「そういえばさ、憂ちゃんの料理、相変わらず美味しかったよ。
今日の朝ごはんは私も結構頑張ったんだけどさ、
やっぱり毎日台所に立ってる憂ちゃんには敵わないよ。
おみそれしました。私ももっと精進しなきゃな」


「いえいえ、そんな……。
律さんの朝ごはんだって、すっごく美味しかったですよ!
お姉ちゃんも「りっちゃんの料理って、男の料理って感じで美味しいよねー」って褒めてましたよ!」


それは褒められてるんだろうか……。
一応、美味しいと思ってくれてるんなら、まあ、いいけど。
そう思いながら私が苦笑すると、憂ちゃんも私の後ろで苦笑してくれたみたいだった。
私達は唯に憧れてて、魅せられてて、真似をしたいって思う時もある。
でも、真似をしたって、唯みたいに出来るわけじゃない。
私達は私達に出来る何かをするしかないんだろう。

憂ちゃんはそれを私よりも分かってるはずだ。
分かってるから、憂ちゃんは本当に出来た妹になったんだと思う。
お姉ちゃんみたいにはなれないから、別の所で頑張ろうって思ってたんだろうな。
それでしっかりした子になったんだ。

それでも、憂ちゃんの心に不安が無いわけじゃない。
唯が大学に行って、長く唯と離れる事になって、
自分がどうするべきなのか迷っちゃう事もあるんだろう。
だから、唯の真似をしちゃったんだろうな。
唯が居ない場所では、自分が唯の代わりになった方がいいんじゃないか、ってそう考えて。
多分、ほとんど無意識な内に。
それくらい、憂ちゃんと私の心の中では唯の存在が大きいんだ。

私は唯の事が大好きだ。
でも、憂ちゃんの事だって好きだ。
友達の妹だから少し距離感が掴めないけど、嫌いなわけじゃない。
憂ちゃんに唯の代わりを求めてるわけでもない。
だから、私は憂ちゃんに言うんだ。


「そういや、憂ちゃんの胸って唯より小さいよね」


突拍子も無い発言だったし、正直言ってセクハラだった。
怒られても仕方が無かったけど、憂ちゃんは怒るどころか笑ってくれたみたいだった。


「あはっ、そうですね。
実はお姉ちゃん、最近、また胸が大きくなってきたみたいなんです。
ブラジャーも合わなくなってきたみたいなんで、
この前、お姉ちゃんに頼まれて買いに行ったんですけど、予想以上のサイズでしたよ」


唯もブラぐらい自分で買いに行けよ……。
若干呆れたけど、今はそれはどうでもいい事だった。
やっぱり唯と憂ちゃんは似てるみたいで違う所は違ってるんだ。
当たり前の事だけど、何だか嬉しかった。
込み上げる笑顔を隠し切れず、少し笑いながら私は続ける。


「さっき憂ちゃんは私を驚かせようと思って、唯の真似をしたんでしょ?
しかし、その技、私には効かなかった!
何故なら、唯と憂ちゃんでは胸の大きさが違うからな!
ふはははは! 胸を大きくして出直して来い!
唯の真似をしたって、憂ちゃんは憂ちゃんなのだよ!」


また何だか失礼な発言だった。
大体、憂ちゃんの胸だって、
そんなに小さいわけじゃないし、悲しい事だけど正直私の胸よりはかなり大きい。
唯と差が付いてるのも、単に唯がよく食ってるから、
その分の栄養が胸に行ったってだけの話なんだろうと思う。
食った栄養が胸に行くタイプなんだよな、あいつは……。
あの野郎……!

私の言葉を聞いて、憂ちゃんは少しだけ黙っていた。
ひょっとして調子に乗り過ぎちゃったか?
そういえば憂ちゃんが怒った所を私は見た事が無い。
怒りの沸点も分からない。
ほんの少しの沈黙だったけど、何だか不安になってくる。

一瞬、憂ちゃんが私から身体を離した。
不安になっていたせいか、私から身体を離す憂ちゃんの腕を掴む事も出来なかった。
やっぱり、怒らせちゃったんだろうか……?
バスチェアに座ったまま恐る恐る振り返ると、
急に憂ちゃんが腕を広げて笑顔で飛び掛かってきた。


「もう、律さんったら……。
女の子に胸の事を言っちゃ……、めっ! ですよ」


正面から私に抱き着きながら、憂ちゃんが私の耳元で囁く。
唯の真似をして私の背中に抱き着いていた憂ちゃんが、
自分の意思と自分の言葉で私に真正面から抱き着いてくれたんだ。
単にふざけてやった事かもしれない。
深い意味があっての行動じゃないのかもしれない。
でも、憂ちゃんが自分の意思で抱き着いて来た事だけは確かだ。
私はそれがとても嬉しい。

