話している内に、私は無意識に軽く笑っていた。
ちょっとした事でも不安がって怯える澪の姿を思い出す。
怪談どころか、自分でも他人でも誰かの擦り傷程度の怪我でも大騒ぎする澪。
ジンクスやトラウマも苦手。
恐い事が苦手で、駄々っ子で、ああ見えて子供っぽい所もまだ沢山残ってる。
そういや、小学生の頃に公園で遊んでる時、
登った木から落ちて骨を折った事があったっけ。
あの時は澪が大騒ぎして、大声出して、大泣きしてた。
骨を折ったのは私だったんだが。
澪の奴、「りっちゃんが死んじゃうよう!」とか泣きながら叫んでたんだよな。
いや、死なねーよ、左手の人差し指が骨折したくらいで。
澪が大騒ぎしてるせいで、
別の友達が呼んで来てくれた私の母さんが、
私と澪のどっちが骨折したのか迷ってたくらいだったし……。
まったく、色々と騒がしい奴だよ……。
でも、澪が大騒ぎしてくれたおかげで、骨折した私の方は落ち着いてた。
痛いはずなのに、慌てる澪の姿を見てたら、そんな痛さなんか吹っ飛んじゃってた。
誰かに先に慌てられたら、傍から見てる人間は冷静になっちゃうってのは本当だよな。
何となく、澪にはそういう強さ……、じゃないか、強味がある奴だって感じる。
恐い事を素直に恐がれる事も強味の一つなんじゃないだろうか。
気が付けば、ムギも少し微笑んでるみたいだった。
私の骨折の話を知ってるわけじゃないだろうけど、
私の話の中に思い当たる事がいっぱいあったんじゃないかな。
私はムギから一メートルくらい離れた場所で足を止め、ムギの次の言葉を待つ事にした。
少し経って、「そうだね」とムギが笑って言った。
「澪ちゃんには悪いなって思うんけど、私もりっちゃんの言う事が分かるな。
澪ちゃんが緊張したり恐がってくれると、何か肩の力が抜けるよね。
実はね、高一の学園祭の時なんだけど、私もすっごく緊張してたの。
ピアノの発表会なら何度か経験もあったんだけど、
ライブは初めてだったし、雰囲気も全然違うじゃない?
だから、口にはしなかったけど、すっごく恐かったな……。
でも、私なんかより澪ちゃんの方がずっと緊張してたし、不安な表情も見せてくれてたよね?
そんな澪ちゃんを見てるとね、安心出来たんだ。
緊張してるのは私だけじゃない。
不安なのは私だけじゃない。
澪ちゃんも緊張してるし、きっと唯ちゃんもりっちゃんも緊張してて不安なんだって。
そう思えたから、高一の学園祭も頑張れたの。
勿論、今だってそう。
澪ちゃんが一番に恐がってくれたおかげで、私も少しだけ落ち着けたの。
澪ちゃんが恐がってくれなきゃ、もしかしたら私の方が閉じこもってたかも……」
それはムギだけじゃないって思った。
私にも、多分、他の皆にも同じ事が言える。
和……はどうかは分からないけど、
それ以外の皆なら、澪と同じ事をした可能性があったはずだ。
澪が閉じこもらなきゃ、私だってどう転んだか分からない。
ムギと二人で顔を合わせて苦笑する。
昨日までの澪の姿は、あったかもしれない私達のもう一つの姿なんだ。
だからこそ、私も澪じゃなくて、
もう一人の自分を不安にさせたくなくて、澪と話せなかったのかもしれない。
話そう、と思った。
今晩、本当に真剣に澪と話そう。
事態が好転するとは限らないけれど、逃げたままでもいられないしな。
それに梓との約束もある。
放課後ティータイムの再結成……。
そのためには逃げたままの私じゃ駄目なんだ。
色々な事がいい加減な私ではあるけど、
皆とのセッションだけは真正面から真剣に向き合いたい。
そういう事を考えていたせいか、
私が真面目な顔になってたんだろうと思う。
ムギも苦笑をやめて真面目な表情になって、ある意味ムギらしい事を言った。
「学園祭の時にね、落ち着けたのは澪ちゃんのおかげだけじゃないんだ。
私が落ち着けたのは澪ちゃんと、いつもよりも楽しそうな唯ちゃん……、
それと勿論、澪ちゃんや私達を安心させようとしてくれてるりっちゃんが居たから。
りっちゃんや、皆が居てくれたからなんだよ……。
そうだ。
ライブ直前、りっちゃんがやってくれたMC、今でもはっきり覚えてるんだよ。
「ドラムー! 容姿端麗! 頭脳明晰!
爽やか笑顔で幸せ運ぶ皆のアイドル!
