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その唯の言葉に梓は何も返さなかった。
目にゴミでも入ったんだろうか。
そう思って心配になったけど、そうじゃないのはすぐに分かった。
梓が目を見開いていたからだ。
その様子を見る限り、風が吹いている間、目を瞑っていなかったらしい。
どうも唯が上手い具合に風除けになったおかげで、風圧に目を擦られずにすんだみたいだな。


「何……、これ……?」


大きな目を見開いたまま、呻くみたいに梓が呟き始める。
信じられないものを見たって感じの梓の表情。
その肩は小刻みに震えて、何かに怯えてるようだった。

何だよ?
梓は何を見たんだ?
風が吹いてる間に何があったってんだ?

言い様の無い不安感に駆られて、
私はまだ半開きの瞳で私達の周囲に視線を向ける。
だけど、これと言って気になる物は、私の目の中に飛び込んで来なかった。
いつもの私達の高校の通学路と何も変わってない。
そう見える。

じゃあ、梓は一体何を怯えて……?

もう一度、私は大きく頭を振って、周りを見回す。
見落とした物を見逃さないように。
梓の不安の正体を掴むために。
大きく目を見開いて。
不安がどんどん膨らむのを必死に抑えて、精一杯その何かを探した。

でも、やっぱり気になる物は何一つ見つからなくて……、
私達以外には動いてる物は何も無くて……、私もやっと気付いた。
ちょっと待てよ……。
何だってんだよ……。
これは……、一体……!


「――――――ッ!」


思わず叫び出しそうになるのをどうにか堪える。
叫んじゃいけない。
叫んじゃ駄目なんだ。
叫んだ所でどうにもならないし、梓や皆を余計に不安にさせるだけだ。

でも、私には叫ばない事以外には何も出来そうもない。
誰かに救いを求めて、私は視線を彷徨わせる。
誰かこの状況を説明出来る奴は居ないのか……?

勿論、私達の中にそんな事が出来る人間が居るはずもなかった。
唐突に自分達と世界を襲った異変に、誰もが呆気に取られてしまっていた。
それ以外に何が出来るってんだ。


「人が……、車も……」


梓が怯えた表情を浮かべたまま、その場に座り込んで呟いた。
唯がその座り込む梓の肩を、心配そうに強く抱き締める。
唯自身も不安に満ち溢れた顔をしながら、
それでも怯える梓を身体中で包み込んでいた。

だけど、梓の震えは止まらなかった。
よっぽど衝撃的な物を見たんだろう。
そうだ、と思った。
梓は多分、一部始終を見れてたんだ。
駆け寄って、何が起こったのか梓に問い質したい気分だった。
梓なら風が吹いた瞬間に何が起こったかを知ってるはずだ。

でも、問い質す必要なんて無かった。
私達より数秒目を開いていた梓が知っている事なんて、たかが知れてる。
問い質したって、単に怯える梓をもっと追いつめちゃうだけだ。

それに私だって、世界に何が起こったのかは本当は分かってる。
いや、ひょっとして私達に何かが起こったのか?
どっちにしても、とにかく異変の正体だけは一目瞭然だった。
その異変を信じられない。
信じたくないだけだ。

私は自分の手のひらが震えるのを感じながら、
どうにか意地だけでその手のひらを握り締めて、もう一度辺りを見渡した。
分かってはいた事だったけれど、当然何も無かった。
普段と変わらない町並み以外、消えてしまっていた。
一陣の風が吹いた瞬間、何もかもが私達の周囲から消失してしまっていたんだ。

十人くらい居たはずの通りすがりの人も。
騒音を上げて走っていたはずの車も。
さっき電信柱の裏で見掛けたはずの猫も。
空を飛んでいたはずの鳩も。
生きている物は何もかも。

そこに居た私達と、
耳に痛いくらいの無音の世界だけを残して。

梓が震えながら呆然とした表情を浮かべる。
唯が必死に不安と戦いながらその梓を抱き締める。
憂ちゃんが唯と梓の表情を交互に見ながら泣きそうな顔になる。
純ちゃんが憂ちゃんに駆け寄り、自分も震えながら憂ちゃんの肩を抱く。
何が起こったのか把握しようとしているのか、携帯電話を取り出して和が何かを確認している。
ムギが胸元で自分の手を握り締めながら、皆の様子を不安そうに見渡す。
澪が何も言わずに真っ青な顔で私の背中に抱き着く。
私は背中に抱き着く澪に、手を伸ばす事も何か声を掛ける事も出来ず、
身体の芯から湧き上がる震えを感じながら、呆然とその場に立ち竦む事しか出来なかった。

