迷いの無い笑顔。
大好きなお姉ちゃんを独り占めになんかしない微笑み。
その微笑みを見て、唯も決心出来たらしい。
唯はすぐにリュックサックを下ろすと、一瞬だけ憂ちゃんに抱き着いた。
その耳元で囁く。
「今日の夜……!
今日の夜、一緒にお風呂に入ろうね!
私、憂と色々話したい事があるんだ……!
だから、今はちょっとだけ、またね……!」
瞬間、私は見逃さなかった。
唯に抱き着かれた憂ちゃんのその手が唯の背中を抱き留めようとして……、
でも、遂にはその手が唯の背中に回らず、唯の肩にだけに軽く置かれたのを。
憂ちゃんにも躊躇いはあるのかもしれない。
だけど、憂ちゃんは笑顔を崩さなかった。
「うん!
今日は一緒にお風呂に入ろうね、お姉ちゃん!
いってらっしゃい……!」
「うん!
絶対だよ……! 絶対だからね……!
りっちゃんも純ちゃんもまたね!
いってきます!」
言って、唯は走り出した。
唯のスピードだからそんなに速くなかったけど、
出来る限りの全速力で澪とムギの所に向かってるんだろう。
すぐにその姿は校舎に吸い込まれていった。
軽く憂ちゃんに視線を向けてみる。
思った通り、唯が居なくなった後の憂ちゃんの表情は寂しそうだった。
やっぱり、少しだけ無理をしてるんだろう。
私が何か声を掛けようとした瞬間、それより先に純ちゃんが憂ちゃんに訊ねていた。
「本当によかったの?
何だったら、今日の私達の練習は早めに切り上げてもいいんだよ?」
そう訊ねる純ちゃんの表情も辛そうだった。
親友が寂しそうな表情を浮かべているのが辛いんだろう。
私だって、憂ちゃんが寂しそうにしてるのは辛い。
だけど、憂ちゃんはゆっくり首を振ると、また穏やかに微笑んだ。
寂しそうだったけど、安心出来る笑顔だった。
「ううん、駄目だよ、純ちゃん。
練習はちゃんとしなきゃいけないよ。
いいライブ、お姉ちゃん達に見せてあげたいし……。
それにね……、これは私が選んだ事なんだもん」
「憂の選んだ事……?」
「うん。
私ね……、純ちゃんには言ってなかったけど、一人で決めてた事があるんだ。
ううん、誰にも話してなかった事があるの……。
いい機会ですし、律さんも私の話を聞いて下さいませんか?」
まっすぐな視線を憂ちゃんが私に向ける。
私はリュックサックを下ろし、頷いてから憂ちゃん達を木陰に誘った。
この熱気の中、暑さに参りながら聞くような話でもないはずだ。
純ちゃんも一緒に、大きな木の陰に三人で腰を下ろす。
木に背を預け、緩い風に揺れる葉っぱの音が聞こえる。
小鳥の声や蝉の鳴き声なんかは聞こえないけど、いい雰囲気だ。
気持ちのいい昼下がり……って言えるのかな?
憂ちゃんが優しい笑顔を浮かべて、話を続ける。
「私、皆の姿が見えなくなっちゃって、
律さんや和ちゃんとほうかごガールズを組む前から、ずっと思ってた事があるんです。
お姉ちゃんが大学に入って、傍で暮らさないようになって、寂しかった……。
すっごく寂しかったけど……。
でも……。
寂しかったからこそ、出来る事があるって思ったんです。
寂しかったからこそ、やりたい事があったんです」
「やりたい事……って、ライブ……だよね?」
純ちゃんが首を傾げて、憂ちゃんに訊ねる。
憂ちゃんは少しだけ純ちゃんに視線を向けて、軽く頷いた。
「うん、そうだよ、純ちゃん……。
純ちゃんは知ってる事なんですけど、律先輩、聞いて下さい。
私……、お姉ちゃんと離れて暮らすようになって、ちょっと荒れてた時期があったんです……」
憂ちゃんが荒れてた……?
どんな事になってたんだ……?
凄く難しかったけど、頑張って想像してみる。
結構経ってどうにか想像出来たのは、パーマを掛けて長いスカートを履いた憂ちゃんの姿だった。
スケ番憂ちゃん!
……って、我ながら発想が古いな……。
そうやって、私が変な顔をしてた事に気付いたんだろう。
純ちゃんが苦笑しながら、私に説明するみたいに言ってくれた。
「荒れてたは言い過ぎでしょ、憂?
