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お風呂に入った。律は幽霊だから、制服のままお風呂に入ってきた。
あまりにも違和感のある光景だった。私は裸で律は制服姿。
別に一緒にお風呂に入るだけならわけない。だけど、私だけが脱いでいるという状況が恥ずかしかった。
でも、傍にいるためには仕方ないことかもしれなかった。私は一人で浴槽に浸かり、律はプラスチックの椅子に腰かける。
しかし、ブレザーの律はどういう感覚なのだろう。幽霊というのはよくわからない。
お風呂の中は湯気が立っていて暖かいが、正直制服のままで入ったら蒸れて暑いはず。だけど、律は顔色一つ変えていなかったのだ。
「律は、暑くないのか?」
浴槽に入って、縁に頬杖を突きながら問うてみた。律はちょっと唸ってから答える。
「うん。暑くはないな。なんか変な感じ。私はあんまり幽霊になった感じじゃなくて、なんか普段通り体があるようにしか感じないんだよな」
「でも、暑くはないって?」
「ああ。でもなんでだろーな。こういう場所来ると、やっぱり自分幽霊なんだなって信じちゃうよな」
また律は笑った。私は笑えなかったけど。
どういう感じなんだろう。本来暑い場所に入って、まったく暑くもならないというのは。
律には実体がない。それは、私のいるこの環境に、律は干渉を一切しないということだった。
物には触れる。律は椅子に座っているし、シャワーだって持てる。
だけど、シャワーから出る水は律をすり抜けていく。。
だから、律は濡れない。
浴槽に入ろうとしても透ける。物は持てるのに水は通り抜けるのか。その辺りの判定がよくわからない。
でも、わかりたいとも思わなかった。そんなこと、いちいち気にしてる余裕もないから。
とにかく律は今、実体がないことを思い知らされているんだ。
律だけじゃない、私も。
「……『タイミング』ってのは、いつ来るんだ」
それだけが気がかりだった。律はその時が来るまで、どうやら目が覚めないらしい。
私としては早く目が覚めることを祈るばかりだった。こんな窮屈で、よくわかんない生活は嫌だ。
何より律に触れないのが嫌だ。喋ってて周りに変な目で見られるのが嫌だ。
嫌なことだらけなんだ。だから、早く元に戻ってほしい。
「わかんない。でも、まあそんなに長くはないんじゃないか? 多分、二日三日……長くて一週間ぐらい」
「なんでわかるの?」
根拠のない言葉を言われて、ぬか喜びしたくなかった。
「勘っていうか、なんとなく」
「なんだよそれ」
「でも、まあ多分合ってると思う」
律は今日の昼間も言っていたけど、律が絶対死なないことや、『タイミング』だとかいうのは全部なんとなくの勘らしかった。
でも、律は幽霊で、でもただの幽霊じゃなくて。ちゃんと本物の寝ている律が生きている。
だから本当は、幽霊と言うよりも生き霊というのが正しかった。つまり、実体からはみ出た魂みたいなものなんだ。
そうなると、どうやら実体との共鳴とか感覚とかがよくわかるのだとか。
私にとってもちょっと難しい。ただ律の言葉と目には根拠めいた自信があって、私は信じてみようと思った。
それに、信じなきゃやってられない。それに、二日三日で目が覚めて元に戻るという情報はすごく嬉しかった。
私が呆けていると、律は思いだしたように言った。
「そーいや澪。明日学校どうすんだ?」
あ……考えてなかった。今日は、律が入院して目が覚めないから、いろいろと不安で心配だったから休んだんだ。
でも今は、別に律と話せるし目が覚めない不安もちょっとだけ落ち着いている。完全になくなったわけじゃないけど。
もちろん学校には行った方がいいんだと思う。でも、私はあんまり行きたいわけじゃなかった。
行って何になるのだろう。皆から声を掛けられて終わりな気がする。
それに、律といつも通りな生活を送れない学校生活なんて、面白くないんだろうなって思うから。
「行きたくは、ないな」
「澪ちゃんの不良ー」
「こら。私は真面目にだな……」
私がガクッと項垂れると、律はそのままの微笑みで続ける。
「まあでも、澪がしたいようにしろよ。私はなんでもついてくし、どーせ幽霊なんだから澪にくっ付いてなきゃ駄目なんだからさ」
幽霊の律は、私にべったりくっつくようだった。
嬉しいのかよくわからなかった。今、私は私の感情の整理がつかなかった。
律が傍にいてくれる。
それは別に、幽霊だろうとなかろうと、私と律が一緒にいる限り当たり前なことだと思う。
でも、今日の朝は酷く落ち込んでて、律がもう隣にいてくれなくなっちゃうのかなって怖かった。
だから、幽霊だとしても、律が近くにいてくれるのは、曲がりなりにも落ち着けるし嬉しいことだったのかもしれない。
でも、その度に律が幽霊なんだってことを自覚させられるのも辛い。
でも、学校、どうしよう。
