急に自分の両肩から手を離した私を不審に思ったんだろう。
梓が首を傾げながら私に訊ねた。
優しい声で。
優しい瞳で。
優しい想いで……。

途端、私は自分がどうしようもなく汚らしい存在に思えた。
梓に心配される資格も、支えられる資格も私には無い……。
胸が張り裂けそうになるのを感じる。
少し気を抜けば、嗚咽が漏れ出してしまいそうだ。
自分で自分を殴り付けてやりたい衝動に駆られる。

だけど、私はそうはしなかった。
私が苦しむのは私のせいだ。私の自業自得だ。
私の胸の痛みなんて、重要じゃない。どうだっていい。
私なんて後で散々苦しんでしまえばいい。
でも、梓だけは……、
皆に翼をくれた梓だけは巻き添えにしちゃいけない。
私の卑しい下心で梓の未来と皆の未来を奪っちゃいけないんだ……!

私は何度か深呼吸してから、梓の頭に軽く手を置いた。
震える手のひらを隠して、精一杯の優しい声を出して言った。
出来る限りの偽物の笑顔を浮かべて。


「何でもないよ、梓。
ちょっとのぼせちゃったかなって思っただけだ。
でも、そうでもなかったみたいだから安心してくれ。
梓は……、何も心配しなくても大丈夫だよ」


梓はまだちょっと不思議そうな顔をしていたけど、すぐに頷いてくれた。
そうだよ、何でもない。
梓が心配する事なんて何も無い。
私が梓の未来を見つけ出すから。
安心して生きられるようにするから……。
だから……、梓は私なんかを心配せず、皆に笑顔を見せ続けてほしい。
私以外を、大切にしてほしい。
私も、絶対に大切にしてみせるから。
私以外の皆を、この身に代えても……。




ロンドンの夜、ホテルの屋上で人の生活の明かりがほとんど見えない街を見下ろす。
見える灯りは電力以外の動力で動いてるらしい灯りと、私達の灯してる物だけだった。
風呂から上がって、夕飯を食べると、皆はすぐに床に就いた。
毎日疲れてるし、電気があんまり使えない状態で夜更かし出来るほど、皆の神経は図太くなかった。
私だってそんなに図太い神経をしてるわけじゃない。
それでも、今日だけは一人で夜の風に吹かれていたかった。
だから、私は一人で屋上に上がったんだ。

秋なんだか冬なんだか分からないけど、ロンドンの夜の風は冷たかった。
大した冷たさじゃないけど、今の私なら心まで冷え込んじゃいそうだ。
念のため、ライブの衣装として身に着けてた高校の制服を着込んではいる。
体調を崩したり、風邪になったりするわけにはいかないからな。
これから進んでいくためにも、誰かに心配掛けるような事があっちゃいけないんだ。
今度こそ、皆の未来を守る決心を揺るがさないためにも。

ロンドンの街並みを見下ろしながら、思う。
私は……、どうしようもない奴だ。
見返りを求めて、皆を守ろうとしてた。
皆の事を守るんだから、少しは誰かに寄りかかったって問題無いって思ってた。
それくらい許されるって、甘えてた。
誰かの温もりを求めるために、皆に頼るために、
その代償行為として、皆の未来を守る気になってたんだ。
最低だって思う。
自分でも分かるくらい、最低だ。

ああ、認めるよ。
私は寂しかった。
ずっとずっと、寂しかった。
閉ざされた世界に来て以来、寂しさでどうにかなりそうだった。
大声で叫んでやりたいくらい、取り残された孤独に心が壊されそうだった。
和達三人が居てくれた時は、まだ耐えられた。
八人だけ取り残された世界だけど、皆、それだけなら耐えられたんだ。
これ以上失う物は無いはずだって思ってたから。

だけど……、三人を失って気付いた。
失う物が無いなんて事は幻想だった、自分勝手な希望だったんだって事に気付いた。
これ以上酷い事にはならないって思いたかっただけなんだ。
そう思わなきゃ、生きていけそうになかったんだ。
そして、その希望は壊された。
三人の姿が消えて、五人だけ取り残されて、思う。
次消えるのは私かもしれないって。
私じゃなくても、誰がまたすぐに消えてしまってもおかしくないって。
残された五人が、五人のままで居られるなんて、もう奇跡みたいなもんなんだって。

だから、誰かに頼りたかった。
だからこそ、誰かに縋りたかった。
自分の中の喪失感と絶望感を、誰かの体温で消したかった。
心を人肌の温もりで満たしたかった。
身体を求める事で、孤独から目を逸らそうとしてた。
身体だけでも誰かの温もりを感じ続けたかったんだよ、私は……。