無音と一緒にこの世界に取り残された私達は、
湧き上がる不安を感じながらも突然の異変を受け容れるしかない。
この後、更に何が起こるのかも分からないままに。

これがあの夏休みの日……、
つまり三日前、世界……或いは私達に起こった異変の始まりだった。




屋上の柵から、誰も居ない私達の町を見下ろす。
三日前から人も他の生き物も完全に消えてしまった私達の町。
静かな風と、風に靡く木々の音だけが響いてる。

一瞬、少しだけ強い風が吹いた。
心臓が大きく鼓動する。
物凄い不安を感じて、私は後ろを振り返った。
まだ屋上に居るはずのあいつの姿が、そこにあるか確かめたかったんだ。

振り返って見た屋上の中央付近、
さっきまでと変わらず、和が穏やかに微笑みながら首を傾げていた。
よかった……。
まだ和はこの世界に私と一緒に居る。

三日前、一陣の風と一緒に生き物がこの世界から消えて以来、
ちょっとでも強い風が吹く度に、私は自分の湧き上がる不安を抑えられなかった。
また風と一緒に誰かが……、
何かが消えてしまうんじゃないかと思えて仕方が無かったからだ。
この世界からまた何かが失われてしまうじゃないかって、
そう思えてしまって、それがすごく恐い。

いや、この世界……、と大袈裟に考えてみてはいるけど、
まだ私達はこの世界全体がどうなっているのか分からなかった。
あの日、一陣の風が吹いてから、テレビは映らないし、ラジオも流れてなかった。
インターネットにも当然繋がらなかったし、
どうにか自分達の目で確かめてみようとしても、
まともな交通機関無しじゃ、県外に出る事すら簡単に出来そうもない。

テレビやネットで世界の事はそれなりに知っているつもりだった。
結局、私達は他の物知りな誰かに教えてもらわなきゃ、
世界どころか県内の事すら、ほとんど何も知らないって事なんだろうな。
自分の身の程を思い知らされて、これまでの自分が滑稽に思えてしまう。


「どうしたのよ、律?」


知らず知らずの内に自嘲してしまっていたらしい。
和が少し心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
いかんいかん。
自己嫌悪なんかしてても、それで何かが解決するわけじゃない。
今はそんな事をやってる場合じゃないよな。
私は軽く自分の頬を叩いてから、和に向けて軽く微笑んだ。


「いや、何でもないぞ、和。
それより県内の地図だったよな?
今日こそしっかりメモって、忘れずに本屋に行ってくるよ。
この便利屋りっちゃんにお任せあれ」


「悪いわね、律。
毎度お使いなんかさせちゃって。
本当は私が自分で本屋に行くべきなんだけどね……」


「気にすんなって。
私の分担は肉体労働で、和の分担は頭脳労働だ。
適材適所ってやつだな。
その代わり和にはこの世界の謎を解き明かしてもらうから、頑張ってくれよ。

……なんてな。
それは流石に冗談だ。
こんなわけ分からん状況、そう簡単に解決出来るかっての。
でも、その代わり、和には私達がこれからどうすればいいのかを考えてほしいって思う。
情けない話だけど、私の頭じゃこれからどうすりゃいいのか見当も付かないんだよな」


「それが普通だと思うわよ。
こんな状況、誰だってどうするべきなのか戸惑うと思うわ。
さっき律は私の分担が頭脳労働だって言ってくれたけど、でもね……」


珍しく、和が言葉を止める。
それから、さっきの私みたいな自嘲。
いつも自信満々ってわけじゃないけど、
自分に自信が無さそうな和を見るのは多分初めてだから、私はつい訊ねてしまっていた。


「でも……、何だ?」


「でも……、でもね……、そう。
私ね、頭脳労働が出来るから、しているわけじゃないのよ。
頭脳労働しか出来ないから、理屈付けないと恐いから、そうしてるだけなの。
怪奇現象を恐がる子が、オカルトに詳しくなるみたいなものかしら。
そういう子達はね……、
自分が受け容れたくない物を否定するために知識を得て、理屈をこねるの。

