律は今実体がない。だったら、律も私に触れないのはちょっと考えればわかったはずなのに。
でも、やっぱり期待してしまっていたんだ。触れ合えることに。
「……物は持てるんだよな?」
私は近くに置いてあった枕を律に渡した。
軽々と律はそれを抱き締めて見せる。
どうやら『物』には触れるらしい。
律が言うには、『触ろうと思えば触れる』『触ろうと思わない、すり抜けようと思えば、すり抜ける』らしい。
律は枕を抱き締めていたけど、ほい、という掛け声と共にすっと枕をすり抜けて見せた。
枕を抱き締めていた腕がそれを通り抜け、交差する。
なるほど……ただ、それは私を慰める事象にはなりえなかった。
「病院で寝ていた自分の体には触れたのか?」
「いや無理だった。なんかさ、人に触ろうとすると駄目なんだ」
つまり、というかそのままだけど――どうやら人間には触ることはできないようだった。
話を聞いてるだけは普通だったのに、だんだんと私を蝕んでいく事実。
それでも、なんとか深く考えないようにしなくちゃやってけない。
また、静かになった。
その時、携帯が震えた。開いてみると、唯だった。
「誰?」
「唯だ。『そろそろ着くよ』……って、ああっ!」
「どうした!」
私は携帯の画面の右上に表示された、小さな時計を見た。
三時五十分……寝てて全然気がつかなかったけど、そういえば唯とムギと梓の三人と、律の病室に行くって約束してたんだった。
何にもやる気でないし眠たいしで、忘れてた。
そろそろってことは、もうすぐ病院に着くってことだ。
しまった。もう約束まであと十分。走っても全然間に合わない。
病院に行く約束をしていたんだと律に告げる。
「行っても意味ないぞ。『この』私が幽霊として存在してる間は、多分本体は目覚めないだろうし」
律が自分の胸元をポンポンと叩いた。
「どういうこと?」
尋ねてみると、律は語りだした。
よくよく考えればわかることではあるけど、今目の前にいる律は実体のない幽霊。
つまり律の魂なのだ。
だから、『律』という存在に必ずなくてはならないものだし、魂がなければ人は動かない。
今律は、体の魂が分離して、体は寝ている。そして魂が私の前にやってきている状態なのだ。
二つで一つの存在が、今二つに分かれている。だったら、体だけが目覚めるはずがない。
「じゃあ魂のお前が、寝ている律に入り込めば起き上がるんじゃ?」
そういう系の漫画や映画――もちろん無理やり律に見せられたもの――では、意識不明の体に魂が入り込んで復活したのを見たことがある気がする。
あれと同じ要領で、今目の前にいる魂だけの律が、寝たきりの律に入りこめば、それは本当の『律』として復活するんじゃないのかと思ったのだ。
私がそれを言うと、律は首を振った。
「もちろん試したさ。でも、駄目だったんだ」
「そ、それって……もう、本物の律は目覚めないって、こと?」
「ち、違う。そうじゃない。ただ、よくわかんないけど……体だけの私とは、『まだ』一緒になれないだけで、このままずっと魂ってわけじゃないと思うんだ」
つまり、いつかはまた、律が本物の律として――ちゃんと触れる、実体のある律として目覚めるということ?
