私の質問には、ムギが自信なさげに応じてくれた。
「薬はのませたのか?」と聞こうと思ったけど、すぐに私は口を噤んだ。
ムギは「風邪だと思う」って言ったんだ。
風邪って確証も無いのに、勝手に薬を飲ませていいものなのか、私は知らない。
気が付けば、机の上には沢山の薬の箱が置かれていた。
箱には英語が書いてある。
当然だ。ここはロンドンなんだから。
封が開いてないのを見る限り、唯にはまだ飲ませてないみたいだ。
勿論、ムギに英語が分かってないからじゃない。
副作用を考えて、服用させるのを自重してるってだけだって事はすぐに分かった。

ムギはずっと私達が病気になるのを心配してた。
私は知ってる。
私と街を回ってる時、辞書を片手に必要になりそうな薬を探してくれてたって事を。
それも私達に病気を連想させないように、隠れて探してくれてたって事を。
……当然だけど、ムギは私達が思う以上に、私達の事を考えてくれてるんだ。

それだけにムギが辛く思ってる事もよく分かった。
薬だけはどうにか集められたけど、
肝心な処方のタイミングが分からないんだろう。
でも、それは仕方が無い事だ。
ムギだけじゃなく、私達には簡単な医療の知識すら無いんだから。
病気の事なんか、私達には何も分かってないんだ……。

ムギが拳を握り締めて、絞り出すような言葉を出し始めた。
ムギらしくはないけど、言わずにはいられない事だったんだろう。


「ごめん……、ごめんね……。
皆に病気や怪我に気を付けてって言っておきながら、私……。
何も出来なくて、ごめんね……。
本当にごめんね、唯ちゃん、りっちゃん……」


ムギのせいじゃないよ、とは言えなかった。
多分、ムギはそんな言葉を望んでない。
それが私の本心からの言葉でも、きっとムギはもっと傷付くだけだ。
私がそうだったみたいに……。

私は何も言えなくて、自分自身の無力を感じながら、
それでもどうにか横になってる唯の顔に視線を向けてみる。
唯はかなり赤い顔をしていた。
寝息こそ立ててはいるけど、たまに乱れる呼吸がとても苦しそうだ。
部屋の外で待っててもらってる梓によると、
そんなに重い病気じゃなさそうだとは言っていた。
熱も38℃前後だし、咳やくしゃみが多いわけでもないらしかった。
大した病気じゃないはずなんだ。
環境が一変してしまったから、単に体調を崩してしまっただけのはずなんだ。

だけど、それが確定したわけじゃないって事は、梓もムギも分かってるみたいだった。
私達は病気の事について何も知らない。
想像以上に、何も分かってない。
私達に出来るのは、ただ傍に居て看病する事だけだ。
それ以外、何も出来ない。
それがすごく……、不安だ……。

それにしても、無理のし過ぎだよな、唯……。
自分の体力の限界も知らないとか、小学生かよ……。
でも、思い返してみれば、唯が体調を崩す兆候はあった。
ロンドンに転移させられた次の日、唯は午前中しか行動出来てなかった。
あの唯が、午前中しか動けてなかったんだ。
私はその事に気付くべきだった。
いや、気付いてはいた。
でも、自分の事ばかり気に掛けてて、私はそれを気にする事が出来なかった。
自分の弱さに耐え切れず、梓の優しさに甘えちゃってたんだ、あの日は……。
何処までも自分本位な自分自身が情けなくなる。

だけど、一つ深呼吸。
もう迷わない。
唯が疲れてるなら、唯が辛いなら、私はその手助けになろう。
皆の足手纏いにならないよう、精一杯生きよう。
それがこの世界で私に出来る唯一の事だと思うから……。

私は腕を伸ばして唯の額に手のひらを置いてみる。
……熱い。
大体38℃くらいらしいけど、そうとは思えないくらい唯の額はすごく熱かった。
こんなに無理して……、強い意志を持って……、
思い出を守ろうとしてたんだな、こいつは……。
これが私の選べなかった選択肢を選んだ唯の姿……。
私と唯のどっちが正しいのかは分からない。
でも、せめて唯の選択肢だけは、私自身も含めて誰にも否定させたくない。