田井中律ぅ!」。
どう? ……似てるかな?」
うん、似てる。
しかも、声色だけじゃなくて、その時に取ったポーズまで完全再現してる。
結構前の話だからはっきりとは覚えてないけど、確かそんなポーズをした気がする。
しかし、完全再現過ぎるだろ……。
ひょっとしたら、ムギの奴、誰かに見せようと思って、家で練習してたんだろうか。
いや、そんな事より……。
「やめてくれー……。
思い出させるなー……」
顔を手で押さえて俯き、呻くみたいにムギに訴える。
やめてくれ。
マジでやめてくれ。
私達が居たから落ち着けたってムギの言葉は嬉しいけど、とても照れ臭い。
それ以上に、昔の自分の行動を間近で見せられるのは本気で恥ずかしい。
三年前の私って、こんな恥ずかしい事をやってたのか……。
後悔はしてないし、あの時はそれでよかったんだって信じてる。
でも、三年前の私と今の私じゃ、色々と違って来てる所もあるからなあ……。
昔の自分を見せられる事ほど、恥ずかしい事もそうはない。
特にこれって小学生の頃の卒業文集を読まれるようなもんだろ……。
そういや、卒業文集には何て書いたんだっけ?
あ、やべ……。
卒業文集はまだマシな事を書いてた気がするけど、もっとやばい事思い出した。
小三くらいの頃に書いた『しょうらいの夢』って題材の作文だ。
確かあれに、『みおちゃんのおむこさん』って書いたんだよな、私……。
いや、その……、何だ……。
あの頃は澪と仲良くなり始めたばかりで、
それこそ澪とはずっと一緒に居た頃に書いた作文だったんだよ。
いつも一緒に居て、澪とは大人になってもずっと一緒に居る約束なんかしてて、
それで単純にずっと一緒に居るためには、二人が結婚したらいいって話になって……。
でも、女の子同士だと結婚出来ないから、
「じゃあ、私がみおちゃんのおむこさんになる!」って私が言ってたんだ……。
うああああああああ!
もいっちょ、うああああああああ!
しかも、確かその作文、母さんに保管されてたんだった……!
中学三年生の頃、私が受験勉強もせずに遊んでばかりいた時、
業を煮やしたのか、母さんが突然あの作文を使って脅迫を始めたんだよな……。
私の部屋を掃除してた時に見つけたらしく、
何かに使えると思って保管しておいたんだとか何とか。
なんつー母親だ……。
「これを澪ちゃんに公開されたくなかったら勉強しなさいよ」って、
途轍もなく意地の悪い笑顔を浮かべてた母さんの顔を思い出すと、未だに寒気がするぜ……。
こんな作文、澪に見せられたらどうなるか分かったもんじゃない。
多分、十発くらい澪に殴られるな……。
流石にこの作文を覚えてるって事は無いだろうけど、もしも覚えてたらそれも困る。
まあ、それで猛勉強を始める事になったおかげで、
桜高に入学出来たってのもあるかもしれんが、それはそれ、これはこれ。
しかし、ムギの奴も人の古傷を抉ってくれるな……。
いや、作文とムギは関係無いんだけど、
思い出したくない過去をちょっと思い出したら、
芋づる式に他のトラウマがどんどん蘇ってくる事ってありますよねー……。
ムギに悪気が無い事は分かってるんだけどな……。
でも、今晩、澪と話す事だけはこれで確定だ。
澪のためだけじゃなく、私のためだけでもない。
放課後ティータイムのために、皆のこれからのために、澪と私は話すべきなんだ。
そう思わせてくれたのはムギのおかげだ。
私は自分の顔を押さえていた手を外して、口を開く。
「MCの話はともかくとして、ムギのおかげで澪と話せそうな気がしてきたよ。
ムギ、あり……」
ありがとう、と言おうとしたけど、それ以上言葉にする事が出来なかった。
一瞬にして、異様で当然の光景が私の視界に飛び込んで来たからだ。
一陣の風が吹いたわけじゃない。
何の前触れもなく、その異変が起こっていた。
音がする。
ついこの前まで耳にしていた人々の生活音。
人の足音、生き物の気配。
人の……声……。
驚いた私は、急いで首を動かして周囲を見回す。
そこには人が居た。
人だけじゃない。
猫や犬、カラスも当たり前みたいにこの世界に存在していた
そして、見覚えのある顔が歩道にあって……。
あれは……、いちごと晶か……?
二人で道路脇で何をしてるんだ……?
二人は知り合いだったのか……?
いや、そんな事よりも……。
これは……、何だ……?
夢……なのか?
白昼夢?
明晰夢?
夢って……、どっちが夢だ?
誰も居ないはずの世界に、人間が居たって願望の夢を見てるのか?
それとも、元々の世界で、一切の生き物が消えてしまったって悪夢を見てたのか?
