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「律が骨折の原因を忘れてた事、変な話だけど、ちょっと嬉しいよ」


「は? 何だ、そりゃ?」


「忘れてたって事は、それは律にとってはよくある事だって意味なんだ。
鍵閉めとか、ガスの元栓とか、
習慣になってる事はちゃんとやってるはずでも憶えてないだろ?
つまり、私のために何かをしてくれる事が、
律にとっては当たり前になってるって事なんだよな……」


「や、やめろよ……、こっ恥ずかしい……!」


「嘘を吐かないってさっき約束しただろ?
ちゃんと正直に自分の気持ちを話さないとな」


澪が少し意地悪く微笑む。
いつも私にからかわれてるから、その仕返しって意味もあるんだろう。
でも、それだけじゃないのも確かで……、それがやっぱり恥ずかしい。
しばらくの間、澪が顔をちょっと赤くしちゃってる私を見ていた。
何だよ、もう……。

私が恥ずかしさに堪えられそうになくなった時、
そのタイミングを見計らっていたのか、不意に澪が口を尖らせて言った。


「そうそう、律。
ここに来る前、唯から聞いたぞ。
律と和と梓と憂ちゃんと純ちゃんで新しいバンドを組んだらしいじゃないか。
おかげで「りっちゃん、ずるいよね!」って騒ぐ唯をなだめるの大変だったんだからな。
少しくらい私達にも相談してくれよな」


「それは悪いと思ってるよ、澪。
思い付いちゃったら止まらなくてさ……、気付いたらバンド結成してたんだよ。
しかし、唯の奴、やっぱり騒ぎやがったんだな……」


上半身を起こし、頭の上で手を合わせて澪に謝る。
謝りながら、心の中で納得していた。
なるほどな、唯をなだめるのに時間が掛かったから、屋上に来るのが遅かったのか。
それは悪い事をしちゃったよな……。

唯が頬を膨らませて澪に絡む様子が目に浮かぶ。
子供っぽくて笑える光景だけど、人の事は言えないよな。
私だって唯が和や梓達と新バンドを組んだって聞いたら、ずるいなあ、と思うだろう。

でも、間違った事をしたとは思ってない。
新バンドを組んだのは完全に勢いからだったけど、
ライブに向けて動けるのは嬉しいし、皆にも喜んでもらえるはずだ。
澪達だって、仮とはいえわかばガールズのメンバーの演奏が聴きたかったはずだしな。
だから、私がやるべきなのは、澪達に最高の演奏を届けてやる事なんだ。

不意に思い立って、澪の体の上に覆い被さるような体勢になってやる。
覆い被さるって言っても、身体全体で乗っかってるわけじゃない。
妹がお兄ちゃんを朝起こす時に腰の上に乗っかるって感じの体勢かな。
ネタが古いけど、私は何となくそんな体勢を取ってみた。
ひょっとしたら、澪と少しだけくっ付きたかったのかもしれない。

「急に何だよ。重いぞ、律」って言われるかと思ってたんだけど、
意外に澪はそう言わずに、逆に珍しく不敵そうな表情を私に向けて言った。


「別に謝らなくてもいいよ、律。
唯だって羨ましがってるだけで、律を責めてたわけじゃないしさ。
憂ちゃんがちゃんと説明してくれたみたいで、意外に唯も落ち着いてた。
ちょっと目が覚めちゃったらしいムギにも梓が説明してたんだけど、
ムギの奴も羨ましそうにしながら、何か嬉しそうな感じだった。
だからさ……、律の行動は間違ってなかったんだよ、きっと」


そう言ってくれるのは嬉しかった。
特にムギの事は気になってただけに、
嬉しそうにしてくれてるんなら私だって嬉しくなる。
それはよかったんだけど、勿論と言うべきか、澪の言葉には続きがあった。


「でもな、やっぱりずるいぞ、律。
羨ましいし、妬ましいよ。
和まで誘って、楽しそうな事始めちゃってさ」


澪が腕を伸ばして、私の頬を掴む。
それからぐにぐにと動かして私の頬を抓り始めたけど、それくらいは好きにやらせてやる事にした。
しばらく抓って満足したのか、澪がまた言葉を付け加える。


「まあ、いいよ。
律が楽しそうな事を始めるんなら、
私達だって、勝手に楽しそうな事を始めてやるからな?
律だけじゃなく、梓達も羨ましがるような事を始めてやる。
ずるいって思うなよな。これでお互い様なんだから」


