【澪和】

 澪と二人きりになるタイミングは、久しぶりだった。
渡された提出書類を机に押し込みながら、和は笑みを浮かべて言う。

「律の代わりに届けてくれたのね、有難う。
大変よね、部長を補佐するのって。
私も他の子達の補佐に、随分と助けられているわ」

「まぁ、私はいいよ。律の世話をするのも、私の役割なんだし」

 澪にとって、部長を補佐しているという感覚はないらしい。
あくまで、律の世話をしているという認識でしかないのだ。

「ふふ、部長の補佐より、そっちの方が大変そうね」

「そういえば和は、去年に前生徒会長の補佐をしていたっけな。
そして唯の世話もしているわけか。そっちの方が大変そうだな、お疲れ様」

 澪が労うような声を掛けてくれたが、唯の世話も恵の世話も去年で終わっている。

「いや、唯の世話はもう、けいおん部がやってくれてるじゃない。
それに、家には憂が居て、教室には姫子がいるし」

 少しだけ、寂しさを込めて和は呟く。
以前は、自分が唯の保護者として振る舞っていた。
だが気付けば唯は次の依存対象を獲得し、既に和の手の下を離れている。

「ふーん?それはそれで、寂しい話だな」

 澪は共感を示してくれた。
和が唯に対してそうだったように、澪も律の世話にやり甲斐を感じているのだろう。

「まぁ、ね。話す人も回数も減っちゃったし。
そういえば去年は、クラスに澪が居てくれたから助かったわ。
お蔭で、孤立せずに済んだ」

 和の口から、普段は零さない弱音が漏れた。
和にとって澪は、数少ない弱気を見せられる相手でもある。

「とんでもない。私だって、去年は律達と離れて不安だったし。
助けられたのは、私の方だよ」

 そうは言うが、澪は人気も知名度も高い。
和が居ずとも、孤立する事など無かったろう。

「そう言ってもらえると、救われるわ。
去年は私達、よく話してたものね。
特に、二年が始まって最初の頃は」

 律が介入してくるまでは、和と澪の関係は上手くいっていた。
いや、律の介入当初も、和と澪の関係に亀裂は生まれなかった。
だが、澪と離れた事で律が精神的に参って寝込んでしまうと、関係は激変した。
澪は再び、律に付きっきりとなった。
和は澪と律が話す姿を見る度、突き放されたような孤独感に苛まれるようになってしまった。
そしてその傾向は、三年となった今も継続している。
寧ろ、律と澪と自分が同じクラスになった事で、その傾向には拍車が掛かってしまっている。

「ああ、そうだったな。
あれ?じゃあこうして話すのも、随分と久しぶりになるんだな」

 澪は今漸く気付いたらしい。
和は提出書類を受け取った時から、既に気付いていたというのに。

「そう、ね。澪ったら、ずっと律にべったりなんだもの。
で、その律とは上手くいってるの?結構、一緒に居る姿を見るけど」

 和の言葉に、愚痴が混じった。
だが、澪はその事には然して気にした風も見せていない。
それどころか、澪も愚痴を返してきた

「いや、中々発展しないよ。
律ったら意気地なしだから、あまり深い所までイクのが嫌みたいでさ。
重いのはちょっと……みたいな態度で私のアプローチを躱してるよ。
全く、あのヘタレは」

 律との関係が進まない事を、澪は不満に思っているのだろう。
その不満を利用できるかもしれないと、和はふと気付いた。
尤も、それは意趣返しや一瞬の優越に利用できるに過ぎない。
それが分かっていながらも、和の口は衝動的に動いていた。

「じゃあ、二人の関係が進むように、協力してあげようか?」

「協力?それは有り難いけど、どうやって?」

 和の提案に、澪は食い付いてきた。

「それ程難しい事じゃないわ。
私と澪が仲良くしてる姿を、律に見せ付けるの。
律はああ見えて澪に対する依存心が強いから、って、釈迦に説法ね。
とにかく、私と澪が恋人みたいに振る舞う姿を見せる事で、律に焦燥を与えられるはずよ。
それが、律との関係を深める起爆剤になる」