世界から私達以外の生き物が居なくなる……。
異常で困り果てた状況だけど、こんな事でもなければ、
私は憂ちゃんと一緒に裸の付き合いをする事は無かっただろう。
感謝はしないけど、この状況もちょっとだけ悪くないとは思えた。


「あはは、ごめんごめん。
ちょっとふざけ過ぎちゃっ……てぇっ!?」


瞬間、私は妙な声を出してしまっていた。
妙な声を出したのは、私がバランスを崩してしまっていたからだ。
真正面から抱き着いて来る憂ちゃんをしっかり抱き留めたつもりだったけど、
自分で思ってる以上に風呂に浸かり過ぎてたみたいだった。
予想以上に筋肉が緩んでたらしい。
憂ちゃんの身体を支え切れず、私達はプールサイドに倒れ込んでいく。

まずい……!
せめて憂ちゃんだけは護ろうと抱き締めながら、全身で衝撃に備える。
心配する事は無い。
倒れ込んだ所で所詮はプールサイドなんだ。
ちょっと擦り傷が出来るかもしれないけど、それくらいなら大した事が無いはずだ。
大丈夫だ、問題無い。

数秒後、二人してプールサイドに軽く倒れ込む。
衝撃は思ったよりも少なかった。
憂ちゃんだって、そんなに勢いよく私の胸に飛び込んで来たわけじゃないんだ。
大事故になるはずもない。
ほら、やっぱり大した事無かったじゃないか。

だけど……、私は気付いてしまった。
倒れた拍子に風呂桶に汲んでいたお湯をこぼしてしまっていた事を。
お風呂の温度調整のために、熱湯に近い温度で置いていたお湯をこぼしてしまった事を。
そのお湯が私の右手の上にこぼれてしまっていた事を。

刹那、軽い熱さを感じる。
お湯が冷め切っていたわけじゃない事は私にも分かっている。
その熱さは神の与え給うた確かな猶予。
本当の熱さが訪れるまでの数瞬の時間……。
刹那の熱さが教える、後に襲い来る熱量……。
数瞬……、そして約束通り訪れる、予測を下回る事の無い熱さ!!!


「うおわっちゃああああああ!」


絶叫。
悪いと思う時間も無く、私は目の前の憂ちゃんに抱き着きながら悶絶する。
火傷するほどの温度のお湯じゃない。
最初は熱湯だったとは言え、結構長い間放置してたんだ。
完全にではないにしろ、それなりに冷めてはいる。
でも、そんな事は関係無い。
熱いものは熱いんだ!


「すみません、律さん……!
だ……、大丈夫ですか……っ?」


おろおろしながら憂ちゃんが私を気遣ってくれる。
大丈夫な事は大丈夫だ。
でも、今はそれを声に出して言う余裕が無かった。
憂ちゃんには申し訳ないけど、もう少しだけ身体を掴ませていてもらおう。
何処かが痛い時って、何故か何かを掴んでると痛みが引く気がするしな……!
だから、熱さがもう少し和らぐまで、何かを掴んでいたい……!

不意に。
プールサイドに憂ちゃんじゃない誰かの足音と大声が響いた。


「どうしたのっ、りっちゃんっ? 大丈夫っ?」


熱さに耐えながら、何とか声の方向に視線を向けてみる。
プールサイドに駆け込んで来たのはムギだった。
どうしてこんな所に? とは思わなかった。
ムギとは風呂の後に町を回る約束をしてたからだ。
グラウンド脇辺りで私達の風呂が終わるのを待っていたんだろう。
それで私の絶叫が聞こえて、何事かと思って駆け込んで来てくれた違いない。


「えっ……?」


ムギが小さな声を漏らす。
その表情はムギが滅多に見せない呆然とした表情だった。
どうしたんだろう、と私が思う暇もなく、
今度は見る見る内に顔を真っ赤にさせていった。


「ご……、ごめんなさいっ!
お、お邪魔しちゃったよね!
本人同士が良ければいいと思うし……、ごゆっくりぃっ!」


ムギはそう早口に叫んで、
赤い頬を両手で押さえながらプールサイドから駆け出して行った。
プールサイドにムギが居た時間、実に十秒。
次に呆然とするのは私達の番だった。

一体、どうしてムギはあんなに顔を真っ赤に……。
そこまで考えて、今更ながらに気付いた。
私と憂ちゃんが寝転がりながら抱き合ってる(様に見える)事に。
全裸で。

しかも、あの様子だと私が叫んだ理由も勘違いしてる気がする。
何と言うか……、ほら……、何だ……。
初めては痛いから叫んだとか……、何かね……、
そういう意味で捉えてるんじゃないかな……?
うん、何の初体験なのかは考えない事にしよう。