行くべきかもしれない。授業を休むのは良くないし、一応律は寝たきりなわけだからノートも取ってあげなきゃいけない。
あんまり長く休んだら余計に悲しくなっちゃうかもしれない。
だって、私は『考える隙間があったら律のことを考えて』しまうんだ。その度にまた胸が苦しくなる。
つまり、学校に行くなり何かして、少しぐらい不安を紛らわせていた方がいいのかもしれないということだった。
でも、学校に行っても何もできないぐらい律が心配でやる気もない。だからこそ今日は学校に行かなかったんだ。
ああ、もう。どっちなんだろう私。
学校に行きたいのか行きたくないのか。いや、行きたいわけじゃない。でも行きたくないわけでもない。
何回同じこと考えて、悩んでるんだろう。
「とりあえず、上がろっか澪。熱いだろ」
「あ、うん」
私は浴槽から出て、軽くシャワーを浴びた。長話が過ぎたかもしれない。風邪ひいたりしてないといいな。
いや逆か。別に風邪ひいてもいいかもな。私は自嘲気味に息を吐いて、お風呂の入口から出た。
脱衣所にママが立っていた。
「――!」
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「マ、ママ……」
私は鷲掴まれた心臓を、なんとか抑えるだけ精一杯に心を突き動かした。
表情に出ないように頑張ったけど、もしかしたら驚いた表情が出てしまったかもしれない。いや、きっと出た。
だって脱衣所にママがいるなんて、これっぽっちも思わなかったから。律との会話に集中し過ぎて気付かなかったのか。
ママの手にはタオルが掛かっていて、それを持ってきたというのがわかった。
律が私の後ろからぬっと出てきて、あっと声を挙げた。
見るな、私。今律の方を見たら変だと思われる。
私には隣に律がいるように見えるけど、ママからすればそこには『何もない』ように見えるんだから。
視線を泳がすだけならいい。律をまじまじと見ては駄目だ。
「ご、ごめん澪! また変な事なりそうだし部屋に先に戻ってるな!」
律は焦ったような、それでいて申し訳なさそうな顔で私に言うと、すっと脱衣所の壁を通り抜けて何処かへ行ってしまった。
う、裏切り者! いや、でも律が隣にいたら夕方のように間違えて声を掛けちゃう可能性がある。
逆に一旦いなくなってくれた方が私も落ち着けたのかもしれない。
いや、でもやっぱり落ち着けるわけがない!
だって、さっきの律との会話、聞かれたかもしれないから。
だから、聞かれたのかもって思うと不安になった。
「ど、どうしたのママ」
「タオルを持ってきたの」
「そ、そう? あ、ありがとう」
声が震える私。
ママは私にタオルを渡すと、私の顔をじっと見つめた。疑い深い目だった。
私はドキッとした。その品定めをするような、そして嘘を吐いている誰かさんをそっと問い詰めるような、そんな思慮深い瞳が私の落ち着きを壊していく。
でも、無理にでも平静を装った。
「澪ちゃん、大丈夫?」
「えっ?」
大丈夫って。
何が?
「何かひとり言を喋ってたようだけど……」
私は息を呑んだ。
そうだった。律の姿と声は私以外には見えないし聞こえない。だから、お風呂の中で私が律と話していたとしても、ママには『私のひとり言』に聞こえたんだ。
だけど、それは少しも不安要素を取り除いたことになってない。
ひとり言として聞かれてしまった。
それは間違いなく怪しいことだった。
「律がどうとか言ってなかった?」
「えっ、あいや、ええっと、その」
しっかり聞かれていた。いやでも、律がどうとかってことは、きちんと細部までは聞かれていないようだった。
そこは助かった。だってさっきの私の言葉達は、律への質問だったり返事だったりするのだ。
それをしっかり細部まで聞かれていたら、ひとり言だとは思えないだろう。
お風呂の中は声がぼやけて聞こえる。ママにはあまり聞き取れなかったんだ。私はひとまず助かったと思った。
「律が心配でさ、えっと、ひとり言」
「そう、ならいいわ……りっちゃんが心配なのはわかるけど、気を確かにね」
気を確かに、か。
皆には、やっぱり私が律を大好きで、律があんな風になったからヒステリックでも起こしてるとでも思ってるのかな。
本当はそんなんじゃなくて、ただ皆には見えない律の幽霊という存在がいて。
それによって私の行動が普段とはちょっとずれたり、挙動不審に見えちゃったりしてるだけなのに。
でも、律の幽霊の姿は周りに見えないから、私一人がなんだか変な行動を取ってるように見えちゃうのだろう。
だから気を確かになんて言われたり、皆からいろいろ心配されてしまうんだ。
なんだか複雑だ。
「うん、大丈夫」
ママは微笑んで、脱衣所から出て行った。
私は素早くパジャマに着替えて、部屋に戻った。
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律はベッドの上で倒れて寝ていた。