分からない……。
何も分からない……。
どうしようもなく不安になって、私は目の前のムギに視線を向ける。
ムギも呆然としていた。
大きな目を更に見開いて、今起こってる事に混乱してるみたいだった。
と。
不意にこれまで聞き慣れてたはずの懐かしい音が響いた。
耳障りだけど、安全の為にもなってる騒音……、自動車の排気ガスの音。
自動車……?
そこで私は迂闊にもやっと思い出した。
私達は今、道路の真ん中に居るんだって事に。
騒音の方向に急いで視線を向ける。
騒音の正体はすぐに見つかった。ムギの五メートルくらい後方……。
私達の姿に気付いていないのか、速度が全く落ちていないトラックが……。
「ムギっ! 危ないっ!」
気付けば、私はムギに走り寄り、飛び掛かっていた。
何が起こったのか、何が起こってるのか分からない。
そんな事よりも、今はムギの身の安全の方が何億倍も大事だ!
ムギを腕の中に抱えながら、自転車を倒しながら何とか路傍に飛び込む。
自転車が倒れる大きな音が響く。
夏のアスファルトに肘から倒れ込み、皮が擦り剥けるのを感じる。
熱くて痛いが……、今は痛くない!
痛くないんだ!
今はトラックから身を隠す方が重要……。
だけど、その瞬間、妙な違和感に襲われた。
音が響いていない事に気付く。
さっきまで世界を包んでいたはずの音が。
人の声も、生活音も、カラスや猫の鳴き声も、
うるさいほど響いていたはずのトラックのエンジン音も……。
アスファルトの上、
ムギを腕の中に庇いながら、頭を振って辺りを見回してみる。
当然と言うべきなのか。
どっちが異常で、どっちが正常なのか。
とにかく、生き物の姿は当たり前みたいに、この世界からまた消え去っていた。
まるで私とかくれんぼでもして遊んでるみたいに。
何が起こってるんだ……?
これは私の願望が見せた夢なのか……?
どっちが現実で、どっちが夢なんだ……?
頭が混乱する。
分かってた事のはずなのに、身体中に震えを感じて、叫び出したくなる。
実際、心の中じゃ、絶叫してた気がする。
何が何だか分かんなくて、思い切り叫んでやりたかったんだ。
でも、実際にはそうしなかった。
何とか叫び出さずに踏み止まれたのは、腕の中の違和感に気付けたからだ。
当然、私の腕の中にはムギが居る。
いきなり飛びかかったにしては、何とか怪我もしてないみたいだ。
でも、今のムギの肌の感触は、
これまで何度か抱き着いた事があるムギの肌とは、全然違う感触だったんだ。
冷え切ってる、って思った。
夏なのに、炎天下のアスファルトの上なのに、
しかも、一家に一台欲しいって言われるくらい体温の高いムギなのに、
その肌と、多分、その心も冷え切っていた。
冷たいムギの肌の感触が、私の頭も冷静にしていく。
駄目だ……。
このままじゃ駄目だ……。
澪が怯えてたみたいに、ムギだって自分の置かれた状況に怯えてるんだ。
私だって恐いし、逃げ出したくなってる。
でも、逃げてちゃ、間違いなく、もっとひどい事になってしまう。
何とか……。
何とかしなきゃ……。
「ごめんね、りっちゃん……」
私の腕の中で、ムギがとても申し訳なさそうな表情を浮かべて呟いた。
泣き出しそうにも見えるくらいだった。
「聡くんの自転車、傷付けちゃったね……。
ごめん……、ごめんね……。
私が聡くんの自転車に乗りたいなんて、我儘言っちゃったから……」
「そんな事……っ!」
思わず大声になっていた。
そんな事、ムギが気にする事じゃない。
自転車を倒したのは私だし、傷付いたって言っても見る限りはほんの少しだ。
聡だってそんな程度の傷じゃ怒らないだろうし、
もしも怒ってしまったら、私がバイトでも何でもして新品を買ってやる。
大体、そもそもの原因は、こんな異常な状況に何も出来ないのが悔しくて、
車道の真ん中を走ってやろうってなけなしの反抗を思い付いた私にあるんだ。
ムギが気に病む必要なんて何処にも無いんだ。
だから、言った。
辛そうな表情のムギの両肩を掴んで、真正面から瞳を覗き込みながら伝えた。
「いいんだよ、ムギ。
自転車が傷付いた事なんて気にしなくてもいいんだ。
そんな事より、ムギが無事な事の方が何倍も大切なんだよ。
だから、そんなに自分を責めないでくれ。
そもそも最初に道路の真ん中を渡ってやろうなんて、
馬鹿な事を思い付いちゃった私が悪いんだから……。
だから、さ。
ムギが無事で、ムギがトラックに轢かれなくて、本当によかった。
私のせいでムギに怪我をさせる事にならなくて、本当によかったんだから……。
もうそんな事は気にしなくていいんだよ。
聡に怒られたら、ちゃんと私が謝るから、ムギは何の心配もしなくていいんだよ……」
もしも、本当にまた聡に会えたら、とは言わなかった。
今はそんな事を言う時じゃない。
今はムギをもっと安心させてやらなきゃいけない時なんだ。
こんなに冷え切っちゃてるムギの体温を、取り戻してやらなきゃいけない時なんだ。
だから、私はちょっと苦笑しながら言った。
わざとらしかったかもしれないけど、ムギには笑顔を向けたかった。
「それにさ、謝るのは私の方だよ、ムギ。
ムギが倒れちゃったのも、
自転車を倒しちゃったのも、私がムギに飛び掛かったからじゃんか。
大体、トラック何処かに消えちまったし……。
これじゃ私の早とちりって言われても仕方が無いよな。
だから、ムギはむしろ被害者なんだよ。
悲しそうな顔をする必要なんてないんだぜ?
