「あの樹……、大木なんだし、切られてなんかいないわよね?
今もあの公園にあるはずよね……?
最近行ってなかったからそこが分からないんだけど、
私の中の唯とあの樹の記憶は夢や幻想なんかじゃないわよね……?」


「あ、ああ……、確かあの樹はまだあるはずだよ。
この前、聡が年甲斐もなく久し振りに登っちゃった、って話をしてた憶えがある。
大体、あんなでかい樹、切ろうとしたら結構な騒動になるはずだし……。

なあ、和……。
まさか、そういう事か?
私達は気付かなかったんだけど、あの公園に、あのでっかい樹が無かったって事なんだな?」


「ええ、そうよ……。
それで、記憶違いかと思ってこの町の地図や観光案内を調べてみたのよ。
ローカルな地図だと、公園の樹まで鮮明に描かれてる地図もあるから。
でも、地図の方にも、観光案内にも、樹は載ってなかったわ。
公園を遠景で写した写真にも……。
あんなに大きな樹なのに……。
学校にあった地図だけじゃ心許ないから、
律達に集めてもらった地図も調べてみたのに、やっぱり樹の姿は何処にも無かったわ。

勿論、それだけなら記憶違いかもしれない。
あの公園にあったと思ってた樹が、
実は別の公園にあった樹だったって話かもしれないわよね?

だから、私はもう一つ確かめてみる事にしたの。
実は私、桜高の校庭にね、生徒会の皆でタイムカプセルを埋めてたのよ。
十年後の夏、皆で開けようって約束をしてね」


「タイムカプセルって、和も小学生みたいな事してんなー……。
まあ、私達も軽音部でタイムカプセルを埋めたんだけどな。
色々入れたなー、アレ。何かもう懐かしいよ」


「何よ、律達も埋めてるんじゃない」


「私達はいいのだよ、和くん。
勿論、発案者は唯だったんだけどさ、
そういう小学生みたいな事が平気でやれるってのは、結構凄い事だよ。
あいつが言い出してくれたおかげで、思い付いてはいたけど、
照れもあって言いにくかったタイムカプセル計画が実行出来たんだよな」


「そうよね……、唯ってそういう子よね……。
だから、私もあの子が居ると……。

と、今は軽音部じゃなくて、生徒会のタイムカプセルの話よ。
それで私、ふと思い立って、タイムカプセルを掘り出してみる事にしたのよ。
澪と憂に手伝ってもらって、今日、埋めた場所を掘ってみたの。
生徒会の皆には悪い気がしたけど、確かめたい事があったから……。

場所は間違ってなかったと思うわ。
五ヶ月前の事だけど、まだ昨日の事のようにはっきり憶えてる。
でもね……、その場所にタイムカプセルは埋められていなかったの。
ううん、それだけじゃない。
ここ数年は一度も掘り返されてないみたいに、
タイムカプセルを埋めたはずの地面はとても固かったのよ。
そこには最初から何も埋められてなかったみたいに……」


和が辛そうに呟く。
自分の記憶と現実の世界の間に、大きな差がある事に気付かされてしまったんだ。
そんなの私だって嫌だ。
自分の思い出が否定されるって事は、自分自身を否定されるって事なんだから。
だから、私は和がその話題を切り出すより先に言ってやった。
言わなきゃいけなかった。


「だから……、この世界は誰かの夢みたいな物かもしれないって和は思ったんだな」


「いいえ、私はただその可能性もあるって……」


「いや、きっとそうだよ。
この世界……、とりあえず和の言葉からパクって『閉ざされた世界』って呼ぶけど、
この『閉ざされた世界』は和の言う通りなら、
私達の記憶とはちょっとずつ違う世界なんだよな。
あの公園にあったはずの樹が無かったり、
埋めたはずのタイムカプセルが埋められてなかったり……。
私達の世界が完全再現されてるみたいで所々惜しい……って感じか。

