昼過ぎ。
太陽が南中してしばらくしたくらいに、澪達はホテルに戻って来た。
澪、梓、唯、三人とも大きな荷物を抱えて、少しだけ疲れた顔をしていた。
いい発見は無かったみたいだけど、どうやらあの一陣の風は吹かなかったらしい。
それだけで嬉しいし、胸を撫で下ろす気分だったけど、唯の顔を真正面から見る事は出来なかった。
増してや声を掛ける事なんて出来るはずもない。
私の事を一番不信に思ってるのはきっと唯だろう。
あれだけ泣いてたし、一番をいっぱい持てる唯には、私の考えを理解出来ないだろうって思う。
理解してくれなくていい。
いや、投げやりな考えってわけじゃない。
唯は弱気に逃げる私の考えなんて、理解しなくていいんだって意味だ。
唯は強い意志を持った奴だ。
憂ちゃん達を捜すと思ったら、きっと四六時中三人の事を捜し続けるだろう。
大切な妹達のために全力を尽くすだろう。
ひょっとすると、その結果、いつかは憂ちゃん達を見つけ出す事が出来るかもしれない。
でも、それはきっと遠い遠い未来の話だ。
少なくとも二、三日で終わる話じゃない。
一ヶ月先か、半年先か、一年先か、それとももっと……。
その間、唯はきっとボロボロになりながら、傷付き続ける。
それを見たくはなかった。
そもそもこの世界に憂ちゃん達が居るって確証もないのに、唯を傷付けたくなかったんだ。
だから、私は憂ちゃん達を見捨てたんだ……。
罪悪感と無力感が全身を支配していく気がした。
だけど、後悔はしなかった。
しちゃいけないんだ。私は選んだんだから。
過去じゃなくて、未来に進む事を選んだんだから……。
私は唯と視線を合わせないようにしながら、ホテルの食堂に昼食を用意した。
準備って言っても、火が使えないんだから大した物が作れたわけじゃない。
見つけた缶詰をいくつかと生野菜のサラダに焼いてない食パンって所だ。
かなり貧相だけど、調理道具が全然揃ってないからにはどうしようもない。
昼からは私も調理道具とかを探しに外に出ようと思う。
やっぱり誰かを待ってるのは性に合わない。
この世界で未来に進む事を選んだ以上、私はこの世界で生きてく準備をするべきなんだ。
澪達が持ち帰った大きな荷物の中には、主に着替えが多く入っていた。
まあ、そりゃそうか。
洗濯機も使えないんだもんな。着替えが多いに越した事は無い。
イギリスのセンスだから、私のセンスとはあんまり合わない服も多かったけど、贅沢は言ってられないよな。
つーか、この服、絶対子供用が沢山混じってんだろ……。
まあ、イギリス人はでかいからなあ……。
おっと、昼から探す物の中にカチューシャも含めとかないとな。
当たり前だけど、私の持ってるカチューシャは今着けてるこれだけだ。
いくら何でもカチューシャ一つで毎日過ごせるほどには、私も図太くない。
昼からの予定を考えていると、不意に視線を感じた。
澪の視線かと思ったけど、そうじゃなかった。
澪は静かに昼食を食べるムギを心配そうに見守っていた。
視線の持ち主は梓だった。
梓は唯と昼食の話をしながら、私の方に何度も視線を向けていた。
話をしながら器用な奴だな、って思ったけど、
そんな事より梓は何で私の方に視線を向けるんだろう。
私に何か話したい事があるのか?
そういえば……、梓は私の判断についてどう思ってるんだろう。
梓は同級生の親友を二人も失ってしまったんだ。
私だって辛かったけど、梓の方は私なんかより何倍も辛かったはずだ。
私が責められても、仕方ない事だって思う。
でも、梓は私を責めようとはしなかった。
想像以上に冷静な態度で、皆で手を繋いで歩くって提案もしてくれた。
今だって軽く微笑んで唯と話をしてる。
私達に気を遣ってくれてる。
それは安心出来る事だったけど、少し不安にも感じた。
梓は何を考えてるんだろう。
無理してるんじゃないだろうか。
無理してないわけがない。
私なんて一日目なのにもう無理のし過ぎで吐き気がしそうなくらいだ。
まあ、私が打たれ弱いからってのもあるかもしれないけど、
それでも、梓は特に自分一人で溜め込んじゃうタイプだから、無理してるなら話くらい聞いてやりたい。
多分だけど、残った四人の中で梓が一番弱音を吐きやすいのは私のはずだ。
唯には強がるだろうし、澪とムギには心配掛けたくないって考えてるだろうしな。
憂ちゃん達三人を見捨てた私に、
そんな事をする資格があるんだろうかって思わなくもない。
それならそれで梓に責めてもらって構わない。
とにかく、話をしない事には何も始まらないはずだ。
その……はずだ……。
思いながら、私は自分の中の浅ましさに気付く。
ひょっとすると……、私は梓に自分の選択が正しかったのかどうか判断してほしいんだろうか。
そうだな……、判断してもらいたいのかもしれない。
正しかったにしても間違ってたにしても、何かを言ってほしいのかもしれない。
どっちの言葉が欲しいのかは、私自身にも分からないけど……。
ただ、誰かに裁いてほしい……、その気持ちがあるのだけはあるのは確かだった。
◎
「ほらほら、律先輩、早くこっちに来て下さいよー!」
はしゃいだ様子で梓がロンドンの街を駆ける。
ツインテールを揺らして、独特の街並みを走る梓の姿には妙な爽やかさがあった。
元気なのはいいんだけど、これは予想外だった。
梓の奴、一体、何をはしゃいでるってんだ……?
