田井中さんと秋山さんは、見るからに両想いだった。
だけど二人はなぜか一歩踏み出せずにいるようだったし、恋人になっているわけでもない。
ただずっと一緒にいて楽しそうにしているけれど、関係が友達以上になっている様子はなかった。
それは、『同じ高校出身である』という立場を隠して、 あたかも大学で初めて二人と初対面だったかのように振舞っているムギちゃんが断言している。
ムギちゃんは、実は私と田井中さんと秋山さんと同じ、桜ケ丘高校出身だ。
でも、ムギちゃんはそれを他の誰にも言わなかったらしい。
どうして、と聞いてみたら、その方が動きやすいからよと答えていた。
その意味が今ならよくわかる。
ムギちゃんは、女の子同士をくっつけるプロだったのだ。
なんとN女子大で何人ものカップルを成立させているみたい。
ムギちゃんはその成立の過程で、『桜ケ丘高校出身』という肩書が少しばかり交友関係を狭めてしまうと考えたみたいだ。
結果、田井中さんと秋山さんをくっつけるためには『桜ケ丘高校』と二人にバラしておかなくてよかったも言っている。
私と田井中さんと秋山さん、そしてムギちゃんの四人が同じ高校出身であると知っているのは私とムギちゃんだけ。
私とムギちゃんは高校時代から知り合いだった。
もちろんそれを他人に言うことはさっき言った理由から禁止されていて、あたかも大学で知り合ったかのように振舞っていた。
田井中さんは、ムギちゃんを『大学に入ってからできた友人』、そして秋山さんは『律が大学に入ってからできた友人』だとそれぞれ思っている。
だからムギちゃんは、二人をくっつけるために計画を立てやすかったのだ。
まず、架空の人物『理学部の子』を作り上げる。
その子は、田井中さんのことが好きで、バレンタインに一緒に食事をしたいと考えているという設定にした。
当然架空の人物なのでそんな女の子は存在しない。
ただ、秋山さんが焦る要因を作る必要があったのだ。
ムギちゃんは、まず田井中さんを連れ出してこう言う。
『りっちゃんのことが好きな女の子が理学部にいるの。名前はまだ教えられないんだけど……
その子がね、バレンタインに一緒に食事をしないかって』。
もちろん真っ赤な嘘だ。
しかし田井中さんはそれを真に受けて、悩む。
自分のことを好きだと言ってくれている女の子が食事に誘ってきた。
それもバレンタインに。
しかし自分は澪のことが好きなので、行きたいとは思わない。
でも相手にも失礼だし……。
田井中さんはまずそんな風に悩むだろう。
そしてムギちゃんは、あえて秋山さんに隠すようにそれをりっちゃんに伝えた。
つまり、二人の食事中に、『秋山さんの前だとあれだから』と言ってりっちゃんを連れ出す。
すると秋山さんはまるで隠し事をされているみたいで、ムギちゃんと田井中さんの話が気になるに違いない。
そして秋山さんは田井中さんにこう言うだろう。
『一体何の話をしていたんだ?』って。
田井中さんは、自分自身どうすればいいのかわからないぐらい悩むので、 自分を好きだと言ってくれている理学部の子に食事に誘われたことを秋山さんに話した。
ここでムギちゃんの思惑が絡んでくる。
秋山さんは、田井中さんが田井中さんのことを好きな女の子と食事を取るということに対していい思いはしない。
むしろ嫉妬してしまうはずだと。
だけど秋山さんはその『嫉妬』や、田井中さんが誰かと仲良くしたりすることに対するモヤモヤが何なのか気付いていないような節があった。
だから、『田井中さんが別の誰かと恋仲になるかもしれないんじゃないか』という不安に秋山さんを追い込むことが、
秋山さんの田井中さんに対する想いを自覚させるきっかけとなると考えたのだ。
実際田井中さんが食事会に行くと決めてから、秋山さんはとても悩んだと思う。
ムギちゃんは、田井中さんと秋山さんと『理学部の子』の仲介役だったので、二人の様子がよくわかると言っていた。
田井中さんは、ときたま秋山さんの方を見て気になるようだったし、秋山さんも表情から戸惑っているのがまるわかりだとムギちゃんは語る。
