和は五右衛門風呂から上がり、
プールサイドに腰を下ろして星空を見上げた。


「実はね……、律……。
私の勝手な推測だし、変な事を言うけど聞いてほしい事があるの。
冷静になって、聞いてほしいのよ……。
何も希望を捨てたわけじゃないし、自暴自棄になってるわけじゃないわ。

でも、私、思うのよ。
ひょっとしたら……、私達は元の世界に戻れないかもしれないって。
元の世界って表現が正しいのかどうかは、まだ分かってんだけどね」

元の世界に戻れない。
元の生活に戻れない。
考えたくない事だった。
そんな事、認めるわけにはいかなかった。
でも、和だって、簡単にそんな事を口にしてるはずが無かった。
私は和の言葉を否定したくなるのを必死に我慢して、ただ口の中を強く噛む。

和が星空から目を離し、私の方に振り返って続ける。


「ねえ……、律は運命って変えられると思う?」


唐突な質問だった。
和が何を言おうとしてるのかは分からなかったけど、私は考えてみる。
どうなんだろう……?
運命ってのは変えられるもんなんだろうか?
そもそも、運命ってのは何なんだ?
よく運命は変えられるって言葉を漫画やドラマなんかで言ってるのを見る。
それはそれで立派な信念だと思うけど、変えられたら運命でも何でもないよな、とも思う。

運命ってのはずっと決められてた道筋を辿る事……でいいはず。
唯達と軽音部をやって来れたのは嬉しいし、
運命だと思ってたけど、それを認めるって事は運命の存在を認めるって事になる。
運命の存在を認めるって事は、運命は変えられないって事を認めなきゃいけない。
じゃあ、運命は変えられないってのが私の意見か?

いや、そうでもない気がする。
運命が決まってるって事は、
私が自分で決めたって考えてた事も、運命に仕組まれてたって事になる。
何処かの誰かに仕組まれた道程を勝手に歩かされてたって事になる。
それは……、嫌だ。
運命を感じる事は確かにある。
でも、自分のして来た事が何もかも誰かに仕組まれてたなんて、そんなのは嫌だ。
皆と仲良くなれたのが、全部他の誰かのためにさせられてきた事だったなんて……。


「分からない……」


結局、私は和に対して、そんな言葉を呟く事しか出来なかった。
やっぱり、私にはまだ分からない事だらけだ。
私の様子を見て、和は何故か少しだけ微笑んでくれた。


「ありがとう、律。
私、意地の悪い質問したわね、ごめんなさい。
運命なんて、私にもあるかどうか分からない。
あったとしても、それを変えられないのなら、運命の存在なんて知りたくないわ。

些細な偶然を運命だと考えて、その偶然に自分一人で勝手に感謝する……。
私の中での運命って言葉の定義は、それだけで十分だと思うの。
それ以上の意味を持つ運命なんて、私には必要無いわ。

そう……。
例えば神様はその人が乗り越えられる困難しか、
その人に与えないって言葉があるわよね?
困難や艱難辛苦は人間をもっと成長させるための試練なんだって。
言葉遊びとしてはいいと思うけど、
現実に困難に遭遇した人間にとっては酷い話よね」


確かにそうだと思った。
困難を自分達の成長に繋げて考えるのは私的にはありだ。
ここを乗り越えれば、自分達はもっと成長出来るって考えるのは楽しいし、必要だと思う。
でも、その困難が他の誰かに無理矢理与えられた物だったとしたら、正直やってられない。
私は頬を膨らませて、何処かに居る神様に向けるみたいに呟いてやる。


「そういやさ。
最近の漫画に多い傾向がある気がするな、そういう仮想敵ってやつ。
人類を襲う謎の侵略者……、
その侵略者の正体は未熟な人類を成長させるための善玉だった! って感じの漫画。
人類がやがて来る更に強い敵と戦えるようになるため、
その善玉侵略者はあえて悪となり、侵略行為を行う……。

って、余計なお世話だっつーの。
もっと他にやり方があるだろうが、って思うよなー。
大体、何だよ、善玉侵略者って」


我ながら安っぽい例えになっちゃったと思う。
でも、そう考える方が私には分かりやすかったし、和はまた笑ってくれた。


「分かりやすく例えてくれてありがとう。
いつか唯に運命の話をする時は、その例えを使わせてもらうわ。
あの子は律の例えの方が分かりやすいだろうし……。

それで、話は少し逸れちゃったけど、私が言いたいのはね……。
現状を変える事は出来ないかもしれないって事なのよ。
それが運命かどうかはともかく、
元の世界に戻れなかった時の事も、考えておかなきゃいけないと思うの。
さっきも言ったけど、自暴自棄になってるわけじゃないわ。
考えておいてはほしいって事なのよ。
この広いようで狭い世界で、どうやって生きていけばいいのかって事を」

