私は意を決し、大声を出して道路の真ん中に自転車で飛び出した。
すぐにそれに続き、ムギも道路の真ん中を通り始める。
誰も居ない事は分かってるのに、何だか緊張する。
悪い事をしてる、って感じのちょっと後ろめたい気分なんだと思う。
実際はそんなに悪い事じゃないのに、ついドキドキしちゃってるのは私が小市民だからかな。

でも、私よりもずっと真面目なムギは、もっとドキドキしてるらしい。
ムギの家まで先導するために私を追い越すと、
緊張を和らげるためか軽く鼻歌を歌い出していた。
曲は『Honey Sweet Tea Time』みたいだった。
放課後ティータイムの曲の中で、唯一ムギがメインボーカルを務めた曲だ。
やっぱり、持ち歌の方が鼻歌としては使いやすいんだろうな。

しばらく、ムギの鼻歌を邪魔しないよう、黙ってムギの後に続いた。
結構遠いムギの家だけど、自転車を使えばそんなに時間が掛かるわけじゃない。
ムギが家に取りに行きたいって言ってた何かもすぐに見つかるはずだ。
その後は和に頼まれてた街の地図を本屋から拝借し、
それとドーナツ屋に寄ってから、早めに学校に戻ろうと思う。
夕食の準備をしておきたいし、純ちゃんにドーナツの差し入れもしたいからな。
スーパーじゃないオールスターパックに純ちゃんは喜んでくれるかな……?

それにしても、と私の前を進むムギを見ながら思う。
ムギと自転車で遠出をするのは、すごく久し振りだ。
ムギと自転車に乗ったのは高一の頃……、夏休みに入る直前くらいだった気がする。
何だか懐かしい。
あの頃、ムギって自転車に乗れなかったんだよな……。
いや、完全に乗れないってわけじゃなくて、少しは乗れてたんだけど、
遠出が出来るくらいには自転車を乗りこなせてなかったんだ。
乗り方に力が入り過ぎてて、自転車に乗った方が歩くよりも疲れちゃうって感じかな。

だから、放課後に皆で特訓をしたんだよな。
ムギはまだ軽音部に慣れ切ってなくて、敬語交じりに私達の特訓を受けてたっけ。
澪も澪で、ムギの特訓をしながら、二人の手と手が触れる度に赤くなってた気がする。
今思い出しても、初々しいな、オイ。
私と唯はと言えば、手と手どころか腰と腰が触れるくらいムギに密着してたけどな。
どっちが正しい付き合い方なのかは微妙な所だけど、
とにかくその特訓のおかげでムギと一緒に自転車で遠出出来たんだったな。
遠出っつっても、ちょっと遠いショッピングモールに行くくらいの話なんだけどさ。

ムギが結構打ち解けてくれたのは、あの遠出の後くらいからだったか。
少し敬語が残ってはいながらも、
自然な感じに話し掛けて来てくれる様になったんだよな。
そんなこんながあって、今じゃムギは私達に完全に気を許してくれてるはずだ。
勿論、確証なんか一つも無いけど、そうだったら本当に嬉しいな。

そういや、あの遠出の日もムギは鼻歌を歌ってた気がする。
『Honey Sweet Tea Time』どころか、
『ふわふわ時間』すら出来てない時期だったから、
ムギが歌ってたのは『ビューティフル・サンデー』だったな。
今思い出しても、古いな!
でも、そういうのもムギっぽいって思えるのが面白いよな。


「りっちゃんと一緒に自転車に乗るのも、久し振りだよね」


いつの間にか『Honey Sweet Tea Time』の鼻歌が終わっていたらしい。
ムギが自転車の速度を少し落として、私の自転車の隣に並んで言った。
私は頷いてから、小さく笑う。


「今、私もそう考えてた所なんだよ、ムギ。
懐かしいよなー。ムギって昔は自転車に乗れなかったもんなー」


ちょっと誇張して言って、ムギをからかってみる。
怒られるかと思ってたけど、ムギは笑顔になって続けた。


「そうだよね。
私、りっちゃん達のおかげで、自転車に乗れるようになったんだよね。
そのおかげで今だって自転車に乗れてるんだもんね。
本当にありがとう、りっちゃん」