私が差し入れしたドーナツのスーパーオールスターパックを全部食べちゃったくらいじゃん。
まあ、私がそれ全部食べていいって言ったんだけどさ。
でも、まさか、本当に全部食べちゃうなんてね……」
「うん……、私もあんなに食べられるとは思わなかったよ。
あの時はごめんね、純ちゃん……」
「いいのいいの、終わった事でしょ?
気にしない、気にしない」
言いながら、純ちゃんが憂ちゃんの頭を撫でる。
普段梓にやってるそれとは違って、憂ちゃんを撫でる純ちゃんの手つきは優しかった。
でも、やり方こそ違うけど、梓も憂ちゃんも純ちゃんの親友って事には違いない。
しかし、憂ちゃんにとっては、それが荒れてるって事なのか……。
確かにスーパーオールスターパックを全部食べるなんてただ事じゃないけどさ。
前に皆で食べたけど、あれ、かなり量あるよな……。
それだけ憂ちゃんの喪失感が深かったって事なんだろうな。
大学に入学するまで、唯も憂ちゃんもそれを気にしないようにしてたみたいだけど、
現実にそうなっちゃうとやっぱり寂しかったんだろう。
私だって聡と離れるのは結構寂しかったもんな。
そういや、唯の奴も一時期はかなり荒れてたな。
一回、ムギが用意した二日分のお菓子を一人で全部食べちゃった事があった。
その量、実にケーキ二ホール。
逆に凄いから、怒る気にもなれなかったよな、あの時は……。
ともあれ、姉妹揃って同じ荒れ方をしてたってわけだ。
荒れてた……ってのとは、多大に違ってる気がしないでもないが。
「そんな風に、私、お姉ちゃんが居なくなって寂しかったんですけど……、
純ちゃんや梓ちゃんが励ましてくれたおかげで、何とか元気になれたんです」
憂ちゃんが遠い目をしながら続ける。
梓や純ちゃんにしてもらった事を思い出してるんだろう。
その表情は優しく、嬉しそうだった。
「そっか……」
私は呟きながら頷く。
何にでも完璧に見える憂ちゃんにだって弱点はある。
失敗しちゃう事もあるし、悩んじゃう事だってあるんだ。
そういう所もある子なんだよな……。
憂ちゃんと同じバンドでセッションしながら、気付いた事がある。
憂ちゃんの演奏はほとんど完璧だ。
演奏歴が短いなんて思えないくらい、凄い速度で成長してるのが分かる。
合わせていて、安心も出来る。
でも、私にはちょっと物足りなかった。
憂ちゃんの演奏は完璧なんだけど、教科書通り過ぎた。
揺らぎが無い完璧で均一的な演奏なんだ。
勿論、それは欠点じゃない。
むしろ憂ちゃんの方がミュージシャンとしては正しいと思う。
だけど、長く唯と組んでた私にとっては、それが物足りない。
唯はよく失敗するし、難しいパートを弾けたと思ったら、簡単なパートで躓いたりもする。
唯とのセッションじゃ、一度として同じ演奏を出来た覚えが無いくらいだ。
でも、私にはそれがよかった。
唯の失敗は確かに多いけど、予想以上の大成功になっちゃう事も何度もあったからだ。
不思議な話なんだけど、唯とのセッションの方がワクワク出来るんだよな。
あいつは何をやってくれるか分からない面白さがある。
そこがあいつの魅力なんだ。
もしも私達の中の誰かがミュージシャンになれたとして、大成出来る可能性が一番あるのはあいつだろう。
あいつには揺らぎ……、可能性が沢山残されてる。
完成されてない魅力って言うのかな。
私がミュージシャンになれる可能性はほとんど無いと思う。
趣味としては続けるだろうし、
ライブとか音楽的な活動はするかもしれないけど、
商業的なレベルの世界で長く生き残るのは無理じゃないかな。
悔しいけれど、私にはそこまでの実力は無い。
いつかは皆揃ってライブする事も出来なくなるかもしれない。
でも……、唯には、羽ばたいてほしい。
あいつには才能があるし、私達の誰よりも音楽への愛がある。
あいつなら商業的にも成功出来るはずだ。
いつかはきっと、私達を置いて音楽の世界に羽ばたいていけるだろう。
その時まで、あいつの足を引っ張らなくないで済むように、私は精一杯あいつを支えたい。
結局、私は唯のギターが凄く好きなんだよな……。
憂ちゃんも私と同じような事を考えてるはずだ。
唯の事にしてもそうだし、私とのセッションの違和感に気付いてなくもないだろう。
菫ちゃんのドラムを聴いた事は無いけど、ドラムのセッティングを見る限り、かなり几帳面っぽい気がする。