分かってはいた事だけど、人に言われてしまうと複雑な気分だった。
私達が元の世界に帰れず、一生八人だけでこの世界に生きていくって未来……。
考えたくないけど、考えなきゃいけない事だ。
その未来……、私達は絶望せずに生きていけるんだろうか……?

不意に和が私の瞳を正面から見ながら呟いた。


「閉ざされた世界……」


「え? 何だって?」


「閉ざされてる……世界なのよね……」


「そりゃ、まあ……、
元の世界に簡単に戻れない、って意味じゃ閉ざされてるけどさ……」


「ううん、そうじゃないのよ。
閉ざされてるのは世界の方じゃなくて、もしかして……」


それから先は、和の方が口を閉ざしてしまった。
星空を見上げて、何かを考え込んでいるみたいだ。

閉ざされてるのは世界の方じゃない?
一体、どういう事なんだろう?
でも、『閉ざされた世界』って言い方は正しいと思う。
私達だけが閉じ込められた、閉ざされ切ったこの世界。
うん、ぴったりじゃんか。
これからは和の案を採用して、
今の状況の事を『閉ざされた世界』って呼ぶ事にしよう。

和が考え込んだみたいだったから、私はそれ以上和に何も訊ねなかった。
和だって考え込みたい事もあるだろう。
それに心当たりが無いわけじゃない。
閉ざされてるのは世界じゃなくて、異世界と繋がる門だって和も考えてるのかもしれない。
私がそう考えちゃうのは単に、
最近、異世界を門で繋いで渡るゲームや漫画をよく見てるからでもあるけど、
そんな感じで繋がれた異世界への門が閉ざされてるって考えれば、
和の言葉は閉ざされた門の事を言ってたんだって事で十分説明出来ると思った。

和がしばらく黙り込んでいたから、
私は五右衛門風呂から上がって、和の隣のプールサイドに腰を下ろした。
何となく、ゆっくりと和の身体を眺めてみる。

髪が短めなのに、男の子っぽいってわけじゃなく、可愛らしい顔立ちだと思った。
眼鏡を外した姿も新鮮で、濡れた髪も艶っぽくて何だかドキドキしてくる。
いやいや、私は別に女の子が好きってわけじゃないけどな。

スタイルに関しては……、
あー……、やっぱり私より発育いいな……。
うん、もう慣れたよ。
慣れましたよ……。
慣れたっつってんだろ、コンチキショー!


「何を見てるのよ、律?」


考え事が終わったのか、首を傾げながら和が私の耳元で囁いた。
しまった。
和の肉体美を観察してたのがばれてしまった……!
まあ、別にばれてもいいんだけどさ。
私はニヤリと笑ってやって、嫌らしく手先を動かしてやる。


「グへへ……、お姉ちゃんの裸を観察させてもらってたんだぜ」


「何、その古い変態……」


呆れた表情で和が呟く。
いや、変態に古いも新しいもないと思うんだが……。
と。
急に和が珍しくニヤリと笑った。


「ま、見られて減る物じゃないんだし、
いくらでも観察してくれて構わないんだけどね」


「何だよ、その大人の対応は……」


そう言われてしまうと何だか悔しくて、私は口を尖らせて呟いてやる。
まあ、和は兄弟が多いから、
人に裸を見られる事に慣れてるのかもしれないな。
私も中学くらいまでは聡と風呂に入ってたから、あんまり裸に対する抵抗は無いし。
いや……、人前でいきなりスク水姿になれる唯ほどじゃないが……。

