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それからは吹っ切れたのだろうか。
寝付きもよくなり、その分朝が清々しくなった。
学校でもいつものように、いや、前より少し元気になれた気がした。
そんなある日のことだ、
唯ちゃんに袖を引っ張られ空き教室に連れて来られたのは。
「唯ちゃん、何の用かな?」
「えっとね、ちょっとお礼言いたくて来てもらったの」
「飴のことなら先生にもらった物だから、お礼言われることじゃないよ」
「うん、おいしかったよ。……じゃなくて和ちゃんのことなんだ」
和ちゃんの名前を聞いて一瞬たじろいだ。
余計なことを言ったり泣いてしまったり、
私が和ちゃんを動揺させたことは否めないだろう。
「あ……ごめんね、唯ちゃん。
私、和ちゃんに変なこと言って困らせちゃったんだ。
そのことだったら本当にごめんね」
唯ちゃんは「風子ちゃんのせいじゃないよ」と首を振って。
「和ちゃんはいつも通りだったよ。
でもなんとなくわかっちゃうんだ、ちょっとおかしいなって」
「なんかね、私のことばっかり聞いてくるんだ。
『勉強進んでる?』とか、『一人暮らし大丈夫?』とか。
たぶん心配してくれてるんだろうけど――」
いつも和ちゃんはクラス全体のことを考えている。
でも、個人に肩入れすることもあるだろう。幼馴染ならなおさらだ。
「でもね、和ちゃん自分のことあんまり話さなくなって。
『どうしたの?』って聞いてみたけど、
『どうもしないわ』って言うだけだったんだ」
「それがね、こないだ風子ちゃんが飴くれたときから、元に戻ったかなって」
「風子ちゃんのおかげだよ、ありがとう」
何気ない一言で傷付けたり。
本当に和ちゃんには悪いことをした。
唯ちゃんにお礼を言われて、少しは帳消しになったかなと思いつつ。
「そう言ってくれるなら……嬉しい、かな」
ここは素直に気持ちを伝えておこう。
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唯ちゃんと別れ、家に帰ってから、ある一つのことを考えていた。
食事中でも、入浴中でも、勉強中でも考えていた。
私に何か出来ることは無いだろうか。
この『何か』というのはまだ形が無く、私の中でもやもやしている。
でも『誰か』に向けてというのははっきりしている。
山中先生に向けてだ。
それはもしかしたら、クラスメイトのみんなも含んでいるかもしれない。
この気持ちというのは、いつか聞いた言葉。
『人のために何かをするのは見返りを期待しての行動だ』
という言葉通りかもしれない。
ただの自己満足でもかまわない。
眼鏡を外し、ベッドに潜り思いを巡らす。
『先生のために、みんなのために』ということを。
形に残る物がいいのか、残らない物がいいのか。
渡す時期も場所もまだ決めていない。
ここまで考えて間違いに気付いた。
また一人で抱え込んでいる。
なっちゃんがいて英子ちゃんがいて和ちゃんがいる、みんながいる。
なっちゃんに言われた通り、人に頼ってみればいい。
とはいえ今は受験勉強に専念しないと。
ひと段落するまでは考えを眠らせておこう。
いつか眠れない夜があった。
今日もあの夜に似ているかもしれない。
あのときは世界中で一人だけみたいだと感じていた。
でも今はそんなこと思わない。
みんながいてくれると感じられるからだ。
一人で生きてきたわけじゃないし、
そう感じたときも一人じゃなかったはずだ。
みんなが居てくれるんだから、
高校生活の最後を悔いのないように過ごさないと。
勉強だけじゃない、それ以外のことも。
自分にしか出来ないこともあるはずだ。
卒業までのわずかな時間、これからのことに思いを馳せつつ。
私は静かに目を閉じて、明日を迎える眠りについた。
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何かに集中していると時間は早く過ぎるものだ。
勉強、模擬試験、復習、規則正しいサイクルで日々は過ぎていく。
教室はいつもより賑やかだった。
久しぶりの登校日ということもあるだろう。
合格の喜びを分かち合っている子たちも居るし、
卒業旅行の話をしてる子たちも居る。
自分の席に荷物を置いて、二つ右隣の宮本さんに「おはよう」と挨拶をした。
それから和ちゃんの席へ行って声を掛ける。
「この前言ってた『さわ子先生に何かしたい』って話、
みんなにも聞いてみようと思うんだけど」
「いいわね、それ」
和ちゃんの賛成も得て教壇の前まで移動し、
改めてみんなに向かって声を出す。
「みんなちょっといい?
