その言葉を最後まで言う事は出来なかった。
どうにか出せた私の勇気が二人に届く事は無かった。
風が、吹いた。
そりゃ暑苦しいから窓は開けていた。
でも、だからって、室内にこんな激しい風が吹き込むもんか。
そう。
それは、一陣の風。
目を開けていられないくらいの激しい風。
まるで……。
まるで、この世界に迷い込んだ日のあの風のような……。
風は数秒くらい吹いてただろうか。
風が止まった後、目を開けるより先に、違和感に気付いた。
違う。
空気や、雰囲気や、何もかもが、今までとは全然違う。
大体、机の上に立っていたはずなのに、
今足下に感じるこの感触は……、土……?
目を開ける。
目を開けたってどうなるわけでもないかもしれない。
でも、目を開けないわけにもいかなかった。
「な……っ?」
それ以上、言葉が出なかった。
これまで散々異常事態を経験してきたってのに、
それでも予想だに出来なかった事態に脳が反応し切れてない。
風が止んだ瞬間、気が付けば私達は見知らぬ野外に佇んでいた。
教室も、机も、楽器も、その場にあったはずの物は何一つ存在していなかった。
その場にあるのは着の身着のままの私と澪、唯、ムギ、梓……。
あ……れ……?
何だ……?
何だってんだ……?
今度は何が……、何が起こったってんだ……?
「純……?
何処なのよ、純ーッ?」
梓の声が聞こえる。
そうだ。見当たらない、純ちゃんの姿が。
さっき折角勇気を出して『純』と呼んでみたあの子の姿が……。
それに……。
「憂……?
憂ーっ! 何処に行ったのー? 出ておいでよ、憂ーっ!
出て来てよーっ! 憂ーっ!」
張り裂けそうなほど大声の唯の声が響く。
外だってのに、耳に響くくらいの大声。
でも、返事は無い。姿も存在しない。
唯の大切な妹、そして、私の大切な友達の憂ちゃん……、『憂』の姿も。
更に。
「和! 和ああああああっ!」
長い黒髪を震わせ、喉を震わせて澪が叫ぶ。
キーボードも、和の姿も、その場には無かった。
私達の元生徒会長……、頼りになって、
こんな世界でも私達を引っ張ってくれていた眼鏡の友達が。
三人とも、忽然と姿を消していた。
いや、逆なのか?
姿を消したのは私達の方で、三人は教室に取り残されてるのか?
違う!
そんな事はどうでもいい!
つまり……、つまり、これは……。
「もうやだ!
もうやだああああああっ!」
叫んだのは澪じゃなくてムギだった。
その場に崩れ落ち、大粒の涙を流し、絶叫を始める。
自分も辛いだろうに、傍に居た澪がムギの肩に手を置いた。
でも、それ以上の事は出来てなかった。
澪だって、絶叫したいくらいに怖いはずだ。
私だって……、
私だって、頭の中がぐしゃぐしゃで、
何が起こったのか分からなくて、
怒るべきなのか泣くべきなのかも分からなくて。
ただその場に立ち竦んでしまって。
不意に。
制服の袖に違和感。
梓が私の袖を掴んで。
泣き出しそうな表情で私の袖を掴んで。
でも、何も出来なくて。
何をしたらいいのか分からなくて。
頭の中が真っ白で。
だけど、梓が私の袖から二の腕に手を回し直した事で、
どうにか頭が働くようになって、そして、気付いた。
私……、ここを知ってる……。
私だけじゃなく……、ここに居る五人なら全員知ってるはずだ。
だって、あれは……、あれは……!
私の目に映ったのは観覧車。
かなり大型の観覧車。
見た事はあるし、乗った事もある。
そして、見覚えのある街並み……。
日本の建物とは異なる特徴的な建築方式の……。
「ロン……ドン……?」
私は誰に聞かせるでもなく呟いた。
そうだ。
ここはロンドンだ。
ジャパンエキスポだかジャパンフェスティバルだか忘れたけど、
とにかく私達がライブをやった広場の近くにある公園だ。
見覚えのある場所だった事は助かる。
ここが何処だって戸惑う必要も無くなる。
だけど、それが何だってんだ!
