律に、チョコレートを突き出した。
 いつだったか、確か読んでいた本を見せてと言ってきた律に、似たような格好でそれを渡したんだっけ。
 あの時の私は、本を渡すのさえ恥ずかしくって。

 だからあんなに大げさに本を渡したりしたのだろう。
 あの時と、やっぱり変わらない。
 でも、あの時とやっぱり変わってることもある。

 渡したい。
 その一心から、私はチョコレートを差し出してるんだ。





 私たちはチョコを手に持って、相手に差し出したままお互いを見つめている。





「ほら、澪……受け取ってよ」
「律こそ――……はい」




 交換した。
 律のは中身は見えないけど、私の手の平より少し大きい。
 丁寧な包装は、律の家庭的なところもよく出てるなって思った。
 律は、私のチョコレートの包みを両手に掴んで笑った。



「帰ってから、ゆっくり開けるぜ」
「……私もそうする」



 律からの、チョコレート。
 家でなくても、とにかく大切に、慎重に扱いたかった。
 律は持っている包みに視線を落とし、残念そうに口を尖らせて唸った。



「あーでも、もったいないなあ……せっかく澪が手作りでくれたのに」
「私も、同じ気持ちだよ。律のチョコレート美味しいだろうけど……でも、食べずにずっと残しておきたいよ」
「それこそもったいないぞ? 大したもんじゃないしさ」
「いや、本当に嬉しいよ……まさか律も、私のこと好きだなんて全然、思わなかったからさ」



 本当に思っていなかった。
 もしも律も私を好きだったら、好きだったらいいな。
 いやでも、あり得ないだろうなって。
 そんな風に、完全な片思いだと思ってた。





「馬鹿澪。私が澪を好きにならないわけないだろ?」



 律は目を細めた。



「それに、私もさ……澪も私のこと好きなわけないだろうなって、思ってたし」



 恥ずかしがって、後頭部を撫でる律。
 そんなこと。



「馬鹿律。私が律を好きにならないわけないだろ?」



 私は絶対、律に恋する運命だったんだろうなって思う。
 どの世界であっても。




 雪は、ただゆっくりと落ちて、アスファルトに溶けた。
 積もることはなさそうだけど、綺麗だった。
 私は律に言った。





「なあ……今日、律の家に泊まっちゃ駄目か?」




 四月に出会って、十カ月。
 私は何度も律の家に泊まったけれど、今日からは意味が違う気がした。
 律の恋人として、泊まることになるんだ。


 今までは、友達として泊まった。それも楽しかったのは事実だし、律と一緒にいて楽しくないことなんかない。
 でも、いつも律と一緒にいると、なぜか切なくなったり、
 律を見ていてドキッとすることもあったり、胸がズキズキすることもあったんだ。



 それがなぜかは、今までわからなかった。
 わからないまま、ずっと律と一緒にいたんだ。
 でも今は、それが恋だと知っている。
 律への想いだってことを、私自身が知っているから。
 だからそれを悟った今、律の家に泊まってみたいと思った。


 友達としてから、恋人として。
 あの胸の痛みが何なのか分からない不安も、私は快く受け入れている。
 むしろ、そんな痛みやちょっとズキズキするのは、恋だとわからなくて……
 それを律へ伝えられないことへの不安の痛みだったと思う。
 だから、私は律が好きだと言えてよかった。


 律も好きだと言ってくれた。
 だから、痛みはない。



「なんで今更そんなこと聞くんだ? いいに決まってんだろ!」



 思ったほど、律があっさりと返事をくれて私は一瞬驚いた。
 だけど、よくよく考えてみればそうだった。
 聞くまでもなかったかな。
 両想いだってわかって、チョコレートも交換して、恋人同士になって。
 それでも、私たちはあまり変わらないのかもしれない。















 私と律は、手を繋いで噴水の縁に座った。
 さっきは距離があったけど、今はすぐ隣でくっ付いて。




「来ないな、あの子」
「……そうだな」




 二人で空を見上げながら囁いた。
 白い吐息。
 私は思い出したように、口を開いた。




「そういえば言ってたよ、あの子」
「何を?」
「『私は田井中さんと付き合う気はありません』、
 『秋山さんから田井中さんを奪う気はありません』って」



 私は昨日の電話を思い出す。
 律のことが好きなら、なぜそんなことを私に言ってみせるのかわからなかった。



「なんだそりゃ。それじゃまるで、私たちの気持ちを知ってたみたいな口ぶりだな」



 律がそう言った。
 そうなのかもしれない。
 その子は私の律への、そして律の私への気持ちを知っていたんじゃないか。
 だからあんなことを言って。


 そして。




「……もしかしたら、その子、ここにはもう来ないかもしれないな」



 私は、そうポツリと漏らしたのだった。



 時刻は、四時四十五分。
 約束の時間は、もうとっくに過ぎていた。




 ポケットの携帯電話が震えた。


「……メールだ」
「あ、私もだ」


 律も携帯電話を取りだした。
 私たちは顔を見合わせる。
 受信ボックスを開くと、そこには奇怪な文字列が並んでいる。
 もし知り合いだったらそこには名前が表示されるはずだった。
 だけど、このメールは名前じゃなくて直にメールアドレスが表示されている。
 ということは。




「知らない人からだ」
「私も」



 また視線を合わせる。
 私と律はメールを開いた。
 そこには、ただ一言だけ書いてあった。


 私と律の、それを読み上げる声が揃った。






「お幸せに!」


















 2月14日 晴れ



 今まで生きてきて一番嬉しかった日だった。
 まさか澪と、恋人同士になることができるだなんて。
 今でも顔が熱いし、嬉しさを隠すことができない。
 嬉しすぎて、字が震える。声を上げたいぐらい嬉しい。
 いや実際上げてる。


