◎
白い校庭を梓と二人で歩く。
とても白い校庭、白い町、白い世界に私は目を細める。
白い世界……と言っても、実際に白いわけじゃない。
南中に近いくらい昇った太陽の光が、眩しいくらいに地面に降り注いでるだけだ。
そんな事は分かってるのに、
私は自分が白い世界に迷い込んだって感じの錯覚を振り払えない。
電灯が点いてないだけ、生き物の気配がまるでしないだけで、
周りの景色がこんなにも違って見えるなんて、こんな事になるまで思ってもみなかった。
こいつはどう感じてるんだろう、と少しだけ隣に視線を向ける。
まだまだ幼い感じの服を着て、ツインテールの髪型をしている後輩。
背が低い事も手伝って、その姿はとても高校三年生には見えない。
でも、きっと心の中は私より大人びてるんだろう、軽音部現部長の梓。
梓の言葉通り、今の軽音部は去年の軽音部より、ずっとすごい部に成長してるんだろうと思う。
手が掛かる後輩だった梓が今では立派な部長を務めてるなんて、
何だか嬉しくて、誇らしくて、くすぐったくて……、でも、同時に寂しい。
嬉しくて、寂しかったから、私は前みたいに梓に叱られたくなった。
部長になっても本質は変わってない梓の姿を見たかった。
『天使にふれたよ!』の歌詞みたいに、私達の変わらない居場所を感じたかったんだ。
帰りたい場所を再確認したかったんだと思う。
今は後悔してる。
梓に辛そうな顔をさせてしまったのもそうだけど、
さっき梓に案内されて、私達の三年の頃の教室を見せてもらって、より一層後悔した。
ほとんど何も変わってなく見える私達の教室……。
でも、少しずつ変わってる私達の教室だった部屋……。
張り紙の位置や、席の数や、机に掛けられてる荷物や……、
そんな色んな事がやっぱり少しずつ変わってたんだ。
私達の教室はもう無いんだな、って思った。
私達の教室を案内してくれた梓の表情からは、何も読み取れなかった。
その時にはもう辛そうな顔や寂しそうな顔をしてはいなかったけど、
梓が思ってるんだろう本心を感じる事も出来なかった。
一緒に居た時は敏感に気持ちを感じ取る事が出来てたはずなのに、
今では梓の奥底に隠された本心を読み取れなくなってきてるみたいだ。
ほんの少し離れるだけ。
ちょっとした別れを経験するだけ。
再会すれば、いつだって元の私達みたいに笑い合う事が出来るはず。
そう思えたから涙を見せずに卒業出来たのに、それは私の勝手な思い込みだったんだろうか?
短いはずだった四ヶ月という時間。
その時間は私達の想像していた以上に長い時間だったのかもしれない。
「どうでした、律先輩?
律先輩達が居た時から考えると、学校も色々変わってますよね?
私達は毎日通ってますから中々気付けませんけど、
でも、やっぱり少しずつ変わってるな、って思う事もあるんですよ」
梓が小さく微笑みながら呟く。
それは優しい微笑みだったのに、何だか不安になった。
梓はちょっとずつの変化を受け容れられてるんだろうか?
私達と離れてた時間も平気になって来てるんだろうか?
そうして、ひょっとすると……、
いつか本当に私がドラムを辞めたとしても、
それを笑顔で受け容れてくれるようになるんだろうか……?
嫌な想像だった。
思わず身体と心が嫌な意味で震えてしまう。
ドラムをあんまり練習してないなんて、言うんじゃなかった……。
「律先輩……?
どうかしたんですか……?」
多分、私が相当変な顔をしちゃってたんだろう。
心配そうな表情を浮かべて、梓が私の顔を覗き込んで来た。
その梓の表情はやっぱりとても優しくて、それが余計に私の胸を突く。
私は梓から軽く視線を逸らし、誤魔化すためにわざと茶化して言った。
「いやいや、何でもないぞ?
梓の言う通りに学校は色々変わってるみたいだけどさ、
そう言う梓自身の色んな所は変わってないなー、なんて思ってないぞー?」
「律先輩だって変わってないじゃないですか!」
胸元を腕で包み隠した梓が、頬を含ませて唇を尖らせる。
色んな所が変わっちゃった私達だけど、このお約束だけは変わらなかった。
胸の事とは一言も言ってないのに、それに気付く梓もお約束を分かってるよな。
安心しちゃいけない事なのかもしれない。
でも、私は少しだけほっとした気分だった。
実を言うと、梓の胸は若干、少しだけ、ほんの少し、微量、成長してる気もしないでもない。
ずっと会えてなかったせいかもしれないけど、いつの間にか梓も成長してるように見える。
身長は変わってないみたいだから、成長したのは胸だけになるのかな。
……成長したのが胸だけって、何かエロいぞ。
ひょっとすると、誰かに揉まれて成長したのかもしれない。
梓が誰かに胸を揉まれてる様子をちょっと想像してしまう。
……しかし、その相手が純ちゃんしか思い浮かばんな。
同性愛的な意味じゃなく、梓は純ちゃんによく胸を揉まれてる気がする。
その場面に遭遇した事はないけど、途轍もなくそんな気がする。
いや、絶対にそうだ。
何故ならば、私もよく澪の胸を揉んでるからな!