きっと憂ちゃんの完璧な演奏に合わせた、正確なドラミングを刻んでるはずだ。
純ちゃんも生き残りの厳しいジャズ研で演奏してただけあって、意外にもその演奏は堅実だ。
そして、梓もアドリブより積み重ねた努力で魅せるタイプのギタリストなんだよな。
そう考えてみると、わかばガールズは技巧派集団ってやつか。
結構適当に活動してた放課後ティータイムの後を継ぐ者とは思えんな……。
タイプは全然違うけど、どっちが優れてるって話じゃない。
要はどっちが自分の性に合うかってだけの話だ。
結局、私の居場所は放課後ティータイムで、
憂ちゃんの居場所はわかばガールズだったんだって事だろう。
急ごしらえのほうかごガールズじゃ、どうしてもその演奏に違和感は生じて来る。
勝手の違いは仕方が無い。
だけど……。
「だけど……」
憂ちゃんの言葉と私の考えが重なった。
ひとまず私は憂ちゃんの言葉に耳を傾ける事にした。
多分、憂ちゃんも私と同じ気持ちなんだろうから。
憂ちゃんは続ける。
「お姉ちゃんと離れて、寂しくて、辛くて……、
お姉ちゃんの事ばっかり考えてて、ある日に私、気付いたんですよ、律さん。
この寂しさも、辛さも、私がお姉ちゃんの事が好きだから感じてる事なんだって。
心と胸が痛いけど、それもお姉ちゃんと離れたから、感じられた事なんだって。
そう思えたら、何だか私の寂しさをそのままにしておくのが勿体無く思えたんです。
この寂しい気持ちは、そのままお姉ちゃんの事が好きだって証拠なんですから。
お姉ちゃんが傍に居ないからこそ、
私にとってお姉ちゃんが本当に大切な人なんだって気付けましたから……。
そんな私だからこそ出来る演奏を、お姉ちゃんに聴いてもらいたいんです。
寂しさや、辛さや……、そんな事を感じられた私だから出来る演奏を……。
それが……、私のやりたい事なんです」
憂ちゃんの決心がこもったその言葉は私の胸に強く響いた。
憂ちゃんはそれだけの決心でライブに臨んでたんだ。
今だからこそ出来るライブをやるために。
寂しさや辛さや切なさを、強さに出来る子なんだ、憂ちゃんは。
この閉ざされた世界の中でも……。
私は微笑んで、感心の溜息を吐きながら言った。
「憂ちゃんは凄いな……。
こんな時でも笑顔で、唯の事を考えて動けてて、凄いよ。
なあ、純ちゃん、憂ちゃん……、
こんな事訊くのも変だけど、正直に言ってくれないか?
演奏しててさ、セッションに違和感……あるよな?」
「そんな事……」
気遣いから否定しようとして、慌てて憂ちゃんが言葉を止める。
私が真剣な視線を向けてる事に気付いたんだろう。
憂ちゃんも真剣な表情になって、私の言葉に応じてくれた。
「はい……、違和感……あります。
やっぱり、わかばガールズとは違うなって思います……。
律さんと和ちゃんの演奏が嫌いなわけじゃないんです!
二人の演奏、大好きです!
でも、何かが違ってる気がして……」
「私も感じます、律先輩」
憂ちゃんの言葉に純ちゃんが続いた。
その純ちゃんの表情は真剣だったけど、口の端では微笑んでいた。
「やっぱり違和感ありますよ。
そんなの当然じゃないですか、元々のお互いのバンドが違うんですから!
方向性もメンバーも違いますし、何か違うなって思う事が結構あります。
スミーレならここはこう演奏してるだろうなって、そう考えた事だって……。
でもですね……」
「うん……。でも……」
純ちゃんと憂ちゃんが視線を合わせる。
二人して微笑んで、私に優しい表情を向ける。
そこから先は後輩に言わせる事でもないだろう。
私は深呼吸して、二人の肩を抱き寄せて言った。
二人とも温かった。
「そうだな……。
ほうかごガールズじゃ、どうやっても放課後ティータイムやわかばガールズみたいな演奏は出来ない。
所々ちぐはぐな演奏になっちゃうだろうな……。
でもさ……、同じようにほうかごガールズでしか出来ない演奏もあるはずだよ。
こんな事になって、この世界には八人しか残ってないって無茶苦茶な状況になって、
だけど……、そんな今だからこそ、出来る演奏があるはずなんだ。
あってほしいよね……」
私にしては恥ずかし過ぎる言葉だったかもしれない。
だけど、憂ちゃん達は私の腕の中で頷いてくれた。
「ありますよ、絶対!
澪先輩達に聴かせちゃいましょうよ!