からかったつもりだったのに、まさかお礼を言われるとは思わなかった。
くすぐったくて、それ以上に申し訳ない。
私は「どういたしまして」と言う事しか出来なかった。
頬を軽く掻いて、私は照れ臭さと申し訳なさを隠して、話を少し変えてみる。


「そういや、ムギって自転車に乗ると鼻歌を歌ってるよな。
ひょっとして、そういうのが夢だったりしたのか?」


「うん、やっぱり、自転車って言ったら鼻歌ってイメージがあるんだ。
爽やかな日曜日、鼻歌交じりに自転車に乗ってお出かけなんて素敵よね。
ずっと夢だったし、それを叶えられてすっごく嬉しいの」


「これぞまさしく『ビューティフル・サンデー』ってやつだな。
今日は日曜日じゃないけど、ムギの言う事は私も分かるよ」


言ってから、ちょっとだけ迷った。
今日って本当に日曜日じゃなかったっけ……?
夏休みだからってのもあるけど、
生き物が居なくなってから、本気で曜日の感覚が無くなってきた。
えっと……、梓と待ち合わせてたのが三日前の火曜日だから……、
うん、今日は日曜日じゃないか。

人は周囲の状況の変化で時間経過を実感するものだって話を、和から聞いた事がある。
その時は放課後ティータイムが全然変わらないから、
時間の流れが実感しにくい、って皮肉みたいに言われたんだけどな。
でも、和の言う通りでもある。
ずっと同じサイクルで同じ様な生活をしてたら、
時間経過も曜日の感覚も分からなくなって来ちゃうもんだよな……。
曜日毎にアクセントを付けたスケジュールでも考えてみるか……。

そこまで考えて、私は何だか嫌になった。
少しずつこの状況を受け容れようとしてしまってる自分を。
何を考えてるんだよ、私は……。
最悪、この世界を受け容れなくちゃいけなくなったとしても、
それまではこの状況の打開策を考えなくちゃいけないじゃないか。
和とも約束したじゃないか。
諦めちゃ、駄目じゃんかよ……。

私は首を横に振って、自転車のハンドルを強く握る。
今日の夜には澪と話をしたいのに、
私の方がこんな迷ってちゃ澪を余計に不安にさせるだけだ。
もっと心を強く持たないと、あいつを支えてやる事なんて出来るはずも無い。
それに、これ以上澪と話すのを先延ばしにしちゃったら、
逃げる口実を無限に探すようになっちゃいそうで、すごく恐い。
だからこそ、今夜、もっと強く決心をして、私は澪と話すんだ。


「りっちゃん……? どうかしたの?」


私が少し黙り込んでた事が気になったらしい。
気が付けば、ムギが首を傾げて、心配そうに私の顔を見つめていた。
私は「何でもないよ」と笑顔になってムギに返す。

澪の事は大切だ。
ずっと一緒に居た幼馴染みなんだ。
こんな時だからこそ、もっと大切にしたいと思う。
でも、ムギだって大切な友達なんだ。
折角、二人で話をしてるんだから、
澪の事を完全に忘れるとはいかないまでも、
ムギの方にももっと目を向けなきゃ、ムギに失礼だよな。


「いきなり話を変えて悪いんだけどさ、
ムギって私達の曲の中じゃ『Honey sweet tea time』が一番好きなのか?
さっきも鼻歌で歌ってたし、よく口ずさんでるのを見かけるしさ。
勿論、わざわざ順位付ける事でも無いって思うんだけど、ちょっと気になっちゃって。
やっぱり自分がメインボーカルだと、お気に入りになる感じなのか?」


