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「……ん」
薄目を開き最初に飛び込んできたのは、ピンク色のカーテンだった。
しばらくまどろんだのち、周りの状況を確認することにした。
枕の感触がいつもと違う、かすかだけど薬品の匂いがする。
寝てるはずなのに靴下を履いている。
それに、太腿から下に直接布団の感触があった。
着ているのはパジャマではなく、制服だった。
保健室にいる、やっと思い出した。三時間ほど眠っていただろうか。
「風子やっと起きたわね」
「わぁっ!」
急に話しかけられ心臓が高鳴ったが、すぐに英子ちゃんだとわかった。
上体を起こし呼びかけに答える。
「ビックリしたよ英子ちゃん」
「ごめん、よく寝てたから。はい、これ」
差し出されたのは私の鞄だった。
「教科書は教室に置きっぱなしだけどね」
「もう放課後だから今日はこのまま帰ったほうがいいわよ。
勉強しないでゆっくり休んだら?」
わざわざ教室まで戻らなくてもいいように持ってきてくれたのか。
彼女はいつもこう、お節介で親切で、本当に優しい。
「ありがとう、私恵まれてるね」
「何かあったの? 風子」
「ううん、何でも」
彼女は無理に聞き出してこない、そういったところも優しい。
「じゃあそろそろ帰るよ」
そう言って帰り仕度を始めた私に、彼女が心配そうに尋ねてきた。
「一人で大丈夫なの?」
「もう平気」
「風子、あんまり無理しないでね」
私は笑顔を作り少し強がって見せた。もう大丈夫、心配要らないよと。
無理はしていない、きっとそうだ。
今だって大丈夫、一人で帰れる。
「ねえ、英子ちゃん――」
出かかった声を抑えることはせず、すぐに言葉を続けた。
「やっぱり一緒に帰ろう」
「そうね、夏香呼んでくるわ」
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『三年二組高橋風子さん、進路指導室まで来て下さい』
弁当を食べたあと数人で談笑していると、
山中先生の声で校内放送がかかった。
私は「ちょっと行ってくるね」と言い教室をあとにした。
廊下を歩み階段を下り、指導室の扉の前に立つ。
ドアを二回ノックし、先生の返事を待ってから中に入った。
指導室には初めて入ったがドラマでみる取調室みたいだ。
でも窓が広くて明るい。
白く透き通ったカーテンが閉められていて、
プライバシーもある程度確保出来そうだ。
「高橋さんこっちよ」
「失礼します」
「じゃ、そこに座って」
机も角ばった物ではなく、卵のように丸みをおびている。
先生に向かい合って座ると意外に近く、少し手を伸ばせば肩に届きそうだ。
「先生、どういった話でしょうか? あまり身に覚えが無いんですけど」
「進路の話じゃないの、飴なめる?」
そう言って飴が三個差し出された。
白い包み紙には赤と青の模様が水玉のように配置されている。
そこには可愛く舌を出した女の子がデザインされていた。
「はい、あとでいただきます」
甘い味を想像しながら制服のポケットにしまいこんだ。
話とはなんだろう、進路じゃないとすれば素行の話だろうか。
さすがに制服の着方の話ではないだろう。
そんなことを思いながら先生を見つめた。
「高橋さん。渡り鳥って仲間がケガしたときどうすると思う?」
嫌な想像が頭をかすめた、仲間に置いていかれる渡り鳥。
自分と重ねてしまうのは考えすぎだろうか。
「……置いて行かれると思います」
「それがね、違うのよ。ケガして地上に降りるとき、
他の鳥が付き添ってあげるんですって。
意外でしょう?