「何だよ? 何を始める気なんだ?
教えてくれよー、澪。
嘘は吐かないって約束しただろー?」


上から私が訊ねると、一瞬だけ真面目な表情になった澪が言った。


「内緒だ」


そうして、屈託もなく笑う。
そう来たか……。
確かに嘘は吐いてないよな、嘘は……。

でも、よかった。
澪達も澪達で楽しい事に向けて動き出せてるんだ。
それぞれの未来に向けて、それぞれに向かえてるんだ……。
それならきっと、私達も澪達も元気に生きていけるはずだ。

でも、お互い様ながらちょっと悔しいから、
澪に私達の新バンドの名前を訊かれた時(梓が恥ずかしがって名前は伝えなかったらしい)、
「私も内緒だ」って言って、澪の頬を軽く引っ張ってやった。

こうして、長かった夏の日の一日は終わった。





ほうかごガールズを組んでから、数日は何事も起こらなかった。
何事も起こらなかったって言うより、
何も進展しなかったって言う方が正しいかもしれない。
あれから何度かあの横断歩道にも行ってみたけど、
何があるわけでもなく、何が起こるわけでもなく、何の手掛かりも掴めなかった。
やっぱりあの時見た生き物の光景は、誰かの夢の中の記憶だったんだろうか。

まあ、こんな事態、進展させようもないっちゃないんだけど、何も出来ないのは悔しい。
だから、その分、私達は新ユニットの練習に励んでやる事にした。
幸いにもと言うべきか、食糧と時間はたくさんあるんだ。
閉ざされた世界に対して何も出来ない分、私達のために何かをしてやりたかった。

ほうかごガールズはほうかごガールズで何かをする。
澪達も澪達で何かをしているらしい。
それでいいんだと思った。
先の見えない世界でも、前に進む事だけはやめるわけにはいかない。
それだけは……、やめちゃいけないと思うから。


「それにしてもさ、和……」


吹奏楽部が使ってる方の音楽室、私はピアノの前に座る和に声を掛けた。
静かに微笑み、和が応じてくれる。


「どうしたのよ、律?」


「上達早いよなー、って思ってさ。
上達って言うか、昔取った杵柄って言うか……。
とにかく、凄いじゃんか。
もう安心して演奏を見てられるよ。
本当に長い間、ピアノ弾いてなかったのかよ?」


「そうかしら?
でも、長い間弾いてなかったのは本当よ。
中学に上がる頃には全然弾かなくなっていたから、かれこれ三年くらいになるかしら。
しかも、音楽の授業とお遊びで弾いてただけだから、本当に弾けるってレベルじゃないのよ。
まだうまく弾けない箇所も多いし……。
こんな出来で唯達に聴かせてもいいものなのかしら……?」


不安そうに和が目を伏せる。
初めてのライブを間近にして、流石の和でも不安を隠せなくなって来てるんだろう。
そりゃ初めてなんだもんな。
内輪だけのライブとは言え、緊張しちゃうのは仕方が無い。
私は微笑みを和に向けて、言葉を返してやる。


「何言ってんだよ、和。謙遜かー?
私なんか和の十分の一もピアノ弾けないし、
ドラムの演奏を人前に聴かせるレベルにするまで、すっげー時間が掛かったんだぜ?
それに比べりゃ、和のピアノの演奏は自慢してもいいレベルだよ」


「そうだよ、和ちゃん!
私、和ちゃんのピアノの演奏、凄いと思うよ!」


手を胸の前で握ってそう言ったのは唯……、じゃなくて憂ちゃんだった。
何か唯みたいな言葉と仕種だけど、別に私が二人を見間違えてるわけじゃないぞ。
全然違ってるように見えても、二人はやっぱり姉妹なんだなって思う。
しかも、その顔を紅潮させた様子を見る限り、
お世辞じゃなくて本気でそう思ってるみたいだ。

しかし、何だな……。
最近、妙に憂ちゃんと和の仲が良くないか……?
私と出会って三年間、憂ちゃんはずっと和の事を『和さん』って呼んでたはずだ。
いや、そもそも小さい頃は『和ちゃん』って呼び方だったんだろうけどさ。
って事は、呼び方が小さい頃に戻ったって事か。