……自慢して言う事じゃないが。
そういや、気のせいかもしれないけど、
私が揉むようになってから澪の胸が成長し始めた気がする。
中学時代、膨らみかけの澪の胸が面白くて、
殴られながらも何度も揉んでやったからなあ……。
それで気が付いたら、今のサイズになってたんだよな。
そうか……。
あのボインは私が作り上げた物だったのか……。
くそう、こんな事なら私の胸も澪に揉ませておくべきだったかもしれん……。
「怒るなって」
ちょっと笑いながら、私は梓の頭に手を置く。
梓はもう少しだけ頬を膨らませていたけど、すぐに苦笑を浮かべて私に身を任せた。
それから、軽く頭を撫でると、梓は目を細めたみたいだった。
子供みたいなやりとりだけど、何だか嬉しくて心地いい。
こういう所だけは、お互いに変わってないんだよな……。
私は自分が笑顔になっていくのに気付く。
暑苦しいけど、何故か気持ちいい太陽の光が私達を包んだ。
風に揺れる木々の音だけが耳に届く。
煌めく空間と煌めく時間に二人は包まれる。
「何かさ、まるで……」
その時、私は私らしくないロマンチックな台詞を言おうとしていた。
普段なら、ロマンチック過ぎて笑っちゃうくらい歯の浮く台詞を。
その台詞はどうにか喉の奥でギリギリ止めた。
本当はその台詞を言って笑っちゃいたかった。
梓と二人でもっと笑顔になりたかった。
でも、その台詞は言えなかったし、言いたくなかった。
今言うと、洒落にならない台詞だったからだ。
『まるで世界に私達二人しか居ないみたいだな』なんて、
現実にはそうじゃないって事が分かってる時にしか言えるもんか。
本当に私達八人しか居ない世界で、そんな事が言えるもんか。
「まるで……、何ですか?」
梓が首を傾げて私に訊ねる。
まったく……、何で私はこんなに余計な事を口にしちゃうんだ……。
「え? あー……、その……だな……」
口ごもりながら、必死に頭の中で言い訳を考える。
こんな時にわざわざ梓を不安にさせる事を言う必要なんてない。
どうにかそれっぽい事を言って、誤魔化さないと……。
そうだな……。
「まるでデートでもしてるみたいだな」とでも言ってしまおうか。
それなら梓も呆れた顔で、「何、言ってるんですか」と苦笑してくれるだろう。
まあ、梓もムギみたいに『女の子同士っていいな』って思ってる可能性もある事にはあるけどさ。
でも、例えそうだとしても、梓が好きなのは唯か澪か純ちゃんになるはずだ。
だから、大丈夫。
そう言って、軽い笑い話にしてしまおう。
「まるでデートでもし……」
そこまで私が口を開いて言った瞬間だった。
さっきまでより、少しだけ強い風が吹いた。
一陣の……、風が……。
不意に。
どうしようもなく不安になって、
気付けば私は梓の身体を自分の胸元に強く引き寄せていた。
強く強く、梓を抱き締めていた。
強い風と人が居なくなった事には、因果関係なんかない。
和の言葉じゃないけど、色んな現象を繋げて考えるには情報が少な過ぎる。
でも、そんな事は関係無かった。
もう誰にも消えてほしくない。
今は幸いにも私と仲が良い皆が残っているから、どうにか耐えていられる。
何とかかんとか、正気でいられる。
これ以上誰かを失ってしまったら、私はきっと耐えられない。
私だけじゃなく、唯も澪もムギも梓も憂ちゃんも純ちゃんも和も絶対に耐えられない。
だから……、これ以上、誰にも居なくなってほしくないんだ……!