そうだな……。
逆に怒ってさ、澪みたいに私の頭を叩いてくれていいんだ。
思い出してみたら、
私がムギを叩いた事はあったけど、
ムギが私を叩いた事なんて無かった気がするしな。
いいぞ、気の向くままに叩いてくれよ」
私の言葉にムギが戸惑った表情を見せる。
私を叩こうか迷ってるんだったら、全然嬉しい事だった。
いくらでも叩いてくれていい。
でも、残念ながら、ムギが戸惑った表情を浮かべた理由はそうじゃなかったらしい。
ムギが確かめるみたいに小さく呟いた言葉から、それは分かった。
「トラック……、少しだけ見えた町の人達……、猫、犬……。
あれは……、何だったの……?
りっちゃんも見えてたわけだから、夢……じゃないよね……?
勿論、錯覚や幻想でも……。
だったら、あれは……」
それについては私も無責任な事は言えなかった。
生き物の姿を見たのが自分一人だけなら、夢や妄想だって事で片付けられた。
夏の熱が見せた蜃気楼って事にしても問題無いくらいだ。
でも、ムギも見てるとなると、話は全然変わってくる。
異常事態の中に起こった異常事態とでも言うんだろうか。
ひょっとすると……、って思った。
ひょっとすると、この世界と生き物が存在する世界が重なった……?
朝話した時に和は否定してたけど、
やっぱりこの世界はパラレルワールドで、
不意のきっかけで私達が元居た世界と重なり合って……、とか?
そこまで考えてから、私はもう一度辺りを見回してみる。
また私達の元居た世界と重ならないかなって、期待と願いも込めて。
瞬間、私は息を呑んだ。
残念だけど、私達の他に生き物が見つかったってわけじゃない。
でも、それくらいの事に気付けた気がしていた。
この状況を解決するための糸口を、やっと掴めたのかもしれない。
気付けたのはとても単純な事だった。
場所だ。
今、私達が居るのが偶然にも……、
いや、多分、偶然じゃないと思うんだけど、
とにかく、とても見覚えのある場所だったんだ。
高校に通っていた時、
いつも軽音部の皆と待ち合わせをしてた横断歩道……。
つまり……、一陣の風が吹いて、
生き物の姿が消えてしまった因縁の場所だったんだ。
これが偶然だなんて、私はとても思えない。
だから、私は考えた。
もしかすると、この場所には何かがあるんじゃないかって。
異世界同士を繋ぐ門みたいな物があるんじゃないだろうかって。
そうだよ……。
多分、私達は何かのきっかけで、
その門を通り抜けちゃって、こんな世界に迷い込んだんだ。
だとしたら、門を通り直せば、元の世界に戻る事が出来るはずなんだ。
解決の糸口はこれかもしれなかった。
多分……、いや、きっと、これが現状の打破の糸口になるはずだ。
糸口になってほしいと思う。
そうでなきゃ、皆、こんな状況に耐え切れない。
気分が高揚して、胸が高鳴るのを感じる。
やっと、ささやかだけど希望を見つけられたんだ。
そりゃ胸が高鳴るってもんじゃないか。
大発見(だと思う)に心が落ち着かない。
とりあえず、これを伝えればムギだって喜ぶはずだ。
これでまたムギの笑顔が見れるんだ……!
ちょっとだけ深呼吸をしてから、私はもう一度ムギに視線を向ける。
今すぐにでもムギを笑顔にしてやりたかった。
ムギの笑顔が見たかった。
だから、私の発見をムギに伝えたかったんだけど、
それよりも先に、ムギが予想以上の大きな声を出していた。
「ああっ!
りっちゃん、大変!」
「ど……、どうしたんだよ?」
「りっちゃん、肘から血が出てるじゃない!
皮まですっごく剥けてるし、早く手当てをしないと……!
私、絆創膏持ってるから、ちょっとだけ待ってて……!」
最終更新:2012年07月09日 22:20