学校に住み始めてから二日、私はまだ澪と一言も話していない。
話したくないわけじゃない。
本当はすごく話したい。
胸の中の不安な気持ちを、澪にだけは打ち明けたい。
そんな考えはずっとあった。
でも、澪の方から話し掛けてこなかったし、
私の方も自分から話し掛けようとはしなかった。
何を言えばいいのか分からなかったし、何かを言った所で、
澪を余計に不安にさせる言葉しか出てきそうになかったから、話し掛けるのが恐かったんだと思う。
澪も自分が閉じこもってしまってた事を負い目に思ってるのか、
まだ誰かと明るい調子で会話出来てはいないみたいだった。
出来る限り早く、また澪に笑顔で話し掛けたいと思う。
でも、今は駄目なんだ。
まだ私も澪も今の状況に関して、自分なりの答えを出せてない。
私達がもう一度笑顔で話し合えるには、もう少し時間が必要だった。
澪の事は不安だけど、多分、大丈夫だと思う。
私が澪に話し掛けにくい事を分かっているのか、
今は代わりに唯とムギが積極的に澪と会話をしてくれている。
遠くから見てる限りじゃ、たまに澪の顔から笑みが漏れる事もあるみたいだった。
だから、きっと大丈夫。
後は私がこの世界の異変と向き合って、それに関しての答えを見つけるだけだ。
「いや、別に気分で位置を変えてたわけじゃないから助かったよ、和。
気付いてくれて、どうもサンキュな」
少し微笑んで、私はカチューシャの位置を治してくれた和にお礼を言った。
もしかしたら和が屋上に私を探しに来たのは、
地図の事を私に頼むためだけじゃなくて、私の事を心配してくれたからかもしれない。
それにまさか和が私のカチューシャの位置を覚えてくれてたなんてな。
私が思うより、和は私の事を見てくれてるみたいだ。
「どういたしまして」
和が小さく微笑む。
とても素敵な笑顔だと思った。
お姉ちゃん……、いや、お母さんかな。
本当に和はこんな状況でも私達を引っ張ってくれる、頼り甲斐のあるお母さんだ。
和には遠く及ばないにしても、私も皆を支えられるお父さんみたいになれたらいいな。
……ん?
いやいや、変な意味じゃないぞ。
私がお父さんで和がお母さんってのは、あくまでも例えだからな。
誰に言い訳してるのかは自分でも分からんが、とにかく変な意味じゃないぞ。
馬鹿な事を考えちゃったせいか、何だか顔が熱くなってきた。
私は頭を振ってから、和に気になっていた事を訊ねてみる事にした。
あんまり触れたい話題でもなかったけど、触れないわけにもいかない事だった。
今後、澪と笑顔で話すためにも。皆と笑顔で話せるためにも。
「そういやさ、和……。
和は結局、世界に何が起こったんだと思う?」
「またそれは突然ね、律。
でも、話題にしないわけにもいかない事でもあるわよね……」
「ごめんな、和。確かに突然だったかもな。
でも、やっぱり気になって……さ。
自分で言うのも変だけど、そんなによくない私の頭じゃ全然見当も付かないんだよ。
勿論、和にだって分からない事だってのは知ってるけど、
だけど、和の事だからいくつか推論くらいは出来てるんだろ?
よかったらそれを教えてくれないか?
……あ、いちいち注文を付けて悪いけど、私の頭で分かる範囲内でさ」
私が人差し指を立てて念を押すと、和が普段より大きく笑った。
こんな時なのにそんな事を気にする私が滑稽だったのかもしれない。
でも、それでよかったんだと思うし、和もそれで納得してくれたみたいだった。
和はしばらく笑った後に頷いて、
「私にもほとんど何も分かってないけど」と前置きしてから始めた。
「まず私が考えたのはパラレルワールドの存在ね。
私達の世界とは別の可能性の並行世界。
いくら律でもパラレルワールドくらいは知ってるでしょ?」
「知っとるわい! ……一応な。
パラレルワールドってのは、この世界とは違う別の世界の事だろ?