「紬さん、どうしちゃったんでしょう……?」


ふと視線を向けると、憂ちゃんが不思議そうに首を捻っていた。
ひょっとすると、憂ちゃんは本当に何も気付いてないのかもしれない。
それはそれで幸いな事なんだろうけど……、しかし、何なんだこれ。
どうしてこんな事に……。
私は右手の熱さが結構治まってきたのを感じながら、
後でムギに今の私達の状況をどう説明したらいいものか頭を悩ませた。





憂ちゃんと裸で抱き合ってた(様に見えた)って誤解を解いた後、
私はムギと二人で私の実家に来て、ムギに居間で待ってもらっていた。
時間が掛かるかもしれないと考えてたけど、意外にムギの誤解は早く解けた。
「お湯で火傷しちゃったから、憂ちゃんに介抱してもらってたんだよ」と弁解すると、笑ってくれた。
「そうだよね……。大丈夫だよ、りっちゃん。応援してるから頑張ってね」と言ってくれた。
……何か誤解が全く解けてない気がするが、解けたという事にしとこう。

誤解を解こうと必死になるのも逆に怪しいし、それにムギは頭の悪い奴じゃない。
今こそ嬉しそうに超うっとりしてるけど、
後で冷静になって考えてみると、自分の誤解だったって事に気付いてくれるはずだ。
今はムギに対してムキになっても仕方が無い。
いや、これ、駄洒落なんだけど。

それにしても、ムギってまだ女の子同士の関係が好きだったんだな……。
昔ほど夢中になってる様子は見せないけど、やっぱり好きなものは好きらしい。
軽音部の中で出会った頃から一番印象を変えたのはムギだろう。
澪は幼馴染みだし、梓は自分のスタンスを変えない奴だし、
私に言えた事じゃないけど、唯は高一の頃から何もかもそのまんまだ。

その点、ムギは本当に変わった。
私と……、特に唯の影響を受けたのかな?
出会った当初はお嬢様っぽいしっかりした奴に見えたんだけど、
今じゃ唯と一緒に狙ってない天然でボケ倒す事も多くなったと思う。
たまに唯とムギの天然に突っ込むのに疲れる事もある。
でも、それは心地良い疲れだ。
楽しくて、面白くて、大笑いして、そうして感じる疲れは、心地良くて嬉しい。

でも、色々変わったムギだって、変わってない所があるみたいだな。
言うまでもなく、百合趣味だ。
最近は百合の話をあんまりしなくなったから好みが変わったのかと思ってたけど、
さっきの様子を見る限りは、単に声を大にして話さないようになっただけらしい。
それを改善と考えるか、悪化と考えるかは人それぞれって事で。
だけど、ムギにもずっと変わってない所があるんだと思うと、ちょっと嬉しくなる。


「そういや、確かここに……」


苦笑に似た笑顔を浮かべながら、私は自室の本棚に視線を向けてみる。
音楽関係の本と漫画に交じって、一冊だけ異彩を放つその本が変わらずそこにあった。
『青い花』。
百合……、つまり女の子同士の恋愛関係ってのが、どんなのか知りたくて買ってみた漫画だ。
変わった趣味だと思うけど、どんな趣味を持ってたって私はムギが好きだ。
ムギの事をもっとよく知るためにも、一度はその筋の本を読んでおきたかったんだよな。
勿論、それはムギには秘密にしてる。
そういうのは本人に知られずにやらないと意味が無いんだから。

そういや、『青い花』の内容はともかくとして、
この本を買った事で思わぬ事件が起こった事もあったよな。
『青い花』を買って数ヶ月、本の存在自体忘れてた頃に澪が私の家に遊びに来た事がある。
特に何をやるわけでもなく、二人で寝転んでお菓子を食べたり音楽を聞いたりしてると、
不意に澪が本棚から『青い花』を見つけてこう言ったんだ。


「『青い花』じゃないか。
律も結構ハードな漫画を持ってるよな」


うん、おまえが何でそれを知ってる。
私は初めて買った百合漫画が『青い花』だから、
内容がハードなのかどうかは分からないんだが……。
そりゃ、同性愛に悩む描写が想像よりも生々しかったとは思ったけど……。
ひょっとして、内容がソフトかハードか分かるくらいに、百合漫画を読んでるのか?