やっぱり『理学部の子が田井中さんを食事に誘う』ということは、二人の関係を大きく進展させるきっかけに。
そして二人の相手への想いを自覚させさらに強くさせるきっかけにもなったのだ。
ムギちゃんはそれから、バス停から降りてきた秋山さんに話しかけたりもしたらしい。
田井中さんのことどう思う? とか、恋愛だとか恋だとか、好きだとか。
そういう恋愛的なワードや質問を秋山さんにぶつけて、もっと心を揺さぶったのだ。
そうすることは、秋山さんの田井中さんへの『好き』という気持ちに気付いてもらったり、
告白するための勇気や高揚を与えることに繋がるとムギちゃんは考えたみたいだった。
その日、秋山さんは講義に来なかったらしい。
そして田井中さんも寂しそうに一人で講義を聴いていたとか。
ムギちゃんはそれを見て、二人の関係が進展した――というよりも恋愛感情に気付いて少し気恥ずかしくなったんだと喜んだらしい。
ここまでくるとあと一歩だと思ったみたいだった。
ムギちゃんは、二人をバレンタインの日に出会わせると決めていた。
場所は大学の中庭の噴水の前。
そのために、バレンタインの前日の夜に田井中さんと秋山さんに電話すると決めていたムギちゃん。
その電話を掛ける少し前に、私に電話が掛かってきた。
ムギちゃんはあることをやってほしいのと頼んできたのだった。
私はムギちゃんのその依頼に快く応じた。
私も田井中さんと秋山さんがいつも一緒にいるのになかなか進展しないというのはもどかしく思っていたからだ。
依頼の内容は、こうだった。
「明日のバレンタインね、前にも云った通り『理学部の子』がりっちゃんと食事をするって段取りになってるの。
それでね、今から私はりっちゃんに『明日は四時半に大学の中庭の噴水前に集合』って伝えるわ。
だから唯ちゃんは、『理学部の子』の役になって澪ちゃんに電話を掛けてほしいの。
『明日の四時半にお話ししましょう。大学の中庭の噴水に四時半』って」
「いいけど、もし二人がお互いに時間を教えあったらおかしいと思われないかな?」
「そうね……じゃあね、私はりっちゃんに『この四時半に集合、というのは誰にも教えたら駄目』と言っとくわ。
だから唯ちゃんも、澪ちゃんに他言したら駄目というのを伝えておいて」
「わかった! でも、明日は田井中さんと食事するのに私と会っている暇があるの? って聞かれたらどうしよう?」
「その時は、『田井中さんとは五時に待ち合わせしてます』って言っておいて」
「なるほどー……あ、でも予想しなかった質問とか来たら?」
「うーん、そこはなんとかしてもらうしかないわ。 たださっき言ってくれたことだけ守ってくれればいいの」
「りょうかいです!」
そんなやり取りがあって、ムギちゃんは田井中さんに、そして私は秋山さんに電話した。
ところどころ私のアドリブや、ちょっと違和感が出たところもあるかもしれないけれど……。
でも私だとバレないように、もちろん一度しか会ってないし話もほとんどしていなかったからバレないとは思っていたけど、
でも念には念を入れて平坦で抑揚のない、少し低めの声で電話した。
しかし、秋山さんが『律は渡さない』なんて大胆に言うとは思わなかった。
架空の人物である『理学部の子』であろうと、一応初対面だったのだ。
秋山さんは初対面の相手にあそこまでズバッと物を言える人じゃない。
それなのに、あんな風に言えるということは……。
やっぱり、田井中さんのことが大好きで、絶対に誰にも渡したくないって想いが強かったんだろうなって思った。
それからなんとか上手く行って、二人は噴水前で出会った。
私とムギちゃんは、二階の窓から噴水でどぎまぎしている二人を見ていたんだ。
私たちの計画は、あの二人が噴水で出会ったらクリアだと思っていて、二人は噴水で出会った。
私たちはやった! と喜んだ。
そして、二階の窓から二人を観察していたのだ。
こちらを見た秋山さんには少し驚いていた様子だった。