夢……だな。
確かに……夢だ。
誰かが心の中で記憶してる風景みたいだよな……」


本当はパラレルワールドって可能性もまだ残ってた。
私達の世界と『閉ざされた世界』は、
細部がちょっとだけ違ってる世界なんだって考える事は出来る。
パラレルワールドの方なら異世界の門か何かで、元の世界に帰れる可能性もある。
本当はパラレルワールドなんだって考えたい。

でも、そうとはもう考えられなかった。
特に昼間、私とムギが見た光景は、異世界の門の先を見たって考えるより、
この夢を見てる誰かの生き物の記憶がふとした拍子に蘇ったって考えた方が説得力がある。
そもそも自分で考えた事だけど、何だよ、異世界の門って……。
もしそんなのがあったとしても、また簡単に通れるようになるもんなのかよ……。
やっぱもう私達は元の世界には戻れないのかよ……。


「……っ」


くそっ!
と言おうとして、どうにか言い留める。
今、そういう事を一番言いたいのは和のはずだ。
だから、和は言ったんだ。
「私達は元の世界に戻れないかもしれない」って……。

和が多分、私なんかよりずっと辛そうな顔をして、口をまた開いた。


「細かい所が違うこの世界……。
意識して観察してみたら、本当に多くの所が違っていたわ。
校内だけでも何ヶ所もおかしな所があるのよ。
校長室、図書室、司書室、校庭の樹の本数、グラウンド……、
普通なら記憶違いで済ませる所なんだけど、
間違い探しだと考えて探してみると見つけるのは簡単だったわ。
この世界は人が居ないってだけじゃなくて、そのものもちょっとずつ違ってるのよ。
ひょっとしたら、澪はそれに本能的に気付いてたのかもしれないわね」


「澪……も……?」


「深く気付いてるわけじゃないと思うわ。
でも、違和感や空気の違いには人一倍敏感な子でしょ?
だから、怖がってたのよ、澪は。
誰よりもこの世界に気付いちゃったからこそ……。
私だって……怖いもの」


和の言う通り、確かに澪はそういう自分の身に迫る危機だけは敏感に感じ取る奴だ。
それをあの時の私には気付いてやれなかった。
そうか……。
だから、澪はあんなに……。
今なら澪が部屋に閉じこもろうとした気持ちもよく分かる。
生き物が居ないってだけなら、まだ何とか対応しようがある。
でも、世界そのものの存在自体が中途半端で曖昧だなんて、私だって不安になってくる。

最後に一つだけ、和が私に不安そうに訊ねた。


「世界の方が間違っているのかしら……。
それとも、やっぱり私の記憶が間違っているのかしら……。
私は……」


それに対する答えは私も持ってない。
私に出来る事は信じる事だけだ。
私の目の前に居る和と、和との思い出、そして、和の身体の温かさを。


「信じてくれ、和。
私は和の心の中や頭の中までは覗けないけど、
でも、和の記憶が正しいんだって信じてる。
あの樹だけどさ、実は私も小学生の頃に落ちて指を折った事があるんだ。
だから……、和も和自身と和を信じる私を信じてくれよな。
和は間違ってないよ」


私は和の肩を取って真正面から伝える。
和は少しだけ沈黙してたけど、すぐに微笑んで言ってくれた。


「そうね……。
信じるわ、律が信じてくれる私の記憶を。
それに……、元の世界に戻れる希望が無くなったわけじゃないって。
異世界の門云々はともかく……、何か方法はあるはずなのよ。
もしもこの世界が本当に誰かの夢だったとしたら、
その誰かの夢を覚ます事で私達は元の世界に戻れるかもしれないし……。

大体、律の記憶より、私の記憶の方がよっぽど信じられるものね。
律が憶えてる事を私が憶えてないわけないもの」


最後には微笑みどころじゃなく、眩い笑顔になっていた。
どうやら最後はからかわれてしまったらしい。
私はニヤリと微笑んでから、和の肩を揺らして耳元で叫んでやる。


「酷い言い方だな、わちゃんめー!」


「わちゃんって呼ばないでよ……。
ただでさえ『かず』とか『なごみ』とか、呼ばれ間違われやすいんだから……」


「じゃあ、平和でピンフの『フ』だ。
フちゃんめー!」


「どうして麻雀用語を知ってるのよ、律は……」


そう呆れた口振りで話しながらも、和は笑っていた。
私も笑っていた。
笑ってみせる。
得体の知れないこの世界だって、皆が居れば笑って乗り越えられるはずだ。
乗り越えて……やる。