恐いから。分からない物が恐いから。
理論武装して、理解出来ない現実から逃避するために……。
私もそうなんじゃないかって……、こんな状況になって思うのよ」


これも多分、初めて聞く和の弱音。
いつも冷静に見える和だけど、やっぱり相当に参っているのかもしれない。
そりゃそうか。
しっかりした性格の和だって、まだ未成年の女子大生なんだから。
それに、特に和は……。

そう考えた私は和に訊ねていた。
訊ねるべき事じゃ無いかもしれないけど、訊ねておきたい事だった。


「なあ、和……。
やっぱり心配だよな、家族の事……」


「……ええ」


私の言葉に、和が素直に頷いた。
あんまり会った事はないけど、和には大切な家族が居る。
まだ小さくて手の掛かる、大切な兄弟が居るんだ。
心配じゃない方がおかしい。
私だって……。

この世界から人が消えてしまった事が恐いのは、
何も自分達が取り残されたからってだけが理由じゃない。
一陣の風と一緒に消えてしまった人達が、
一体どうなってしまったのか分からないのが一番恐いんだ。

さわちゃんや軽音部の新入部員の子達、
皆の家族や私の父さんや母さん、それに聡……。
皆、どうなってしまったんだろうか……。
この世界じゃない何処かの世界で過ごしてるんだろうか……。
聡は元気に笑ってるんだろうか……。

あまり手の掛からない出来た弟の聡ですら、こんなに心配なんだ。
幼さの残る兄弟を持つ和の心配は、私の想像も出来ないほど大きいに違いない。
本当は不安と恐怖で叫び出したいくらいだろう。
だから、和は精一杯頭を働かせて、その心配や不安や恐怖と戦ってるんだ。

私は和に歩み寄って、軽くその肩を叩いた。
今の私が和に出来る事は多くない。
私に出来る事は、そう、正直な気持ちを和に伝える事だけだ。


「でもさ、和。
和の冷静さが現実逃避から生まれたものでも、私達はそれに助けられてるよ。
特に一昨日の澪なんか、私じゃとても説得し切れなかった。
和が居てくれたおかげで、和が冷静だったおかげで、
あれだけ怯えてた澪も、とりあえずは落ち着けたんだよ。
だからさ、ありがとうな、和。
私の面倒臭くて大切な幼馴染みを助けてくれて」


「ありがとうだなんて……、そんな……」


言いながら、和が少し赤くなった。
ずっと張っていた緊張も、ほんの少しは解れてきたんだろうか。
ちょっとでも和の役に立てたんだとしたら、私も嬉しい。

私の言葉は和を落ち着かせるためのものでもあったけど、嘘は一つも言ってなかった。
私は本当に和に感謝してる。
和が居なければ、本当にどうなっていたか分からない。

あの一陣の風が吹いて一日経った一昨日、
澪は誰も居ない澪の家に長い間閉じこもっていた。


「パパやママが帰って来るのを家で待つ」


そう言って、私の言葉どころか誰の説得にも応じようとしなかった。
別に澪の行動が間違ってるわけじゃない。
自宅で澪が澪の両親を待ちたいと言うんなら、それも選択肢としてはありだと思う。
ひょっとすると、本当に澪の両親が帰って来る事もあるかもしれない。
途轍もなく低いけれど、その可能性はある。

でも、澪にその選択肢を選ばせるわけにはいかなかった。
こんな状況で、残された八人がバラバラに行動する事を避けた方がいいのは分かり切っていた。
大体、この世界に本当に誰も居ないのか分からないじゃないか。
勿論、それはいい意味じゃない。
悪い意味で、この世界には誰かが居るかもしれない。
それこそ私達を獲物としてるエイリアンみたいなやつが居てもおかしくないじゃないか。

馬鹿馬鹿しい話だけど、それすらも無いとは言い切れない。
突然飛ばされた閉鎖空間の中で、
平凡な主人公は謎の化物と戦う事になる……、
なんて陳腐な話だけど、それだけにありえるかもしれないしな。

大体、一人で部屋に閉じこもるなんて、死亡フラグ以外の何物でもない。
閉じこもる本人は気にならないかもしれないけど、
周りの人間にしてみりゃ、心配で気が気で無くなるよ。
だからこそ、私達は澪を一人きりにさせるわけにはいかなかった。