 和の説明を受けた澪は、腕を組んで考え込むように言う。

「うーん、でもさ。それで律がまた、寝込んじゃったりしたら。
あいつ、メンタルが弱いから、少しの事で私にシックしちゃうんだよ」

「そうしたら、見舞いの名目で寝込みを襲うチャンスじゃない。
そこまで精神的に弱った時なら、簡単に律は澪に全てをあげちゃうでしょうね」

 澪は躊躇うように少し黙ったが、結局首を縦に振った。

「そう、だな。
律だって、今まで散々私を焦らしてきたんだから、少しくらいは心に痛みを覚えるべきだし。
うん、やろうか、和。協力、してくれるか?」

「勿論。だって、私から提案したんだし」

 和は即答で承諾した。
律は甘える事で和から澪を奪った。
律は甘えさせる事で和から唯を奪った。
その律を精神的に嬲る事ができて、少しだけ愉快だった。
そして結局は澪と律の仲を深めるだけだという結果に、心は大きく軋んでいた。

*

 和は生徒会の仕事を手早く切り上げると、けいおん部の部室へと急いだ。
そこが、澪と話し合った事を実行する場所となる。

 昨日提案した事は澪との話し合いで、早くも今日に決行する事に決まっていた。
和が昨日提出を受けた書類の件で部室を訪れ、そのまま澪に誘われて茶を共にする。
そしてそのティータイムの中で、澪と和が仲良く振る舞って見せる、という段取りだった。

 けいおん部の部室に辿り付いた和は、深呼吸をしてからドアノブを捻った。

「ごめん、澪、居る?
昨日提出してもらった書類だけど、不備があったから訂正お願いしたくて」

 そう言いながら、和は部室内へと足を踏み入れた。
実際には、提出を受けた時点では書類に不備などなかった。
和が部室を訪れる口実の為に、澪に改竄してもらったのだ。

「えっ?ごめんな、和。何処か抜けてたか?」

 不知を装う澪の態度は、和が感心する程堂々としていた。
後ろめたさなど微塵も感じ取れない。

「ええ。それと、表記がおかしい部分が」

「今すぐに訂正するな。わざわざ来てくれて、ありがとう。
まぁここに座って、待っててよ」

 澪に誘われるまま、澪の隣に和は腰掛けた。
澪は早速、丁寧な字で書類の訂正に取り掛かった。
そのまま澪の手元を見詰めていると、程無くして紬がカップを運んでくれた。

「わざわざご苦労様。お茶でも飲んで、寛いでてね。
けいおん部自慢の紅茶なの」

 事前の打ち合わせ通りに、事が運んでいた。
和が椅子に腰掛ければ、必ず紬が茶を用意する。
澪が言っていたとおりだ。
そして茶が用意されれば、長居する自然なシチュエーションが出来上がる。

「はい、訂正終わったよ」

 澪から書類を受け取った和は、椅子から腰を浮かせながら言う。

「ありがと、じゃあ私、そろそろお暇するわね」

 これも、打ち合わせた故の台詞だった。
一旦は帰る姿勢を見せる事で、自然を装う狙いがある。

「おいおい、もう行くのか?
生徒会の仕事が立て込んでないなら、ゆっくりしていきなよ。
折角、ムギがお茶淹れてくれたんだし」

 澪が言うと、唯も続いて加勢した。

「そうだよー、お茶飲も?和ちゃんっ」

 澪の台詞は段取り通りだが、唯の言葉は意図せぬ僥倖だった。
更に自然を装う事ができたと唯に胸中感謝しつつ、和は再び腰を椅子に落とした。

「それもそうね。私も、偶には澪と話したいし」

 和は澪を見つめながら言った。

「私も、だよ。和とは、最近話してないからな。
去年話してみて、色々と気が合う事は分かっているのに」

 澪の声が、甘く和の耳朶を擽る。
芝居だと分かっていても、和の心は高揚に包まれた。

「そういえば、去年ほど二人は話さなくなったねー」

 唯が横槍を入れてくるが、和は無視した。
ここからは、澪との濃密な空気を形成しなければならない。
他の人間を話に入れる訳にはいかないのだ。

「ええ。気が合うせいか、楽しかったわ」

「やっぱり和、生徒会の仕事が忙しい?
もうちょっと和にも暇ができれば、また二人で色々と遊べるのにな」

 澪の言葉が本当なら、どれ程嬉しいだろうか。
そう思いながら、和は律を盗み見た。
まだ、表情から変化は感じ取れない。

「そうね。色々と立て込んでるし。
まぁ今日は、偶々仕事が少ない日だけどね。
だからこうして、お茶も一緒にできる訳だけど」

「お疲れ様。じゃあ今日は、日頃の労を癒していきなよ。
肩、貸してやるな」

 澪の手が和の顔に当てられ、そのまま胸へと引き寄せられた。

「肩、って、聞いたけど?」

「こっちの方が柔らかいだろ?」

 澪は妖艶に笑った。
その笑顔と柔らかさに包まれながら、和は律の様子を窺った。
打ち合わせの時点では、澪に対してあまり律を見過ぎるなと注意していた。
だが結局は、自分が律を何度も見ている。
その事に、和は内心で自嘲を浴びせた。

