学校を休むことにした。
 律が事故に遭って入院してるから、多分学校へ行っても何もできないと踏んだからだ。
 私はベッドの中に潜って、寝たり起きたりを繰り返していた。
 困惑もしてるし、当然心配もしてる。だから起きている間は、ずっと律の顔が頭に浮かんでいたし、その度に胸が痛くなるのだった。




 それは例えば、夜に切なくなったりするのとは全然違う。
 不安の痛みだった。



 静かな部屋。平日の昼。
 ママには体調が優れないと言ってある。


 ほとんど仮病だけど、でも、律への心配だけで体調が崩れたのと同じようなものだった。
 何にも力が入らない。
 何かをやろうという気にもなれないし、やっていても多分、律へ意識が逸れるだろうから。



 だからこうやって、ベッドに倒れて寝ていた方がいいんだ。
 何のやる気にもならないもん。
 ……――。












 日曜日のお昼頃、律は事故に遭った。




 もう過ぎ去ったことだから何とでも言えるけど、私はもうその時のことを良く覚えていない。


 確かおばさん――律のお母さんのこと――が、私に電話をしてくれたんだった。



 私は宿題をやっていたけど、すぐにママに言って車で病院に駆け付けた。




 今思い返してみると、あの時の私の焦り方は尋常じゃなかった。
 車が信号で止まったら、ドアを突き破って走り出したいと思ってたし、病院に入ってからも、騒いじゃ駄目だってわかってるのに、私は取り乱したりして……。



 律は日曜日のお昼、信号無視の車に突っ込まれた。
 幸運にも、というか律の運動神経の良さからか、突っ込まれる寸前にジャンプして受け身を取り、致命傷を免れたらしい。
 右手の小指の骨折と、足の捻挫、あといくつかの擦り傷程度で済んだそうだ。


 お医者さんによれば、命に別条はないとのこと。
 ならどうして、私がこうしてベッドでうずくまっているかって?
 それはできれば考えたくなかったけど。




 律は意識不明だった。


 命に別条もないし、目覚めないはずがないとお医者さんは言う。
 だけど、律は目を覚まさなかった。
 死んだわけじゃない。


 律はちゃんと、血色のいい顔で寝息を立てていた。はっきりとそれは病院で見た。
 緑の患者服に包まれ、カチューシャもはずされていたけど。
 だけど、そこにいたのは、お泊り会で見るような、静かに寝ている律だった。


 必ず目は覚めるとお医者さんは断言した。


 それなのに目を覚ましていなかったんだ。
 瞼はしっかり閉じられていた。


 もし律がいつもみたいに笑ってくれてたら。
 『なんだよ澪、心配してくれたのか?』って。


 たとえ体に傷があっても骨折してても、私が病院に駆けつけた時、そんな風に私をからかってくれると信じてたのに。
 だけど、期待は崩れ去って、病室では聡がわんわん泣いて、おばさんとおじさんが静かに律を見降ろしてるだけだった。


 私は耐えきれなくなって、いろいろと考えて……不安で不安で、もういろいろ訳わかんなくなっちゃって。
 だから日曜日のことは、あんまり覚えてなかった。




 確か、律の寝ている横で私も一夜を過ごしたんだっけ。


 それから月曜日の朝に家に帰ってきて、今こうしてベッドに潜ってるんだ。


 律の寝顔は、まるでお昼寝でもしてるみたいに穏やかだった。
 だから、律が死んじゃうのかもって不安はあんまりなかった。


 だけど、代わりに早く目覚めて欲しいというじれったさと、早く律の笑顔がみたいなっていう願望ばかり溜まって。



 そして、もしかしたら……とやっぱり怖いこともあって。
 それが結局不安の要素にすり替わっていたんだ。



 だから何にもやる気になれなくて、元気も出なくて……だからこうしてベッドに倒れてる。
 もし律が目を覚ましていたら、一緒にいたのに。


 律が眠ったままで意識不明なのに、その隣に私がいるのは心細かった。


 怖かったんだ。律の意識が戻ってないのを、嫌が応でも認識しなきゃいけないのは。
 傍にいたかったけど、大好きな人が眠ったままなのを間近で見続けられるほど、私は強くもなんともなかった。