もっと悪い事に、私はそれを梓に求めた。
梓なら私を拒絶しないはずだって、心の何処かで思ってた。
唯にいつも抱き着かれてて、人肌の温もりに弱い梓なら、
私達の事を気遣ってくれて梓なら、私を受け入れてくれるはずだって思ったんだ。
自分でも分かるくらい、ひどい打算だ。
最低な……、打算だ……。

長い長い溜息が私の口から漏れる。
自分はあんまり利口な方だとは思ってなかったけど、こんなに最低だとも思ってなかった。
見たくなかった自分の姿を自覚させられて、心底嫌になる。
こんな私が皆を守るだなんて、笑い話にしかならない。
溜息を漏らす以外、私に出来そうな事は無い。

でも……。
今度こそ、と私は思う。
私は梓の優しい顔を見て、どうにか思い留まれた。
梓の未来を私の甘えなんかで、絶望と後悔に塗り潰しちゃうわけにはいかないって思えた。
梓の事が大切なら、今度こそ本当の意味で梓を、皆を守らなきゃいけないんだ、私は。
今度こそ……、間違えちゃいけない。
もう絶対に溜息なんか吐かない。
溜息を吐いてる暇なんかあるんだったら、皆の未来について考えるべきなんだ。
その未来に私の姿が無くたって、絶対に皆だけは笑顔で居させてみせる……!
そのためには……。

私は制服のポケットの中に手を突っ込む。
さっき、思い出したんだ。
私がこれを持ってるって事に。
ポケットに入れた手の中に固い感触を感じる。
それを握り込んでから、私は自分の顔の前で手のひらを開いた。
手のひらの中には三つの小さな三角形……、ピックがあった。
和がほうかごガールズのマークを描いてくれたピック……。
純ちゃんと憂ちゃんと梓に渡すつもりだった……、
私達のバンドのピックだ。

色んな思い出が頭の中に浮かんでくる。


「人間は心の中に翼を持てる生き物だって私は思うのよ」


普段の姿に似合わず、ロマンチックな事を言って梓を励ましてくれた和の顔。


「ここはアレですよ?
「頑張る」じゃなくて、「一緒に頑張ろう」って言う所ですよ?」


照れくさそうにしながらも、優しい微笑みを浮かべてた純ちゃんの顔。


「りっちゃんって呼んでも、いいんですか?
いいんでしたら、私も嬉しいです……!」


予想外に私と仲良くなってくれた、憂ちゃんの甘い笑顔。


他にも多くの思い出が私の中に蘇って来る。
皆で頑張ったバンド練習、ライブ前の高揚感、大切な私の思い出達……。
だけど……。
それを抱えながらじゃ、私はきっと前に進めないから……。
思い出を見つめながら進めるほど、私は強くないから……。
皆の未来を守れそうにないから……。
ぎゅっ、とピックを握り締める。
強く強く、最後に握り締める。
これが私からの、三人へのお別れ……。

私は腕を振り上げると、
一つ大きな深呼吸をして、
屋上から三つのピックを放り投げた。

ピックは
放物線を描いて
ロンドンの闇の中に
吸い込まれていった。

ありがとう。
さようなら、私の大切な……、思い出。

ピックを放り投げた後、私は長い間、放心していた。
大切な物を自分から切り捨てた罪悪感。
これでよかったんだっていう満足感。
二つの想いが複雑に混ざり合って、
どうしたらいいのか分からず、夜の風に吹かれる事しか出来なかった。

ふと、私はもう一つ、大切な物がある事を思い出した。
ピックを入れていたのとは逆の方のポケットを探ってみる。
……あった。
写真。
純ちゃんが撮った私と梓の写真……。
灯りがほとんど無くて、夜目だったけど、
その写真の中の私達は月明りでよく見る事が出来た。

自分で言うのも変だけど、本当に幸せそうな私達の笑顔……。
迷わず笑えてた頃の私達……。
胸の痛みを感じる。
息苦しくなって、居ても立っても居られない焦りを感じる。
思わず写真を両手で掴む。
親指に力を入れて、破り捨てようとして……、
それは出来なくて、私は写真をもう一度ポケットの中に仕舞い込んだ。

違う。
思い出を捨てられなかったわけじゃない。
この写真は梓の思い出だから、捨てなかっただけなんだ。
三つのピックの事を知ってるのは私だけだけど、
この写真を私が持ってるって事は梓も憶えてるだろう。
だから、私は梓の思い出を捨てる事はしなかった。
今は未来だけに進もうとしてくれてる梓だけど、
いつかは思い出に目を向ける余裕が出来る日も来るはずだ。
その日のためにも、この思い出だけは残しておいてやりたい。
梓には思い出が必要なんだから。
……破り捨てなかったのは、それだけの理由だ。

