ムギに言われて思い出した。
ムギに飛び掛かった時、確かに私は肘を擦り剥いてた。
結構、思いっ切り飛び掛かってたからなあ。
下手すりゃ、ムギが地面に頭をぶつけてたかもしれなかったくらいだ。
私が肘を擦り剥いたくらいで助かったよな……。

その怪我だって、別に大した怪我じゃない。
剥けた皮が大袈裟に垂れちゃってはいるけど、
よく見ると見事に表面だけが剥けちゃってるだけみたいだ。
血だってそんなに出てるわけじゃない。
だから、必死に絆創膏を探すムギに、私は不敵な笑顔を向けて言った。
心配する必要なんて無いんだって事を伝えるために。


「大丈夫だよ、ムギ。
そんなに痛いわけじゃないし、唾付けときゃすぐに治るって。
実際に唾を付けた事は無いけどな。
それより、私さ、気付いた事が……」


「駄目だよ!」


突然、私の言葉が今まで聞いた事が無いくらい大きなムギの声に遮られた。
予想外の事態に私は思わず言葉を失う。
強い言葉に驚きながらムギの顔に視線を向けると、
さっきまで以上に泣き出しそうな表情を浮かべてるみたいだった。
その表情のまま、ムギが掠れた声を絞り出す。


「駄目だよ、りっちゃん……。
りっちゃん、今、怪我をしてるんだよ……?
しっかり治療しないと、駄目だよ……。
りっちゃんの言う通り、そんなに痛くない怪我なのかもしれない。

でもね……。
もし悪化しちゃったら……、もし破傷風にでもなったらどうするの……?
破傷風に感染すると……、死んじゃう事だってあるんだよ……?」


「破傷風ってそんな大袈裟な……」


「うん……、大袈裟なのは分かってる……。
だけどね、感染する可能性はあるんだよ……?
それは一万分の一くらいの可能性かもしれないけど、
例え一万分の一の可能性でも、私、耐えられないよ……。

だって、今はお医者さんが居ないんだよ?
治療出来る人が誰も居ないの。
和ちゃんや憂ちゃんなら色々分かるかもしれないけど、
でも、やっぱり本格的な治療は出来ないと思うの。

大袈裟でも、私、恐いの……。
一万分の一でも、りっちゃんが死んじゃう可能性があるなんて、嫌だよ……。
考え過ぎだって分かってるけど、恐くて恐くて、どうしようもなくなるの……」


確かに考え過ぎだ。
そんな事、滅多に起こる事じゃない。
それこそ一万分の一どころか百万分の一くらいの可能性だって思う。

でも、ムギの言う事は痛いほどよく分かった。
医者が居ない。
助けてくれる人も居ない。
何かが起こっても、自分達だけで何とかするしかない。

そう考えた途端、寒気がした。
ムギの身体が冷え切っちゃうのも分かった。
人が誰も居ないってのは、私が考えてたほど簡単な話じゃなかったんだ。
病気や怪我をしてしまったら、人が居た頃の何倍も危険なんだ。
普通なら死ぬはずがない病気でだって、簡単に死んじゃう可能性が増えるんだ……。

恐かった。
勿論、自分が死ぬ事もそうなんだけど、
それ以上にムギ達の死ぬ可能性が、今までよりも遥かに増えてしまってる事が。
今現在、私達がそんな世界に生きてるんだって事が……。


「ごめん……。
ごめんな、ムギ……」


頭を下げて、ムギに謝る。
ちょっとした発見にはしゃいでしまって、
ムギの気持ちに全然気付けてなかった自分が嫌になった。
私の発見は、ひょっとしたら元の世界に戻るきっかけに出来るのかもしれない。
でも、それはきっと昨日今日の話じゃない。
綿密な調査を重ねて……、少なくとも一ヶ月以上は確実に掛かるだろう。

その間、誰かが大病に感染する可能性はゼロじゃない。
当然、その可能性は百万分の一くらいなんだろうけど……、
百万分の一も誰かが死ぬ可能性があるだなんて、考えたくもなかった。

前にテレビで三年後までに死亡する確率が五%、
って病気に感染した人のドキュメンタリーを観た事がある。
その時は、やけに低い死亡率だなあ、
って思いながら観てたもんだけど、今ならその恐ろしさが分かる。
それは二十回に一回の確率で、三年後に友達と会えなくなる可能性があるって事なんだ。
二十回に一回も……。
考えただけで、吐き気や寒気が湧き上がってくる。

