バレンタインの前日の夜。



 理学部の子と名乗る子から電話が掛かってきた。


『……秋山さんですか。私は明日田井中さんを食事に誘った者です』



 まるで犯人の犯行予告のような抑揚のない平坦な声色だ。
 しかしそれでも、どこかゆったりとした雰囲気も感じる。
 緊張しているのか、それとも元よりこのような感じなのか。私には彼女という人を全然掴むことができなかった。


 私は部屋の中央に立ったまま、電話を耳に当てている。


 とりあえず質問が浮かんだ。
 私は極度の人見知りであるが、電話やメールは顔を実際に合わせているわけではないので幾分か声は出た。


「どうして私の電話番号を?」
『田井中さんに、××さんを通して教えていただきました……どうしても、秋山さんと二人でお話ししておきたくて』


 理由がわからない。
 それがどうにも気になる。
 もちろん私は律とバレンタインを過ごすことができる彼女に少しばかり嫉妬しているけれど、でもそこはもう諦めていた。


 私は律にただ気持ちを伝えたい。
 だから明日チョコレートを渡して、想いを伝える。
 それで十分だ。


 そりゃやっぱりバレンタイン律と一緒がいいなあとは思うけど……でもいろいろと割り切っている部分もある。
 いつまでも溜め息を吐いていられない。



「なぜ、私と?」
『電話じゃ伝えにくいですね……やっぱり直接会って、お話しませんか。 明日の四時半に、大学の中庭の噴水で待ってますので』
「えっ? でも、律と食事会に行くんじゃ……」


 講義が終わるのが四時。だとしたら、あんまりうかうかしていられないんじゃないのか? 
 もう食事をする場所……例えばレストランなんかの予約が取ってあるって言ってたから大丈夫だとは思うけど。
 でも、早いに越したことはないし、私なんかと四時半にわざわざ約束して、話している余裕があるのだろうか。


 なんか不思議というか、よくわからないな。
 もう律に近付くな、とか言われてしまうのかも。
 そりゃ彼女が律のことが好きだというなら、いつも一緒にいる私はある意味で邪魔だし、快くは思わないだろう。


 だからって。
 律は、渡したくない。
 私は目を閉じ、そう心の中で言う。
 そのまま耳を傾けた。



『田井中さんとは、五時に待ち合わせしてるんです。ですから、四時半に会いましょう。すぐにお話は終わります』


 五時か。なら、あんまり話は長引かないだろう。
 さっきも考えたけど、もうあんまり律に近付くなってことかな。
 ……いや、まだ彼女と律が付き合い始めたわけじゃないんだ。
 ただバレンタインで食事を一緒に取るだけじゃないか。
 お付き合いが始まったわけじゃあないんだ。


 落ち着け私。


 電話の向こうに、明日、律と一緒に過ごす相手がいるんだ。
 顔も名前も知らない。
 だから、私は携帯電話を持つ手が震えていた。中途半端に手汗もかいている。


 もともと人見知りな質だ。
 だけど、この居心地の悪さはそんな私の性格から来るものではない。


 単純に、相手への嫉妬と……自分の情けなさと、緊張と。
 よくわからない感じが渦巻いてる。



 律を取られるんじゃないか。
 そんな不安だった。
 律に限って、そんなことはないと思うけど。
 私がそう考えているということは、律がこの子を振ってくれるんじゃないかって密かに期待してるってことだ。


 馬鹿澪だ。
 最低だ。この子は律のことが好きなんだ。
 でも心の中で、振られちゃえって思ってる……。
 律に私を選んでほしいと思ってるんだ。
 ……やっぱり私、わがままだな。
 そう考えて息を吐いた。


 頭に、言葉が浮かぶ。


 それを言うべきか言うまいか、一瞬だけ迷った。
 『これ』を言うことは、彼女にとっていい気持ちじゃないだろう。


 私から彼女への宣戦布告、はたまた独占欲の滲み出る醜い言霊かもしれない。
 私がそれを彼女に告げたら、彼女は私を笑うのだろうか。
 少しは、プレッシャーを感じてくれるのだろうか。
 耳に当てている電話を握り締める。



 私は彼女に告げた。





「――律は、渡さないからな……っ」





 律は、私のだ。
 ……まだ違うけど、でも負けたくなんかない。
 誰にも、渡したくなんかない。
 彼女に失礼かもしれないけど。
 でも、これが本音だ。



 静かになった。
 私はやはり失礼だったかもと思って、次に彼女が出してくる言葉が怖かった。
 沈黙の向こうが何を考えているのかわからない。
 私はそれでも穏やかに待った。
 数秒後。