私は話題を変えて、ムギに訊ねてみる。
それは私の迷いを誤魔化すため……、
じゃなくて、前々から普通に気になってる事だったからだ。
放課後ティータイムの曲の中で、唯一ムギがメインボーカルを務める珍しい曲。
大抵、そういう曲は完成度が低くなっちゃうのが関の山だ。
やっぱり普段ボーカルを務めてる奴が歌わないと、変になっちゃうもんだよな……。

でも、同じバンドに所属してる私が言うのも変だけど、
『Honey sweet tea time』はかなりいい曲に仕上がってるって思う。
ムギの柔らかい歌声と、澪の甘い歌詞がすごく合ってるんだよな。
大体、そもそもは合唱部に入部しようとしてたムギなんだ。
本来なら、ムギがメインボーカルを務めるのが自然なのかもしれないしな。
いや、唯と澪のボーカルが駄目だってわけじゃない。
二人のボーカルには、二人それぞれの良さがあるのを私は実感してる。


「そうだね……。
確かに自分が歌う曲だと、自然に歌詞も覚えちゃうんだけど……」


少し照れた感じでムギが微笑み、言葉を止めた。
何だか珍しいな、って思った。
ムギが照れるなんて、和が照れる以上に珍しい気がする。
でも、私、そんな照れさせる事を言っちゃったのかな。
一番好きな曲を訊いただけなんだけど、
それが自分の唯一のボーカル曲だったら恥ずかしいもんなのかな?

その辺、ボーカルを務めた事が無い私には分からない。
私とその気持ちを共有出来るのは、
同じくボーカルを務めた事が無い梓だけだろう。
いや……、あいつとももう共有出来ないか。
梓の奴、新軽音部でボーカルをやるらしいからなあ……。
おのれ、梓、裏切ったな!
仲間だと思ってたのに、私の気持ちを裏切ったな!

なーんてな。
本当は別に怒っちゃいないし、逆に嬉しい。
正直な話、あいつは上手い下手はともかく、人前で歌うのが苦手なはずだ。
前にカラオケに行った時も照れまくって、
「どうぞ先輩達から歌って下さい」って、自分の番をどんどん後回しにしてたからな。
あんまりにも歌わないもんだから、
私がデュエット曲を入れて、無理矢理あいつにも歌わせたんだっけ。

でも、あいつは新軽音部でメインボーカルを務める。
最近、メインボーカルを教えようとしないあいつから、それを無理矢理メールで聞き出した。
やっぱり、まだ恥ずかしい気持ちがあるんだろうな。
それでも、あいつはメインボーカルをやるんだ。
部長だから……、私達の想いを受け継いでくれたから……、
苦手でも、恥ずかしくても、歌いながら部員達を引っ張ろうと思ってくれたんだろう。
それがとても、嬉しくて、心強い。

『ボーカル、頑張れよ』と送ったメールに、
『律先輩と違って、ボーカルも出来る部長になってやります!』って、
生意気この上ない返信があった時も、心強さを感じさせられたっけな。

って、おっと。
ムギの話の最中なのに、今度は梓の事ばかり考えちゃってたな。
どんな時でも皆の事を均等に考えちゃうのは、私の悪い癖なのかもしれない。
私は少し苦笑してから、ムギの顔を見つめて次の言葉を待つ事にする。
ちょっとだけ後、頬を結構赤く染めたムギが言葉を続けた。


「あのね、りっちゃん……。
私ね、放課後ティータイムの曲は全部好きなの。
最初の方に作った曲も、高校最後に皆で作った『天使にふれたよ!』も大好きよ。
全部大好きだから、その曲の中で順位は付けにくいな……。

でもね……、放課後ティータイムの曲は全部大好きなんだけど、
一曲だけどの曲よりもすっごくすっごく好きな曲があるの。
その曲はね、りっちゃんの言う通り、
『Honey sweet tea time』なんだけど、それは私が歌う曲だからじゃなくて……」


「ムギが歌う曲だからじゃないのか……?
じゃあ、どうして『Honey sweet tea time』が……?」


「えっとね……。実はね……」


何度も言葉を躊躇うムギ。
何だかどんどん顔も紅潮していってる気がする。
どうしてムギはそんなに恥ずかしがってるんだろう?
そんなに顔を赤くしないといけない理由があるんだろうか?