「ちょっと待てよ、梓ー。
そんなに急いで行く必要も無いだろー?」
置いてかれないように、小走りで梓を追い掛けながら言う。
ロープだけはしっかり握り合ってるけど、
あんまり速く走られるとロープが手から離れちゃう危険性がないわけじゃないしな。
昼食を食べ終わった後、私と梓は二人で外回りに出ていた。
唯は少し疲れたという事で留守番する事になった。
きっと澪と梓の何倍も力を入れて街を探索していたんだろう。
体力的にはともかく、精神的には相当に疲弊してしまってるみたいだった。
それで唯の傍には澪とムギが付き添う事になった。
大丈夫だと思うけど、万が一って事が無いわけじゃない。
いざという時のためにも二人は付き添ってた方がいいだろうって話になった。
それで私と梓が二人で街を回る事になったわけだ。
狙わなくても梓と話をするチャンスが出来たのは助かったけど、流石にこれは面食らう。
てっきり唯の話ばかりになるはずだって思ってた。
大した事はなさそうだけど、かなり疲れてるみたいだしな。
唯と特に仲が良い梓なら、唯の事が心配で仕方が無いはずだって思ってたんだけど……。
でも、今の梓からはそんな様子は見受けられなかった。
それどころか滅多に見せないはしゃいだ様子まで見せてる。
もしかして、午前中に唯と何か特別な話でもしたんだろうか。
梓をこんなにはしゃがせるくらいの話を……。
凄く気になるけど、それを直接梓に聞くわけにもいかなかった。
そういうのはやっちゃいけない事なんだ。
何はともあれ、梓が元気なのに越した事は無い。
勿論、無理して明るく振る舞ってる可能性もある。
その辺は少しずつ話をする事で判断していく事にしよう。
また少しだけ梓と軽く走る。
ちょっとだけ疲れ始めた頃、
辿り着いたのは卒業旅行の時に乗ったあの大きな観覧車が見える場所だった。
やっぱりそうか、って思った。
ホテルの近くで観覧車がよく見えたのはこの辺りだったって事は何となく憶えてる。
梓が足を止め、観覧車を見上げるみたいに首を上に向けた。
梓のすぐ隣まで走り寄ってから、梓に倣って私も少し遠くにある観覧車に視線を向けた。
まだ一年も経ってないはずなのに、既に懐かしい。
残念ながら、当然だけど観覧車は回ってなかった。
そりゃそうだ。電気が通ってないんだから。
でも、懐かしかった。
ロンドンなんて、もう二度と来る事も無かったかもしれなかったわけだしな……。
「ねえ、律先輩……」
「ん」
観覧車を見上げたまま梓が呟き始め、私も梓に視線を向けずに小さく反応した。
不意に風が吹いた。
強い風じゃない。
柔らかな少し冷たい風だ。
何となく左手で少し強くロープを握り締めた瞬間、
急にロープを強く引っ張られ、私は体勢を少し崩してしまう。
でも、すぐに私の身体は支えられた。
私の腕に手を回して支えてくれたのは梓だった。
私の体勢を崩したのも梓だったわけだが……。
まあ、いいか。
ロープを握り合うよりは、お互いの体温を感じ合ってた方が安心出来るよな……。
風の事については二人とも触れなかった。
身体を寄せ合ってる事についても触れなかった。
その代わり、梓が私に言い掛けた言葉を静かに続けた。
「こう言うのも変だと思うんですけど……、
こんな形でも、またロンドンに来れて、私、ちょっと嬉しいんです……。
こんな時に不謹慎だって、分かってるんですけど……」
不謹慎だ。
確かに不謹慎だけど、でも、そう思う梓の気持ちもよく分かった。
ロンドンにまた来れた事自体は、ここが現実じゃなくたって私だって嬉しいんだ。
だから、私も呟いたんだ。
「ああ……、そうだな……。
おまえとの卒業旅行はまた行く予定だったけどさ、
流石に二年連続ロンドンって事にはならなかっただろうしな。
下手すりゃ一生来る事も無かったかもしれないよな……。
だから、変な話だけど……、私も嬉しいぞ?」
海外旅行に何度も行けるほど、うちは裕福な家庭じゃない。
聡だって居るしな。
でも、裕福とかそういう事じゃなくて、
皆のスケジュール的に難しいだろうなって思う。
皆でまた旅行するにしても、一度行ったロンドンは候補から外してたと思う。
だからこそ……、二度と来れなかったかもしれないロンドンにまた来れたのは、正直嬉しい。
でも、同時に辛くもあった。
私は旅行ってのは何処に行くかじゃなくて、誰と行くかだって思ってる。
来年の梓との卒業旅行には、憂ちゃん、純ちゃん、和も一緒に来てほしかった。
新入部員の菫ちゃんやあと一人の子も……。
それが……、辛い。
「律先輩……?