不意に和が私の手を握った。
私は自分の胸が高鳴るのを感じた。
そういや、和と手を繋ぐのは初めてだ。
和どころか、唯やムギ、梓や澪とだって手なんかそうは繋がない。
そういう事が出来る女の子同士も多いらしいけど、私にはちょっと無理なんだ。

でも、嫌な気分じゃない。
和と深く仲良くなれたって気がする。
だから、私も手を広げ、指を絡めて和と深く手を繋ぎ合った。


「戻りたいけど、戻れなくても、皆が居れば私は……」


和が小さく呟く。
私も同じ気持ちだったけれど、その和の呟きには何も返さなかった。
そういう事を考えなくてもいい時だと思うから。
今は、まだ。


「ねえ、律」


不意に和が笑顔で言ってくれた。


「ほうかごガールズに誘ってくれて、ありがとう。
音楽……、体験したみたかったけど、その一歩が踏み出せなかった。
踏み出させてくれて、本当に感謝してるわ。
上手く出来るか分からないけど、精一杯弾くわ。
私も皆に想いと演奏を届けたいから……、だから……。
いい演奏に……しましょう……!」


「当然だ!」と言って、私は和と強く手を繋ぐ。
『閉ざされた世界』……、いや、『閉ざされた夢』……か?
とにかく、そんな世界でも私は前に進んでみせる。
その先に八人だけの世界しか残ってないにしても、八人なら……。
多分、和は覚悟を決めている。
元の世界に戻れないって覚悟を。
諦めてるわけじゃなく、強く生き抜こうって覚悟をだ。

私は……、どうするべきだろう?
この世界で生きていく決心をするべきなのか。
それとも、やっぱり元の世界に戻る方法を探し続けるべきなのか。
勿論、まだその答えは出せない。
それでも、少なくともほうかごガールズのライブが終わった後には、考えなきゃいけないだろう。





夜空。
満天の星空。
和と風呂から上がった後、
私はパジャマの上に上着を羽織り、校舎の屋上であいつが来るのを待っていた。

あいつにしては珍しく、私より先に来てなかった。
別に時間を指定してたわけじゃないんだけど、時間厳守のあいつにしては結構珍しい。
どんな時でも私より先に待ち合わせ場所に来てるのが、私達のある種のお約束だったんだけどなあ。
でも、別に急ぐ用事でもない。
あいつの事だ。
星空を見上げて待っていれば、その内来てくれるだろう。

軽く微笑んでから、屋上に寝転がってみる。
位置的に良かったのか、夜空以外に人工の何かは目に入らなくなった。
私の目に映るのは星降るような夜空だけ。
まさかこの町でそんな夜空を見れるようになるなんて、思ってなかった。
勿論、人工の光がほとんど無いからってのもあるだろう。
地上の光が少なければ、夜空の光は眩しく見えるって寸法だ。

綺麗な夜空だな……、ってらしくなく私は思ってしまう。
本当に綺麗な夜空だ。
初めて見るみたいな、星降る夜。
こんな夜空が見られるなら、閉ざされた世界もそんなに悪くない気はする。
だけど、私は一瞬考える。
綺麗な空だ。夢みたいに眩しい夜空だ。
その空はもしかしたら、和が言ってたように……。


「遅くなってごめん、律」


聞き慣れてるはずなのにひどく懐かしい声が、
私以外誰も居なかった屋上に柔らかく響いた。
久し振りの、あいつの……、声だ。
話をしてなかったわけじゃない。
でも、懐かしく感じるのは、
こんなに穏やかに響くあいつの……、澪の声を聞くのが久し振りだったからだろう。