不意に。


「こんな所でどうしたの、りっちゃん?」


屋上の扉が開いたかと思うと、柔らかい声が聞こえた。
振り返って声の方に視線を向けてみると、
そこには普段の髪型の眼鏡を掛けてないパジャマ姿の唯が立っていた。
その髪型が気紛れなのかどうなのかは分からない。
憂ちゃんに似せた髪型の方こそ気紛れだったのかもしれない。
でも、どっちでもよかった。
唯がどんな選択をしたって、私はそれを支えてやるだけだ。
私は軽く笑ってから、唯に言ってやる。


「おまえこそこんな所でどうしたんだよ、唯。
風邪ひくぞ?」


「むー……、私だってそんなに風邪ばっかりひかないよ、りっちゃん……。
じゃなくて、私、ちょっと目が覚めちゃって、
気が付いたらりっちゃんが居ないから捜しに来たんだよ。
やめてよ、りっちゃん……。
一人で何処かに行くなんて……、心配になっちゃうよ……」


月明りに照らされた唯の表情はとても不安そうだった。
そうだな……。
私の身の安否はともかく、唯達を心配させるのは私の本意じゃない。
私は小さく微笑んでみせてから、唯の方に駆け寄って口を開く。


「悪い悪い。
ちょっと夜風に当たりたくなってさ。
心配掛けて悪かった。もうしないよ、唯」


「本当……?」


「ああ、本当だ。約束する。
だから、そんな悲しそうな顔すんな。」


言いながら、手を伸ばして唯の頭を撫でる。
約束だ。唯が、皆が悲しむ事はもうしない。
悲しくて辛いのは私だけで十分だ。

唯の手を引いて、「戻ろうぜ」と耳元で囁く。
屋上の扉の中に入って、ゆっくり扉を閉める。
私の心の扉を閉める。
和、憂ちゃん、純ちゃんの思い出が入ってる心の扉に鍵を掛ける。


「……ごめん」


気が付けば私はそう呟いてしまっていたけど、
その言葉が唯の耳に聞こえてしまったかどうかは、分からない。




澪と二人きりでロンドンの街を歩く。
ロンドンに転移させられてから七日目。
ここ三日連続くらい、私は澪と一緒にロンドンの街を探索している。
本当は唯とロンドンを回りたかった。
今まで避け続けてた唯の支えになってやりたかった。

だけど、それは出来なかった。
私が唯を避けてるからじゃない。
今度こそ、それは嘘じゃない。
唯が私を避けているからだ。
どうして避けられてるのかは分からない。
あの夜、ホテルの屋上で話をして以来、唯は私と視線を合わせようとはしなかった。
落ち着いて話をしようとしても、ムギか梓を連れていつの間にか何処かに行ってるんだ。

嫌われてしまったんだろうか……。
いや、唯はそう簡単に人を嫌うような奴じゃないはずだ。
人を嫌える奴じゃない。
色んな人を好きになっちゃう奴なんだ。
少なくとも、私の中では唯はそういう奴だった。

だったら……、どうして唯は私を避けるんだろう。
今の所、思い当たる事は何も無い。
避けられる憶えは無いんだよな……。
でも、多分、何かの理由があるはずだ。
私はそれを深く踏み込んで聞いちゃいけない気がしてる。
私だって澪とどうしても視線を合わせられない時があった。
誰だって何かの事情を抱えてる時があるんだ。
だから、唯が私と話したい時が来る時まで、待とうと思う。
それもあいつを支えてやるって事のはずだから。

ロンドンの外回りについては、
まだ心配してくれてるのか、何度か梓が私を誘いに来てくれた。
一緒に風呂に入った時、私の様子が変だった事に気付いてるのかもしれない。
気を遣ってくれるのは嬉しかったけど、それは断った。
梓の傍に居てまた自分が抑えられなくなるのが怖かったからだ。
梓の未来を私の勝手な行動で無茶苦茶にしたくない。
でも、それと同じくらい大きな理由がもう一つある。
梓の優しさを皆にも分けてあげてほしい。
私に前に進む翼をくれたみたいに、ムギや唯にも翼をあげてほしい。
梓の優しさを感じさせてあげてほしい。
そう思ったから、私は梓の誘いを断ったんだ。