寝ていたとはいっても、眠っていたわけじゃなくて、目を開けっぱなして天井を見つめていた。
私は入ってドアを締めると、立ったままドアに背を預けて息を吐いた。お風呂に入ったというのに、ずいぶん疲れた。
この調子だと、律が元に戻るまで私がどうにかなっちゃいそうだ。
「あ、どうだった?」
律は倒れたまま、ドアに背を預ける私に目配せしながらそう言った。
「どうだったっていうか、すっごい怪しまれたぞ」
「なはは、やっぱりか」
律は冗談っぽく笑いながら体を起こす。
「何て答えたんだ澪は?」
「ひとり言って言っておいた」
「かなり無理があるな」
「うん。ママにも、気を確かにって言われた」
一瞬、律は虚を突かれたような顔をした。表情を失ったのだ。それは、予想外の反応だった。
だけど律はすぐに口元を吊り上げて笑う。それでも、私にはその笑顔が、ちょっと寂しそうに見えた。
「そっか。ごめんな」
笑ってるのに。
ごめんな、なんて言うなよ。
いっつもそうだ。
律はそうなんだ。
「謝るなよ。別に、律が悪いわけじゃないだろ」
「でも、澪が変な風にママさんが感じたのは、私がいるからじゃん」
「そうだけど……でも、別にいいんだよ。律が謝る必要なんてない」
悪いのは別に、律じゃないんだ。律だって望んで幽霊になったわけじゃないし、むしろなりたくはなかっただろう。
なんでこんな風になったかわからないし原因も分からない。そんなうちから、どちらが悪い何が悪いを考えるのは少し無駄な気がした。
何を考えるのがいいかなんて、全部無駄だ。
非日常すぎるんだ。私には予想もつかないことだらけ、経験したことないだらけなんだよ。
好きな人が、幽霊になってしまったんだ。
他の人には見えないし聞こえないし、それに、触れないんだ。もうわけがわからないことばっかりだ。
平静を装ってるけど、私もう、心の中いろいろとごちゃごちゃだよ。律がいるから、なんとかやってられてるのに。
「そうはいうけど、やっぱ私の体がおかしいのが駄目なんだよなあ」
「だから、駄目とかじゃなくて……」
言いかけた時、机の上の携帯が震えた。律と目を合わせて数秒、私は机まで移動して椅子に座り携帯を開いた。
メールが来ていた。しかも三通だ。唯とムギと梓。どうやら私たちがお風呂に入っている間に来ていたらしい。返事が遅れて申し訳なかった。
「誰からメール?」
後ろから律の声が掛かった。
三人から、と答えると、律は足音もなくスッと私のすぐ左から顔を覗かせた。
正直心臓に悪い。律に足音はないんだった。それに気配もない。
だけど声は上げずに、私は律にもメールが見えるように受信ボックスを開く操作をした。
二人で並んで画面を見る。私は座って、律は立って。
「唯は……『明日は学校来るの?』」
律が読み上げる。ハテナの後ろに可愛らしい絵文字がついている。私はまだ特に反応もせず、次のムギのメールを開いた。今度は私が読み上げる。
「『明日の学校だけど、無理はしないでね。ノートなら取るし、今日みたいに休んでもいいのよ』
……えっと、梓は、『お疲れ様です。律先輩がいなくて寂しいでしょうけど、でも無理だけはしないでくださいね』……」
皆、すごく私のことを心配してくれているようだった。まあ唯はちょっと違うけど。私は泣きそうになった。
それに、どうやら
秋山澪という女の子は、律がいなかったらいろんな人から大丈夫? とか無理はしないで、とまるで風邪をひいたかのような扱いを受けるようだった。
まあ、当たり前か。普段からあんなにベッタリなんだから。
依存してるのは百も承知だし、一緒にいない時間だって安心してられた。でも今は、違うんだから。
「あはは、皆、澪は私がいないと駄目だって思ってるんだな!」
「そりゃそうだろ……幼馴染だし、それに、こ、恋人でもあるし……」
「あら、今日の澪しゃんはやけに素直でしゅね」
「う、うるさい! いいだろ、別に」
律を殴ることはできなかった。声だけで収まった。
でも、本当にそうだった。今日の私はあり得ないくらい素直だったんだ。
いっつもは、簡単に想いを口に出したりなんかしないのに。
もう少し言い渋ったり、律への想いは、恥ずかしいからそうそう言うものではなかったのに。
でも今は、なんてことのない場面ですら簡単に想いを言えた。
それは、きっと……いつもと違うからだと思う。律が入院して幽霊になって。もうわかんないことだらけ。だから、いつもとは違う。
律がどこかに行っちゃいそうな不安や、触れない不安、皆にも見えない不安。
不安がたくさんあるから、少しでも引き留めようと――律のことを愛しいと思う気持ちがいつもよりもずっとずっと高まったから、こんなにも簡単に吐露できちゃうのかな。
「で、どうする? 明日は学校に行くのか?」
「うん……」
最終更新:2012年06月01日 09:19