大丈夫ですか……?
その……、体調とか……」
梓が私の顔を覗き込んでから、首を傾げて訊ねる。
その梓の表情はとても心配そうで、とても辛そうだった。
いや、多分、辛そうな表情をしてたのは私の方だったんだろう。
だから、梓は心配そうなんだ。
それに気を遣ってくれてる。
私の精神方面じゃなくて、私の体調の方を訊ねるなんて、気を遣い過ぎだろ、梓……。
精神的に辛い時、心の問題に踏み込まれる事ほど、疲れる事は無いもんな。
それを分かってくれてるんだ、梓は。
私はどうにか笑ってみせる。
無理をしてたかもしれないけど、精一杯の笑顔を向けてみせる。
「ああ、心配しなくても、私の体調は万全だぜ?
突然の環境の変化には体調を崩しやすいって言うけどさ、
私もこう見えてかなり頑丈な身体をしてるみたいだから大丈夫っぽいな。
そういや、私って風邪になった事無いしな!」
「もー……、何言ってるんですかー……!
律先輩が二年生の頃、風邪で休んだ事あったじゃないですかー……!」
「あれ? そうだっけ?」
「そうです!」
梓が頬を膨らませて、私の二の腕を軽く抓る。
言われてみればそうだった。
澪と喧嘩したあの頃、確かに私は風邪で休んでた。
私の記憶としては、風邪で寝込んだ時期ってより、
澪と喧嘩した時期ってイメージの方が強かったから、すぐに思い出せなかったんだろうな。
まあ、風になった事無いって言葉は、単なるお約束で言ったようなもんだけどさ。
そういや、前にそんな台詞を言った唯もしっかり風邪になってたしな。
あいつの場合、風邪になった事を憶えてないってのが正しい気がするぞ。
……待てよ?
一回聞いた事がある気がするな。
馬鹿は風邪をひかないんじゃなくて、風邪になっても気付かないんだって話を……。
いやいや!
私は馬鹿じゃない、馬鹿じゃないぞー!
馬鹿なのは唯だけだ!
そう……、馬鹿なのは唯なんだよな……。
あいつは馬鹿だから、何でもかんでも背負っちゃってる。
大切な物を何個も何個も作っちゃってる。
何かを諦めなきゃいけない時でも、諦めずに立ち向かおうとしちゃってる。
普段面倒な事から逃げ出しがちなくせに、本当に大切な物だけは精一杯守ろうとしてる。
それであんなに涙を流してる。
憂ちゃん達はもう居ないんだって頭では分かってるはずなのに、
それを認めずに必死に過去にしがみついてる。思い出を守ろうと歯を食いしばってる。
馬鹿だよ、あいつは……。
あんなに壊れそうなくらい必死になって……。
でも、そんな唯を否定したくない私が居るのも確かなんだ。
私だって思い出を大切にしたかった。
折角出来た仲間達を切り捨てたくなんかなかった。
だから、胸がこんなにざわざわするんだ。
息苦しくなって、胸が締め付けられそうになっちゃってるんだろう。
気付けば、私は笑顔を消してしまっていた。
笑顔になろうとしても無理だった。
もう……、今はこんな気持ちでは笑えないから……、
私は一番訊きたくて、一番訊きたくなかった事を梓に訊ねる事にした。
もう一度縁起でもいい。
縁起でも何でも、もう一度笑顔になるために。
「なあ、梓……」
「何ですか、律先輩?」
私が梓に視線を向けると、梓は上目遣いに私を見上げていた。
まっすぐな視線で。
私の言葉を全て受け止めようとしてくれてる表情で。
思わず気圧されそうになる。
強い責任感を持った梓の表情に、自分自身の小ささを感じさせられる。
いつから梓はこんなに強い子になったんだろう。
成長した事は感じてた。
私達が卒業した時より、梓はずっと強い子に成長してる。
私達と離れたからなのか、部長としての責任感がそうさせたのか、
そのどっちなのかは分からないし、別にどっちでもいのかもしれない。
梓は……、成長してるんだ……。
私は一つ深呼吸する。
梓は強くなった。私のおかげではないだろうけど、頼り甲斐のある部長に成長した。
そんな梓なら、きっと私の選択も正しく判断してくれるだろう。
元部長が年下の現部長に頼るなんて情けない気もするけど、
今は素直に梓の成長を喜んで、梓の言葉を聞かせてもらおう。
今の梓になら、私の選んだ道を責められたって構わない。
私は意を決して、口を開く。
自分の選択肢の是非を確かめるために。
でも、その話題に入るより先に、まずはこれだけは訊ねておこうと思う。
「午前中……さ。
唯の様子はどうだった?