 その律は、流石に表情に不機嫌さを浮き上がらせていた。
この場所が自分だけのものであると、そう言いたいのかもしれない。
ただ、表情に変化が訪れている者は、律に限っていない。
唯も紬も梓も一様に、戸惑ったような表情を浮かべている。
只ならぬ雰囲気を察知しているのだろう。

「確かに。それに、いい匂いもするわ」

 実際に、母性を感じさせる懐かしい匂いが立ち込めている。

「それはどうも。和はどうなんだ?」

 匂いに酔っていた和の胸に、澪の手が当てられた。

「ひゃっ」

 陶酔に浸っていた和は、不意を衝かれた形となった。
意図せぬ声が、漏れ出てしまった。

「可愛い声で鳴くよな。ん、和の胸も、十分柔らかいじゃないか。
匂いもいい香りがするのかな?」

 澪が首を伸ばして、和の胸元へと鼻を当ててきた。
直後に響く吸引音に、思わず和は顔を赤らめた。
自分から提案した事ではあるのだが、いざ実践してみれば冷静にはなれなかった。

「うん、和も甘い匂いがするよ。ここ、気に入ったよ。
ふふ、こういう和の表情、生徒会の子達に見せてあげたいな。
いや、全校生徒に見せてあげたいかも。
お堅い和のイメージ、覆すチャンスじゃないか?」

 サディスティックな澪の言葉に、和の胸中は昂ぶった。
更なる満足を得ようと、律の表情を再び見遣る。

 これだけ見せ付けたせいか、律にはあからさまな変化が訪れていた。
寂しそうに俯いて、胸元のリボンを弄っている。
その姿にもう普段の快活さは、見受けられない。

「駄目よ。この顔も、澪だけのお気に入りにしておけばいいじゃない」

「胸や顔だけじゃない。この髪だって、お気に入りにしたいよ。
ふふ、触り心地、いいな」

 澪は再び和を胸に収めると、今度は髪を触ってきた。
澪の手が優しく髪を擽る度、和の背筋に震えが走る。

「あ……そ、そう?自分じゃこの髪質、あまり好きじゃないんだけど」

 和は愚痴るように言った。

「あ、そういえば私も、前にムギから、髪の毛が柔らかいとか褒められた事あったっけ。
これも、触り心地いいのかなー」

 唐突に、律が声を上げながら言う。
傍目にと空元気と分かる、繕った笑顔を添えて。

 澪はそんな律に、一瞥さえくれなかった。
それでも律は、髪を自分で弄って必死にアピールしていた。
痛々しい姿だった。滑稽な姿だった。
その痛々しさも滑稽さも、和には愉快だった。

「私は和の髪質、好きだけどな。
そういえば和って、割と独特のセンスしてるよな。
映画とかも、やっぱり変わったのが好きなのか?」

 澪は律を無視して、和に言葉を向けてきた。
演技だと分かっていても、和はそれを嬉しく思えた。

「まぁ、そうかもしれない。割とマニアックなのが、好き、かな」

「マニアックでもいい、教えてくれないか?
和の好み、色々と知りたいんだ」

 澪の装う和への好意は、より露骨な言葉となって表れている。

 その状況に耐え切れなくなったのか、律が言葉を割り込ませてきた。
澪の関心を、どうしても引きたいのだろう。

「あ、和ー、澪は怖いの苦手だから、ホラーとか教えちゃ駄目だぞー。
そうしたらまたぐずって、私のところに泣きに」

「律っ。今私は、和と話してるんだ。
余計な事言って、邪魔しないでくれないか?」

 律の言葉は、澪の一喝によって遮られた。
確かに和は、律に厳しい態度で当たる事が効果的だと教えている。
だが、ここまで厳しく当たるとは、想定外だった。

「あ……ごめん……」

 律は弱々しい声で謝ると、顔を俯かせてしまった。
それでも顔を寝かせている和には、涙を堪えている律の瞳が覗けた。

「ちょっ、ちょっと、澪ちゃん。
今のは、流石にりっちゃんが可哀想だよ」

 見るに見かねたのか、唯が言葉を挟んできた。
それに対しても、澪は落ち着いた表情を見せている。

「じゃあ、唯が律と話してろよ。
私は普段話せない和と、今は話しておきたいんだから」

「私も、今は澪と話したいわ。ごめんね、唯」

 和が澪に加勢して言うと、唯は納得のいかない表情ながらも頷いた。

「う、うん。じゃあ、りっちゃん。私と話そうか。
でも……大丈夫?顔色、あんまり良くないみたいだけど」

「うん、ありがと、唯。大丈夫、私は大丈夫。
いっつも元気な、ひまわりっちゃんだから。大丈夫。
それに、澪とはいつも話してるから。
澪だって偶には、他の人とも話しこみたいだろうし」