剣と魔法の世界とか、科学技術がSF並みに発展した世界とか、スチームパンクの世界とか」
「何故かスチームパンクは知ってるのね……。
まあ、大体律の言った事で正解なんだけど、そこまで大袈裟に考えなくてもいいのよ。
私の言いたいのはもっとほんの些細な違いのパラレルワールドの事。
この世界ではそれがAなのに、
別世界ではそれに値するのがBだったってだけの些細な違いの世界。
そうね……。
例えば私の幼馴染みが唯じゃなくて澪で、
律の幼馴染みが澪じゃなくて私だった世界って考えれば分かりやすいかしら」
また変な例を出すな……。
でも、確かに分かりやすいか。
要は世界感そのものじゃなくて、
ほんのちょっとだけ今とは違う世界だと考えればいいわけだ。
ちょっと想像してみる。
そうだな……。
私と唯、それに和は誰が幼馴染みでもそうは変わってないはずだけど、
澪の幼馴染みが唯となると、澪は相当今とは変わってたんじゃないだろうか。
前にうちの母さんと澪のママの会話を、たまたま立ち聞きした事がある。
澪のママがうちの母さんに言うには、
澪は私と遊ぶようになってからかなり変わったんだそうだ。
内気で人見知りな性格だから学校で上手くやっていけるか心配だったけど、
私の口調や仕種を真似するようになって、少しずつ活発な性格に変わって安心したんだとか。
うちの母さんは「がさつな娘でごめんなさい」とか笑いながら言ってたが。
……がさつで悪かったな。
でも、澪のママの言う事は正しかった。
確かに澪は私と遊ぶようになってから、かなり元気で活発になった気がする。
口調も私の特訓で男っぽい口調になったし、いつの間にか平気で私を殴るようになったしな。
良かったんだか、悪かったんだか。
つまり、私と会わなきゃ、澪は今とは全然違う性格になっていたのは間違いない。
とは言っても、あの頃の内気な性格のまま育つとも思えない。
何せあの唯が幼馴染みなんだからな。
性格がどう転ぶのかは分からないけど、
少なくとも口調くらいは唯に影響されるんじゃないだろうか。
そうなると、こうなるのか?
(使用前)
「おい、律、ちゃんとドラムの練習しろよ。
リズム隊はリズムが命なんだからな。
それとテスト勉強も忘れるなよ。
今度泣き付いてきても、勉強見てやらないからな!」
↓
(使用後)
「ねえねえ、りっちゃん、ちゃんとドラムの練習しようよー。
リズム隊はリズムを大切にしなきゃ。リズムが命で魂なんだよ。
あとテスト勉強も忘れないでね。
次にりっちゃんにお願いされたって、もう勉強見てあげないんだからね!」
おわっ、気持ち悪っ!
思わず鳥肌が立ったぜ……。
やっぱり澪は今の澪のままが落ち着くな……。
でも、よく考えたら、私が居なきゃ澪は音楽を始めなかったかもな。
そうなると澪の幼馴染みの唯もギターを弾く事がなかったわけで、
私も一人じゃ軽音部を作ろうとしてたかどうか分からない。
和は私が誘ってもバンドやってくれそうにないから、
私は仕方なくマキちゃんのラブクライシスに入れてもらって……、
あ、でもマキちゃんはドラムか。
となると、私は他のパートを担当する事になって、
そんでもって、軽音部自体設立されないから、ムギはそのまま合唱部に……。
……頭がこんがらがってきた。
まあ、とにかくそれは全部もしもの話だ。
つまり、和は生き物が誰も居ないパラレルワールドに、私達が迷い込んだと言いたいわけだろう。
私は真剣な表情になって、神妙に和にそれを訊ねてみる。
「私達は生き物の居ない世界に迷い込んだ。
事実かどうかはともかく、少なくとも和はそう考えてるんだな……」
「いいえ、逆よ。
パラレルワールドだけはないって考えてるわ」
「うおーいっ!!」
学校の屋上に私の突っ込みが響く。
何だったんだよ、今までの前振りは……。
からかわれたのかと一瞬思ったが、和の表情を見る限りそうでもなさそうだ。
大体、和はあんまり冗談を言うタイプじゃないし、特に今は真面目な話をしている時だ。
ちなみに私の突っ込みについては熱くスルーされてるし。
そういえば和は最初に「まず私が考えたのはパラレルワールドの存在ね」と言っていた。
「まず考えたのは」って言ってたんだ。
その言葉通り、和は自分が「まず考えた」事から話し始めたって事なんだろうな。
妙な所で言葉通りなのが、和らしいと言うか何と言うか……。
私はちょっと溜息を吐いてから、
和が今の状況はパラレルワールドが原因じゃないと考える理由について訊ねてみる。
すると、優等生らしい理論的で、
でも、私にも分かりやすい丁寧な説明を始めてくれた。
「パラレルワールドの存在自体は否定しないわ。
シュレディンガーの猫理論、エヴェレットの多世界解釈、
量子宇宙論に二重スリット実験……、並行世界については様々な議論がされてきたわけだし。
実際に存在するかはともかくとしても、
パラレルワールドがあってもおかしくないって私は思っているのよ。
それこそムギと梓ちゃんが幼馴染みとして育った世界だってあるかもしれないわ。
でもね……、それとこの状況は無関係だと思うのよ。
他のあらゆる可能性があったとしても、パラレルワールドだけは違うって思えるのよ」
「どうしてだよ?