無理……はしてるだろうけど、必死になり過ぎてなかったか?
皆のために一生懸命になり過ぎるのはあいつのいい所だけどさ、
でも、ずっとそんな調子じゃ、あっという間に疲れちゃうよ。
ただでさえ、あいつってあんまり丈夫な方じゃないんだし……」
そう。まずは唯の話だ。
私の選択の事より、まずは唯の話が聞いておきたい。
唯は私と逆の選択肢を選んだ。
未来じゃなくて、過去を選んだ。
選んだ道が違うから気まずくて視線も合わせられないけど、気になるんだ。
それも私の選びたかった道だから。
私の切り捨てた道だから。
それを選ぶ事が出来た唯の今を深く知っておきたかった。
私の言葉を聞くと、梓はまっすぐな視線を崩さなかったけど、何故だか口元だけ嬉しそうに歪めた。
微笑んでるのか……?
何で……?
私、変な事言ったか……?
そうやって戸惑う私の姿が面白かったのかどうかは分かんないけど、
梓は左手で私の右腕を掴んで自分の身体と私の身体を向かい合わせにして、また上目遣いになった。
いや、面白くて笑ってるって感じじゃないか。
嬉しくて微笑んでる感じか?
それはそれとして。
こんなに近い距離で向かい合って見つめ合うなんて、澪ともそんなにやった事が無いから緊張する。
何だかキスする前の体勢みたいで恥ずかしいな……。
って、何考えてるんだ、私は。
私は恥ずかしさでつい逸らしそうになった視線を梓の瞳に戻し、梓の次の言葉をじっと待った。
どれくらい経ったんだろう。
何度目かの深呼吸に似た呼吸を終わらせた頃、不意に梓が口を開いて声を出した。
柔らかく、優しい声だった。
「唯先輩はお元気ですよ、律先輩。
憂達の事を捜しながら、私達の服や食べ物探しもきちんと手伝って下さいましたよ。
それどころか私達に「私の我儘に付き合わせちゃってごめんね」って気まで遣ってくれて……。
唯先輩、憂の事が凄く心配なはずなのに、私達の事も考えてくれてて……。
何だか……、こちらが申し訳ない気分になってしまったくらいでした」
「そっ……か……」
私は何とも言えずにそれだけ呟いた、
梓の言葉は穏やかで、優しくて、どうも嘘は吐いてないみたいに見えた。
唯が無理してないみたいで安心出来た。
だけど、それに対してどう反応すればいいのかは、自分でも分からなかった。
元気らしい唯の姿を喜ぶべきなのか、
唯に気を遣わせてしまってる事を申し訳なく思うべきなのか……。
どう反応すればいいか分からない理由はまだある。
梓の言葉と梓の態度だ。
私達は仲間を失ったけど、梓はそれ以上の関係のはずの親友を二人も失った。
きっと私達が知らない所で、梓は憂ちゃんと純ちゃんと深い深い信頼関係を築いてたはずだ。
私なんかが想像も出来ないくらいの絆を感じてたはずなんだ。
でも、梓の態度は穏やかで、落ち着いていて、それが逆に不安になった。
梓はどうしてこんなに落ち着いてるんだろう。
二人の親友を切り捨てさせた私に向けて、何でこんな穏やかな表情を向けられるんだろう……。
そう考えた私が視線を落そうとした事に気付いたんだろう。
急に梓が明るい声を出した。
「そうそう、律先輩。
さっき妙な事言ってませんでしたか?」
「妙な事って何だよ……」
最終更新:2012年07月09日 23:35