ムギちゃんと二人で『頑張れ!』『告白しようよ!』と想いを込めて手を振ったり親指を立てたりするジェスチャーをしてみた。
少しして、その場を離れて別の窓から二人の様子を窺っていた。
秋山さんは、大声で田井中さんに告白したのだ。
私とムギちゃんは、その窓を少しだけ開けて、二人の会話を聞いていた。
秋山さんはこれでもかというぐらい大きな声で、田井中さんを好きだ好きだと叫んだ。
ムギちゃんは満足そうにしていた。
私は、二人の様子を見て、なんだか胸がときめいた。
恋ってすごい。
あの秋山さんを、あそこまで泣かせて叫ばせることができるんだ。
そして、『好き』って言葉が、こんなにも人の心を揺さぶるんだと。
私も恋をしてみたいなって、思った。
しかも、田井中さんは秋山さんにキスしたのだ。
二人はそれから、ずっと抱きしめあって口付けしていた。
雪が降っていたので中庭にはあまり人がいなかったけど、やっぱり気付いた人は皆二人を見ていた。
二人は、最高のカップルになっていた。
私はその二人の姿に、ドキッとした。
恋って本当にすごいって。
その後、ムギちゃんは権力行使で二人が絶対に知らないであろうメールアドレスから二人へメールを出した。
ムギちゃんのお父さんはいろんな業界の権威みたいなので、新しいメアドやそういうものの手配が簡単らしい。
だから、二人にはメールが届いたはずだ。
たった一言の。
田井中さんと秋山さんへ向けた、祝福の言葉だった。
「お幸せに――」
回想から戻ってきて、私は目を開いた。
私は尋ねた。
「それで、二人はどう?」
「うん。もう人目はばからずイチャイチャしてるわ」
それって今までとあんまり変わらないんじゃないかなあ。
私が見た限り、そしてムギちゃんの報告では、 二人とも前々からずっと一緒にいて漫才やったり甘えたりイチャイチャしていたみたいだ。
それを言うと、ムギちゃんは笑った。
「だけど、恋人同士っていうイチャイチャっていうのかな……
なんか、前にはなかったお互いがお互いを愛してますよって雰囲気がすごい伝わってくるのよ!」
ガッツポーズした。
私は二人の姿を、今でも鮮明に思い出すことができる。
確かに、もう理想すぎるほどのカップルだ。
それはもう、夫婦の域と言ってもいいんじゃないかな。
お互いがお互いを求めあってて、片方がふざければ片方が突っ込んだり。
片方が甘えるならそれを片方が受け入れる。
そんなありそうでありえない、そしてあまりにも普通すぎる――でもそれが難しいようなカップルの典型を二人は簡単に見せてくれたのだった。
あんなにイチャイチャはそうそうできるもんじゃないよ。
私はそれを思い出すだけで、ふわふわした気持ちになるのだった。
「ムギちゃん……」
私は冷たいオレンジジュースのコップに手を触れた。
ムギちゃんが眉を寄せて尋ね返してくる。
「どうしたの?」
ほとんどひとりごとのように、私は呟いた。
「……私にも、ああいう恋ができるかなあ」
純粋な気持ちだった。
私が出会ってきた全ての皆さんは、全ての皆さんの思うように生きていて、誰かと出会って、そして思い出を作ってる。
私が出会ってきた全ての皆さんに、私は一体何をしてきたんだろう。
深い交友関係があるのは、和ちゃんとムギちゃんぐらいじゃないのかな。
もし高校時代に何か――そうだ、部活か何かやって、熱中したり、 自分の居場所を見つければ、恋の一つもできたかもしれないんだ。
私はそのチャンスを逃した。
それだけのことだけど、でもどうしようもなく悔しい気持ちもある。
あんなにすっごいカップルを見せられたら、こっちもその気になるよ。
私は膝の上で手を組んでもじもじしながらムギちゃんに言う。
「何か、恋の秘訣とかないの?」
ムギちゃんは、あまり考えない装いでフッと目を細めた。
それは、私の考えをお見通しだというような、だけどまるで見守ってくれているようなそんな優しい瞳で。
私はそれがよくわからなかったけど、でも安心した。
最終更新:2012年06月01日 08:48