言いながら、扉を開く。
扉の先ではムギが少しだけ申し訳なさそうに苦笑していた。
出会った頃はともかく、最近のムギがこんな表情を見せる事は少ない。
私は不安になって、声を低くして訊ねてみる。


「どうしたの? 何かあったのか?」


「ううん、ちょっと……。
それよりね、これをりっちゃんに見てほしいんだけど……」


頭を軽く振ってから、ムギが私に小さな何かを手渡した。
手のひらを開いて、私はその何かをまじまじと確認してみる。
見覚えのある『ひらめきはつめちゃん』のキーホルダー。
キーホルダーと繋がってるその鍵は間違いなく……。


「お、私の自転車の鍵じゃんか。
ありがとな、ムギが見つけてくれたのか?
何処にあったんだ?」


私が言うと、ムギはまた申し訳なさそうな顔で頷いた。
ムギは何も悪い事をしてないのに、
どうしてこんなに申し訳なさそうな顔をしてるんだろう。
それを訊ねるより先に、ムギが頭を下げて言った。


「ごめんね、りっちゃん……」


「何がだ?」


「私ね、お友達の家で一人で待ってるなんて事少なかったから、
はしゃいじゃって、色んな所を眺めさせてもらってたの……。
それでね、田井中家の鍵置き場みたいな所を見つけて、
覗いてみたらりっちゃんの自転車の鍵があったから、それで持って来たんだ。
りっちゃんの自転車の鍵なら何度か見た事があって覚えてたから……。
でも、ごめんね……、人の家をあれこれ探るなんて失礼だよね……」


言葉の後、ムギが落ち込んだみたいに縮こまる。
そんな事を申し訳なく思ってくれてたのか……。
でも、それも仕方が無い事なのかもしれない。
ムギは色んな事を知ってるけど、その代わりに色んな事に経験が無いんだ。
ムギは私達と会うまで、ファーストフードや泊まりがけの遊びや、
カラオケやゲームセンターや……、そんな当たり前の色んな事を知らなかった。
まだ私達が想像も出来ない未体験の何かがあるんだろうと思う。

ムギはそんなほとんどの事が未経験の中で、沢山の事を手探りで経験しようとしてる。
だから、ちょっとした事でも不安になって、ちょっとした事でも申し訳なく思っちゃうんだ。
まだ色んな事が分からなくて、不安なんだ。
世界や世間を精一杯体験して、吸収してる時期なんだ。
特に今は……、そうだな……。
多分、普段出来てた事が出来なくなっちゃってるから、余計に不安になってるんだろう。


「気にするなって、ムギ。
私はムギが自転車の鍵を見つけてくれて助かってるし、嬉しいよ。
居間の鍵置き場にあったなんて、私には想像も出来なかったしな。
下手すりゃずっと部屋の中を探してて、
長い時間、ムギを待たせる事になってたかもしれない。
そんな事になったら私だって気分が悪いよ。
だから、鍵を見つけてくれてありがとう、ムギ」


軽くムギの頭を撫でる。
こんな事でムギの不安を和らげてやれるかどうかは分からない。
でも、ムギはほっとした表情になって、微笑んでくれた。


「私の方こそ……、ありがとう、りっちゃん」


「おいおい、逆だろ、ムギ?」


「そうだよね、ふふっ……、何かおかしいね。
でもね、りっちゃんにありがとうって言いたい気持ちだったの」


「じゃあ、どういたしまして、かな?
ありがとう、どういたしまして。
……日本語として成立してない気がするが、ま、いいか」


私が笑うと、ムギも晴れやかに笑った。
少しだけ、不安を振り払ってあげられたのかもしれない。
これからまた何かがあったとしても、出来る限りはムギの不安を振り払ってやりたい。

悲しい事だけど、私は一つ思ってる事がある。
ムギはきっと完全には私達の絆を信じ切れてないんだと思う。
それはムギのせいじゃない。
どっちかと言うと、私達のせいかもしれない。
ムギはいつも皆に美味しいお菓子を食べさせてくれて、給仕までしてくれる。
それは純粋に嬉しい事で、私達はそんなムギに甘え切ってた。
ムギも楽しくて私達の給仕をやってくれてるはずだけど、
そのせいで今は普段以上に不安が増して来てるんだろうと思う。

理由は単純。
この世界から生き物が居なくなってから三日、
簡単には私達にお菓子を提供出来なくなったせいだ。
勿論、クッキーや飴なんかは大丈夫だけど、
冷蔵庫が使えなくなった上に夏の湿度のせいでケーキ系は全滅だった。
アイスクリームどころかチョコレートですら溶けちゃってる状況だしな。