 せめて、律が起きてくれればって。



 部屋が静かすぎて、高い音が耳に響いていた。ベッドの中でもぞもぞする。



「律……」



 朝から、何度名前を呼ぶんだ。
 さっきも考えたけど、いつもの夜に、急に律に会いたくなったり、切なくなったり、律を想うと胸が苦しくなってりする。

 あれとは違うけど、律を想って苦しくなってるのは同じだった。
 痛くて苦しくて、辛い。

 名前ばっかり呼んでも、何にもならないって解ってるくせに。
 溜め息が部屋にこだまする一方だ。


 枕元の携帯が震えた。私はゆっくりと手にとって、開く。
 ムギからだった。


 『皆で相談して、放課後病院に行ってみることにしました』――……。


 昨日の昼から、いろんな人からメールをもらった。
 唯やムギ、梓、和も。とにかく知り合いからたくさんメールをもらった。


 だけど決まって掛けてくる言葉は、『大丈夫』とか『元気出してね』とか、そんな明るい言葉だった。
 ありがたかったけど、私はその言葉を見る度に、逃げ出したい嫌悪感に包まれた。



 気持ちが落ち着いていなくて、苛々してるだけかもしれない。



 大丈夫?
 大丈夫なわけがない。



 律が事故に遭って怪我して、眠ったままで……そんな状態なのに、大丈夫なわけがないじゃないか。
 もちろん皆は私のこと心配してくれて、ホントに私が落ち込んでるんだって知ってるから。
 だからこそ、そんな風に優しい言葉を掛けてくれるのもわかってる。



 だけど、ごめん。
 私は今、皆の優しさに笑顔で答えられるほど強くもないんだよ。


 大丈夫じゃないんだよ。

 大好きな律だから。律なんだから、大丈夫じゃないんだ。



 ムギのメールの字面を見つめた。
 皆っていうのは、唯と梓のことだろう。
 三人は放課後、律のいる病院に行ってみることにしたようだった。


 日曜日の昼に律は事故に遭った。
 私は混乱していたから、律が事故に遭ったと皆に報告したのは、夜になってからだった。
 だから、三人はまだ眠ったままの律に会っていないことになる。

 今日の放課後お見舞いにやってくるようだ。


 だったら私も、放課後に律に会いに行く。目が覚めてるといいな。


 『私も行く。四時半に病院の入口で待ち合わせ』。



 それだけムギに送り返し、私は携帯を閉じた。
 深い溜め息を吐く。
 眠気が酷い。
 瞼の重さは朝からずっとだった。


 これで何度目かわからないけど。
 私は祈るしかないんだ。
 神様に。
 律が無事でありますように。
 律が早く目を覚ましますようにって。













 澪――……。


 暗闇の中で、声がした。
 多分、私は眠ってる。世界は黒かった。
 だけど、はっきりと声は聞こえた。


 私のこと、呼んでるんだ。
 それも、よく馴染んだ声で。



 澪ー、起きろって。






 えっ?





 私は、静かに瞼をこじ開けた。




 ベッドの横に、律が座っていた。












「えっ……?」






 私は体を起こして、両目をこすった。
 寝ぼけてるんだろうか。
 視界が安定しなかったし、まだ夢を見てるんだと思った。




「やっと起きたか澪」




 ベッドの横に座っていた律が、そう言いながら微笑んだ。
 律はいつものブレザーを着ていて、カチューシャだって付けている。

 本当に普段からよく見るような、何の変哲もない律だった。


 だけど私は目をこすらざるを得なかった。
 そして、目の前の光景が夢だと何度も疑った。
 だって、そんなのあり得ないから。律は、病院だもん。
 だけど、その声も顔も何もかも、それは紛れもなく律だった。





「律……?」
「うん」
「ホントに?」
「私だよ」



 律は白い歯を見せた。
 私は泣きそうになって、なんで律がこんなところにいるのかわかんなかったけど、そんな理由なんてどうでもよくなって、布団を吹き飛ばして律に抱きつこうとした。


 だけど。



 私の体は律に触れられず、勢いのまま床に転げ落ちた。
 思いっきり床に倒れて、勢いもあったから当然全身を強く打つ。
 痛みが響いた。



「いてて……」



 ――!?