気付けば、今度は和が私の身体を見ているようだった。
目を細めて、隅々まで観察してるように見える。
一応、和に訊ねてみる。


「何をしてるのかな、和ちゃん……?」


「今度は私が律の身体を観察しておく番かと思ってね」


「やめんか、エロ親父!
まあ、こっちも見られて減るもんじゃないから、別にいいんだけどな。
こんな面白味の無い肉体でよければ、存分に観察するといいぞ!」


「そう?
律の身体、面白味の無い肉体なんかじゃないわよ?」


「何だよ?
凹凸が無さ過ぎて逆に希少価値があるってか?
失礼な奴だなー……」


私が大きく頬を膨らませて顔を背けると、
和が私の思ってもみてなかった事を口にした。


「そんなに悲観的になる必要は無いわ。
律、男の子みたいって思ってたけど、やっぱり女の子なのよね。
胸もちゃんと膨らんでるし、女性的な曲線もあるし、
普段のカチューシャ姿も似合ってるけど、前髪を下ろした律も新鮮よ。
すっごく興味深いわ」


「な、何だよ……。何を言ってるんだよ、和は……」


「可愛いって事。
律は軽音部の皆と自分を比べちゃってるのかもしれないけど、そんな必要は無いわ。
律には律の良さがあって、律にしか無い魅力があるんだから。
少なくとも私は、律の事、すごく可愛いって思うわ」


「うっ……、あっ……」


声が出せない。
顔が熱いのは、勿論のぼせたせいじゃない。
お世辞ならまだよかった。
お世辞なら軽く流してやる事でこの場は終わってたんだから。
でも、和はお世辞を言うタイプじゃないし、
視線を戻して見てみた和の顔はとても真面目な表情だった。
つまり、和は本気で私を可愛いって言ってくれてるんだ。

真面目に可愛いって言われた事なんかほとんど無い。
唯や澪相手なら叩いてやる事も出来ただろうけど、
和相手じゃ、しかも真顔の和相手じゃそんな事が出来るはずもない。
私はどうしたらいいのか分からなくなって、
立ち上がって、五右衛門風呂の方向に逃げて入り直した。
そのまま頭まで潜って、しばらくお湯の感触を全身で感じる。

まったく……。
和の奴は何を言ってるんだよ……。
そんな真顔で可愛いって言われちゃ、勘違いしちゃうじゃんかよ……。
自分が可愛いんじゃないかって思っちゃうじゃんかよ……。
似合わないんだって、私に可愛いとかそういうのは……!
私が目指すのは可愛いとかじゃなくて、カッコいいの方なんだから……!

三十秒くらい潜っていただろうか。
ちょっと息が苦しくなって頭をお湯の上に出すと、目の前には和の顔があった。
「うわっ」と私は軽く叫んじゃったけど、
和はそれを気にせず、五右衛門風呂の空いてるスペースに身体を入れた。
単に冷えて来たから、お湯に浸かり直しに来ただけなんだろう。
それが余計に恥ずかしい。

つまり、和はさっきの言葉を、何でもない常識だって考えてるって事なんだ。
冷えて来たからお湯に入る事と同じくらい、私が可愛いって事は常識だと思ってるんだ。
だから、何でもない表情を浮かべてるんだ。


「うぇ……、えっとさ……、和……。
私、昼間の件で一つ考えた事があるんだけど……」


自分の恥ずかしさを誤魔化すために、私はどうにか和に他の話題を振った。
本当はもっと落ち着いてから話すべきだったんだろうけど、
他に話題も思い付かなかったから、その話をするしかなかった。
急に話題を変えた事に嫌な顔もせずに、和は私の話を聞いてくれた。

私が話したのは、昼間の件の原因についての私の推測についてだ。
急に人の姿が見えたのは、あの場所自体に原因があるんじゃないか。
ひょっとすると異世界同士を繋ぐ門みたいな物があって、
その誤作動だか何だかで人の姿が現れたんじゃないか。
その門を上手く使えられれば、私達はこの閉ざされた世界から脱出出来るんじゃないか。
私の考えの全てを伝えた時、和は真剣な表情を私に向けた。
さっきこの話をした時みたいな、沈んだ表情は無くなっていた。


「異世界同士を繋げる門……。
面白い考えだと思うわ。
そう考えれば、私達は元の世界に戻れるかもしれないわね。
そうだったらどんなにいいかしら……。

でも、ちょっと待って、律。
私ね、今日一つ気付いた事があるのよ。
律の持って来てくれた地図と梓ちゃんの持って来てくれた地図、
両方を見比べて、自分の記憶とも対照してみて、すごく単純な事に気付いたの。
それはまだ誰にも言ってないんだけど、律にだけ言うわ。
他言無用でお願い」