「……ん……?
あ……、りっ……ちゃん……?」


呻くような唯の声が響く。
どうやら目を覚ましてしまったらしい。
私の手のひらが冷たかったんだろうな。
折角さっき寝付けたらしいのに、何だかとても申し訳ない。
私は唯の額を撫でながら、小さく囁いた。


「悪い……。起こしちゃったみたいだな……。
体調は……、まあ、悪いんだろうけど、休む邪魔しちゃってごめんな……。
寝るのに邪魔みたいだったら、すぐ隣の部屋行くからさ」


「いい……よ、りっちゃん……。
りっちゃんの手、小さくて、冷たくて、気持ちいいし……。
傍に居てくれて、嬉しいし……。
だから……ね?
りっちゃんが邪魔だなんて……、私、思ってないよ……?」


「そっか……、ありがとな……」


軽く唯の頭を撫でる。
やっぱり、かなり熱い。
今のだけでも、結構無理をさせちゃってるんだろう。
私は唯に休んでもらうため、それ以上何かを言うのはやめておいた。


「唯ちゃん、平気?
痛い所とかない? 水枕代える?
今、氷を切らしちゃってて、ごめんね……。
もうすぐ新しい氷が出来るはずだから……」


ムギが泣き出しそうな表情で唯に訊ねる。
自分に何も出来てない事を悔しく思ってるんだろう。
でも、悔しいのは私も同じだった。
ムギはずっと心配してくれてた。病気の心配をずっとしてた。
私はこんな事態になるまで、それを考えないようにしてた。
病気になったら大変なんだって、そういう事を考えないようにしてたんだ。
怖かったから……、逃げてたんだ……。
逃げてばかりいた私。でも、もう逃げられない。
向き合わなきゃいけない、ムギを見習って、私も……。

呻きながら、それでも、唯はムギに笑顔を向けて言った。
こんな時なのに、普段と同じ幸せそうな微笑みだった。


「いいよ、ムギちゃん。
ありがと……。いつもすまないねぇ……」


「えっ、えっと……」


突然の言葉にムギが面食らった表情を見せる。
まだ突発的なボケに対応出来るほど、ムギは突っ込み体質じゃないんだよな……。
私は唯の額から手を離して、ムギの耳元で囁いて教えあげる。
ムギは頷くと、妙に真剣な表情で唯に言った。


「そ……、それは言わない約束でしょ、おとっつぁん……!」


いや、突っ込みじゃなくて重ねボケだったか?
まあ、いいや。
とにかくムギがそう言うと、唯がまた幸せそうに笑った。
それを見て、ムギも遠慮がちに……、でも確かに笑う。
唯はこうして皆を笑顔にしていくんだよな。
どんな時だって、こんな時だって……。
私も、こんな風に誰かを笑顔に出来るんだろうか……?
今は無理かもしれないけど、いつかはそうしたい。
そうしてみせたい。

でも、不意に。
唯が私の手を握った。
何か用があるのかと思って唯の方に視線を向けて、驚いた。
唯が泣きそうな顔をしてたからだ。
さっきまでの笑顔を消して、辛そうな表情だったからだ。
私は突然の事に声を出す事が出来ない。
そんな私を見ながら、唯は私の手を強く握って言った。


「ごめん……。
ごめんね、りっちゃん……」


最初、唯が何を言ってるのか分からなかった。
謝られてるんだって気付いたのは、それから十秒くらい経ってからの話だ。
でも、気付いた所で、何で? としか思えなかった。
何でだ?
何で唯は私に謝ってるんだ?
体調を崩した事を謝ってるのか?
でも、それなら、私の方こそ唯に謝らなきゃ……。
慌てて私は唯に返した。
謝る必要は無いんだって、唯は間違ってないんだって。
そう伝えようと思って。