分かったから、何だってんだよ!
仲間を……、友達を三人も見失って、何を考えろってんだよ!
どうしろってんだよ!
「何だよ……。
何だってんだよッ!」
喉が痛くなるほどに叫んだ。
何度だって叫んだ。
でも、純ちゃんも憂ちゃんも和も返事をしてくれる事は無かったし、姿も見当たらなかった。
残された梓達も私の言葉に反応してくれる事は無かった。
八人でなら生きていけると思い掛けてたこの世界……。
やっとの事でそう思えるようになって、
前を向いて生きていけるはずだったのに、
こうして私達は、掛け替えのない仲間と、希望を失った。
ようやく理解した。
ここは絶望に満ち溢れた世界。
私達からありとあらゆるものを
奪い去って
最終的に心まで奪い去って
逃げ出そうとしたって
確実に追い詰めて絶望させる
閉ざされた
世界だ。
◎
どれくらい時間が経ったんだろう。
五分?
十分?
それとももっとか?
緩く肌寒い風に吹かれ、私は長い間呆然としてた。
今起こった現実を受け止められるほど、私は打たれ強くない。
現実……?
現実なのか、これ?
夢じゃなくて?
いや、そんなのどっちでもいい。
これが例え夢だろうと、ずっと覚めなきゃ現実と同じだ。
「律」
私の名前を呼ぶ声がする。
誰の声だっけ?
聞き慣れた声のはずなのに、一瞬、私は誰の声なのか思い出せなかった。
「おい、律!」
もう一度大きな声で呼ばれ、やっと気付く。
私の名前を呼んでたのが澪だったって事に。
そりゃそうだ。
この残されたメンバーの中で私の事を『律』って呼ぶのは澪しか居ない。
分かり切ってた事なのに、何故だかすぐには分からなかった。
こんな現実を認めたくなかったからかもしれない。
認めたくないよ、こんな現実。
でも、認めたくなくたって、やっぱり現実は現実なんだろう。
夢だとしたって、この誰かの夢が覚める気配は、一ヶ月近く全然無い。
だったら、私はこの誰かの夢の中でやれる事をやるしかない。
深呼吸。
気を抜けば涙を流しそうになってる気分に気付きながら、
それでも私はどうにか澪に言ってやった。震えながらも、言ってやった。
「……分かってるって、澪」
そうだ。
分かってる。
こんな所で呆然としてても、何も進展しないのは分かり切ってる。
元だけど私は部長なんだ。
軽音部のリーダーなんだ。
だったら……、皆を引っ張らなきゃいけないじゃないか。
私はまず澪に視線を向ける。
澪はその場に崩れ落ちるムギの肩に手を置きながら、私を見つめてた。
声こそ強がってはいたけど、澪のその表情は泣き出す寸前みたいに見えた。
澪とは長い付き合いなんだ。
澪が泣き出す寸前の表情くらいよく知ってる。
私がそれを知ってるって事は、澪も私が泣き出す寸前の表情を知ってるって事でもある。
二人して泣き出しそうになりながら、でも、何とか泣き出さずに立ってやる。
失くしたくないから……。
これ以上、失くしたくないからだ。
これ以上、失くさないためには……。
次に崩れ落ちてるムギに視線を向けてみる。
ムギの表情を見たかったからだけど、それは出来なかった。
ムギが両手で顔を押さえ、ずっと震え続けてたからだ。
怖いんだろう、と思う。
世界がこんな事になっちゃって、一番怯えてるのは多分ムギだ。
私が肘をちょっとだけ怪我した時の事を思い出す。
あの時、ムギは大袈裟なくらい私の怪我を心配してた。
それは嬉しいんだけど、やっぱりその理由はムギが誰より不安だったからだと思う。
私の中の誰かを失う事を……。
私だって失いたくなかった。
誰一人、失いたくなかった。
でも、ムギはきっと私なんかよりずっと誰かを失う事が怖かったんだ。
だから、大声で泣き出しちゃってるんだ。