また少し経って、ムギはその理由を口にした。
その言葉を聞いた途端、私の顔も多分真っ赤になった。


「『Honey sweet tea time』はりっちゃんのおかげで作曲出来た曲だから……。
ほら、『かがやけ!りっちゃんシリーズ』で、
りっちゃんがキーボードに挑戦した時があったでしょ?
あの時にりっちゃんがキーボードを弾いてくれて、どんどん曲のイメージが湧いて来て……。

そんな事は初めてだったし、それだけでも嬉しかったんだけど、
りっちゃんが初めて私を『ムギちゃん』って呼んでくれたのが、もっと嬉しくて……。
だからね……、私は『Honey sweet tea time』が一番好きな曲なの」


ムギの言葉が終わっても、私はしばらく何も言えなかった。
顔が熱いし、心臓がかなりの速度で動いてるのを感じる。
嬉しいとは思うんだけど、どう反応したらいいのか分からなかった。

私が初めてムギを『ムギちゃん』って呼んだ……。
直接言葉にしてそう呼んだ事は無いはずだけど、そういや覚えてる事がある。
高校三年の修学旅行前、ムギのキーボードを試してみた時、
私はキーボードの音色で『ムギちゃん』と聞こえるように弾いてみた。
深い意味は無かったし、思い付きでやってみただけだったんだけど、
ムギの中では心に強く残る思い出になる事だったんだ。

琴吹紬……、あだ名はムギ。
中学生の頃にどう呼ばれてたのかは知らないけど、
高校で一番最初にそのあだ名を付けたのは私だった。
澪とムギと私で軽音部の新入部員を待っていた頃、
何となく付けてみたあだ名だったけど、ムギがとても喜んでくれたのは覚えてる。

それくらい、ムギは私のした事を思い出にしてくれてるんだ。
それはとても嬉しいんだけど、とても照れ臭い。
珍しくムギが何度も言葉を止めたのも分かる。
こんなの流石のムギだって照れ臭いよ……。


「あの……、えっとさ……、ムギ……。
その……、何だ……」


ムギよりも遥かに照れ臭いのに弱いのが私だ。
多分、軽音部の中じゃ、一番褒められ慣れてないしな。
だから、何かをムギに伝えようとして、言葉が全然出せなくなっちゃっていた。
かっこわりー……。
ライブのイメージトレーニングなんかじゃ、
大勢のファンに駆け寄られても、クールに応対する練習してたんだけどなあ……。

ムギが頬を赤く染めたまま、私の次の言葉を待っている。
私は何かを言おうとして言葉にならなくて、頭の中がグルグル回っちゃって……。
気が付けば、一言だけ言葉にしていた。


「ありがとな……」


何に対しての『ありがとう』なのかは自分でも分からない。
褒めてくれて『ありがとう』なのか、
『Honey sweet tea time』を一番好きでいてくれて『ありがとう』なのか……。
自分でも全然理に適ってないと思ってしまう言葉だったけど……、
ムギはそれに対して、「うん!」と頷いて晴れやかに笑ってくれた。

そのムギの笑顔を見て、私は何となく考えていた。
そっか……。
多分、私が言った『ありがとう』は、
『今まで一緒に居てくれてありがとう』って意味だったんだ……。
何となく考えてみただけの事だったけど、それは間違ってない気がした。

うん、ありがとう、ムギ。
こんな状況だからってだけじゃなく、
ムギが今まで一緒に居てくれたおかげで楽しかったし、心強かった。
だから、本当にありがとうな……。

私はそれを言葉にせず胸に秘めて、ムギと並んでしばらく自転車を走らせる。
二人とも何も言わない。
言葉を失くしたわけでも、喋りたくないわけでもない。
二人とも、お互いが傍に居る事だけを、感じていたかったんだと思う。
たまに顔を合わせて、笑い合う。
それだけの事が、とても嬉しかった。


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最終更新:2012年07月09日 22:07