でも、その澪を説得する事は、私には無理だった。
考えてみれば、私と澪は傍に居過ぎたせいか、
自分の我儘の貫き通し方を分かってしまってる所があるのかもしれない。
お互いを分かり過ぎてしまってるせいで、
私と澪の会話は平行線を辿る事しか出来なかったんだ。

その点、和は澪の説得の仕方をよく知っていた。
唯と憂ちゃんのお姉ちゃん的存在で、
実際にもお姉ちゃんの和には、我儘を言う子との付き合い方が分かってるみたいだった。

和は無理に澪を説得しようとせずに、
玄関の扉越しにたまに澪に穏やかに話し掛けていた。
修学旅行で京都に行った時の話をしたり、
小さい頃の私と澪について訊ねてみていたり、
一見すると説得とは関係無さそうな話をしていたけれど、
それも澪への静かな説得だったのかもしれない。

結局、二時間くらい閉じこもった後、
澪はとても申し訳なさそうな表情を浮かべて玄関を開いて姿を現した。
久々に顔を見せた澪を和は責めようとはせずに、
ただ澪の手を引いて、澪と一緒に私達に頭を下げて謝ってくれた。


「真似出来ないよなあ……」


意識せずに私は呟いてしまっていた。
私もお姉ちゃんではあるけど、とても和みたいには出来そうもない。
それが和の自分が冷静になるための現実逃避の産物だとしても、
私達はそれに助けられていて、そんな和に感謝する事しか出来ない。

和が私達を支えてくれている事。
こんな状況でも、それだけは本気で不幸中の幸いだと思う。
いや、こんな状況じゃになるよりもずっと先に、私はもっと和に感謝するべきだったんだろう。
本当にありがとうな、和。


「どうかしたの、律?」


ほんの少し私の呟きが聞こえていたらしい。
和が首を傾げ、まっすぐな瞳で私に訊ねる。
私は「何でもないって」と言ってから、和の肩に置いていた手を離した。

私には和の真似は出来ない。
そもそも私と和じゃ性格が違い過ぎるしな。
無理に和の真似をしようとしたって、問題が余計にこじれるだけだろう。
なら、私は自分自身の力とやり方で皆を支えなきゃいけない。
それが私に出来るんだろうか?
まだ、それは分からない。


「あ、ちょっと、律……」


不意に和が呟いて私に向けて手を伸ばしてきた。
何だろう、と私はちょっと緊張する。
和が誰かに触ろうとするなんて滅多に無い事だから、心配にもなってくるくらいだ。
身体を硬直させて和の行動を待っていると、
和は軽く私の頭のカチューシャに手を触れて、その位置を微調整してくれた。


「カチューシャ、ずれてたわよ。
今日は気分で位置を変えてたんなら、悪い事をしちゃったかもしれないけどね」


予想外の和の行動に私は軽く呆気に取られる。
まさか和が私の身嗜みに気を遣ってくれるなんてな……。
そういや、今まで和が私の身嗜みについて注意した事なんて、ほとんど無い。
前にメイド服を着た時に「大体、その格好は何よ?」って叱られたくらいだっけか?
あれはお約束的に私が書類を出し忘れてたから、ってのもあるけど……。
でも、そういう規律に注意を払える和が、どうして今まで私の身嗜みを注意しなかったんだろう。

……あ、そっか。
私もあんまりきちんとした服装をしてるわけじゃないけど、
私にはギリギリ最低のラインの身嗜みをするよう注意してくれてた奴が居たんだったな……。
いつも何故か隣に居てくれた、私自身も隣に居たかった幼馴染みのあいつが……。

一昨日から、閉じこもってた澪を連れて、私達は残された皆で桜高に集まっている。
集まるのは別に誰かの家でもよかったんだけど、
八人で住めるほど広い家の奴は居なかったから、学校がちょうどいいと思ったんだ。
いや、ムギの家なら八人くらい楽勝なんだろうけどさ、
家の人が誰も居ないとしても、友達の家にお世話になるのはやっぱり抵抗がある。
それにムギの家は結構遠い。ああ見えてムギって電車通学なんだもんな。
電車も動いてない今の状況じゃ、正直かなり遠いよ。

だから、私達は今、学校に集まって住んでいるわけだ。
今後どうなるかは分からないけど、
一時的に集まるには慣れ親しんだ場所が一番のはずだった。


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最終更新:2012年07月09日 21:17