そうだとしたら、私は安堵せざるを得なかった。
「『タイミング』があるんじゃないかって」
「『タイミング』?」
「そ。まだ体には入り込めないけど、きっとその時が来たら自然に目が覚めるよ」
「根拠は?」
「んー、これも勘かな。でも、多分そうだぜ。やっぱり体と魂は二つで一つだし、感覚とかでそういうのわかっちゃうんだ」
タイミングってのが来なければ、律は目覚めないのか。
逆を言えば、タイミングが来なければ律はこんな風に、不安定な存在のままだということだった。
律の言葉を疑ってるわけじゃない。自分の体のことだから、例え魂でも、そういうのわかってるんだって私もわかる。
律が一番、自分が心配なのも知ってる。
だけど、絶対に目が覚める保証はあっても、安心する半面、ちょっとだけ不安が残ってるのも事実だった。
「だから、病院へ行って私のお目覚めに期待しても、今日明日は目覚めないってこった」
律は明るく言った。やりきれない。
「そっか……なら、どうしよう」
「だけどもう唯たちは病院に着いちゃうんだろ?」
「うん」
「なら行くしかないじゃん」
確かに、今からやっぱり無理と送ったら、唯たちは無駄足になっちゃうし。それに、唯たちは『律が今のところは目覚めない』ということを知らない。
知ってるのは私だけだ。だから、唯たちには『病院に行かない』という選択肢を選ぶ理由が存在しない。
私にはある。律が目覚めないのなら行っても行かなくても同じな気がしてくるのだ。
私が病院に行くのは、律が起きてるかもという期待を持ってだから。
だからあらかじめ律が目覚めていないと知っているなら、行く理由はそれほどない気もしてくる。
でも、だからって行かないのも無責任だよね……。寝たきりの律の体だって心配だし。
「わかった。行こう」
「でも急がないとやばくないか」
冷静にしてたけど、よくよく考えればもう約束の時間じゃないか。
私は大急ぎで制服に着替えると、家を飛び出した。
律は幽霊だったので、なんと空中を浮かびながら付いてきた。
律には足があった。それなのに空中を飛ぶなんて……パンツ見えるぞ。
じゃなくて、なんか違和感。
今でも私は、律が幽霊であることが不思議でならなかった。
なんだろ、この気持ち。
よくわかんないよ。
■
「澪ちゃーん!」
病院の入口で、唯が私に手を振っているのが見えた。
もうちょっと静かにしろって……いや、今はそんな突っ込みをしている場合じゃない。
随分急いできたけど、それでも二十分の遅刻だ。
唯の横にはムギも梓もいる。
待たせて悪かった、という余裕もないぐらい息切れがすごかった。
私は三人の元に辿り着くと、膝に手を突いて肩を上下させながら息を整えた。
「来ないのかもって、心配したわ」
「そうですよ。メールしてくれてもよかったのに」
私の頭上から、ムギと梓の声が掛かった。そっか、完全に忘れてた。
どうも昨日から、私は頭がうまく回ってない。
遅刻することをメールする行為すら忘れてた。
いろいろ混乱してるし、一生懸命だったから。
「間にあってよかったなー澪」
私がちょっと顔を挙げると、当たり前のような顔で律がそこに立っていた。
だけど、唯もムギも梓も、律に気付いていない。
三人とも私を見ている。
律のお見舞いに来て、その律が隣にいるのに気付いていない。
不思議な図だ。
私も油断すれば、そこに律が普段通りいるように感じちゃうだろう。
私にしか見えてない……それを確信してしまった。
息切れは収まんない。でも、それ以上に、皆が律のことを認めていない。
どうしようもない痛みが胸に広がった。
「もう二十分の遅刻だよ澪ちゃん。何してたの?」
唯の呑気な声が降ってくる。私は膝に手を突くのをやめて、体を起こした。
息を整えながら返す。しかし、視界の端に映る律の存在が気になりすぎて仕方ない。
「ごめん、寝てたんだ。どうにも、ぼーっとして」
「まあ律先輩が事故ですからね。澪先輩ならそうなるだろうと思ってました」
「うん」
梓が言って、三人が頷いた。
それはつまり、律が大変な時=私もいろいろとおかしくなる、ということを表している。
私もそれは承知してるけど……でも、言われると恥ずかしいことだった。
律もちょっと照れている。これが幽霊だなんて、ホント信じれない。
「それより行こうよ。もしかしたらりっちゃん、起きてるかもしれないよ」
唯が言った。
私と律の表情が、さっと冷めた。
起きて、ないよ。
私と律は、それを嫌なほど知ってるんだ。
だけど、皆は知らないんだ。
だから、痛いのかな。
自動ドアをくぐり抜ける三人の後姿を、私は見つめた。
私と律はゆっくりついていく。
「……やっぱり、皆には律の姿、見えないんだな……」
ロビーを歩いていく皆を見つめながら、私は言う。
三人は、私の声に気付かずに歩いていく。
私の隣には、律がいる。
でも、誰も律のこと見向きもしないんだ。