だから、今の所、ムギは私達にあんまりお菓子を提供出来てない。
当然、私達がムギにお菓子だけを求めてるわけじゃない。
付き合いの浅い大学の友達にはそう見える事もあるみたいだけど、絶対にそんな事があるもんか。
お菓子をくれなくたって、私はムギと一緒に居たいし、一緒に遊びたいんだから。
勿論、澪や梓、お菓子に目が無い唯だってそう思ってるだろう。

だけど、大学の友達が遠くから見てて、
私達とムギの関係がお菓子ありきの関係に見えるって事は、そういう要素があるって事でもある。
もしかすると、私達が知らないだけで、
ムギはクラスメイトの冗談を聞く事があったのかもしれない。
「軽音部の皆って、ムギ本人よりムギのお菓子が目当てなんじゃないの?」って。
そんな他愛の無い冗談を。

勿論、それは単なる悪意の込められてない冗談だ。
そう見える事もあるから訊ねてみただけ、ってそれだけのはずだ。
でも、悪意が無くたって、冗談だって、傷付いちゃう事はある。
特に心の片隅で思わなくも無かった事を指摘されてしまったら、
本当にそうなのかもしれないって嫌でも考えてしまうものだから……。

だから、多分、ムギは今とても不安になってる。
今はまだ残りがあるから大丈夫だけど、
これから後、お菓子を完全に提供出来なくなってしまったら、
自分には存在価値が無くなるんじゃないか、って不安になってるんだ。
そんな不安があるから、小さな失敗でも気になり始めてるんだろうと思う。

何とかしてやりたいって思う。
その責任の一端は、ムギの好意に甘え切ってた私にもあるんだ。
ムギの不安をもっと和らげて、信じさせてあげたい。
何も持ってなくたって、私達は仲間で居られるんだって。
それが部長だった私に出来る最善の事だ。
私はもう一度だけムギの頭を撫でてから、出来る限り明るく言った。


「そういや、どうして鍵置き場に私の自転車の鍵があったんだ?
これまで居間の鍵置き場に、自転車の鍵を置いた事は無かったはずなんだけど……。
家の何処かに落としてたから、母さんが鍵置き場に入れておいてくれたのかな?
本当、危うくムギを無駄に待たせちゃう所だったじゃんかよ……」


お菓子の事については触れなかった。
いきなりお菓子の話題になるのはあんまりにもわざとらし過ぎるし、
これからはお菓子以外の事でもムギに感謝してるって事を伝えてった方がいいと思ったからだ。
こんな時だからこそ、普段以上にムギの事を大切にしたい。
まだそんな私の気持ちは伝わってないだろうけど、ムギが笑顔で私の質問に応じてくれた。


「あ、それなんだけど、
私、りっちゃんのお家に入る前に気付いた事があるの。
多分、りっちゃんのお母さんの自転車だと思うんだけど、パンクしてたみたいだよ。
それでお母さん、今はりっちゃんの自転車を使ってるんじゃない?」


「あー……」


名推理に思わず納得してしまった。
大雑把に定評のあるうちの母さんだけに、間違いなくムギの言う通りだろう。
私が大学に入って以来、自宅の自転車は使ってなかったから、
ちょうどいいや、と思って、私の部屋から私の自転車の鍵を持ち出したんだろうな。
パンクくらい修理しろよ……、と思わなくもないけど、
私が母さんの立場なら同じ事をしてそうだから、簡単に文句は言えんな……。

しかし、母さんの自転車、パンクしてたのか……。
一瞬しか見てないはずなのに、そのムギの観察力には舌を巻く。
流石は名探偵ムギ。
『ごはんはおかず』の歌詞に見立てた連続失踪事件を解決出来る女……。
第一に消えたのは……、えーっと……、ごめん。
やっぱ『ごはんはおかず』を連続失踪事件に絡めるのは、私の発想力じゃ無理だ。

それより、参ったな……。
ムギには母さんの自転車に乗ってもらうつもりだったんだが……。
父さんは自転車持ってないし……。
こうなると私が聡のマウンテンバイクに乗って、ムギに私の自転車に乗ってもらうしかないか。
いや、別にムギがマウンテンバイクでもいいんだが、何か似合わないからな……。
とにかく聡のマウンテンバイクの鍵を探さなくちゃな。
よし、と呟いてから、私はムギの手を取った。