『……さすが、秋山さん。そう言うと思ってました』



 笑いを含んだような彼女の声に、私は何も言えなかった。
 さすが? そう言うと思っていた?
 言葉に迷っているうちに、彼女は続ける。


『……大丈夫ですよ。私は、田井中さんをあなたから奪い取ることなんてまったく考えてません』
「えっ――?」


 思いがけない言葉に、私は思わず声をあげてしまった。



『ですから、私は田井中さんと付き合いたいとは少しも考えていないということです』
「ど、どういうこと……?」



 私から奪い取る気はつもりはない。
 律と付き合いたいわけでもない。

 何を言ってるのだろう。


 元々律は私と付き合っているわけじゃないから、律が彼女と付き合いだしても私から奪ったことにはならない。


 彼女は、私と律がすでに付き合っていると勘違いしているのだろうか。
 確かに誤解されるぐらい常日頃に一緒にいるけど……。


 そう考えると、結構恥ずかしいな。人前で……あんなに一緒にいたんだ律と。



 いや。
 そんなことを考えている場合じゃない。


 私の考えていることとは逆の言葉……律と付き合う気はないという言葉に安堵したのか、
 そして頭の中でいつも一緒にいる私と律の記憶が再生されて、肩の力が抜けたのがわかった。
 震えていた指先も、今はきちんと携帯電話を握っている。


 しかしまずます訳がわからない。


 律のことが好きなら、律と付き合いたいと思ったりするのは当然だ。
 ……私なら、そう思う。
 でも彼女はそうじゃないと言っている。
 本当に不思議な子だ。


 喜んでる私がいる。
 でも、明日律と一緒に食事をするのには変わりないんだ。
 それだけが引っかかっている。


『もう一度言いますよ。私は田井中さんとお付き合いしたいとは思っていません。
 あなたから田井中さんを奪おうなんて気持ちは少しもないんです』
「……どうして?」
『それは明日、話しましょう』


 一辺倒すぎる声。私と違って、彼女はとても落ち着いていた。


『それと、この電話の内容は絶対誰にも言わないでください。明日噴水前に四時半ということも、何もかもです。
 とにかく電話で話した内容は他言しないでください。特に田井中さん』


「わ、わかりました……」
『ありがとうございます。では、明日頑張ってくださいね』
「――」



 何も言えないまま、電話は切れた。
 私は無音が響くそれを耳に押し当てたまま、数秒間佇んでいた。



 頑張ってくださいって、何を?

 明日頑張ることって……私が、律にチョコを渡して想いを伝えることしかない。
 それを、彼女は知らないはずだよな……?
 でもまるで知ってるかのような確信を持った言葉。





 頑張ってください、か……。
 私は少しだけ、勇気をもらった気がした。
 恋敵のはずなのに。



 とにかく、明日だ。
 二月十四日。
 世の中のいろんな人が、いろんな人にチョコをあげる。
 想いを告げる人だっているだろう。


 どうか私と律に、幸福がありますように。













 いつも通り大学に行くと、いつも通り律がいた。


「おはよ、澪」
「……おはよう、律」


 私は先週、律を突き飛ばして逃げ帰り、そのままだった。
 だから律には申し訳ない気持ちで一杯だった。
 律も多少は怒ってるんじゃないかって思っていた。
 だけど、律はそんなのも忘れたようにケロッと笑っているのだ。


 私は拍子抜けすると同時に、優しすぎる律に泣きそうになった。
 律は、本当にいつも通りだった。
 講義が終わったら、あの子と食事に行くくせに。
 そんな兆候も微塵と見せない。
 いつも通り優しく笑ってる。



「行こうぜ」
「……うん」



 いつも通りのはずだけど、ほんの少しだけ静かだった。
 廊下を歩いている間は、全然話さなかった。
 講義室に入っても話さない。

 私はチラチラと律を見てしまう。律と何度も目が合った。
 その度に、恥ずかしくなって目を逸らすのだった。
 何を私は緊張してるんだ……。



 緊張してるのは、当たり前だ。
 私は、今日の内に律に告白するんだ――。
 だからこんなにも、落ち着けなくて。
 律の方が気になるんだ。



 講義の間も、律は比較的普通だった、気がする。
 でも、いつもよりそわそわしているように感じた。


 律はいつも講義をいい加減に……というよりも、外見だけはあまり真面目ではない空気がある。
 頬杖を突いて、いつも眠そうな横顔を見せているからだ。

 でも今日は、お気に入りだという黄色のペンでたまにチャカチャカ机を叩いたり……
 そしてやっぱり何度も私と目が合うのだった。律も私を気にしてるのかな……。


 いつも通りに隣に座っている。
 でも、糸がピンと張っているように張り詰めた雰囲気。


 講義中だからそりゃ静かなものだけど、でもいつものように穏やかではなかった。
 何より体に力が入る。いつものようにちょっと力を抜くようなことができなかったのだ。
 私は人差し指のお腹のあたりを親指で何度もさすっているだけしかできなかった。