人気者の律だから、誰にも見られないの、辛いんだろうなって。
意外にも構ってちゃんな律は、きっと今、悲しいんだろうなって思ってしまうのだった。
「……別にいいよ。皆が見えなくても」
「でも……」
「澪だけで十分だよ」
律は笑ってくれた。
■
病室に行くと、すでに三人は律を囲って見下していた。
「寝てますね」
「意外と大丈夫そうだねー」
それはそうだった。
律は右手の小指の骨折と、足の捻挫、擦り傷という、事故に遭ったにしてはかなり無事な域にある。
事故に遭って怪我をした人は何人かおられるみたいだけど、ここまで怪我が軽いのは律だけだったらしい。
幸い亡くなった人はいないし、皆二週間前後で、長くても一か月ほどで退院できる程度だったらしいけど。
律もその一人。すぐに退院できるはず……だけど、律は静かな寝息を立てて起きる気配が全くないのだった。
お医者さんは、すぐに目が覚めるって言ったのに。
でもその原因はすでに分かってた。なんで目覚めないのか、その理由も。
「澪ちゃん澪ちゃん、りっちゃん全然大丈夫そうだよ」
病室の入り口で佇んだままだった私に、唯が手招きした。
だけど、動けないまま、入り口に立ち止まっている。
病室に入るのが、なんだか怖かった。
大丈夫そうだよ。
そんなの知ってるよ。
律は死なないよ。全然平気だよ。
だって、横に律の幽霊がいるんだから。
なのに、全然嬉しくならないのはなんでだろう。
「うん」
私は笑って声を掛けてくれた唯に、そう返すだけに留まった。
何が、うんだ。意味がわからない返事。
少なくとも、私は随分動揺しているようだった。
もちろん律が寝ている病室にやってくると、事故に遭った事実とか、眠ったままでいる、っていう事実が私の首を絞めるから……。
だけど一番は、やっぱり律の幽霊が私の隣にいることが、心にわだかまりとして引っかかっていたから。
普段と違う。全然違うから。この幽霊の律は、笑ってくれるし名前だって呼んでくれるけど……。
「ほら澪ちゃん。りっちゃんに声掛けてあげて」
ムギも手招きする。私はチラッと隣に立っている律に目配せしてみる。
なんか照れるなあ、と微笑んで私を見ていた。
確かに、律が意識を失っているのなら声を掛けてあげるのも悪くはない。
でも、ちゃんと意識を持った律の幽霊が私の隣にいるんだ。
なんて声を掛けるにしても、本人に聞こえていたら恥ずかしいったらありゃしない。
言えないよそんなの。
もし律が寝たままだったら、何度だって言ってあげたし、二人っきりなら声を掛けるぐらいわけないのに。
「い、いいよ私は」
私が三人遠慮する返事をした。
すると律が私の耳元にすり寄ってきて、細々と声を出してきたのだ。
「澪ちゅあん! りっちゃんが悲しむぞそれじゃ」
「自分で言うな!」
――あ。
唯とムギ、そして梓の三人が私の方を一斉に向いた。
しまった、と思った。
私は律が言った言葉に反応しただけなんだ。だけど、三人には律は見えていない。
でも私には見えてる。だからいつも通りに突っ込んでしまった。
三人の目が、えっ? という目でこちらに向いている。
私は何も言えなくて、しかも結構大きな声で言ったから取り返しも付かないことを悟った。
「自分で言うなって、えっと、どういうこと?」
ムギがちょっと苦笑いながら言った。
最後に発言したのはムギだ。だから、ムギは私の言葉が自分に向けての物だと勘違いしているようだった。
違う、ムギじゃないんだ。今横にいる律に向けて言ったんだよ。
そう言いたいのに、私はそれを言ったら駄目だと感じ取っていた。
だって、律は皆には見えないんだ。虚言だと思われても仕方のない言葉だからだ。
「あ、ち、違うんだえっと……」
何も違わないのに、弁解のしようもないのに、私は慌てて言葉を紡ぐ。
「自分に対するひとり言だよ!」そう言った。
三人はそれでも釈然としないのか、首を傾げたりして私を見ていた。
皆には関係ないんだ。私は笑うしかなかった。
別の話題が提供されるのを待った。三人がまた、寝ている律を見下すのを待った。
案の定、三人はまた律についてと、あと部活について話し始めた。
それでも、妙な疎外感を感じずには居られなかった。
「ご、ごめん澪」
律が謝った。そのしょぼんとした顔に、私は怒る気もなくなった。
私だけじゃなくて、律もなのだ。
律も、律も油断したら自分が幽霊だということを忘れてしまっている。
だから、私と律が一緒にいると、いつもみたく会話してしまう。
だけど皆には見えないから、私がひとり言を言ってるように見えちゃうのだった。
また、そうやって謝る。
それに私は、返事ができないんだよ。
ごめん澪って言われても、別にいいよとも言えない。律は悪くないとも言えない。
だって言ったら、三人が私のこと変だと思っちゃうだろうから。
律との会話に制限があることに、私は戸惑いと悔しさを感じずにはいられなかった。
最終更新:2012年06月01日 09:12