私の両頬を、何かが包んだ。
 冷たいけど、温かな手の平だってすぐにわかって。
 その手の平が、ゆっくりと私の顔を持ちあげた。
 視界が開ける。



 目の前に、律の顔。
 涙の所為で滲んで見えるけれど、とっても優しい顔をしていた。
 優しい優しいって。


 何でもいつでも律は優しい。
 そのうっとりする様に、私を見つめてくれる瞳も優しい。
 私の頬に添えられている手の平だって優しい。
 私の名前を呼ぶ声も、優しい。





 だけど、今の律の顔はそれだけじゃなくて。
 微笑みながらも――でも、真っ赤な顔をしていたんだ。




 そして、ゆっくりと。






 キスをした。





 私は、驚くことさえできなくて。
 初めての、よくわからない感触が口元に広がるのを感じるだけだった。
 意識が全部吹き飛ぶ。
 ただ私の五感は、全部律へ向けられていた
 そんな甘い感覚だけが、私の全身を支配するだけ。




 長いキスは、短かった。




 律が口を離した。
 私は一息吐いてから、よろけながら自分の唇を指で撫でた。
 そこで初めて、状況を理解した。




 ……律が、私にキスをした。
 あの律が……私に。





 さっきまで、十分に混乱していたけど。
 ここにきて体中が熱を帯びる。防寒のための厚着が、裏目に出る。
 風邪をひいたときなんかよりも、ずっとずっと。
 熱い。







「私も、澪のこと好きだ」





 ――。






 う、そだ。






「嘘……」





 私は、口元を手で覆った。
 本当に小さく、そう呟くだけだった。






「嘘じゃ、ないよ」
「そ、そんなの……う、嘘……!」






 律も私が好きだなんて。
 嘘だ。






 私はまた泣いた。
 律にキスされて、少し涙は引いてきたと思ったのに。





「嘘じゃないぜ。本当に」





 私は律のことが好きだ。
 でも、律も私のことが好きだなんて。

 そんな奇跡。
 そんなこと、あるなんて。
 ありえないだろうって。
 そんなこと、あるわけないんだって思ってたのに。






 いっつも、私は律を追い掛けてた。
 だって、私には律しかいないのだから。


 でも律は、私以外にたくさん友達がいるんだ。
 私は、その律の大勢の友達の一人だと。
 そう思っていたのに!



 信じられない。




 あっていいの、こんなこと?
 私が望んでいた、律も私を好きだということ。
 嘘だと、後で言わないでくれよ。




「り、律は……私のこと、特別じゃないかと思ってっ……ひっく……」
「あー泣くなよ。信じてくれないのか?」
「だってだって……律が私のこと好きだなんて、うまくいきすぎだろ……っ」