私達だけに出来るカッコいい演奏!」
純ちゃんがモコモコを揺らしながら、興奮した感じで宣言する。
マイペースで、元気で、可愛らしい。
純ちゃんが傍に居てくれれば、梓はこれからも退屈する暇もなく元気に過ごせる事だろう。
「出来る……と思います!
だから、お姉ちゃんと離れてたからこそ出来る演奏のために、
寂しいですけど……、ちょっと辛いですけど……、
もう少しだけお姉ちゃんとは距離を置きたいって思ってます。
寂しかった頃の気持ちも忘れたくありませんから……。
でも、ライブが終わったら……、
終わったら、その時は……」
憂ちゃんが私の腕の中でちょっと身体を震わせる。
全身を支配する寂しさに耐えてるんだろう。
私は手を動かして、憂ちゃんの柔らかい髪をゆっくり撫でた。
「うん。
ライブが終わったら思いっきり唯に甘えちゃいなよ。
唯も寂しがってたしさ、姉妹水入らずで思いっきり甘えちゃえ。
あいつ、きっと喜ぶからさ」
私が言うと、「はいっ!」って返事をした憂ちゃんが、私の背中に手を回して抱き着いた。
抱き着かれる寸前に見た憂ちゃんの潤んだ瞳と赤い頬はすっごく可愛らしかった。
畜生、可愛いなあ……。
私は憂ちゃんのあまりの可愛さに、自分の顔が熱くなっていくのを感じる。
どうやら私のその様子を見られていたらしい。
純ちゃんが猫みたいに悪戯っぽい表情を浮かべて、意地悪く私に訊ねた。
「お、律先輩、照れてますね?」
「て、照れてねーよ……」
「あらまあ、りっちゃんったら可愛い!」
純ちゃんに急にりっちゃんと呼ばれ、思わず咽た。
自分で言った事ながら、急に呼ばれると恥ずかしい。
私は腕の中の純ちゃんを解放してから、軽く腕を頭上に掲げた。
「りっちゃんって言うなー!」
「りっちゃんがりっちゃんって呼んでいいって言ったんじゃないですか。
今更、撤回は無しですよー、りっちゃん!」
「それはそうなんだが……、うーっと……、えーっと……。
それよりほら! 梓と和はどうしたんだ?
音楽室で練習でもやってるのか?」
「お、誤魔化しましたね、律先輩。
まあ、今回だけは許してあげましょう。
梓は音楽室で和先輩とボイストレーニングしてますよ。
ピアノでボイストレーニングってやっぱり基本じゃないですか。
私が言うのも何ですけど、梓、前よりずっと上手くなったと思いますよ!
そりゃ……、感動的なほど上手ってわけじゃないですけど、でも……」
純ちゃんが一瞬だけ不安そうな表情を見せる。
何だかんだ言って、やっぱり梓の事が心配なんだろう。
純ちゃんのモコモコを触ってから、今度は私が笑ってやった。
「分かってるよ。
梓が歌が苦手なのも分かってる。
でも、その梓がボーカルに挑戦してくれるって事が、やっぱ嬉しいよ。
ライブの時にさ、純もコーラスで梓を支えてやってくれよな」
「勿論です!
……って、今、私の事、『純』って呼びました?」
「ふっふっふ、どうだったかなー?」
「あ、純ちゃんいいなー。私も呼び捨てで呼んでもらいたいよー」
憂ちゃんが私から離れず、羨ましそうな表情を私に向けた。
どうもおねだりされてるみたいだったけど、憂ちゃん相手にはまだちょっと照れる。
今はりっちゃんって呼ばれたお返しに勢いで『純』って呼べたけど、
その勢いのままで『憂』って呼ぶのは無理だった。
でも、まあ、そのうちだな。
この調子なら、ライブの頃には二人を呼び捨てで呼ぶ事も出来そうな気がする。
その時の梓の反応を想像すると、何だか楽しくなって来る。
梓の奴、どんな反応するかな?
梓の事だから、きっと表面上は気にしてない振りをしながら、
私の目の届かない所で純ちゃんと憂ちゃんにあれこれ詮索する事だろう。
「律先輩に弱味でも握られたの?」って訊ねたりしそうだな。
いやいや、失敬な!
あいつは私の事を何だと思ってるんだ……。
まあ、ともかく、もうすぐライブだな。
今の私達だからこそ出来るライブをやってやる。
その先に何が待ってたって、私達はほうかごガールズのライブをやってやるんだ。
この世界で八人で生きていくのか、
それとも元の世界に戻る方法を探し続けてやるのか。
ライブの後でなら、逃げずに皆と真正面から話し合えると思う。
そのためにも、ライブは絶対に成功させたい。
最終更新:2012年07月09日 23:10