私は何を分かったつもりだったんだろう……。
ムギに肘の治療をしてもらいながら、
何も分かってなかった自分の事がとても恥ずかしくなった。

私達は死ぬ確率が遥かに増えた世界に生きてるんだ……。





憂ちゃんの手が私の身体をまさぐる。
優しく……、時に強く、絶妙な力加減で私の肉体を撫でていく。
時に痛みを感じる事もある。
だけど、時期にそれは溢れ出る快感へと変化する。
私は漏れ出す言葉を止める事が出来ない。


「んあ……っ、駄目だよ、憂ちゃん……っ!
そんな……っ! そんなに……っ!」


「ふふっ、駄目ですよ、律さん。
我慢して下さいね。大丈夫ですから。
すぐに気持ち良くなりますからね」


憂ちゃんは私の言葉を優しく聞き流す。
その間も憂ちゃんは私の肉体に更に密着し、
憂ちゃん自身の柔らかさを私の肌に感じさせようとする。
柔らかく、淡く甘い熱に包まれる感覚……。

不意に視線を向けると、
純ちゃんが舌舐めずりをしたそうな様子で私達を見つめていた。
恍惚に似た表情を浮かべ、甘い声をあげてねだる。


「いいなあ、律先輩。
憂にしてもらえるなんて本当に羨ましい……。
私もたまにしてもらうんですけど、憂ってとっても上手ですよね。
上手過ぎて、声が我慢出来ないくらい気持ち良くなっちゃいましたし……。

ねえ、憂。
後で私にもしてくれる?」


「いいよ、純ちゃん。
律先輩のが終わったら、後でいっぱいしてあげるね。
準備して、待っててね」


「やった!」


本当に嬉しそうな声を上げた後、
純ちゃんがパジャマに使ってるシャツをはだけさせる。
期待に満ちた顔で憂ちゃんを見つめている。


「あ……っ、ああっ……!」


純ちゃんと話している間も、憂ちゃんの手の動きが止まる事は無かった。
私は溢れ出る快感の奔流を止める事が出来ず、漏れ出す声も止められなくなった。。
声を我慢する事すらも億劫に感じて来る。
痛みを感じる事も少なくなった。
もう私に出来る事は、快感に身を任せる事だけだった。
憂ちゃんの……、澪にやってもらうのよりずっと上手い……!


「ここが気持ち良いですか、律さん?」


耳元で憂ちゃんが囁かれる。
優しく、柔らかく、甘い声が私の耳をくすぐる。
私は感情のままに何度も頷いた。


「うん……、うん……っ!
そこがいい……。そこがいいよ……っ!
すごく気持ち良い……っ!」


「よかった……。
じゃあ、もっと気持ち良くしてあげますね」


「あっ……、ああっ、憂ちゃん……っ!」


私はまた大声を上げてしまう。
声を我慢するどころか、大声を我慢する事も出来なくなってきた。
肌と肌の触れ合い。
憂ちゃんの体温と私の体温が混じり合い、
それがもっと大量の快感を私の身体の中から生じさせる。
大きな声を出す事で、その快感が何倍にも増えていく気までして来る。
もっと……、もっと気持ち良くしてほしい……。


「ちょっとっ! 二人とも何をしてるのっ!」


不意に音楽室の扉が開き、甲高い声がその場に響いた。
長椅子にうつ伏せに寝転がる体位だった私は、
顔を上げて声の方向に視線を向けてみる。

扉を開けたのは、学生鞄を持って赤い顔をした梓だった。
どうやら私の大声が音楽室の外まで響いていたらしい。
音楽室には防音処理がされてるってのに、
私ったらそれくらい大声を出しちゃってたみたいだ。


「何って……、見て分からないか?」


憂ちゃんを身体の上に乗せたまま、
はだけさせたシャツを少しだけ整えてから私は言った。
梓は俯き、視線を散漫にさせた。
どんどん顔を赤くさせていき、躊躇いがちに小さく口を開いた。


「……マッサージですか?」


「そうだよ、分かってんじゃんか」


軽く微笑んで、梓に言ってやる。
って、まあ、普通に考えたら、
私が憂ちゃんと密着する理由なんて、
マッサージ以外の理由があるはずがないんだけどな。
梓が顔を赤くさせてるのは、何かの勘違いをして(何とは言わないけど)、
敬語を使うのも忘れて、音楽室に飛び込んじゃった事が恥ずかしいからなんだろう。


「紛らわしい事しないで下さいよ、もー!」


梓が恥ずかしそうに大声を出す。
恥ずかしいなら誤魔化せばいいのに、それが出来ないのが梓って奴だった。
唯とは違った意味で素直な奴なんだよな、こいつ……。
私はもう一度笑ってから、恥ずかしがる梓に言ってやる事にした。


「まあ、気にするなって。
こういうのってお約束じゃん?
部屋の中から妙な声が聞こえるから駆け込んでみたら、やっぱりマッサージだったってやつ。
漫画で見かけると、まだこういうネタ使ってんのか、ってうんざりするんだけどさ。