卒業式の日にクラス全員で、
さわ子先生に何かしたいんだけど、何がいいと思う?
あ、コレもちろん先生には内緒で」
そう言った瞬間、教室の空気が変わった。
それまでみんなバラバラの話をしていたのに、
急にさわ子先生の話題に切り替わった。
みんなで話し合った結果、寄せ書きを贈ろうということに決まった。
和ちゃんも乗り気のようで、色紙やマーカーの注文もしてくれるそうだ。
『やっぱりみんなさわ子先生が好きなんだな』と、今回のことで実感した。
どんなものが出来上がるかわからないけれど、先生も喜んでくれるだろう。
みんなの『好き』という気持ちを集めたものだから、喜ばないはずがない。
色紙に何を書くかは決めて無い。
変に飾ったりせず素直な気持ちを伝えるつもりだ。
きっと、他のみんなも同じ気持ちで寄せ書きを書くだろう。
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白い色紙が色とりどりのメッセージで埋まり始めたころ、
軽音部のみんなが卒業旅行から帰ってきた。
行った先はなんとロンドンだ。
一般的な高校生からすると高嶺の花と言えるだろう。
なんと、そこで演奏も行ったらしい。
今日は登校日で、みんなが卒業までの時間を過ごしている。
全員が揃う機会というのはあと数回もないだろう。
もし色紙が書けなくとも、卒業式の日に書くという手もある。
教室のどこからか、『軽音部の演奏を教室で聴きたい』という声が上がった。
その声はあっという間に広まり、
みんなも乗り気になって山中先生に相談することになった。
軽音部のみんなが職員室から戻ってきて、
部長である田井中さんが口を開く。
「さわちゃんに聞いて来たんだけど、早朝ならいいみたいだぜ。どうする?」
「もちろんオッケーだよ」「いつするの? 楽しみー」「秋山さんの演奏!」
みんな大はしゃぎで、私も表には出さないまでも内心喜んでいた。
もう一度彼女たちの演奏を聴けるというのは、やっぱり嬉しい。
私に音楽的な知識は無いし、演奏の技術も評価出来ない。
それでも、彼女たちの演奏には力があると思う。
教室でのライブが楽しみだ。
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ライブの当日、私も準備に取り掛かる。
机を並べての即席ステージ、黒板には軽音部のみんなを称えるメッセージ。
ステージ上に機材が運び込まれ、いよいよライブらしくなってきた。
軽音部のみんなは内履きの底を丁寧に拭いている。
机が汚れたら拭けばいいんだけど、気を遣っているんだろう。
彼女たちはステージに立ち、楽器のセッティングを始めた。
しばらくしてから配置について、唯ちゃんがマイクで声を出す。
「放課後ティータイムです。ロンドンから帰ってきました!」
いよいよライブの始まりだ。
「――それでね、最後の日さわちゃんが……」
唯ちゃんの話も長引いてきたころ、田井中さんが控えめな声で話し掛ける。
「おーい、そろそろ始めるぞ」
「ごめんごめん」
「それでは最初の曲!」と、唯ちゃんが後ろを振り向き合図をする。
私はステージに向かって左側に陣取り、
隣のなっちゃんと静かに最初の音を待った。
ドラムのスティックを打ち鳴らす音と同時に、
田井中さんの「ワン、ツー、スリー」という掛け声。
最初にイントロが聴こえてきて、ギターの音色が教室に響く。
それから飛んできたのは音の塊だ。
『聴こえてきた』のではなく『飛んできた』。
音は空気の振動だけど、まるで物体のように飛来した。
その塊に圧倒され、私は仰け反りそうになる。
なんとか直立したまま演奏に耳を澄ませた。
次に聴こえてきたのは唯ちゃんの歌声。
ギターの音とはまるで違って、優しく私たちに語り掛けるように歌う。
とてもやわらかくて、ふわふわした声だ。
気付けば体が動いて、自然に手拍子を送っていた。
一緒に歌いたくなる気分だ。
あっという間に数曲が終わり、今度は秋山さんの歌声が聴こえてきた。
しっかりとした声で、力強く歌い上げる。
普段の彼女は恥ずかしがり屋だけど、舞台の上に立ったときは輝いて見える。
学園祭の演劇やライブ、あのときは本当にかっこよかった。