自然って厳しいと思ってたけどそうでもないみたい」
何を言いたいのか意図がつかめない、
鳥の生態を聞いたところで役に立つんだろうか。
「先生、いったい何の話ですか?」
「ある生徒から相談があってね、
友達に卒業するのが寂しいって言われたらしいの。
そのとき自分は何も言ってあげられなかったって」
「先生、ある生徒って……」
「それで私の所に相談に来たってわけ、力になってやって欲しいってね。
いい友達を持ったわね高橋さん」
――ああ、私の知らない所で動いてくれている。
彼女はいつもこうなんだろうか、それに比べて私は何も出来ていないのに。
「真鍋さんよ」
――なんで、先生も和ちゃんもなっちゃんも英子ちゃんも。
「どうしてですか! なんでみんな優しくしてくれるんですか!」
行き場の無い感情が口をついて出た。
わからない、自分にそんな価値があるのかどうか。
「みんなに親切にしてきたからよ。その分が今返ってきたの」
「違うんです、私が優しくするのは――」
かっこいい理由なんて無い、もっと後ろ向きな理由。
「……嫌われたくないんです、傷つきたくないだけなんです」
結局は自分の弱さから出た行動なんだろう。
それだけじゃないかもしれない、でも何が本当かわからなかった。
視線を下げ、泣きそうになるのをこらえながら、
ずっと、無機質な机を見ていた。
「一人にはなりたくないんです」
「聞いて高橋さん」
「……聞いてます」
母親になだめられる子どもの様で、自分が惨めに思えてきた。
「あなたの優しさは弱さから出たものなのかもしれない。
……いいわ、それでも。嫌われたくないって思うのは当たり前よ」
「でもね、優しくする理由はそれだけじゃないと思うわ。
あなたが気付いてないだけ、きっと他にもあるのよ」
「一つだけお願い。
あなたが大人になって強くなっても、優しいままでいて欲しいの。
本当に強い人っていうのは優しさも持ってるはずだから」
「でも私……、どうすれば強く、どうすれば大人になれますか?」
私はようやく顔を上げ、重々しく口を開いた。
「難しいわね、かくいう私も立派な大人じゃないし。
一つ言えるのはやるべき事をやる事かしら」
やるべき事とは一体なんだろう。受験生にとってはやはり勉強だろうか。
「勉強だけというわけじゃないのよ、大事だけどね」
「本を読んでみるのもいいかもね、
学校で習うことなんてほんの一握りなんだから。
知識が広がるわ、あなたはもう知ってるかもしれないけど」
「それ以上に人と関わってみる事ね、苦手だって思ってるでしょう?
大丈夫よ、時間が掛かっても絶対慣れてくるから」
「旅行してみるのもいいわね。卒業旅行とか考えてみたらどう?」
「必要だと思ったらなんでもやってみなさい、自分のためになるわ。
身に付けるべき知識、築くべき人間関係、積極的な意志、
ブランド品より価値のあるものよ」
先生は私の目をじっと見つめて、付け加えるように。
「こういうのが揃ったらどうなると思う?
きっとあなた無敵よ、本当にいい女になるわ」
「――さて、話はおしまい。年をとると説教臭くなって嫌ね」
まだ若いのに、学生に囲まれるとそう感じるのだろうか。
「先生は若くて綺麗です、説教臭くもありません」
「あら上手ね」
「あなたとはもっと早く話したかったわ。
気付かなかったの、色々考えてたんだなって」
そんな素振りは見せなかったし、訴えかけもしなかった。
気付かないというのは当然だろう。
「ごめんなさい」
そうつぶやいた先生は少し弱々しく見えた。
「どうして謝るんですか?
私が平気なフリしてただけなのに。先生は悪くないです」
「……ありがとう。先生っていうのは意外と生徒を見てるの。
だからこそなの、気付いてあげたかったなって」
私はあまり目立つ方ではない、それは自覚している。
でも見ていてくれた、私の事を。
大勢の生徒としてではなく私を。
「このクラスには問題児が多くてね、ついつい気を取られちゃうの。
でもちゃんと見てるわ、あなたのこと」
「……ありがとうございます」
「大丈夫、私はいつでも味方よ」
なんだか恥ずかしくなって、思い出したように声を発した。
「えっと……相談があるんですけど」
「ごめんね私ばかり喋ってて、卒業のことね?」
わずかながら気は楽になっていた。
今ここで話を聞いていられるのはみんなのおかげ。
不安ばかり見つめて、手に入れたものに気付こうとしなかった。
「卒業するのが嫌なわけじゃないんです、
こんな気持ちのまま卒業するのが嫌なんです」
結局は気持ちの問題、いつだってそうだ。
一年のとき周りと馴染めなかったこと、
そのことが尾を引いているのかもしれない。
「私は成長出来ていないのかもしれません、
中身は一年生のときのままなんです。
だから……みんなと違って寂しいなんて思ったりするんです」
「それは違うわ、高橋さん」
先生が迷いの無い声で話し、言葉を続けた。
「人は変わろうとするとき不安になるの、それが証拠よ。
でもあなたなら大丈夫、心が痛いってこと知ってるでしょう?