幼児退行……じゃないよな?
この世界を不安に思って、誰かに甘えたくて退行してるって事は無いよな?
憂ちゃんはしっかりしてるし、そんな事は無いだろうけどちょっと不安になる。
もし憂ちゃんが心の奥で悩んでるんだとしたら、私が力にならなきゃいけない。
何が出来るかは分からないけど、憂ちゃんにはいつも世話になってるんだからな。

そういや、憂ちゃんが和を私の前で『和ちゃん』って呼び始めたのはいつ頃だったっけ?
あの生き物が消えた日には、まだ憂ちゃんは『和さん』って呼んでたはずだ。
それからしばらくも『和さん』って呼んでたはず。
憂ちゃんが和を『和ちゃん』って呼び始めたのは、確か……。
……んん?
私の記憶が正しけりゃ、私と一緒に風呂に入ってからだよ、うん。
あのほうかごガールズ結成会議の時には、もう『和ちゃん』って呼んでたもんな。
風呂って……、和と何の関係も無いじゃん……。
私との風呂と『和ちゃん』って呼び方に何の因果関係があるってんだ……。

そうやって唸ってたせいだろうか、
気が付けば、憂ちゃんが心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
憂ちゃんが不安そうな口振りで私に訊ねる。


「ど、どうしたんですか、律さん?
調子でも悪いんですか?」


「あ、ごめん、憂ちゃん。
大丈夫。何でもな……」


何でもない、と言おうとして、私は言葉を止めた。
嘘を吐いたってしょうがない。
私が何でもないって言った所で、優しい憂ちゃんは私を心配しちゃうだろうしな。
だったら、本当の事を訊ねた方がずっといいはずだ。
そうすれば、私だって見つからない答えに悩んで唸る事も無くなるしな。

私はちょっと深呼吸してから、憂ちゃんに小さく訊ねてみる。


「調子は万全なんだけど、ちょっと気になる事があるんだよね。
憂ちゃんの事でさ」


「私の事……ですか?
分かりました!
私で答えられる事なら何でも答えますよ、律さん。
何でも訊いて下さい!」


まっすぐな視線で憂ちゃんが私を見つめる。
やっぱり、いい子だな……。
この調子なら退行って事も無いだろう。
私はホッとしながら、憂ちゃんの好意に甘えて訊ねさせてもらう。


「いや、大した事じゃないんだけどさ、
最近、憂ちゃんは和の事を『和ちゃん』って呼んでるよね?
これまでは『和さん』だったはずなのに、どうしてなのかなって思ったんだ。
呼び方なんて個人の自由なのに、変な事気にしちゃってごめんね」


私の言葉が終わると、憂ちゃんが苦笑した。
私の質問に苦笑したって言うより、
自分自身の変化にやっと気付いたって感じの苦笑だった。
苦笑しながら、憂ちゃんが私の質問に応じてくれる。


「あ、そうですね……。
律さんに言われるまで気付きませんでした。
そういえば私、律さん達の前では和ちゃんの事を『和さん』って呼んでましたよね。
いいえ、ほとんどの人の前では、『和さん』って呼ぶようにしてたんです。
それこそ、お姉ちゃんの前でも……。
流石にそれはお姉ちゃん相手でも恥ずかしいですし……。
だけど……」


「だけど?」


「本当は私、やっぱり和ちゃんの事は『和ちゃん』って呼びたくて……。
だから、親しい人の前だと、その呼び方になっちゃうんだと思います。
実は私、梓ちゃん達の前じゃ、結構『和ちゃん』って呼んでたんですよ。
つまり……、えっとですね……」


珍しく憂ちゃんが言葉を詰まらせる。
視線をあちこちに動かして、顔を少し赤く染めてるみたいだった。
多分、照れてるんだろう。
憂ちゃんが照れるなんて、滅多に無い事でとても新鮮だ。

親しい人の前じゃ呼び方が変わっちゃう……。
確かにそういう事もあるだろう。
特に憂ちゃんは分別のある子だから、
年上の人に対する呼び方にはすごく気を使ってるはずだ。
私達なんかずっとさん付けで呼ばれてるしな。

考えてみれば、ほうかごガールズは憂ちゃんの親しい人間ばかりで構成されてる。
同級生の梓、純ちゃん、幼馴染みの和。
これだけ親しい人間が揃えば、徹底してた呼び方もつい変わっちゃうってもんだ。
私だって気を抜くと、澪の事をたまに『澪ちゃん』って呼びそうになるしな。
ううむ、幼い頃の習慣と言うやつは恐ろしい……。
まあ、高校生にもなって、
さわちゃんの事をママと呼んじゃった事がある澪には敵わんが。

