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その日の講義が終わった。
今は四時。これから三十分後に、噴水の前で『理学部の子』と私は話をする。
一体どんな話なのかわからない。想像もできない。
顔も名前も知らない相手と、初対面で何を話すのだろう。
それはずっと疑問だった。
でも、私はもっと不安なことがある。
このままじゃ、律にチョコレートを渡せない。
朝から、渡そう渡そうって思ってるのに。
ふとした瞬間でも、さあ渡すぞって気にはなるのだけど、恥ずかしくて、そして怖くて鞄から取り出せない。
言葉を出そうとしたって、唇の上で彷徨うだけに終わった。
渡したいけど、『渡したい』のままの私。
情けなくて。悔しくて、講義中に何度泣きそうになったかわからない。
結局私は、律にいろんなことを教えてもらったけど、それを返せない臆病者なんだって……。
何が自信を持つために律と口調を似せるだよ。
結局口調だけ変わったって自信も何もついてないじゃないか。
律にだって怖がる。ただ好きだよって言葉が言えないなんて。
たった四文字にいつまで悩んでるんだよって。
昨日まで、詞まで書いてあんなにふわふわしてたのに。
幸福がどうだとか、祈ってたくせに。
今は、もう諦めようかって気さえしてきたのだ。
もういいんじゃないかって。
チョコレートなんて、捨ててしまおうかな。
律が私のこと好きなわけないだろ……。
「澪、じゃあ私行くから」
律が立ち上がって、私に言った。まだ私は椅子に座って、教材を鞄に詰めている途中だった。
律は何食わぬ顔で私を見降ろしていて、私は小さな声で返事するだけしかできなかった。
「う、うん……」
「それと」
律はそれから、目を逸らして頬をかきながら言った。
微妙に頬を染めているのはなんでかわからなかったけど、私は心が全然穏やかじゃなかったのでその表情には何も言えなかった。
「……やっぱり何でもないわ。じゃあな。また後で」
律は手を振って、講義室から出て行った。
私はその後ろ姿を見つめていて、どうしようもなく胸が縛られた。
それを振り払うように、鞄へ教材をしまう行為を再開する。
だけど、やっぱり胸は痛いままだった。
それでいいんだろうか。
あんなにも頑張って、律への想いを込めたチョコレートを作った。
あの時は、初恋が律だって気付いてやたらとふわふわして、よくわからなくて。
嬉しいような、でも気付いてしまった寂しさもあって……。
まるで絡んだ糸みたいに、一体それがどんな風に交わって絡んでいるのか自分でもわからないぐらいぐちゃぐちゃだった。
そんな勢いのまま、今日を迎えてるから。
今になって、怖い。
怖いよ。
失敗したら、律はどこかへ行っちゃうのかな。
私から、遠くに行っちゃうかもしれない。
そんなの、耐えられない。
私は、律が大好きだから。
律がいなきゃ、駄目なのに。
もし律が私から離れちゃったら、どうなるんだろう。
……やっぱり、告白なんてやめよう。
チョコレートも、どうせ美味しくなんかないだろうし。
律が気に入ってくれるわけがないんだ。
あんなの捨ててしまえばいいんだ。
私が告白しなければ、律は今までみたいに一緒にいてくれるかもしれないんだ。
昨日勇気が出てきたとか意気込んでたくせに……。
土壇場で逃げるなんて。
やっぱり私、駄目な奴だな……。
私は鞄に荷物をしまい終えて、立ち上がった。
時計を見ると、四時五分だった。あと二十五分はある。
中庭へはすぐに到着するけど、遅れて迷惑を掛けるのも申し訳ない。
十五分ぐらいは早く行けばいいかな。
それぐらいなら全然余裕だし、向こうより遅くなるなんてことはないだろう。
私は、講義室を出た。
早く話を終わらせよう。
どんな話かもわからないけれど。
ゆっくりと廊下を歩く。
……律とあの子は、五時に待ち合わせと言っていた。
一体どこで待ち合わせてるんだろう。噴水前じゃないと思うし、もしどこかのレストランへ行くのならバスか何かを使うのかな。
そうなると大学前のバス停とかかな。
付き合う気はないし、私から奪う気もない?