「じゃあ、聡の部屋に聡の自転車の鍵を探しに行くぞ、ムギ。
あいつも私と一緒で鍵置き場に鍵を置くタイプじゃないから、鍵は部屋に置いてあるはずだ。
一応聞いておくけど、聡の自転車の鍵、居間には無かったよな?
前見た時から変わってなけりゃ、あのキーホルダー……、ほら、あれだよ。
前ムギに貸した『はるみねーしょん』のキーホルダーが付いてるやつなんだけど……」


「うん、『はるみねーしょん』のキーホルダーは見当たらなかったはずだよ。
でも、りっちゃん……と言うか、田井中家の皆って大沖先生の漫画が好きなんだね。
お母さんの自転車の鍵にも、大沖先生の漫画のキーホルダーが付いてるみたいだったし」


「いやー、何故か家族全員ではまっちゃってさ。
『ひらめきはつめちゃん』と『はるみねーしょん』を見分けられるムギも相当なもんだと思うけど。
ま、とにかく聡の部屋に行こうぜ。
何処にあるかまでは見当も付かないけど、多分、探せばあるだろ」


「いいの? 聡くんの部屋に勝手に入っちゃっても。
りっちゃんはともかくとしても、私まで……」


「いいよ。聡の部屋に入るのは、姉である私が許可します。
女子大生が自分の部屋に入るなんて、男の子のロマンというものだぜ。
惜しむらくは部屋の持ち主本人が部屋に居ない事だが、それはノータッチの方向で。
まあ、聡だって、漫画取りに私の部屋に結構勝手に入ってるんだからな。
お互い様ってやつだ」


私が意地悪く笑ってみせると、急にムギが羨ましそうな顔を浮かべた。
遠い目をしながら、小さく呟く。


「弟かあ……。いいなあ……」


「そうか? 居たら居たでうるさいもんだよ?」


「それでも羨ましいな。
女の子同士の姉妹とは違った、新鮮な感覚になりそうだもん。
うるさいって言ってるけど、りっちゃんだって聡くんの事好きなんだよね?」


「いや、弟に好きとかそういう……」


言い掛けたけど、その言葉は止めた。
ムギが妙に真剣な視線を向けて来ていたからだ。
ムギにそんな真剣な表情をされちゃったら、私だって真剣に返すしかないじゃないか。


「……まあ、嫌いじゃない……かな」


私が呟くみたいに返すと、「よかった」とムギが笑った。
あんまり話した事は無いけど、ムギにも兄弟みたいな親戚でも居るんだろうか。
そのムギの表情からは、そんな誰かを失った寂しさが感じられる気がした。

寂しさ……か。
軽音部の皆が傍に居てくれてるおかげでもあるけど、
生き物が消えてしまってから、一番気に掛けてしまってるのは弟の聡の事だ。
うるさくて生意気なんだけど、やっぱり弟だからな……。
あいつが居ないと、寂しいし、辛い……よな。

だけど、それを口にするのは照れ臭かったし、
まだ聡を完全に失ってしまったとは考えたくなかった。
聡は何処かで元気に生きてる。
いつか……、いつか絶対、何処かで再会出来る……。
出来るはずだ……。
だから……、私は拳を振り上げて元気よく宣言してみせた。


「とにかく、聡の部屋で自転車の鍵を探すぞ!
名探偵ムギの事は頼りにしてるんだから、お願いしますよ、ムギ先生!
感覚を研ぎ澄まして、全身全霊全神経の捜査の始まりだ!」


「らじゃー!」


ムギが敬礼のポーズを取り、
それを見届けると、私はムギの手を引いて聡の部屋に向かった。
さて、捜査開始だ!
全身全霊全神経っつっても、しらみつぶしに探すだけなんだけど。
でも、自転車の鍵くらい、すぐに見つかるだろ、多分……。





聡の部屋でマウンテンバイクの鍵はすぐに見つかった。
予想通りと言うべきか、聡の奴はズボンのポケットの中に鍵を入れたままにしていた。
こういう所、姉弟だな、って思う。
私も鍵をズボンに入れっ放しにしてる事って、結構あるからなあ……。
変な所だけ似てるもんだよな。

あんまり簡単に見つかったのがつまらなくて、
折角だから聡のベッドの下も何となく探してみたら、
何処で手に入れたのか分からないけど、エロエロな本が見つかった。
あの年でエロ本を手に入れるのは至難の技のはずなんだけど、
友達のコネか何かで頑張って入手したんだろう。
頑張ったな、若造。
それはいいんだが、隠し場所はもうちょっと工夫しようぜ、我が弟よ……。
多分、この場所だと、母さんもエロ本を隠してるの気付いてるぞ。