 律と唯のやり取りを見ていると、和の耳に急かすような澪の声が届いた。

「で、お勧めの映画っていうのは?」

「あ、そうね。オラフ・イッテンバッハとか、アンドレアス・シュナースとか。
ジャーマンゴアの代表格が、好き、かな」

「ゴアとかも苦手なんだよな。痛そうだし、気持ち悪いし。
だから、今度、一緒に見てくれるか?」

「ええ。構わないわ。約束する」

 見る事は、無いだろう。
それが分かっていても、約束という言葉を添えずにはいられない。

「ありがと。私、和のそういう所、好きだよ」

 澪はそう言うと、和の耳朶を軽く噛んできた。

「あ……っ」

 和の口から、切ない吐息が漏れる。

「相変わらず、可愛い声で鳴くんだね。
もっと、聞いてみたいな」

 澪の手が、和のスカートの中に入り込んできた。
和も負けじと、澪のスカートに手を入り込ませる。

「私だって、澪の鳴く声、聞きたいわ」

 触らない、そういう約束だった。
だが勢いあまって、和の指が澪のショーツに触れてしまっていた。

 和が約束を違えても、澪は約束を守ってくれている。
もし触れられれば、演技ではない本物の声が漏れてしまうだろう。
また、濡れていると気付かれ、澪に本心を見抜かれてしまうだろう。
そうならなかった事に、和は安堵した。

 それとともに、澪が声を上げなかった事を恨めしく思った。
澪が乾いていた事も、悔しかった。

「ほら、我慢せずに鳴いてみな?和」

 泣きたかった。恨めしさが、悔しさが、涙腺を突き上げている。
その衝動に、身を委ねたかった。
それでも我慢して、和は言う。

「澪こそ、我慢せずに、鳴けばいいのに」

 その時、部室に大きな音が響いた。
音の方向に視線を向けると、律が勢いよく席を立ったせいだと分かった。

「あー、ごめん。なんか私、調子悪いから、帰るな。
具合、悪いみたいで」

 律は顔を伏せたまま、明るい声でそう言った。
だが、声とは対照的に、顔は既に落涙へと至っている。

「り、りっちゃん……あの」

「じゃあ、また明日、な」

 心配そうな唯の声に耳を貸す事なく、律は急ぎ足で部室から出て行った。

「流石にちょっと、やり過ぎたかな。まぁでも、いい下地にはなったか」

 澪はそう言うと、和を離して立ち上がった。

「そうね。行ってあげなさい。寂しがらせた分、存分に甘えさせてあげなさい」

 和はそう言うと、見送るように手を振った。

「ああ。ありがとな、和」

 そう言いながら、澪は既に歩き出していた。
その背が部室の外へと消えてから、和も立ち上がる。

「お騒がせしたわね。じゃあ私も、今度こそ本当にお暇するわ。
お茶、ありがとね」

「いえ、お茶はいいのだけれど。えっと……どういう、事?」

 紬が説明を求めるように、和を見つめてきた。

「ちょっとしたお節介、よ。
いつまでも関係が進展しない二人に、スパイス一匙刺激をあげただけ」

 それ以上説明するつもりのない和は、背を翻して歩き始めた。
唯も紬も、納得したわけではないだろうが黙って和を見送っていた。
だが、梓の席の側を通りがかった際、不意に声を掛けられた。

「ちょっと、待って下さい。
だからって、あんな事、許されると思ってるんですか?
律先輩が可哀想です」

 和を咎める声は、それまで黙っていた梓のものだった。
和はすぐには答えず、部室を出る直前になって振り向いて言う。

「そうね。許されないわね。だから、謝罪もしないわ」

 胸が痛みに軋んでも、後悔は無かった。
”許されない事”を、澪と共有できた。澪と共犯になれた。
自分は確かに澪と特別な関係を築いたのだと。
それが和には、誇らしかった。


<FIN>



最終更新:2012年06月20日 23:29