どういう意味か、昨日からずっとわからないままだ。
じゃあ何のために、律と今日の計画を立てたんだろう。
律に告白するためじゃないのか? 律とバレンタインを過ごしたいからじゃないのか?
律にチョコレートを受け取ってほしいからじゃないのかよ。
それなのに、付き合う気もないって。この日の食事会は何のためにあるんだろう。
一日だけ律と一緒に過ごせれば、それで彼女は満足なのだろうか。
名前も顔も知らない。ただ一度だけ電話しただけ。
その電話の声すらも、私には何の情報もくれやしない。
そんな彼女が、これから律と食事会に行く。
やっぱりモヤモヤしてる。
……律は、五時まで何をしているんだろう。一度家に帰ったりしてるのだろうか。
五時集合なら全然間に合うし。それとも、どこかで時間を潰してたりするのかな。
私は首を振った。
……律のことは、今はいい。
私はその『理学部の子』と話すことだけ考えてればいいんだ。
私は中庭に出た。
ちょっと歩けば、待ち合わせ場所の噴水だ。
だけど、そこには思いがけない人物がいた。
「……澪?」
「……律?」
そこに立っていたのは、律だった。
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「……澪?」
噴水前で、『理学部の子』に会いに来た私。
でもそこにいたのは、律だった。
「……律?」
私は訳がわからなかった。
今の時刻は、四時十七分。待ち合わせは四時半だった。
もう少しで、あの子はやってくるはずなのに、実際いるのは律。
どういうことなのだろう。
五時に、あの子とどこかで待ち合わせをするんじゃなかったのか?
予想外の展開に、心臓が高鳴り始めた。
律が表情を引きつらせながら私に尋ねてくる。
「……ど、どうしたんだ? 何か用でもあったのか?」
「い、いや……違うんだ」
「じゃあ、なんでここに?」
律自身も、なんで? というように辺りを見回して混乱している様子だった。
私は唇を舐めた。
口の中もカラカラに乾き始める。
やばい、混乱してるぞ私。
「律こそ……なんで、ここにいるんだ?」
私は左手で自分の鞄を撫でていた。
渡せなかったチョコレートが眠っている。
律は後頭部を触りながら返した。
「えっと、ここで待ち合わせしてるんだ、理学部の子とさ。四時半に」
「――えっ?」
なんだって?
私は思わず声をあげてしまった。
聞き取れなかったから声をあげたんじゃない。
律の言った言葉が、どうにも私の考えていた答えと大きく食い違っていたからだ。
私の動作に、律は不思議に思ってか首を傾げる。
「どうしたんだよ?」
「本当に……ここに、四時半?」
「って、私は言われたけれど」
どうなってるんだ?
私は焦りに焦っていた。というよりも、これは焦りというより状況が噛み合わないことに対する混乱だった。
自分の持っている情報と律の情報が噛み合わない。
しかし落ち着こうにも律と突然出会うものだから、心臓が高鳴って落ち着けない。
ドキドキして顔も熱くなって……もう訳がわからない。
落ち着け。
律は、四時半に噴水前で、その理学部の子と待ち合わせだった。
私は、四時半に噴水前で、その理学部の子と待ち合わせだった。
実際そこにいるのは、律じゃないか。
どういうことだ。
第一あの子は言っていた。
『田井中さんとは五時に待ち合わせしているんです』って……でも今律は、四時半にここで待ち合わせしていると確かに言ったのだ。
おかしい。情報がうまく伝わっていないのか? あの子の口調からして確かにきちんと取り決めているように思えたのに。
じゃあ、どうして律はここにいるんだ?
「私も、理学部の子に、四時半にここにきてって言われたんだけど……」
「マジかよ!?」
私の言葉に、律も顔を歪ませた。
「……どうなってんだ?」
それはこっちが聞きたい。というよりも、私と律が『理学部の子』に問い質したいところだ。
どう考えてもおかしいんだ。食い違いなんてものじゃない。
だってあの子は五時に律とどこかで待ち合わせと言ったじゃないか!