風は一瞬で吹き抜けていった。
あっという間だ。
三秒も吹いてなかっただろう。
でも、とても長い三秒だった気がする。
恐る恐る私は胸の中に抱き寄せた梓に視線を向ける。
……よかった、と私は小さく溜息を吐く。
私の胸の中には、梓が小さな身体が変わらずあった。
安心したと同時に、違う不安が私の中に湧き上がってくる。
突然抱き寄せちゃったから、梓を驚かせちゃったかもしれない。
無我夢中だったけど、どうにも風がトラウマになっちゃってるよな、私……。
「いきなり悪かったよ、梓……。
ちょっと風が強かったからさ、それで……」
言いながら、私は胸の中の梓を解放しようと手を離す。
でも、梓の身体は何故か私の胸元から離れなかった。
そこで私はようやく気付いた。
私が抱き寄せたみたいに、梓も私の背中に手を回してたんだって事に。
「あず……さ……?」
状況が呑み込めずに、私は間抜けな声色で呟いてしまう。
腕の力は弱めず、強く私の背中に回したままで梓は囁いた。
「大丈夫ですよ……」
「大丈夫……?」
「私はここに居ますから。ここに居るんですから。
律先輩だって私の腕の中に居ますよ……。
だから……」
それは私に伝えてくれた言葉だったのか、
それとも梓が自分自身に言い聞かせていた言葉だったのか……。
どっちかは分からなかったし、どっちでもよかった。
今は二人、まだこの世界に居られてるって事が嬉しい。
私が梓を失う事が恐くて仕方が無いように、
梓だって少なからずは私を失う事を恐がっているんだろうから……。
◎
グラウンド横のベンチに梓と二人で座り、静かに空を見上げる。
強い風が吹いた後、私と梓かのどちらともなく、
手を引き合っていつの間にかベンチに腰掛けていた。
私の右手には梓の左手が重ねられている。
私は梓のその手を払わずに、梓の体温を感じる。
手を繋ぐ。
心を繋ぐ。
お互いが隣に居るんだって事を、二人で実感し合いたかった。
私達の視線の先には、
人が居なくなる前と何も変わらなく見える青空が広がっている。
眩しくなるくらいの青空。
雲一つ無いってわけじゃないけど、ほとんど快晴って言ってもいい爽やかな空。
梓と二人で見上げられる青空。
こんな状況でさえなければ、どんなによかっただろう。
でも、久し振りに梓と二人で空を見上げられるのは嬉しくて……、
少し照れ臭かった。
実を言うと、高校時代、梓と二人きりで話す事は少なかった気がする。
梓と二人きりになるのを避けてたわけじゃない。
何となくタイミングが合わなかっただけだ。
まあ、普通に考えれば、そりゃそうなるよな。
二年の頃は唯とムギと三人で、三年の頃は澪を含めた四人で部室に行ってたんだ。
梓とは部室で顔を合わせるのがほとんどなのに、
これじゃ梓と二人きりになるタイミングなんて、そうは出来ないだろう。
だったら、休日に梓を呼び出して二人で遊べばいいんだろうけど、
そこまでして梓と二人きりになる理由なんて無かったし、そうするのはどうにも気恥ずかしかった。
梓には梓の付き合いもあるだろうし、
いつも顔を合わせてるのに休日まで先輩から呼び出すってのもな……。
思い返してみると、二人きりじゃないけど、プライベートな梓と遊べたのは、
ハンバーガー屋で憂ちゃんと一緒に居た梓を見つけた時、それと花火大会の時くらいになるのかな。
……いや、もう一回くらいあったっけか……、とにかく、そんな所だろう。
今はそれをちょっと後悔してる。
照れたりせずにもっと梓を遊びに誘ってればよかったんだ。
二人きりで話す機会も増やせばよかったんだ。
そうすれば、私はもっと梓の事を考えてやる事が出来たんだろうから……。
だけど、まだ遅くない。
遅くない……と思う。
こんな状況になっちゃってはいるけど、
梓と二人で話す事は絶対に無駄にはならないはずだ。
私達の心の中に居座る不安だって、少しは晴らしていけるはずなんだ。
だから、もっと梓と話したい。
少なくとも、私と私達が音楽と梓の事を忘れてない事だけは伝えたい。
何があったって、私達を繋げてくれた音楽だけは絶対に忘れたくないんだって。
緊張して鼓動する心臓を抑えながら、私はどうにか小さく口を開く。
「なあ、梓……」
「何ですか、律先輩……?」
視線を空の方に向けたまま、梓が小さく呟く。
一見、私の事なんて興味無さそうに見える梓の素振り。
でも、それは違うんだって事は、私の右手を強く握る梓の左手から強く感じられた。
私が恐いのと同じ様に、梓だって恐いんだ。