 熱があるんじゃないかと思うほど、額も熱い。


 講義は、ノートこそ真面目に取ってみるものの頭にはまるで入らず、教授の言葉は右から左へと通り抜けて行っていた。


 ただ頭には、律にどうやって告白しよう。そしてどうやってチョコレートを渡そうかの段取りを決めることだけしかなかった。


 ふわふわ時間には、段取り考えてる時点で、もう駄目だと書いたけど。
 でも、頭でその状況を思い描かなければ、とてもその時になって言葉など出てきそうもなかった。

 実際、律のことを好きだと自覚してから、先ほどのおはようしかできていない。
 今までは、律のことを好きだと思っても、それは恋愛感情ではなく、友達としてだと思ってたんだ。
 だから、律のことが恋愛として好きだと自分が知っている状態で律と話すのは、多分もっと緊張する。


 口下手になる。
 想いなんて、伝わりにくくなってしまう。
 私に振り向いてもらいたい。


 もしあの子が、律と付き合う気がなくても。
 律に、私を好きになってほしいんだ。
 だから、頑張るんだ。
 精一杯想いを伝えるんだ。





 それから、いつものように食堂の窓際の席で、律と一緒に昼食を食べる。
 この席で昼食を食べることは暗黙の了解と化していたので、まったく言葉を交わさなくても私たちはここに座り、昼食をとっていた。
 それでも、お互いが頑なに喋らない。

 だけど、最初に沈黙を破ったのは律だった。


「……澪」
「……何?」


 律は、食事会の事もあるからかあんまりお腹を満たすようなものは頼まなかった。
 先週と同じハンバーガーだ。しかもそれ一つだけ。
 私は突然の呼びかけに、やっぱり声は出なかった。
 だけど、律と話せないのも心苦しくはあったので、絞り出すように返事はできた。


「講義終わったら、どうすんの澪は? やっぱり……帰るのか?」


 実は『理学部の子』と四時半に噴水で待ち合わせしているのだけど、それは言ってはいけない約束になっている。
 特に律には言うなと念を押されているから、なんとか誤魔化さなければいけなかった。

 だけど、上手い嘘が思い浮かばなかった。

 第一、律の前で酷く緊張しドキドキしているのに、まともな嘘など吐けそうもない。
 第一なぜ誰にも言ってはいけないのかよくわからないのだ。
 でも一応言われているのだから、言ってはいけないんだろうな。
 私はなんとか言葉を捻りだした。


「……帰るよ。律は食事会だし、特にやることもないし」


 嘘だ。
 しかし、一瞬だけ律は表情を失くした。
 でもすぐに笑う。



「そっか。わかった」
 寂しそうに目を細めて、ハンバーガーを食べるのを再開した。
 私は、どうしようもないけど。
 でも嘘をついたことはちょっとだけ申し訳なかった。



 後で嘘をついたことは謝るしかない。


 問題は、いつチョコレートを渡すかだ……タイミングが全然掴めない。
 誰かに物をプレゼントすること自体が、私には慣れないことなのだ。
 律には何度も物を渡したことはある。初めてあげたあのオススメの文庫本もそうだ。
 だけど今度ばかりは違うんだ。渡すことや、それを言うことによって。





 ……関係が崩れちゃうことだってあるんだ。
 それが、まだ怖いままで。
 想いを伝えるんだって昨日から、何度も意気込んでる。

 確かに意気込んではいるのに、でも友達でも親友でもいいから、関係が続くのなら告白なんてしなくてもいいんじゃないかって怖いんだ。
 私は、律しかいない。
 だから律を失ったら、私はまた一人だ。



 いや……違う。
 一人に戻るのが怖いから、律と関係を崩したくないわけじゃないんだ。
 純粋に、律と離れたくないよ……。


 でも、食事会がどうとか、××さんに恋愛感情がどうとかって話されてから。
 もうそんなのが抑えきれなくなって。
 このままで私は満足かって、全然そんなことなくて……。

 恋人になりたいなって気持ちもどんどん出てきたから。
 だからこうして、鞄にチョコレートを潜めている。



 どうにかして渡したい。
 律に受け取って欲しい。
 できるならば、律と付き合いたい。
 恋人同士になりたい。


 律は私の事、好きじゃないのかもしれない。
 たくさんいる友達の中の、一人かもしれない。



 だけど、私にとってはたった一人なんだ。
 いろんなことを教えてくれたし、私の初めてばっかりの律。
 だから特別な律と、もっと特別になりたい。



 こんなこと思える相手も、律だけだから。


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最終更新:2012年06月01日 08:36