なのにどうして、四時半にもなっていない噴水で、私の目の前に律がいるんだ!
よりにもよって、律だなんて……。
ただでさえ律といるのは自分の胸をドキドキさせる要因であるのに、いざ『理学部の子』と話そうと思って噴水に来てみたら律がいる。
そんな予想もしなかった展開も相まって、もう胸が爆発しそうだった。
お互いが訳がわからないから、やっぱり視線が交錯しあう。
その度に私は、この胸の高鳴りが律に聞こえてやしないか、顔が真っ赤になっているのを悟られてはいないかと冷や冷やしていた。
現実、喉が震えて声も出にくい。
「とりあえず、えっと……? 澪は、四時半にここに来てと言われた」
「う、うん……」
状況確認のためか、律は落ち着いた様子だった。
でも、後頭部を撫でながら喋るのは律の、恥ずかしがったり照れている時の癖でもある。
だけど私は、今律が何を考えているか読めなかった。
律の心を簡単に読めれるのなら苦労なんて何もないのだ。
「私も……ここに四時半に来てと言われたんだ」と律。
「『理学部の子』に?」
「いや、××さんを通してだけど……」
「じゃ、じゃあそこで何か伝言ミスがあったんじゃないか?」
そうとしか考えられない。
つまり、私は『理学部の子』から直接電話をもらった。
しかし、律はその子ではなく××さんから連絡をもらったようだ。
となると、本人ではない××さんの情報の方が間違っている確率が高いんじゃないか。
本人の口からの方が信憑性は高いだろうし……でも、××さんが間違うのかなあ。
律は、息を吐いて言った。
「……ま、まあ待ってようぜ。本人が来ればわかるだろ」
「そ、そうだな……」
私と律は、お互いにぎこちなく笑い合った。
時刻は四時二十五分。
私たちは噴水の縁に、二人分ぐらいの距離を置いて座った。
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気まずかった。
話題がないわけじゃない。
話したいことなら山ほどあるし、謝りたいことも、言いたいこともたくさんあった。
だけど、今私が抱えている鞄の中にチョコレートが入っている。
そして想いと伝えたい相手――律が、すぐ横にいるのだ。
だからどうしようもなく緊張して、言葉にならなかった。
だけど、律は律だった。
「なあ、澪」
優しい声だった。
私は、その声色で少しだけ緊張が解れた気がした。
「……うん」
しかし、それしか言えない。
横を見ると、律と目が合って。
数秒見つめあった。
そこから、会話が続いた。
「正直に言うと、私、あんまり食事会乗り気じゃないんだ」
「……なんで?」
「――わからない?」
律は、不敵に笑った。
それは普段の律からは想像もつかないような、女っぽくて、そして私を嘲笑うようで。
だけど、でも細い眼差しはやっぱり優しいままの。
「まあそんなことだろうと思ったよ、澪ならさ」
「い、意味がわからないぞ、律……は、はっきり言えよ」
「……ここまで言って、わかんないのか?」
私も分かんないよ。
律は、口を尖らせて何かをブツブツ言った。
そして。
律は、勢いよく立ち上がった。
「わ、私は澪が――」
その時だった。
視界に、何か白い粒のようなものが浮いているのに気付いたのだ。
「――――雪だ」
私は、立ち上がって空を見上げた。
灰色っぽい空から、確かに白いふんわりとした粒が舞い降りてきている。
私は手を開いて、それを受け止めた。
「なんつータイミングだよ……」
律が苦笑いして息を吐く。
私は手の平に落ちて、すぐに水滴に変わる雪を見つめた。
それから、それが降ってくる空を見つめようと上を向こうとした。
ここは、中庭だから、大学の建物が囲っている。
視界に、二階の窓が入った。
その窓のところに、誰かが立っているのに気付く。
――あれは、××さんと……平沢さん?
なんであんなところに立っているのだろう。
「――?」
彼女たちは、私に小さく手を振って、親指を立てた。
そして誇らしげな表情をして、その場から去っていってしまった。
窓から、見えなくなった。
最終更新:2012年06月01日 08:39