次に聴こえてきたのは琴吹さんの歌声。
ありきたりな表現だけど、妖精みたいだと感じた。
キーボードの鍵盤ひとつひとつには妖精が宿っているという。
それを反映したような彼女の歌声に魅了される。
再び秋山さんのボーカルになり、しっとりとした声が響く。
彼女のベースの音色も合わさって、
教室は五月の雨のように落ち着いた雰囲気に包まれた。
ライブは進行し、ステージ上から音の波が押し寄せてくる。
唯ちゃんのギターからは音があふれ、教室全体に響き渡る。
梓ちゃんのギターは上手く寄り添い、二人の音色が調和する。
田井中さんのドラムはリズムを刻み、みんなの土台となる。
秋山さんのベースは静かに響き、根底の流れを作る。
琴吹さんのキーボードは綺麗な音色で、曲の輪郭を彩る。
五人のうち誰が欠けても成り立たない演奏。
それに唯ちゃんの歌声が合わさり、
キラキラの宝石箱をひっくり返したような曲になっている。
私たちが希望し、準備を整えた教室で。
これ以上は無いようなライブが繰り広げられている。
観客である私たちまで一緒になって、このステージを成り立たせている。
手拍子、掛け声、体の揺さぶり、みんなでこのライブを楽しんでいる。
こんなに一体感を感じたことはなかった。
間奏の部分で唯ちゃんと梓ちゃんが向かい合い、お互いの演奏を見合う。
二本のギターが音を奏で、特別な音色を作り出した。
不意に音の数が減り、唯ちゃんの優しい歌声が強調される。
同時に奏でられるのは琴吹さんのキーボード。
続いてギターの旋律が合流する。
数秒後、急に音が爆発した。
それに押し出されるように、
唯ちゃんがステージから躍り出て私たちと同じ高さに立つ。
演奏はまだ終わらない。
さらに盛り上がって、曲は最高潮を迎える。
唯ちゃんの歌声が伸びる、演奏が続く。
いつの間にか山中先生と堀込先生も教室に入っている。
堀込先生は演奏を止めに来たんだろう、でもそれは無理な話だ。
いつか先生に聞いた『無敵』という言葉が思い浮かんだ。
今ここに居る私たちというのは、それに近いのではないだろうか。
軽音部のみんなは輝いて見えるし、観客である私たちも空間の一部だ。
もう奇跡としか言いようがなかった。
そして、それを成し遂げたのが私たちだということ。
今日のライブを一生忘れることはないだろう。
気付けば目元には雫がたまり、あふれ出して頬を濡らしている。
私には、それが汗なのか涙なのかわからなかった。
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もうすぐ高校生活が終わる、私は上手くやってこれただろうか。
特に大きな事件もなく平穏に過ごせたことは喜ぶべきなのだろう。
一年のころは周囲と打ち解けられず寂しい思いをした。
今となっては仕方のないことだけれど。
卒業式の朝、部屋の窓を開けてみると少し肌寒かった。
でも風が気持ちいい。
しばらく目を閉じて頬にあたる風を感じていた。
優しい風が吹いたとき、人は少しだけ嬉しくなる。
私もそんな風のようになれたらいい。
そう考えれば風子という名前も悪くない。
外の道路には街路樹が等間隔に並んでいる。
窓からぼんやり眺めていると、
鳥がその間を低く飛び、高く舞い上がって枝に止まった。
その目線の先には、青空が広がっている。
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卒業式とはいっても、朝の教室はいつも通りだ。
寄せ書きは鮮やかな色彩で飾られていた。
中央には『大好きなさわ子先生へ』という言葉。
その周りには感謝の言葉、色んな記号、可愛い絵。
秩序の無い花壇の様な色紙だ。
見てると気持ちがあったかくなる。
これを先生に渡せることが嬉しい、みんなに提案してよかった。
まだ空白があるけれど、これは軽音部のためのスペースだ。
色紙をなっちゃんに渡し、和ちゃんに話し掛ける。
「寄せ書きいつ渡そうかな?」
「式のあと教室で卒業証書渡されるから、そのときがいいんじゃないかしら」
「そうだね、和ちゃん渡す?」
「風子が渡すべきだと思うわ、きっかけは風子だもの」
最終更新:2012年06月10日 22:08