でも、うんざりしながら、何か落ち着く気がしないか?
何だろうな……、何か伝統芸能に近い物を感じる気がするんだよな。
着々と伝えられる文化って言うか何と言うか……。
まあ、結局は、お約束ってやつなんだけど」


「いえ、確かにお約束なんですけど……。
でも、それを分かってて、
本当にやる人が居るなんて思わないじゃないですか……」


複雑そうな表情で梓が呟く。
確かに梓の言う通りではある。
でも、そこが盲点なんだけどな。
だからこそ、梓もそういうお約束がある事を分かってながらも、
まさか本当にそのお約束を実行する人なんて居ないって考えて、音楽室に飛び込んで来たんだろう。
梓が散歩から戻って来る頃を狙って、私が変な声を出してみてたとも知らずに……。
ククク……、見事に引っ掛かってくれたな。
計画通り!

とは言え、さっきまでの私の声は半分以上は本気だったりもする。
疲れてたせいもあるかもしれないけど、憂ちゃんのマッサージは想像以上に上手い。
前に澪に揉ませた時なんかとは比較にならないレベルだ。
澪のマッサージなんて痛いばっかだったよ、マジな話。
ん? あれは澪に罰ゲームで揉ませたから、
恨み節がマッサージする手にこもってただけか?
ま、いいか。

夢なのか現実なのか、
一瞬だけ人の姿を見た後、私とムギは一旦学校に戻る事にした。
ムギが私の傷のちゃんとした治療をしたがってたし、
それ以上にその場に残ってた所で私達には何も出来そうになかった。
もしも私の考えた通りに、
本当に異世界同士を繋ぐ門があるとして、勝手にそれに作動されても困るしな。
私は元の世界に戻りたいわけじゃない。
私は皆で元の世界でまた笑い合いたいんだ。

学校に戻るまでの間のムギとの話し合いで、
一瞬だけ人の姿が見えた事は皆には話さない事に決まった。
あれは私達の気のせいかもしれなかったし、
妙な事を言って、皆に期待させるのも悪いと思ったからだ。

ただ、和にだけは話す事をムギにも納得してもらった。
和ならきっと、客観的に色んな可能性を考えて判断してくれる。
そんな気がする。
勿論、和だって恐いはずだし、焦ってもいるんだろうけど、
それを乗り越えられる強さを持ってるのが、私達の親友の和って奴のはずだ。


「純も何やってるのよ……」


不意に梓が呆れた表情で呟く。
梓の視線の先ではパジャマをはだけさせた純ちゃんがドーナツを食べていた。
そのドーナツはムギと一緒に学校に戻って、
肘の怪我の治療をしてもらった後、私一人で自転車を飛ばして、
ドーナツ屋から持ち帰って来たスーパーオールスターパックの中身のドーナツだ。

肘の怪我の治療中、ムギの肌は冷え切ったままだった。
肌も、心も、怯えや不安で冷え切ってしまっていた。
私の怪我なんかよりも、ムギの不安の方をどうにかしてやりたかった。
でも、私にはそのための手段が無い。
ムギの不安を振り払うだけの力が、今の私には無かったんだ。

何も出来ない自分が悔しくて、辛くて……、
「ちょっと疲れちゃったから、お昼寝するね」って言って、
生徒会室に向かうムギを止める事が出来なかった。掛けられる言葉が無かった。
その後、どうにか私に出来たのは、
約束通りムギの夕食のおかずを一品増しにしてやる事だけだった。

勿論、ムギと私のワンマンライブはまだ開催していない。
夕食の時、一品増しになったおかずに気付いたムギが微笑んでくれたけど、
私もムギもワンマンライブの事を自分から切り出しはしなかった。
分かってるんだと思う。
こんな精神状態じゃ、きっといい演奏なんか出来ないって事に。
上手く演奏出来ずに、もっと落ち込んじゃうだけだって事に。

でも、当然だけど、そのままでいいはずが無い。
少しずつでもいいから、前に進まなきゃ私は本当に駄目になっちゃうと思うから。
誰の為にも動けない情けない元部長になっちゃうと思うから……。
私は今晩、校舎の屋上で澪と待ち合わせをしたんだ。
夕食の後、後片付けをする澪に「話がある」と言ったら、静かに頷いてくれた。
真剣な顔で、まっすぐな切れ長の瞳で。

