、結局二人になって話したのは『律』のことだった。
 それがまだ引っかかったままだった。


「でもさすがりっちゃんね……まさか断るなんて」



 律は、友達のメンバーとカラオケに行くことを断った。
 その理由を、澪がいないとつまんないと言ったのだ。


 私はそれが、嬉しかったのかもしれない。


 でもその嬉しさと同じぐらい、カラオケは断ったくせに理学部の子との食事会は行くのかって怒りみたいなのもでてきて。
 それで、律にちょっとだけやつあたって……喧嘩にはならなかったけど、でもいつもより少しだけ気まずくなった。
 それがたまらなく嫌でもあった。



「どうして、りっちゃんがカラオケを断ったかわかる?」
「……」


 もう少しで大学の学科棟の正面玄関。
 それでも、彼女は質問してきた。
 これが、最後の質問なのかな。



「私がいないとつまらないって、律は」
「――さすがりっちゃんね。つまりそういうことよ」
「えっ?」
「それじゃあ私、友達待たせてるから。それに、私と秋山さんが一緒に玄関に入ったらりっちゃんがいい思いしないし」
「えっと、どういう……――」
「それじゃあね。頑張ってね秋山さん」




 彼女は手を振って、一足先に玄関に入って行った。
 頑張って。
 私は、何を頑張ればいいんだろう。
 彼女は一体、私に何を頑張ってほしいんだろうか。
 私には、まだ何もわからない。













「おはよ澪」



 律は入ってきた私に、いつものように挨拶をしてくれる。
 しかし、私はいつも通りではなかった。
 さっきまでの××さんとの会話が、尾を引いていたのだ。
 それは悪い意味なのか良い意味なのかもわからない。


 でも私は確かに、彼女と『律』についての会話をした。







 『りっちゃんの事、好き?』


 『恋愛感情としての、好きかってことよ?』――。




 こんな質問が、頭の中を駆け巡っていた。
 律の顔を見た途端、またその質問は――私の心が真っ白な空間だとしたら、大きな文字でその真っ白な世界に書き出されたような。
 その文字が、思いっきり心に叩きつけられて、それがくっついてとれないような。



 そんな質問が、浮かんで。



 律の顔を見て。
 なんて形容したらいいのかわからないぐらい、顔が熱くなった。



 私は律の顔が直視できなくて。



 これ以上律を見ていたら、私が爆発しちゃうんじゃないかってぐらい体中がどうしようもないくらいそわそわして、熱くなった。
 私は俯いて、顔を見せないように言った。



「……おはよう」
「ん? なんで下向いてんだ?」




 お前の顔を見たくないからだよ馬鹿。
 見たいよ。そりゃ、律の顔。見てたら楽しいから。


 ××さんに答えたように、律と話すのはとても楽しい。
 話すためには、顔を見なきゃいけない。


 いつも通り、講義大変だなとか課題どうとか、そういう他愛もない話をするためにはやっぱり律と顔を合わせなければいけないよ。
 そんなの今まで普通にやってきてたし、そんなの当たり前だった。


 だけど今はできなかった。


 どうしてかって。
 律の顔を見たら。
 私は、変になる。
 心臓がバクバク鳴って。その音だけで何にも聞こえなくなるぐらい。


 私は、おかしい。
 おかしいんだ。
 律を見たら、私は変になるんだ。



「おい澪ー? 顔あげろよ」
「う、うるさい……とにかく行くぞ」


 私は極力律を見ないように、歩きだした。
 下を向いているのではなく、右隣に律がいるから、そっちを見ないように左側の方向ばかりを見ながら。
 廊下に移り変わっても、私はとにかく律を見ないことだけを注意していた。


「おーい澪。何? 顔に怪我して見られたくないとか?」



 いつまでも律は、私が目を合わせてくれないことについて怪しく思っているようだった。
 私だって、律と顔を合わせれたらいいだろうけど。
 でも、今日の私は途轍もなく変で、もう何を言っちゃうかわからない。


「違う……」
「じゃあなんでこっち見ないんだ? もしかして怒ってたり?」



 私が律の何を怒らなきゃいけないんだ。
 理学部の子との食事を了承したことか。
 思いつくのはそれしかなかった。
 結局、私は……そればっかりだ。
 やっぱり、行ってほしくないと思ってるんだな私は。
 それを言わないのも、逃げだけど。



 なんで、行ってほしくないんだ?
 それは自分の感情なのに、答えが出せない。
 律が食事に了解を出した時、なんで私はモヤモヤしたんだよ。



 わからない。
 わからないよ……。


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最終更新:2012年06月01日 08:31