生き物が居ないパラレルワールドだってありそうなもんだけど……」
「ええ、生き物の居ないパラレルワールド自体はあると思うわ。
可能性は無限なんだから、そういう世界があってもおかしくないはずよね。
でも、よく考えて、律。
本当に生き物が居ない世界なら……、この桜高は誰が建造したのかしら?」
あっ、と思わず私は声を出していた。
そうだ。完全に和の言う通りだ。
本当に存在するかどうかはともかくとして、パラレルワールドは無限の可能性がある。
でも、パラレルワールドだからと言って、何もかも自由に考えていいわけじゃない。
パラレルワールドにも私達の世界と同じようにルールが存在しなきゃおかしいんだ。
「そりゃそうだよな……。
パラレルワールドには無限の可能性があるって言っても、
人も生き物も居ないのに、建物だけがそのままある世界なんてそりゃ変だよ。
よくよく考えてみりゃ、この世界には学校だけじゃなくて、町も私達の家もあるんだし。
誰がこの町を作ったんだ。誰がこの町に住んでたんだって話だよな」
「そういう事よ。
だから、私は今の状況とパラレルワールドを繋げるのだけは違うと思うの。
たった一つだけ考えられなくもない可能性はあるけど、そう考えるのも変だと思うし……」
和はその可能性については少し口ごもった。
その顔にはひどく不安そうな表情を浮かべてる。
パラレルワールドとかそういう事じゃなくて、
考えなきゃいけない最悪の事態を考えてるって感じだった。
不安そうに……、辛そうに……、でも、和は毅然とした声で続ける。
「この世界とパラレルワールドを繋げて考えられるたった一つの可能性……。
それはこの世界の生き物がラグナロクとか、ハルマゲドンとか、終末とか、
とにかくそれに値する滅びを迎えた後に、私達がこの世界に迷い込んだって可能性よ。
それならこの生き物の居ない世界が、パラレルワールドであってもおかしくはないわよね?
でもね……、そう考えるくらいだったら、
パラレルワールドと無理に繋げて考えるよりも、そもそも私達の世界が……」
私は和の肩に手を置いてそれ以上の言葉を止める。
和が無理に話さなくても、私にももう分かった。
確かにそう考えた方が自然だった。
無理にパラレルワールドと繋げる必要なんてない。
ここは本当は私達の世界じゃないって考える方が気が楽だけど、
ここが本当に私達の世界だって可能性の方がずっと高いんだよな。
つまり、パラレルワールドじゃなくて、
私達の世界の方の生き物が滅んじゃって、私達だけが取り残されたんだって可能性の方が……。
いちいち私達がパラレルワールドに迷い込んだって考えるよりは、その方がずっと自然だ。
私達の世界は終わってしまったんだろうか?
全部滅びるはずだったのに、何かの間違いで私達だけが生き残って、取り残されちゃったのか?
他の皆は一人残らず死んでしまったってのか?