そんな人ほど強くなれるわ」
「それとね、私の経験から言わせてもらえば、
卒業しても友達は友達のままよ。
同窓会とかで会ったりするとね、
何年も離れてたのに昨日も会ってたような気になるの」
先生はわずかに視線を落として柔らかい表情を見せた。
もしかして高校時代を思い出しているのだろうか、その仕草が可愛く見えた。
「そういうものなんですか? 私には想像つきませんけど」
「そうよ、時間や距離なんて関係ないの」
「少し楽になった? 私の経験談じゃ駄目だったかしら」
「いえ、そんなことありません。ありがとうございます」
「もう少しここに居る? 昼休みが終わるまで居てもいいのよ」
「もう行きます。ありがとうございました」
今はとりあえず一人になりたい。
感情を上手く処理できなくて混乱しそうだ。
「そう、いつでも待ってるわ」
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指導室をあとにした私は、一人になれる場所を探していた。
色んな言葉が頭に渦巻いている。
泣きそうなのを見られないように、顔は上げないまま、上目遣いで歩く。
『これだけは言えるわ。卒業してもずっと友達よ』
和ちゃんだって寂しいのにこんな言葉を掛けてくれた。
私こそ励ましてあげないと、友達なんだから。
『少しは私たちのこと頼ってくれていいんだよ』
なっちゃんは面倒見がいい、みんなにも頼られている。
頼ろうとしなかったのはただの意地だ。
私は、『自分でなんとかしなきゃ』『迷惑になるんじゃないか』
といった思いで何も言えなかった。
人に頼るのも勇気がいる。
保健室、ここはどうだろうか。かすかに人の気配がする、だめだ。
階段を昇って上に行こう。
『風子、あんまり無理しないでね』
英子ちゃんの前で自分を偽った、無理なんかしていないのは嘘だ。
弱い自分を認めたくないから強がった。
理科室、離れたところでも声が聞こえる。次はどうしよう、見つからない。
昼休みの廊下は賑やかだ。
このままだと『二組の高橋さんが廊下で泣いてた』、
なんてことになりかねない。
上手い具合に空き教室があった。
昼だというのに薄暗いのはカーテンが閉められているからだろう。
ここは本当に人が居ないんだなと安心する。
「うぅ……」
ドアを閉めた途端涙があふれてきた。
そのまま壁に背中をあずけ、重力に従いその場にうずくまった。
誰が置いたのだろうか、
隅の段ボール箱には丸められたポスターが入っている。
「せんせぇ……」
『大丈夫、私はいつでも味方よ』
私を見てくれていないと思っていた。
でも違ってた、ちゃんと一人一人を見てくれていた。
「……っく、……っう」
制服の袖が濡れるのもかまわず、顔を押さえた。
ハンカチがあったことを思い出し、制服のポケットから取り出す。
そのまま顔に当てて泣き続けた。
手を拭く以外に使ったのは初めてかもしれない。
ハンカチをしまったとき、ポケットに入ったままの飴に気付いた。
まだ涙は止まらないけど一つ食べることにした。
両端を引っ張り包み紙を開き、手のひらに乗せ口に放り込んだ。
口内で転がし、少しずつ舐め、そのうち甘い味が染み出した。
甘いものは元気を出してくれる、単純だけどそう実感した。
先生はそう思って飴をくれたのだろうか。
立ち上がってスカートの後ろを手で掃い、
ドアの前に人の気配がないことを確認する。
念のためもう一度目元を拭いドアを開ける。
心なしか、廊下が明るく見えた。
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教室に戻り、席に座っている和ちゃんと唯ちゃんに声を掛けた。
「和ちゃん、唯ちゃん」
伝えたいことは色々あった、『ありがとう』とか『ごめんなさい』とか。
「えっと……」
言葉だけで気持ちは伝わらない、
そんな思いが私に似つかわしくない行動をとらせた。
右手を和ちゃんの肩に、左手を唯ちゃんの肩に乗せ、二人を励ます。
「受験頑張ろうね」
目を丸くする和ちゃん、顔を明るくする唯ちゃん。
私もきっと笑っているだろう。
「そうだ、これあげるね」
私はポケットに入ったままの飴を取り出し、二人に差し出した。
「あ、ペロちゃんだ! ありがとう風子ちゃん」
「頂いておくわ」
二人の返事を聞き、私はすぐに踵を返した。
最終更新:2012年06月10日 22:06