 なんだ? 私は今、律に飛びついたはずだった。
 だけど、私は今、律に包まれずに床にのたうち回っている。

 おかしかった。私は律に振り返った。
 律は、私を見ていて、さっきよりも悲しそうだった。





「澪、今さ、私……幽霊なんだ」




 えっ――?



 二人で並んでベッドの縁に座ると、律は淡々と語り始めた。
 目が覚めた律は、なんと病院のベッドで眠っている自分を見下ろしていたらしい。
 つまり、体が分離したと思ったようだった。


 だけど実際は違ってて、律は何と実体のない幽霊になっていたらしい。
 物に触る触れないは自由。
 つまり、物に触ろうと思えば触れる、触ろうと思わなければ触れるという、実体のない存在になってしまったというのだった。



「律は……死んじゃったの……?」



 ベッドの上で、向かい合って座った私たち。
 私が一番不安に思うのはそれだった。
 幽霊って、人が死んじゃった後に、魂がなるものじゃないの? だったら律は――……。



 不安が頭を過るを通り越し、心臓を鷲掴む。
 ゆっくりそれを言葉に出すと、律は静かに答えた。



「いや、死んでないよ」
「で、でも……」
「ホントに死んでないんだ。あと、これからも多分死なないよ」
「な、なんでそんなこと、わかるんだよ」
「んー、なんでだろ。まあ私の体だからな。はっきりとわかるんだ。私は絶対死なない。それだけは断言できるんだ」



 だったらなんで、そんな風に幽霊になって現れてるんだ。
 わけがわかんないよ。
 死なないってわかってるなら、普通に目覚めてよ。


 この言いようのない心配と不安は、私が全然予想しなかったものだった。
 次に律と話す時は、当たり前の日常に戻れた時だと思ってたから。

 それに、あまりにも非現実的な展開すぎる。
 生きているのに幽霊だなんて。
 私はもう一度手を伸ばして、律の頬を触ってみようとした。


 触れなかった。


 まるでホログラム映像で映し出されてるように、すっと私の手が律を通り抜けるのだ。
 よく見れば、律の体もほんのり透けている。

 『よく見れば』だから意識しなければちゃんと実体のあるいつもの律にしか見えない。
 だけどホントに注意深く見れば、少しだけ透けていたのだ。


「どうするんだよ、これ」
「どうもしない、かなあ。正直私も意味わかんないんだ」


 律も目を伏せた。
 私だけじゃなくて、一番混乱してるのは律本人だろうということだった。
 窓から差し込む昼下がりの光が、律の顔を照らす。

 だけど律の表情は、さっきまでの微笑みを失くし陰りに満ちていた。
 さっきは、無理に笑ってたのかな。
 そうやって無理に笑ってなきゃ、やってられないくらいに不安に思ってたりするのかな。
 それはきっと私も同じなんだよ。



「とりあえず、状況を整理しよう」
 私は言った。


 言ったけど、特に整理するような事柄もないことに気付く。
 それはきっと、痛い沈黙と不安を紛らわすその場凌ぎの繋ぎ言葉だったのだ。
 とにかく何か話題を提示しなきゃ、その不安の渦に巻き込まれそうだったから。


「律は今、幽霊」
「うん」
「私は触れない」
「うん……」
「律は? 律の方から、私に触れないのか?」


 やってみると言った律は、ゆっくり指を私の顔に伸ばした。
 律の指が、眼前に来る。




 ドキドキしたけど、結局すり抜けて終わった。


 やっぱり駄目だったと、私も律もまた落ち込んだ。


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最終更新:2012年06月01日 09:09