父さんも、母さんも、聡も、さわちゃんも、大学の皆も、新入部員の子達も……。
背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
夏の熱気に晒されてるからってだけじゃない。
暑いはずなのに寒気まで感じてくる。
もし本当に私達の世界が終わってるんだとしたら、私達はどうしたらいいんだろう……。
「律」
不意に和が私の右頬に手を置いた。
私は不安を隠し切れない視線をどうにか和に向ける。
和だって不安なはずなのに、私の視線の先の和は軽く微笑んでいた。
微笑みながら、柔らかい声で囁いてくれる。
「ごめんね、律。
不安にさせちゃったわよね……。
でも、可能性の話よ。あくまで可能性の一つなのよ。
まだ情報が全然足りてない状況で、考えられる可能性がそれってだけの話。
勿論、私には想像も出来ない理由で、皆が消えちゃったのかもしれないわ」
優しい声色の和の言葉に、騒いでいた私の心臓は落ち着いていく。
強い和、優しい和、頼れる和……。
私はそんな和に頼り切ってしまっている。
このままじゃいけないのかもしれないけど、今だけはちょっと浸らせてほしい。
せめて、もう少し深呼吸出来るまでは……。
三回、深呼吸。
胸を落ち着かせる。
その間、和は待ってくれていた。
もう大丈夫……、のはずだ。
かなり無理矢理ではあったけど、私はどうにか笑顔を作って和に向けた。
「こっちこそごめんな、和。
自分から訊ねておいて、話が嫌な展開になったら恐がるなんて自分勝手過ぎるよな。
漫画やゲームでそういう奴たまに見るけど、傍から見てたら苛々するもんな……。
だから、こっちこそ悪かったよ、和」
和は私の左頬にも手を置いて、「いいのよ」と言ってくれた。
それからすぐに両手を離して、眼鏡を掛け直しながら笑う。
私ももう少しだけ自然な笑顔を浮かべられる。
多分、お互いの事を考え合って、お互いを安心させるために笑ってる。
屋上で笑顔を向け合う二人……。
まさか和とそんな関係になれるなんて、初めて会った時には想像もしてなかった。
唯の友達にしては真面目そうな子だな、ってのが初対面の時の印象だったしな。
言葉は悪いけど、気は合わないだろうな、って思ってた。
和が悪いわけじゃないけど、私の性格とはどうも合いそうにない気がしたんだ。
それで二年の頃、澪と仲良く出来てる和が悔しかったんだと思う。
私と全然違うのに、私とは正反対な性格なのに、澪と和は仲が良い。
幼馴染みなのに、澪はもう私には飽きちゃったのか。
私の事なんてもうどうでもいいのか。
そう思えて、悔しかった。
でも、そうじゃなかったんだよな。
和は優しくて頼りになる子だから、澪と友達になるのは自然な事だ。
でも、澪に友達が出来るのは嬉しいけど、同時に不安だった。
澪は中学まで私以外の友達が少なかったし、
その友達もほとんどが私のよく知る子だったから、
私が居ない所で澪に友達付き合いがあるって事が初体験だったんだ。
だから、不安だったんだと思う。
我ながら子供っぽくて恥ずかしいけどさ。
だけど、和はそんな私も澪と一緒に受け容れてくれた。
幼馴染みの唯のためにって所も多いんだろうけど、軽音部のために色んな手助けもしてくれた。
和にとっては、私も澪も唯と同じく手の掛かる妹の様なもんなのかもしれないな。
そんな和と仲良くなれて、私は嬉しいと思う。
勿論、そんな事を面と向かって言えるはずもない。
私は頬を掻きながら、照れ隠しのために違う話を和に振った。
「そういや、可能性の一つ……って事は、
和は他にもまだまだこの状況の原因を考えてるんだろ?
あんまり物騒な話だとノーサンキューだけど、よかったら教えてくれるか?」
「律も元気よね……。まあ、いいわ。
そうね……。
勿論、全部荒唐無稽な夢物語として聞いてほしいんだけど、
次に考えたのは、私達が私達オリジナル本人じゃないって可能性よ。
私達はオリジナルの人格を移植された人工生命で、この町も精巧に出来た偽物。
何らかの実験で偽物の私達は偽物の町に放たれた。
それなら私達以外に誰も存在しなくても問題無い。
……というのは、どうかしら?」
「あー……、よくあるよな、それ。
国民を意のままに操るための政府の何かの陰謀って感じのやつ。
そんな事しても、絶対に元が取れないと思うけどな。
偽物って話になるとさ、私はここが電脳世界って可能性も考えたな。
よく出来たネットゲームってやつ。私はネットとかよく知らないんだけどさ」
「それもよく聞く話ね。
いくつか小説や映画で目にした事があるわ。
まさかあのホラー小説の続編が、そういう話になるとは思わなかったけどね。
まあ、パソコン通信は最近では一般常識になってきてるし、
バーチャルリアリティの進化も驚く物があるから、そういう話もありえなくはないわよね」
「パソコン通信とバーチャルリアリティって言い方は古いぞ、和。
お母さんっつか、おばあちゃんかよ」
「そうかしら?」
和がとぼけた様に微笑み、私も合わせて苦笑した。
和の言葉が古かったからってだけじゃなく、お互いに感じ始めてきたからだと思う。
結局、こんな推論に不安がる理由は無いって事に。
最終更新:2012年07月09日 21:22