ムギの事だって勿論気になる。
でも、多分、ムギが一番望んでいるのは、私と澪が話をする事なんだって思う。
二人きりの時はそうでもないけど、大勢で居る時、ムギは一歩引いて私達を見てる。
そういや、「楽しそうにしてる皆を見てるのが好きなの」って、前に言ってたっけ。
それは控え目な性格って言うよりは、
自分より誰かが楽しんでいるのが嬉しくなるタイプなんだろうな。
だから、思う。
私達が元気で居る事が、ムギの元気にも繋がるはずなんだって。

澪とどんな話が出来るかは分からない。
ひょっとしたら、今よりも関係が悪化するかも……。
そう思うと恐くなっちゃうけど、澪の為にも、ムギの為にも、
他の皆の為にも、何よりも私が元気に皆を引っ張っていく為に……。
私は澪と話をしたいって思う。

憂ちゃんにマッサージをしてもらってたのだって、勿論理由があるぞ。
今は澪と唯が風呂に入ってるから、
その風呂が終わるのを待ってる間にリラックスしておこうって思ったんだ。
追い込まれた状態で澪と話したって、ろくな事にならないだろうしな。
緊張せず、少しでも普段の自分に近付いて、自然に話すのが一番のはずだ。

……にしても、憂ちゃんのマッサージがこんなに上手いとは思わなかった。
プロクラスだぞ、これ。
いや、プロのマッサージを受けた事はまだないけどさ。
きっといつも家で唯にマッサージを頼まれてるんだろう。
だらけた唯を笑顔でマッサージする憂ちゃんの姿が目に浮かぶ。

思わずちょっと笑いながら視線を向けると、
梓の言葉を聞き流しつつ、私の方を羨ましそうに見てる純ちゃんの姿が目に入った。
そういや、さっき純ちゃんは「私もたまにしてもらうんですけど」って言ってた気がするな。
つまり、純ちゃんも憂ちゃんのマッサージに魅せられた一人なんだな。
だからこそ、こんな物欲しそうな顔をしてるんだろう。
気持ちはよく分かる。
よーく分かるぞ、純ちゃん……!


「ちょっと、聞いてるの、純……!」


梓が頬を膨らませて少しだけ声を荒げる。
純ちゃんが自分の言葉を聞き流してるのがちょっと悔しかったんだろう。
でも、別に純ちゃんが梓の事を適当に扱ってるわけでもないはずだ。
親しいから軽口を叩き合ったり、話をスルーしたり、
それが許される仲なんだって安心感から取る行動なんだって感じる。
あと、これは私の勝手な考えなんだけど、
梓が心の奥底から一番頼りにしてるのは、純ちゃんな気がするんだよな。
だから、自分の言葉を聞き流されるのが嫌なんだろう。

そうそう。
前に梓が純ちゃんの失敗談を話してた時に、
「純って本当に仕方が無い子ですよね」って言ってた事があったよな。
その時、私は何となく思い付きで意地悪をして、
「そうだな。純ちゃんは手が掛かって仕方が無い子だよな」って返してやったんだけど、
梓の奴、予想通りと言うか何と言うか、普段よりずっと頬を膨らませて拗ねてたっけ。
「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか……」って言いながら、
自分が失敗した時の何倍も悔しそうで辛そうな感じに見えた。
つまり、純ちゃんの悪口を言っていいのは梓だけ、って事なんだよな。

それを指摘してやると、梓は顔を真っ赤にして明らかに動揺してた。
どうも自分じゃ気付いてなかったらしい。
ははっ、妬けますなー、中野殿。
ごちそうさま。


「聞いてるってば。
梓もそんなにムキにならなくてもいいじゃん」


梓の想いを分かっているのかどうなのか、純ちゃんがニマリと笑った。
ニヤリ、じゃなくて、ニマリって感じの笑顔。
純ちゃんも梓の事を心から信頼してるから見せられる笑顔な気がした。


「ちゃんと聞いてよね……って、あーっ!
純ったらもうスーパーオールスターパック食べてるじゃない!
しかも、前みたいに一個ずつを一口ずつ食べちゃって……。
皆の分も入ってるんだから、後の事考えてよー……!」


梓が呆れた顔を浮かべて純ちゃんに言い放つと、
てへっ、ってさわちゃんみたいにして純ちゃんが舌を出した。
その姿は本当にさわちゃんとよく似ていた。
実は梓からのメールにあった話なんだけど、
純ちゃんが軽音部に入ってさわちゃんとの絡みが増えて、二人の行動がかなり似て来てるらしい。

そのメールを貰った時、だろうなー……、と私は妙に納得した。
軽音部に入る前から二人の発想や行動は似てたみたいだし、
そんな二人が傍に居りゃ、それだけ色んな所が似てくるもんだろう。
しかし、何だな……。
さわちゃんが二人か……。
想像しただけで、気が遠くなるな……。
頑張れよ、中野梓部長……。


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最終更新:2012年07月09日 22:22