そんな重要な事を私なんかが聞いちゃっていいものなんだろうか。
そう思わなくもなかったけど、和に信頼されてるらしいのは単純に嬉しかった。
信じられてるんだったら、出来る限りその信頼には応えたい。
私は小さく息を吸い込んでから、ゆっくり頷いた。
ほっとした表情を一瞬浮かべてから、和が続ける。


「今朝、律にこの世界についての色んな可能性を話したけど、
一つだけ話してなかった可能性があるのよ。
まあ、単にその時には思い付いてなかっただけなんだけどね。

だけど、気付いてしまうと、そうとしか考えられなくなったわ。
勿論、まだ勝手な推測なんだけど、私は思ったの。
この世界は本当に現実に存在する世界なのかって」


「現実に存在する世界……じゃないってのか?
つまり、パラレルワールドや、
人類が滅んだ後の未来世界とかじゃなくて、
インターネットの中の電脳空間みたいな仮想世界……って事か?」


「それだと今朝話した可能性の中にもあったでしょ?
そうじゃなくて、もっと単純な話よ。
ねえ、律、この世界は……、
ひょっとしたら誰かの心の中の世界なんじゃないかしら?」


「心の……中……?」


「夢……って言い変えてもいいかしらね。
私達の中の誰かの夢なのか、
全くの第三者の夢なのか……、それは分からないけれど……」


「夢ってそんな非現実的な……、って今更か。
今の状態が十分に非現実的なんだ。
何が原因だって不思議じゃないよな。今朝も話した事だけどさ」


言い終わってから、私は星空を見上げる。
この世界は……、何処かの誰かの夢の世界なのか?
少なくともパラレルワールドや宇宙人の侵略が原因って考えるよりは、説得力がある。
生き物の存在しない『閉ざされた世界』。
確かにこんな世界、夢や仮想空間以外じゃ自然に成立しそうもない。
そこまでは納得出来る。
でも、そう考えてしまうと異世界を繋ぐ門は……。
私が希望を持っていた考えは……。

私が考えていた事に気付いたのか、和が軽く私の肩を叩いた。
視線を戻すと、これまで以上に真剣な表情で和が私を見つめていた。


「この世界が本当に誰かの心の中なのか、誰かの夢なのかは分からないわ。
分からなかったから、律と梓ちゃんに地図を集めてもらってたのよ。
一つ……、気になる事があったから。
それで地図を確認してみて、自分の記憶と対照してみて、思ったの。

勿論、この世界が誰かの夢だって、確信出来てるわけじゃないわ。
でも、少なくとも私は、この世界はそういう類のものなんじゃないか、って思えたのよ」


「気になる事?
この世界に何か変な事でもあったのか?」


「変な事……と言えば、変な事かしらね。
ねえ、律……。
確か律と澪の小学校はあの大きな公園の近くにあったわよね?」


和が急に何を言い出したのか分からない。
でも、和の言う通り、私達の小学校はあの大きな公園の近くにある。
この付近で一番大きいあの公園……。
澪達とも何度か遊んだ事があるし、そういや私が骨折したのもあの公園だったか。
和の瞳を覗き込みながら、私は軽く頷く。
すると、和が少し躊躇いがちにまた話を続けた。


「小学校の頃、私も唯、憂と一緒によくあの公園で遊んだわ。
もしかしたら、律達とも何度か擦れ違った事があるかもしれないわね。
この近辺に住んでる子供達の中で、
あの公園で遊んだ事が無い子は居ないんじゃないしら。
それくらい大きな公園だものね。

それでね……、世界がこんな風になって、
閉じこもってた澪を説得した後であの公園の付近を通った時……、
私、違和感に気付いたのよ。
誰も気にしてなかったでしょうし、気にする事じゃないのかもしれない。
でも、私は気付いたの。
ひょっとすると、あの公園に行く事が少なかったからこそ、
逆にその違和感に気付けたのかもしれないわね……。

ねえ、律、変な事を訊くけど、教えてくれるかしら?
あの公園……、大きな樹があったわよね?
登れる事が小学生の間で大きなステータスだったあの樹よ。
何人か私の知り合いも登ろうとして落ちていたわね。
唯も登ろうとしてたけど、身長分も登れてなかったから、
落ちた時に大きな怪我が無くてホッとしたのをよく憶えてる」


唯らしいな、と思う隙もなく、和が更に話を続ける。
躊躇いながらも、誰かに話したい事だったんだろう。


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最終更新:2012年07月09日 22:37