これ以上誰かを失ってしまう事が。
勿論、私だけじゃなく、残った誰かの一人でも欠けてほしくないと感じてるはずだ。
だから、梓は私の手を強く握って、でも、私の方に視線を向けないんだと思う。
三日前、人の姿が消える瞬間を直接目撃したのは梓だけだ。
その衝撃がどれくらいのものだったのか、経験してない私には分かりようもない。
でも、すごく恐かったんだろうって事だけは分かる。
それこそ何もかも信じられなくなったはずだ。
そこにあったはずのものが一瞬で消え去ってしまったんだから。
でも、まだ一つだけ信じられるものがあって……。
だからこそ、梓は私の手を握ってるんだ。
まだ一つだけ信じられるもの……、
それは多分、誰かの温もり、誰かの体温なんだろう。
元々、誰かの肌の温もりに弱い所がある梓だけど、
世界から生き物が消えてしまってから、その様子が更に目立つ様になった気がする。
純ちゃんに撫でられた時も、普段よりは抵抗してなかった気もするしな。
それはきっと、生き物が消える瞬間、梓が唯に抱き締められてたからだと思う。
もう目も耳も信じられない。
自分を包んでくれていた人肌の温度以外は……。
そう考えているから、梓は私と手を繋いだまま離さないんだ。
手を繋ぐ事で皆の心を繋いで、この世界に皆の存在を繋ごうとしているんだろう。
私の勝手な推測だけど、それは多分、間違ってないはずだ。
その考えは、嬉しくはある。
どんな形でも、私が梓に必要とされるのは嬉しい。
でも、それ以上に寂しかった。
私達の体温、肌に触れる物しか信じられないって考え方は、
私にとっても、梓にとっても寂し過ぎるじゃないか。
それじゃ私達を繋げてくれた音楽が、意味を失くしてしまうって事になるじゃないか。
だから、私はそれを言葉にしようと思った。
上手く伝えられる自信は無いけど、どうにか言葉にして届けたかったんだ。
「さっきさ、私、ドラムの腕が落ちちゃってるかも、って言ったよな……?
忙しかったのは本当だし、卒業前より腕も結構落ちちゃってるって思うよ。
でも……、でもさ……、私、ドラムはちゃんと続けてるんだぜ……?」
言い訳っぽかったとは、自分でも思う。
梓が悲しそうな顔をしたから、無理な言い訳をした。
そう思われても仕方が無かったけど、嘘は一つも言ってなかった。
途轍もなく嘘っぽいかもしれないけど、嘘なんかじゃないんだ。
その想いは少しでも梓に伝わったんだろうか……?
梓と繋いでる手のひらに汗が滲み出て来るのを実感する。
勿論、夏の熱気のせいなんかじゃない。
緊張から出た汗が手のひらを濡らしていく。
汗に濡れた私の手を握る梓は嫌な気分になってるんじゃないかって、
そんな事を考えてる場合じゃないのに、また汗と一緒に不安が溢れ出て来る。
不意に梓が私と繋いでいた手を離した。
一瞬、自分が泣きたい気分になるのを感じる。
やっぱり私の言葉は信じてもらえなかったのか?
嫌な汗に濡れた手なんて繋ぎたくなくなったのか?
ひどく、胸が痛い。
でも……。
梓は離した手ですぐに私の手を掴み、
私の手のひらを上に向けてから私の方に顔を向けた。
その顔には晴れやかとまでは言えなかったけど、優しい微笑みを浮かべていた。
「分かってますよ、律先輩……。
練習嫌いな律先輩ですけど、
ドラムが好きなんだって事は私だって分かってます。
腕が落ちてるかもって律先輩から聞いて、
さっきは驚きましたけど……、不安だったんですけど……、
でも……、律先輩と手を繋いで気付けました。
ドラムの練習を続けてくれてるんだな、って。
だって、ほら……」
言いながら、梓が右手を伸ばして私の右の手のひらに触れる。
主に指の付け根……、まめになって皮の剥けて所を触りながら、梓はまた微笑む。
「もう……、律先輩ったら……。
練習……してるじゃないですか……。
こんなにまめも作って、厚くなってるはずの皮まで剥けてしまうくらい……。
律先輩ったら、もう……」
胸が一杯になってしまったんだろうか。
それ以上、梓は言葉を続けなかった。
言葉はもう必要無いと思ったのかもしれない。
確かにそうだった。
私がいくら言葉にしても言い訳にしかならなかったのに、
私の手のひらは私の言葉以上に私の想いを梓に届けてくれた。
梓の言葉通り、私の手のひらは最近の猛練習で結構ボロボロだ。
女子大生としてはどうかと思うけど、梓を安心させられたならそれでいいのかもな。
最終更新:2012年07月09日 21:41