誘いを断った時、梓は少し寂しそうな表情を浮かべたけど、
「最近、澪と二人っきりになる事も少なかったからな」って言うと、納得してくれた。
「仲の良い幼馴染みですよね。
正反対なお二人が仲良しだなんて、未だに不思議です。
それにしても、律先輩ったら意外と寂しがり屋だったんですね」って生意気な事も言いながら。
少し不本意だけど、それでもよかった。
澪と一緒にロンドンを歩いてみたいってのも、私の本音には違いなかったから。

「卒業旅行の時は時間が全然足りないって思ったもんだけど、
流石に一週間も回ってると、回る所も無くなってくるよなー……」


自転車に乗って、隣を走る澪に声を掛けてみる。
澪は少し苦笑して応じてくれた。


「そうだな、もう回り切ったって感じだよ。
それも仕方無いとは思うけどさ。
観光してるわけじゃないし、回るのはデパートやスーパーばっかりだし。
しかも、交通手段が自転車しかないから、回れる所も限られてくるからな……」


「交通手段が自転車だけってのは痛いよなー……。
……いっそ、誰かの自動車を借りてみるか?」


「む、無理無理無理!
大体、誰が運転するんだよ!
誰も運転免許なんか持ってないだろっ!」


「いやいや、ムギは結構、運転出来るみたいだぞ?
教習所には通ってないみたいだけどさ、
執事の人に少しずつ教えてもらってるらしい。
私達とさ……、車で遠出するのが夢だって言ってた。
楽しそうだよな、車の遠出……」


「いや、確かに楽しそうだし、ムギの夢は叶えてやりたいけど……」


「それに私の運転だってかなりの腕前だぜ?
おまえだって私のレースゲームの腕、知ってるだろ?」


「甲羅投げたり、ジャンプしたりするレースゲームと現実の運転を一緒にするなっ!」


「ごめん、冗談だよ、冗談」


自転車に乗りながらでも澪の拳骨が飛んで来そうだったから、先に謝っておいた。
こいつ……、どんな所でも反射的に私を殴って来るからなあ……。
それこそ吊り橋の上でも殴って来た事あるぞ、こいつ……。
まあ、その時、悪かったのは、
吊り橋の上で怖がる澪をからかった私だったわけだけどさ。

でも、私は自転車を停めて、真剣な表情を澪に向けた。
少しだけ先に行った澪も自転車を停め、私の方に振り返って言った。


「どうしたんだ、律?」


「車を運転するってのは半分冗談だったけどさ、半分は本気なんだよ、澪。
そろそろ本気で考えなきゃいけないって思うんだ。
このままロンドンに居るのか、他の街に行ってみるのか……ってさ。
それでもし他の街に行ってみるんだったら、必然的に車は必要になってくるもんな……」


私が言うと、澪も真剣な表情になって頷いた。
長い髪を横に流すと、口を開き始める。
やっぱり、澪だって考えてなかったわけじゃないんだ。


「そうだな、律。確かにそうだよ。
私もずっと考えてた。
このままロンドンに居ていいのか、違う街に行くべきなんじゃないかって。
それこそ、日本を目指すべきなんじゃないかってさ。
日本に戻ればさ……、確証は無いけど……、ひょっとしたら……」


それ以上の言葉を澪は言わなかった。
確証の無い言葉を続けられるほど、私達は希望を持ててない。
でも、澪が何を言おうとしてるのかは分かった。
日本に戻れば、私達の街に戻れば、和達が待っててくれてるんじゃないかって。
今も和達はそこに居るんじゃないかって。
そうだったら、どんなにいいだろう。
もう一度、三人と会えるんだったら、どんなにいいだろう。
唯達はどれだけ喜んでくれるだろう……。

勿論、確証なんて一つも無い。
和達が日本で待ってくれてる可能性は、きっと相当低い。
そんな気がする。
大体、日本までどうやって戻るってんだよ。
日本は島国だぞ?
自動車だけじゃどうやったって辿り着けない。
韓国辺りまで行って、船か飛行機でも操縦するか?
それこそどうやって操縦するってんだよ。
いくら何でもムギだって船と飛行機を操縦するのは無理だろう。
どうやって戻れってんだ……。

それでも、このままロンドンに滞在する事が得策だとも思えなかった。
ずっとロンドンに居たって、少しずつ精神を擦り減らしていくだけだ。
永住する決心が出来ない限り、
いっそ当ての無い旅に出た方がマシな気もしてくる。
当てが無くても、少しでも前に進めるなら、そっちの方が安心は出来る。


だから、考えなきゃいけない。
私達は考えなきゃいけないんだ。
これからの自分達の生きていく道を……。


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最終更新:2012年07月09日 23:44