私は静かに微笑んでから、憂ちゃんに軽く頭を下げた。


「そっか、ありがと、憂ちゃん。
何か恥ずかしい事を訊いちゃったみたいでごめんね。
そうだよね、やっぱり幼馴染みくらい自分の好きな呼び方で呼びたいよね。
唯の前じゃ和ちゃんって呼びにくいってのも分かるな。

……そうだ!
変な事訊いちゃったお詫びに、私の事もりっちゃんって呼んでくれていいよ!」


最後のは冗談のつもりだったんだけど、
意外と憂ちゃんは笑う事もなく真剣な表情で視線を私にぶつけた。


「本当にいいんですか、律さん?
りっちゃんって呼んでも、いいんですか?
いいんでしたら、私も嬉しいです……!」


「う、うん……。勿論だよ……」


予想外の憂ちゃんの言葉に、私はちょっと気圧されてしまう。
あれ……? おかしいな……。
憂ちゃんなら「もう、律さんったら」って微笑む所だと思ってたんだけど……。
いや、別に嫌なわけじゃない。
呼ばれ方は気にしない方だし、
憂ちゃんがいいなら何だって好きに呼んでくれて構わない。
でも、憂ちゃんって年上にこんな積極的な子だったっけ……?

さっきみたいに私はまた首を捻る。
そうやって憂ちゃんの真意が分からずに悩んでいると、
仕方ないわね、とでも言わんばかりに苦笑しながら、和が口を開いた。


「律はもうちょっと人の話をよく聴くべきね。
律が鈍感だから、憂が困ってるじゃないの。
よく思い出して。さっき憂は何て言ったかしら?
親しい人の前だと私の呼び方が変わっちゃうって、憂は言ったわよね?
これがどういう事か分かるでしょ?」


「言われなくても分かってるって。
今、音楽室には和と梓と純ちゃんが居るだろ?
だから、憂ちゃんが和を和ちゃんって呼ぶのは分かるよ。
やっぱ呼べる時は好きな呼び方で呼びたいもんな」


私が言うと、和がわざとらしく大きな溜息を吐いた。
傍から見ていた純ちゃんの表情もちょっと呆れ気味だ。
何だよ……、間違った事は言ってないはずだぞ……?

溜息を吐きながら、和が話を続ける。


「やっぱり分かってないんじゃない……。
律の言った通り、今、ここには私と梓ちゃんと純ちゃんが居るわ。
それと憂と……、もう一人居るじゃない」


「もう一人……って、私かっ?」


「他に誰が居るのよ……。
律ったら鋭い時は鋭いのに、自分の事になると全然分かってないわよね。
憂が私の事を律の前で『和ちゃん』って呼ぶようになったのは、憂と律が親しくなったからなの。
変わったのは私と憂の関係じゃなくて、律と憂の関係なのよ。
どうして律はそんな単純な事に気付かないのかしら……」


「いや、だって……、そんな……」


私は呻くみたいに呟く。
流石にそこまで自分に自信は持てないよ、和……。
特に憂ちゃんとは三年以上、
『友達の妹』と『お姉ちゃんの友達』って関係で付き合って来たんだ。
急に自分達の関係性が変わるなんて思わないじゃないか……。

大体、きっかけが分からない。
風呂か? 風呂なのか?
一緒に風呂に入った事が、二人の関係をそんなに激変させちゃうもんなのか?


「律先輩ったら、女泣かせのプレイボーイなんだからー」


からかうみたいに純ちゃんが笑う。
普段なら言い返したい所だったけど、
鈍感な自分に恥ずかしさが増して来てそれも出来なかった。
いや、本当に恥ずかしいのは、きっと私よりも憂ちゃんの方だ。
おずおずと視線を向けてみると、憂ちゃんが顔を赤く染めながら私を見つめていた。

あー、もう!
何やっちゃってんだよ、私は!
こんなの憂ちゃんに物凄く悪いじゃないか!

私は自分の顔が熱くなるのを感じながら、それでもどうにか憂ちゃんと目を合わせて言った。
今は憂ちゃんとしっかり話をしなきゃいけない時なんだ。
私の恥ずかしさなんて、今はどうでもいいんだ。


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最終更新:2012年07月09日 22:51