そんな感じの事を澪に指摘すると、
澪は慌てた様子で「ネットの評判を見た事があっただけ」と言っていた。
後でネットで調べてみると、確かにそういう評判が多いみたいだった。
でも、そういう評判を即座に思い出せる時点で、かなりのもんだと思うが……。

まあ、何処まで本気なのかはともかくとしても、
中学生の頃には同性の先輩の事が好きな女子が結構居たからな……。
バレンタインにその先輩に本命のチョコをあげた子も多かったらしい。
中学生ってのはそういう年頃なんだろう。
ひょっとすると、澪にはその延長で百合漫画を多く読んでた時期があったのかもな。
別に澪が今も愛読してても、私は一向に構わないんだけど。

おっと。
ムギを待たせてるのに、思い出に浸ってる場合じゃなかった。
自室には自転車の鍵を探しに来たわけだし、早く見つけないとな。

さっきムギに頼まれて、今日は私とムギの二人でムギの家に行く事になった。
自宅に何かを取りに行きたいんだそうだ。
自宅の様子を見ておきたいって気持ちもあるんだろうと思う。
勿論、ムギの思うようにさせてあげたかったけど、それには一つ大きな問題があった。
距離の問題だ。

ムギは電車通学で、学校からかなり離れた所に住んでいる。
私達以外の生き物が消えてしまった今となっては、それはかなり辛い。
何せ電車もバスも動いてないわけだからな。
徒歩でムギの家に行くのは、体力的にも精神的にも勘弁してほしい。
車で移動するって手段もあるにはあるが、残念ながら私達は全員無免許なんだよな。

そんなわけで、私とムギは私の家まで自転車を取りに来たわけだ。
学校に置いてある誰かの自転車に勝手に乗るのは、何となく気分が悪いからな。
実家にはまだ私の自転車が残ってるし、
聡愛用のマウンテンバイクや母さんのママチャリもあるんだ。
どれかに乗っていけば、すぐってわけじゃないけど、何とかムギの家にも行けるだろう。


「うー……っと……。
何処に鍵置いたっけ……?」


呟きながら自転車の鍵を探す。
私もあんまり自転車に乗る方じゃないから、鍵を何処にやったかはいまいち覚えてない。
そういや、母さんには、鍵を置く場所を決めておきなさい、ってよく言われたもんだ。
分かっちゃいるんだけど、
自転車に乗って家に帰ると、ついついそれを忘れちゃうんだよな……。
大雑把な娘でごめんなさい、お母様。

と。
不意に胸が痛んだ。
今は母さんのお小言を聞く事が出来ない。
どんなに願ったって今は無理なんだ。
それが寂しくて、とても辛くなった。
今はまだ仕方が無いけど、出来ればそれは『今は』であってほしい。
『もう』母さんのお小言を聞く事が出来ない状況であってほしくない。
いつかは……、こんな異常な状況から解放されたい……。

さっき実家の玄関を開けたばかりの時の事を思い出す。
当然、誰も居なかった。
それだけじゃない。
誰かが住んでるって気配すらなかった。
この家には人が誰も住んでない……。
否応無しにそう感じさせられて、眩暈がする気分だった。

この家、こんなに広かったっけ?
ドラマなんかでよく聞くありがちな台詞だけど、その台詞が私の胸を突いてしまう。
広い……。
本当に広いよ、誰も居ないこの家は……。
誰も存在しないこの世界は……。

突然。
私の部屋の扉がノックされた。
聡……?
一瞬だけそう期待したけど、そうじゃないって事はそのすぐ後の声から分かった。


「ねえ、りっちゃん?
ちょっと見てほしい物があるんだけど、いいかな……?」


ムギの声だった。
居間で待ってもらってたはずだったけど、私に何か用件が出来たらしい。
扉をノックしたのは聡じゃなかった。
そりゃそうだ。この家には私とムギの二人しか居ないんだから。
大体、聡って弟は私の部屋に入る時にも、あんまりノックをしない奴だった。

大きな溜息。
やっぱりもうこの世界の何処にも、私の家族は居ないんだろうか……?
聡をからかってやる事も、母さんにお小言を言われる事も、
だらしのない父さんに説教してやる事も出来ないんだろうか……?
また胸が強く痛むのを感じて、泣いてしまいそうになる。

……駄目だ駄目だ。
私は頭を振って、軽く自分の頬を叩く。
辛いのは皆、同じなはずなんだ。
澪だって唯だってムギだって、辛いはずなんだ。
梓も一見しただけじゃ分かりにくいけど、辛いんだと思う。
だから、私くらいは笑顔でいなきゃな。
部長のりっちゃんはいつでも元気で騒がしくなくちゃいけないんだ。
そうじゃなきゃ、私が皆と一緒に居ていい理由なんて……。

溜息……じゃなくて、深呼吸。
ぎこちないだろうけど、少しは笑顔になれたはずだ。
ちょっとだけ無理をして、高い声で返事をしてみせる。


「あいよ、別にいいぞ、ムギ。
どうしたんだ? 見てほしい物があるって、何か見つけたの?」


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最終更新:2012年07月09日 22:02