三年の学祭ライブの後、もう学校でライブが出来ない事を誰よりも悲しんでたみたいに。
失う事の辛さを知ってるから……。
その隣では唯が忙しなく周囲を見回していた。
唯の判断力では、今何が起こったのかを理解し切れてないんだろう。
口元に手を当てて、全身を震わせてるようにも見える。
特に唯は自分の保護者みたいな和と憂ちゃんを同時に失ってしまったんだ。
世界から私達以外の生き物が消えた時はともかくとして、
和、憂ちゃん、純ちゃんの姿が消えて一番動揺してるのは唯に違いない。
多分、一番大切な人達を同時に失っちゃったんだから……。
勿論、私だって唯の事は言えた義理じゃない。
私だって震えてる。
泣き出しそうになりながら、怯えながら、どうにか立ってるだけだ。
立っていられるのは、私の二の腕にあいつの手の感触を感じられてるからだ。
小さくて真面目で気難しい、軽音部の現部長……、梓の手の感触を。
軽く梓の表情を覗き込んでみる。
意外だった。
梓は震えてなくて、泣き出してもいなかった。
私も含めて残された五人の中で、一番毅然とした表情をしてると思う。
凄いな、と思った。
梓と離れてた四ヶ月、梓に何があったのかは分からない。
世界がこんな事になって、予想外に梓の近くに居られる事になったけど、
梓がこんなに強い表情が出来る理由までは分からなかった。
そもそも梓って自分の事を進んで話すタイプじゃないしな。
部長としての責任が梓を成長させたんだろうか。
だったら、やっぱり凄い。
私は三年間部長をやって来たけど、
それで自分が成長出来たのかと聞かれると、何とも答えにくい。
少しは成長出来たはずだと思う。
でも、梓くらい成長出来たとは思えない。
成長……しなきゃいけないんだよな、私も。
現部長が毅然としてるんだ。元部長だってやれる限りの事はやってやらなきゃいけない。
もうこれ以上、誰かを失うわけにはいかないんだ。
私は拳を握り締めて、震える心と身体をどうにか押し留める。
カチューシャを一度外して、前髪を下ろしてから、もう一度カチューシャを付け直す。
前に進んでいくために、力を入れ直すために。
「唯! 澪! ムギ! 梓!」
精一杯の大声を出して、その場の皆に私の声を届ける。
単なる空元気だってのは分かってる。
だけど、空元気でも出さなきゃ、多分、これからもっとひどい事になる。
それは嫌だ。絶対に嫌だ。嫌に決まってる。
だから、私は言ってやるんだ。
言わなきゃいけないんだ。
皆に嫌われる事になったっていい。
それでも、今はやらなきゃいけない事があるんだから。
「行くぞ!」
「行く……って、何処に……?」
呆然としたまま唯が私に訊ねる。
いや、その呆然とした表情の中に、不安の色が強まったようにも見える。
きっと私が何を言おうとしてるのか分かったんだろう。
それを認めたくないんだろう。
でも、私は、唯、おまえまで失いたくないから……。
「おまえも分かってるだろ、唯?
おまえだって、皆だって、ここには見覚えがあるよな?
そうだよ、皆で卒業旅行に来たロンドンだ。
ライブやった広場だ。
一度しか来てないわけだし、
確実な証拠があるってわけじゃないけど、多分……な」
「私だってここがロンドンだって事くらいは分かるよ、りっちゃん……。
でも……、でも……、何なの……?
何処に行くつもりなの……?」
唯がどんどん不安を増した声色になりながら続ける。
私だって唯を傷付ける事は言いたくない。
けど、このままでいいわけがないんだ。
このままじゃ共倒れなんだ。
だから、私は一番言いにくかった事を、わざと大声で言ってやった。
「ホテルだ!
何が起こったのかも、今、どうなってるのかも、分からないだろ?
だから、卒業旅行の時に泊まったホテルに行くぞ!