「そんなに謝るなって、唯。
ゆっくり休んで美味い物食っときゃ、すぐ元気になれるはずだからさ。
だから、そんな悲しそうな……」


「ごめん……。ごめんね、本当に……」


「だから、唯……」


「本当にごめんね……」


それから後も、唯は何度も「ごめん」と繰り返した。
私はムギと顔を合わせて、二人で首を傾げてみたけど、
どうして唯がそんなに謝るのか、二人とも分からなかった。
唯が謝っている本当の理由……。
唯の言う「ごめん」は体調の事だけじゃなくて、
二重三重の意味が込められてたんだって気付いたのは、
それからしばらく後、唯の体調が今よりずっと悪化してからの事だった。





「どういう事なんだよ……。
どうなってるんだよ……」


焦りや不安や無力感……、色んな感情が私の中を巡る。
原因は唯の体調だった。
唯が体調を崩して三日の間、
私達はロンドンの探索を一旦中断して、交代制で唯の様子を見ていた。
ムギが見つけた医学書を翻訳して唯の診断をしてみた結果、
恐らくは単なる風邪なんだろうって事になった。
生き物が居ないこの世界にウイルスが居るのかって話だが、
厳密には生物じゃないらしいウイルスならこの世界にも存在出来てるのかもしれない。
いや、そんな事はどうでもいい。
とにかく唯は単なる風邪のはずだったんだ。

だけど、唯の体調は全然治らなかった。
治らないどころか、悪化するばっかりだ。
声を出す事すら辛そうになってるし、
寒気も感じてるみたいだし、熱なんかさっき計ったら40℃もあった。
40℃だぞ?
確か私も一度40℃の熱を出した事があったけど、
あれは思い出すのも嫌になるくらい辛かった覚えがある。
あの時はこのまま死んじゃうんじゃないかって本気で思った。
いや、死にはしなかったから、今ここに私が生きてるわけだけど……。

でも、その想像は私の背筋に寒気を感じさせた。
死ぬ……? 唯が……?
いやいや、そんな事があるか。
そんな事があってたまるか。
だけど……、考えてしまう。どうしても悪い方に考えてしまう。
前に聞いたムギの豆知識が頭の中に何度も浮かぶ。
ムギが言うには、人間は体温が41℃を超えると意識を失ってしまうらしい。
そして、42℃を超えた時には、身体中の蛋白質が固まって死んでしまうんだそうだ。

42℃……、つまりあと2℃。
あと2℃体温が上がると、唯は死んでしまうんだ。
唯が……、死んで……。
死……。
だから、違う違う!
唯は死なない! 殺しても死ななさそうな唯だぞ!
そんな唯が死ぬはずがあるか!
死なせるもんか!
唯にまで居なくなられてしまったら、私は何のために……。
何のために和達を忘れようと……!

私は椅子に座って拳を握り締めながら、
でも、それを何処かに叩き付ける事も出来ず、私は汗を掻く唯にじっと視線を向ける。
唯は真っ赤な顔をして、喘ぐみたいに呼吸をして、呻いていた。
眠っているのか、意識が朦朧としているのか、それすらも判断出来ない。
それくらい、消耗してしまっている。
誰だよ、風邪をひいた事無いって言ってた奴は……。
こんなになっちゃって……、
こんな状態になっちゃってるじゃないか……。

私の焦りや不安を感じ取ったんだろう。
私と一緒に唯の看病をしてる澪が、私の肩に軽く手を置いた。
視線を向けると、澪は気丈な姿で私に真剣な表情を向けていた。
唯を起こさないよう、小さな声で囁く。


「もうおまえも休め、律。
そろそろムギとの交代の時間だろ?
そんな調子じゃ、律だって参っちゃうよ……」


澪が気遣ってくれるのは嬉しかったけど、私は首を横に振った。
確かに澪の言う通り、交代制なのに私無理言って唯の看病に半日くらい付き添ってる。
勿論、私に何が出来てるわけじゃない。
汗を拭いたり、たまに唯が落ち着いた時に会話をするくらいだった。
それは唯のためだったけど、それ以上に私のためでもあった。
休もうとしたって、唯の事が気になって休めるわけがない。
唯の苦しむ姿を思い浮かべるだけで、不安に押し潰されてしまいそうになる。
だから……、唯の傍から離れたくない……。
でも、澪はもう一度、私に諭すみたいに言った。