意外にも興味津々な様子のムギと一緒にエロ本を開いてみると、
パツキンのボインちゃんで脚がグンバツのチャンネーばかり載っていた。
言い方が古いかもしれんが、そうとしか言えない写真ばっかだったんだ。
何となく気になって発行日を見てみると、昭和六十二年と記されていた。
すげー古い……。
多分、頑張ったけど、これしか手に入らなかったんだろうな……。
弟の血の滲む努力の成果に、姉として何か泣けてくるぞ……。
勿論、ひょっとしたら単にこういうチャンネーが好きなだけかもしれないけど。

そうだとすると、私に対する悪意を感じないでもないな。
スタイルの良いボインのチャンネーが大好きとか、私への皮肉か。
どうせ私は男の子と間違えられる貧相な肉体だよ。
最近は梓にも胸のサイズで負けそうでマジで辛いんだよ……。
いつもじゃなくていいから、心の底では弟として私を応援してくれんか……。

そう思わなくもなかったけど、それはすぐに思い直した。
よく考えると、私と似たタイプを好みと考えられる方が遥かに困るな。
姉としてはそっちの方が複雑だ。
喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、かなり判断に迷うぞ。
隠されてたエロ本が今あるボインちゃん本じゃなくて、
『貧乳お姉ちゃん特集』の本だったりしたら、私はどうすりゃいいんだ……。
そう考えると、聡の好みのタイプが貧乳じゃなかったってのは、逆によかったのかもな……。
いや、貧乳って言うな。

何とも複雑な気分になりながら、私は聡の机の中心にエロ本を置いておいた。
エロ本を見つけた時は、机の上に整理して置いておく。
これが世間一般の礼儀らしい。
漫画で読んだ知識なんだけど、一度はやってみたかったんだ。
……とムギが言っていた。
何つーか、相変わらず知識が隔たってるよな、ムギは。

勿論、私にも別に異論は無かった。
聡の机の上にエロ本を置いてから、私達は名残惜しく聡の部屋を後にした。
名残惜しかったのは、当然だけど最後まで聡が姿を現さなかったからだ。
当然だけど……、仕方が無いけど……、でも、私は心の何処かで期待してた。
ムギも多分、期待してた。
エロ本を見つけた時に限って、都合よくそれを弟に目撃される。
そんなお約束な場面を心の何処かで期待してたんだ。
あるわけないのに、単なるお約束なのに、それでも……。
そんなのにすがり付きたいくらい、私は……。

でも、いつまでもすがり付いてたって、意味が無いって事も私達は分かってる。
だから、未来でいい。
出来る限り近い未来がいいんだけど、遠くたって構わない。
未来、聡が机の上のエロ本を見つけて、恥ずかしさで悶えてくれればいい。
それで私に文句を言いに来てくれれば嬉しい。
せめて、その願いくらいは叶ってほしい。
叶ってくれないと、悔し過ぎるじゃんか……。

悔しさを隠し切れないまま、私が母さんの自転車に乗り、
ムギが聡のマウンテンバイクに乗って、実家から飛び出していく。
最初は私が聡のマウンテンバイクに乗ろうかと思ってたんだけど、
ムギがマウンテンバイクに乗りたいみたいだったから、それはムギに譲った。
別に誰がどっちに乗ったっていいわけだしな。
まあ、ムギにマウンテンバイクってのは、究極的にミスマッチだけどさ。

私は自転車でムギの家に向かいながら、
何となく一つ馬鹿みたいな思い付きをムギに発案してみた。
「誰も居ないんだから、道路の真ん中を通ってムギんちまで行こうぜ」って、
そんな我ながら馬鹿馬鹿しい発案をしてみたんだ。
根が真面目なムギだけに、最初は複雑そうな表情をしてたけど、すぐに頷いてくれた。
「面白そう。折角だしやってみようよ」って言いながら、笑ってくれた。

ムギも私と同じに悔しかったんだと思う。
こんな状況になっちゃって、理不尽に巻き込まれて、
そんな現状に対して、何かの抵抗をしてやりたい気分だったんだろう。
これはまだ何も出来てない私達がやってやれる、小さな小さな反抗なんだ。
馬鹿みたいだけど、そんな悪ふざけでもしなけりゃ、やってけないよな……。


「行くぞ、ムギ!」


13
最終更新:2012年07月09日 22:06