何をするにしたって休める所が無いと何も出来ないからな!」
自分でも酷い事を言ってる自覚はある。
大切な人を失ったばかりの唯にこんな事を言うなんて、酷いにも程がある。
私の言葉を聞いた唯は泣き出しそうな表情になって……、
いや、一筋の涙をこぼしながら、絞り出すみたいに呟いた。
「私、やだよ……、りっちゃん……。
だって……、だって憂が……、和ちゃんが……、純ちゃんも……。
居なくなっちゃって……、すぐ傍に居たはずなのに……、
皆みたいに風と一緒にどこかに行っちゃって……!
捜そうよ……、きっと近くに居るはずだよ……?
憂達なら近くに居るはず……だよ……?
憂達を置いてくなんて……、そんなの……やだよお……!」
唯の言いたい事は痛いくらい分かってた。
ほとんど無い可能性だけど、ひょっとすると憂ちゃん達も私達の傍に居るのかもしれない。
あの風の操作ミスかなんかで、この広場から少しだけ離れた場所に飛ばされてるのかもしれない。
そうだとしたら、どれだけいいだろう。
でも、きっとそんな可能性は無いだろう。
ロンドンに飛ばされる前、生き物が消えた時も私達は散々他の皆を探した。
一ヶ月近く、隅々まで探し続けた。
だけど、誰一人として見つからなかった。
生き物が消えた後に誰かが生活してた痕跡すら見つからなかった。
つまり……、きっと……、憂ちゃん達はどうやったって見つからない。
そんな気がする。
百歩譲って憂ちゃん達を探す事にするとしても、今だけは駄目だ。
こんな状態で誰かを探したって余計に消耗するだけだし、それこそ二次災害に繋がるじゃないか。
だから、まずは休める所を探し出すべきなんだ。
唯もそれには気付いてるはずだ。
認めたくないだけで。
私だって認めたくないけど、
部長として、それはやっちゃいけない事なんだ。
「頼むよ、唯……。
分かってくれとは言わないけど、今だけは私の言う事を聞いてくれ……。
憂ちゃん達は後で探そう。どこに居たって探し出そう。
でも、今だけは駄目なんだよ。
探すにしたって、情報が全然足りないのに闇雲に探し回しても……」
「でも……!
でも、憂なんだよ、りっちゃん!」
唯が全く理屈の通ってない言葉を叫んだ。
無茶苦茶だ。
憂ちゃんだからって何だってんだ。
でも、唯の言いたい事は分かる。
唯は憂ちゃんとずっと一緒に居た。
離れて住むようになっても、心は傍にあった。
きっと唯が寂しい時には、丁度憂ちゃんから連絡があったりもしたんだろう。
それくらい繋がり合ってる姉妹だったんだ。
世界がこんな事になったって、一緒に居てくれる。そんな気もしてくる。
でも、それはきっと無理だ。
憂ちゃんだって万能じゃない。何でも出来るってわけじゃない。
完璧に見える子だけど、この一ヶ月傍に居て、色んな事に気付いた。
ちょっとした弱点も持ってる子で、そこが魅力的な子なんだって。
私だって、憂ちゃん達を置いていきたくなんかない。
だけど……、同時に気付いちゃったんだ。
私達だけが特別じゃなかったんだって。
私はついさっきまでこの八人が特別だから、誰かに選ばれたんだって思ってた。
八人で他に誰も居ない世界で生きていくように誰かに選ばれたんだって思ってた。
でも、それは違ったんだ。
憂ちゃん達が居なくなって、五人取り残されて気付けたんだ。
次に誰が消えるか分からないって……。
この五人も、いつまで一緒に居られるか分からないんだって……。
それこそ、風の気まぐれで、次に消されるのは私の方かもしれないんだ……。
だから、私は選んだ。
まずは五人が無事で居られる可能性が高い選択肢を。
それしか選べなかった。
そうしなきゃ、体の震えで動き出せなくなっちゃいそうだった。
今だって、梓の手の感触を感じてるから、
梓に支えられてるから、どうにか立ってられるだけなんだ。
失くした物に目を向けてる余裕なんて持てなかった。
最低だって思うけど、最悪だって思うけど、
残された物に目を向けなきゃ、そうでもしなきゃ、私は、私は……!
最終更新:2012年07月09日 23:28