「頼むよ、律……。
唯の事は勿論心配だけど、私はおまえの事だって心配なんだ。
風邪って決まったわけじゃないけど、
もし唯が本当にウイルス性の風邪だったらどうするんだ?
律まで体調を崩して寝込んじゃったら、どうするんだよ?
そんなの皆に迷惑じゃないか」


皆に迷惑……。
そう言われてしまうと弱かった。
その通りだ。全くその通りだ。
私はまだ皆のために何も出来てない。
いや、出来てないどころか、むしろ迷惑しか掛けてない気がする。
辛い……、それが本当に辛い……。
皆の手助けが出来てない私に、一体どんな存在価値があるって言うんだろう……。
胸の痛みを感じて、私は視線を伏せる。

言い過ぎたと思ったのか、澪が腰を下ろして、
私の伏せた視線と同じ高さになって、悲しそうな声を出し始めた。


「ごめんな、律……。
でも、言い過ぎたとは思ってないよ。
皆、唯の事を心配に思ってるし、看病したいと思ってるんだ……。
それでも、我慢してるんだよ。
唯と同じくらい、律の事だって心配してるから、我慢してるんだから……」


心配?
私は皆に心配掛けちゃってるのか……?
私が皆を心配したいのに、逆に私の方が……?
やっぱり、私は皆の足手纏いなんだろうか……。
だけど……。
「でも」、と私は澪に言った。


「でも、私、思うんだよ……。
もっと早く唯の様子に気付いてやればよかったって。
私は自分の事ばかり考えてたから、唯の体調の変化に気付けなかったんだ……。
唯が憂ちゃんみたいな髪型をし始めた日からじゃなくて、
もっとずっと前から、唯を気に掛けてやればよかったんだ。
気に掛けたかったんだ……。
そうすれば、唯はこんな事には……」


「それは……、律の責任じゃないだろ?
唯の異変に気付けなかったのは、私達も同じなんだから……。
特に憂ちゃんの髪型を真似した次の日から、唯の様子は特におかしかったらしい。
梓に聞いたんだけど、唯は体調を崩す前、
ずっとホテルの周りを徘徊してたらしいんだ。
梓達と一緒に家事をしてる時でも、
気が付けば姿を消して、ホテルの周りを徘徊してたらしい。
何度注意しても、それだけはやめてくれなかったみたいだ。
もしかしたら、私達が寝てる時にも、部屋を抜け出してたのかもしれない」


それは知らなかった。
私はやっぱり唯の事について、何も知らない。
過去を捨てて、皆の未来を守ろうって決心した後でさえ……。


「何だよ、それ……」


それは唯に向けた言葉じゃない。
自分に向けた言葉だ。何も出来ず、何も知らなかった自分に対する言葉だった。
でも、澪はそれを唯に向けた言葉だって思ったのか、
少し目を伏せて、辛そうに言葉をこぼすみたいに続けた。


「そんな風に言わないでやってくれ、律……。
唯だって精一杯なんだ。
精一杯、この世界で何が出来るか探してるんだよ。
勿論、私達だって……」


「いや、今のは……、唯に言ったんじゃなくて……」


「それでも、だよ。
律、最近、無理し過ぎだよ……。
ううん、最近じゃないな。
ずっと……、この世界から生き物が消える前からずっと……。
律はずっと皆のために頑張ってくれてるって、皆分かってるから……。
だからね……、そんなに自分を追い詰めないで……」


頑張ってるのを、皆が分かってくれてる……?
嬉しいけど、分かってくれてても、それだけじゃ駄目なんだよ、澪……。
皆の役に立てなきゃ、駄目なんだ。怖いんだ。
何より、自分自身がそんな自分を許せないんだ……。

勿論、それを声に出しては言わなかった。
言っちゃいけない。
そんな私の想いまで、澪に押し付けちゃいけない。
そういう事は、自分の中で抱えてなくちゃいけないんだ……。


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最終更新:2012年07月09日 23:49