「どうして屋上に寝転がってるんだよ……。
これから布団に入るってのに、パジャマも布団も汚れちゃうじゃないか」


呆れた声を出しながら、澪が真上から私の顔を見下ろす。
普段、風呂上がりにしてるように、襟足で長髪を結んでて妙に艶っぽい。
こいつ、女子大生になって余計に色気を纏い始めやがったよな……。
何か悔しい……、けど、嬉しかった。
風呂上がりに髪を結ぶなんて、
私達が閉ざされた世界に迷い込んでからは一度も無かったからだ。
まあ、今まで風呂に入れてなかったからってのもあるけど、
髪を結ぶくらいの余裕を持て始めて来たって事でもあるんだろうしな。


「固い事言うなって。
汚れたら後で洗えばいいだけじゃんかよ。
ほらほら、澪もやってみろよ、すっげー星空だぞ」


寝転んだまま、澪の脚を掴んで誘惑してみる。
真面目な澪の事だし断るかと思ってたんだけど、
澪は意外にそうせずに私の横に腰を下ろし、それから手足を伸ばして寝転がった。


「まったく……、しょうがないな、律は……」


苦笑を漏らしながら、澪が囁く。
でも、その声色に嫌そうな感じは混じってない気がした。
ただ私を見守る保護者みたいに、普段みたいに、澪は苦笑してたんだ。
気が付けば、私は笑顔になっていた。
そうか……。
澪は怯えを乗り越えられたんだな……。

その怯えを振り払ってやれたのが私じゃなかったのは残念だけど、
そんな事よりも澪が元気になってくれた事の方が何倍も嬉しかった。
澪が元気になれたのは、多分、いや、きっと和のおかげだろう。
和は頼りになるよな……。
私達を引っ張ってくれるし、澪を救ってくれるし、
慣れないキーボードってパートでほうかごガールズにも参加してくれる。
凄い奴だなって思う。

私も負けてられない。
一応、部長だったんだからな。
部長として、いや、親友として、
これから澪に、澪達に何かをしてやりたい。
いや、何かをさせてもらおうと思う。
そうでなきゃ、何も出来てない私がここに居るのが申し訳ないじゃんか。
だから、やってやろう……!
少なくとも、ライブだけは絶対に成功させてやるんだ……!

でも、それより先にしなきゃいけない事がある。
私は上半身を起こして、寝転がる澪に視線を向ける。
澪は穏やかに笑っていてくれたけど、それで終わらせちゃいけないんだ。
心臓が鼓動するのを感じたけど、私はまっすぐに澪を見つめながら頭を下げた。


「今日までごめんな、澪」


これだけは言わなきゃいけない事だった。
澪の怯える姿から逃げて、自分が怯えたくなくて逃げて、
澪が本当に怯えてる何かを知ろうともせずに、話も出来なかった事を私は澪に謝らなきゃいけない。
謝ったってどうなるわけでもない。
澪だって謝られる事を望んでなんかいないだろう。
でも、謝らなきゃいけないんだ。
それが私のけじめで、澪と私がこれからも親友でいるためにしなきゃいけない事なんだ。

澪は何も言わなかった。
その代わりに、私のパジャマの袖を引いた後、屋上の地面を軽く叩いた。
寝転がってくれ、って事なんだろう。
私は澪に誘われるまま、また寝転がって夜空を見上げた。

二人で星空を見上げる。
何だか吸い込まれてしまいそうだ。
宇宙と私達が一体化する……ってのは言い過ぎか。
でも、そんな気がするくらいの時間が経ってから、澪が小さく言葉を届けてくれた。


「私こそごめん、律。
年下の子が三人も居るってのに、
真っ先に取り乱して、家に閉じこもっちゃってさ……。
自分でも情けないって思うんだけど、
どうしても怖くて……、目の前の現実から逃げ出しちゃって……。
皆に迷惑掛けちゃったって思う……。

だから、謝るのは私の方なんだよ、律。
今までごめんな、律……」


「いや、でも、私の方が……」


身を乗り出して伝えようとしたそれより先の言葉は、
口元に澪の人差し指を当てられる事で止められてしまった。
澪の人差し指の温かさを唇に感じる。

とても優しい表情で、澪が続ける。


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最終更新:2012年07月09日 22:39