 本当に嬉しい。
 澪は、私のことをどうとも思っていないかもしれない。
 そう悩んだことは何度もあった。
 むしろ、私のことを煩わしく思ってるんじゃないかって。
 怖かった日もあったけど。


 でも、澪は泣きながら言ってくれたんだ。
 私が好きって。
 私も泣きそうになって、嬉しくて、キスした。
 澪も受け入れてくれて、ずっとそうしてた。


 理学部の子は、来なかったけど。
 澪の話を聞いたら、私と付き合う気はないと言っていたらしい。
 もしかしたら私と澪をくっつけるきっかけをくれたのかもしれない。
 実際食事会に誘われなかったら、私は澪に一歩踏み込もうとは思わなかった。
 彼女には、申し訳ないけど感謝してる。


 今、この日記を書いているすぐ横に、澪がいる。
 恋人になって、初めて一緒に夜を過ごす。
 なんだか恥ずかしくて、見つめあっては笑ってみたいなのが繰り返されてる。
 でもそれでも幸せだ。すっごく幸せだ。




 澪、大好き!








                        私もだぞ、律














 バレンタインから五日後の土曜日。




 私は、喫茶店に入った。
 駅前にあるお店なのだけど、少し地味な印象がある。
 それが理由かはわからないけれど、正午前なのにあまり人はいなかった。
 私はあまり人混みが好きじゃないので好都合だと思う。


 穏やかで落ち着いたような雰囲気の店内。
 私は、私の探していた子が窓際の席に座っているのに気付くとゆっくり近付いた。


「おはよう、ムギちゃん」


 その子は私を見上げて、目を細めた。


「おはよう、唯ちゃん」



 彼女――ムギちゃんはいつものようなぽわっとした笑顔を見せた。
 私も微笑み返して向かい側に座り、その後注文を聞きに来たウェイトレスさんにオレンジジュースを頼んだ。

 ムギちゃんはすでに紅茶を頼んでいたようで、ムギちゃんの手元には湯気の沸きたつカップがある。
 私のオレンジジュースはすぐにやってきた。


 私はあまり駅前には慣れていないので少しだけ歩き疲れていて、喉も渇いていた。
 もし家なら、コップを思いっきり傾けてゴクゴクと飲むのだけど、人はいないにせよ公共の場だ。
 私は少し控えめに少しだけコップに口を付けるだけに留まった。


 喉と体が少しばかり潤ったのを感じる。
 私がコップをテーブルの上に置くと同時に、ムギちゃんは口を開いた。



「唯ちゃんご協力ありがとう」
「えっ? ……ああ、あれのこと?」


 私は『協力』と聞いて、ある事柄を思い出した。
 この一年間、私はムギちゃんのある計画……というと少しばかり悪く聞こえるけれど、 ムギちゃんの目的に少しばかり協力したのだった。

 数日前も、ムギちゃんは私にあることをやってほしいとお願いしてきた。
 私はそれに快く応じたという経緯がある。



「お礼なんていいよ。私もあの二人は早いとこくっつくべきだと思ってたんだ」
「そうよね! 私もあの二人を見ててキュンキュンするわ」


 ムギちゃんはキラキラと輝いた瞳と、跳ねるように高揚した声で言った。
 手を胸に当てて、誇らしいような満足そうな表情をしている。
 ムギちゃんが『女の子同士の恋愛』を好むのを知っていたけど、ここまで嬉しそうなのは初めてだ。
 やっぱりあの田井中さんと秋山さんををくっつけることに成功したからかな。



「唯ちゃんも見てたでしょう? あの澪ちゃんが、大声で『律が好きだ』なんて言ったのよ! 
 そしたら、りっちゃんも大胆にキスまでしちゃうなんて……ああ、思い出しただけで鼻血が出そう!」


 今度は両手の指を絡めて握り、それをほっぺに当てて酔ったように目を閉じた。
 なんかもう見てて、すごい嬉しいんだなあというのが伝わってくる。
 ムギちゃんは元よりそういう女の子だ。

 特に女の子同士の恋愛の好きな度合いは抜きんでているなあとつくづく思う。
 そんな表情を見ながら、私も言った。

「私もよかったよ成功して。前にね、一度だけあの二人に会ったことがあるんだけど、もうお互いをすっごく意識してたんだ。
 田井中さんなんか秋山さんが玄関から入ってきた時ね、ちょっとだけ顔を赤くしてすっごく嬉しそうな顔をしたし、
 秋山さんは、私と田井中さんが話してるのを見てちょっと不安そうにしたりね」




 私はあの日のことをよく覚えている。
 自動販売機でジュースを買おうとしている田井中さんに話し掛けてみたのだった。
 前々からムギちゃんに『田井中律ちゃんと秋山澪ちゃんをどうにかしてくっつけたいの』 と聞いていたから私もなんとなくどんな二人なのか興味を持っていた。


 だから二人の様子を見てみようかなあと思ったのだった。
 田井中さんは気丈で明るい子。そして、秋山さんは人見知りなようだった。
 そして私と田井中さんが話していたのを見て、ちょっとだけ戸惑っていたようにも思うなあ。


 申し訳ないことをしたなあと今は反省してる。
 でも、結果的にあの二人は恋人同士になったのだからよかった。


「それより『理学部の子』の役、ありがとね」


 ムギちゃんは少し落ち着いたように言った。


「うん。緊張したなあ……だって秋山さんと一度会っちゃってたからね。 だから、もしかしたら声でバレちゃうかと思ったけど、でも大丈夫だったよ」



 私はまた、数日前の出来事を思い出した。
 そして、ムギちゃんの考えた一連の計画のことも頭に浮かべた。


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最終更新:2012年06月01日 08:46