 私の好きな人も、私を好きでいてくれるなんて。
 そんなのありえない。
 あってほしかったけど、ありえないこと。
 そうだと思って、諦めていた節もあったから。



 だから、嘘だとしか言えないよ。







「嘘であって欲しいのか? 澪は?」






 悪戯っぽく、律はそう言った。






「ばか……ばかりつ……ぅ……」





 そんなわけない。
 嘘であってほしくなんかない。
 私は、声を絞り出すしかなかった。




「そんなわけ……そんなわけないだろっ……」





 律のことが好き。
 なら、律も私を好きであってくれることを、嘘だと思いたくない。




 嘘であって、ほしくなんか……。




 だけど、本当に、あり得ないことだって思ってたから。
 律が私を好きなはずがないって。片想いだって。
 そう、思ってたのに。


 律も、私と同じ言葉を返してくれた。
 あまりにも嬉しくて、夢なんじゃないかと思って。


 それぐらい、嬉しいから……。





「本当? 本当に……わ、私のこと、好きなのか……?」
「ああ」




 律は、声を張った。




「私も、澪のこと大好きだよ!」



 大好き。
 律の口から、律の声で、そんな風に言ってくれるなんて。
 そんな言葉が、出るだなんて……。



 さっきまで、嘘って疑うことしかできなかった。
 それぐらい、私にとっては夢のようなことだから。


 だけど、じわじわとそれが私の体に広がった。
 驚きが嬉しさに。嬉しさが胸の震えに。
 胸の震えが、涙と声に。





「うう……りつぅ……」





 私はさらに泣き出す。
 律、律って。
 律の名前ばかり呼んで。



 律はそれから、私を抱きしめてくれた。
 いつかの日も、私が泣きじゃくる時は律が抱きしめてくれた。
 私は律の肩を涙で濡らして、律の背中に手を回す。





「りつ……りつっ……」
「澪。みーお……」




 私と律は、抱きしめあったまま、しばらく名前を呼び合っていた。












 落ち着いて、私と律は抱き合うのをやめた。
 それでも、私たちは両手を繋いでいた。
 互いに見つめあう。
 私は律に尋ねた。





「……友達として、じゃ、ないよな?」





 私は律のことを今までずっと好きだった。
 いつからその『好き』が、『友情』から『恋愛』に変わったのかは、私自身も分かっていない。
 でも、少しずつ少しずつ。

 四月に出会ってから少しずつ。
 私の律への想いが――『恋』に変わって行ってたんだ。
 それに気付いたのが、つい先週だったというだけで。
 でも、律は、私とは違う『好き』かもしれない。
 キスまでされてそれはあり得ないかもしれないけど、訊いてみたかったのだ。





「そ、それも言うのか? えっと……なんつーか、その…… こ、恋人とか、恋愛感情とか……そういう意味で、好き」





 律は頬を人差し指で掻きながら、顔を真っ赤にして言った。





「だ、第一……キスまでしたんだぜ。恋愛感情以外にあるかよ」





 律は付け加えるようにそう言ってくれた。
 やっぱりそうだった。




「澪はどうなんだよー? まさか言わせといて逃げるのか?」
「わ、私はいいだろ」
「言いなさい!」



 気圧されて、私は目を泳がせた。




「私も、……律のこと、恋愛感情という意味で好き……です」
「つまり?」
「……あ、愛して――~~~~あ、もう嫌だ!」
「あーんもうちょっとだったのに」
「わ、私は至って真面目なんだぞ!」
「私も真面目だ」



 律の声は、急に涼しくなった。
 さっきまで私をからかっていたのに、律の表情はふっと引き締まった。
 それでも、いつもの無邪気な笑顔のままで。




「澪のこと、愛してるよ」




 律は、白い歯を見せて笑った。
 普段は冗談ばかり言って、私をからかうくせに。




 こういう時だけ、かっこいいんだよな。
 ずるい。反則だ。
 そういうの、本当にドキッとするんだぞ。



 ドキッとはしたのに、不思議と体中は熱くならなかった。
 言ってくれた。


 律が、私にその言葉をくれたこと。
 それは確かにじわじわと体を痺れさせ、頭も体も、全部律の色に染まる。
 だけど、恥ずかしさが上擦ることはなく。
 私は律のかっこよさに、その言葉に、恥ずかしさを乗り越えることができると思った。





「私も、律のこと……愛してる」





 言い終えてから、恥ずかしさが出てきた。
 乗り越えたと思ったのに、いざ言葉にしてみると、それは私にとって恥ずかしくてたまらない言葉だった。
 言えたのに、終わってからぶわっと来るような熱さ。
 穴があったら入りたい、顔から火が出る。
 私のどんな言葉の知識を使っても形容しきれないほど、恥ずかしかった。
 律も、顔がさらに真っ赤になっていた。


 だけど、多分私の方が真っ赤だったと思う。
 私はいつだって、恥ずかしがり屋のまんまだから。





「ぷっ……澪、顔真っ赤ー!」
「そ、それは律もだろっ!」
「わ、私は雪のせいだ」



「……ぷっ」
「――ふふ」






「あははははっ!」




 やり取りがおかしくなって、私たちは笑った。
 心の中は、すっかり暖かかった。




「……そうだ」




 律は、何かを思い出して私の手を離し、鞄に手を入れた。
 そこから取り出したのは、綺麗に包装された『何か』だった。
 私はそれが一体何なのかわかっていたけど。
 驚きと、嬉しさでやっぱり訊き返すしかないのだった。




「……そ、それって」
「わかるだろ? 手作りチョコレートだよっ」



 私はまた泣きそうになるけれど、意を決して私も自分の鞄に手を入れた。
 ずっと、今日の朝から秘めてたそれ。

 渡そう渡そうって、朝から考えてたのに、結局怖くなって。
 やっぱり渡すのはやめようって逃げ腰になってた私。
 頑張って作ったこれを、渡せないままにすることを選択することは、私にとっても辛かった。
 何より、喜んでほしくて作ったんだ。
 だから。





「私も、これ……手作り」


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最終更新:2012年06月01日 08:44