梓がそれ以上の言葉を躊躇う。
この世界が唯の夢だとしても、その責任を唯一人に押し付ける形にはしたくないんだろう。
でも、梓の言う事ももっともだった。
この閉ざされた世界を想像して創造してるのは、間違いなく唯だ。唯にしか出来ない。
それをどうやってるのか……。
それが分かればこの事態を変える事が出来るかもしれない。

心当たりと言えば、やっぱり唯の頭の怪我の事だ。
唯は目を覚まさないほどの大怪我を頭に負った。
それが唯に何らかの変化を与えたって事は無いだろうか?
でないと、こんな事が起こるはずもない。
私がそれを口にすると、澪が口元に手を当てて小さく独り言みたいに呟いた。


「サヴァン……?」


「……何だ、それ?」


そう私が訊ねても、澪はそれ以上何も答えてくれなかった。
いや、独り言みたいだったんじゃなくて、本当に独り言だったって事なんだろう。
私は口を噤み、澪も気付けば口を閉じていた。
また部屋を沈黙が包むかと思った瞬間、ムギの心配そうな声が部屋の中に響いた。


「ねえ、皆……、私、思ったんだけど……。
この世界が唯ちゃんの夢だとしたら、どうして唯ちゃんはこんなに苦しんでるのかな……?
今の私達の身体は、現実にある身体とは違うんだよね……?
だったら、体調が崩れるなんて、そんな事は……」


「確かにムギの言う通りだ」


応じたのは澪だ。
とても凛々しい表情で、何かを考え始めたみたいだった。
瞬間、私の胸が激しく鼓動し始めた。
澪の凛々しい顔に見惚れたわけじゃない。
いや、多少は見惚れてたかもしれないけど、それだけじゃなかった。
澪が考えている。
真剣に、凛々しい表情で、真相に近付こうとしている。
もうすぐ答えを出すんだな、って思った。
きっと私が辿り着いたのと同じ答えを。

私はその答えを澪が出すのが怖かった。
その答えを出してしまったら、きっと澪は私を嫌いになる。
ムギも梓も私を嫌いになるだろう。
それはとても辛かったけど、自業自得でもあった。
逃げ続けた結果がこの有様だったってだけだ。
悪かったのは……、逃げ続けた私なんだ……。

私は二度深呼吸をする。
拳を握り締め、鼓動する胸を気力で抑える。
澪が何かの答えを出すより先に、私は一番言いにくかった事を言葉にした。


「なあ、皆、聞いてくれ……。
唯はさ、自分が死ねばこの夢は覚めるって、
さっきそういう感じの事を言ってたんだよ……」


「唯先輩がっ?
そんな……、唯先輩が死ぬだなんてそんなの……」


梓が辛そうな声を上げる。
唯の事を心から心配してるんだろう。
それこそ、自分の事よりも……。
でも、それに対して構ってやる事は出来なかった。
私は言葉を続ける。
私にはまだまだ伝えなきゃいけない事がある。


「考えてみりゃ、その通りだよな……。
この世界は唯の夢で、唯が死ねば私達はこの世界から解放される……。
単純過ぎて笑っちゃうくらいだよ……。
簡単な……答えだよな……、馬鹿みたいに……」


「おい、律……?」


私の様子がおかしい事に気付いたのか、澪が心配そうに私に訊ねる。
私も自分自身の様子や感情がおかしい事は自分で気付いてた。
だけど、止められなかった。
止められなかったんだ、どうしても……。
自分への嫌悪感から、吐き捨てるような言葉をまた言ってしまう。


「馬鹿だよ、唯は……。
この世界が自分の夢じゃないかって気付いてさ……、
自分が私達に迷惑掛けてるんじゃないかって考えてさ……、
それで……、きっと唯は自分で自分を追い詰めたんだ。
この世界は唯の夢で、この世界の唯の身体も唯の夢だ。

そうだよ……。
唯の体調を崩せるのは唯だけなんだ。
現実の方の唯に何かあったとは考えにくい。
目こそ覚まさなかったけど、それ以外の唯の身体は健康だったはずだしな。
だから……、だから、唯は自分自身で自分の身体を追い詰めたんだよ!
この……馬鹿野郎……っ……」


「馬鹿野郎……って、律先輩、それは……」


梓が悲しそうな表情で私を見つめる。
唯の事を責められたと思って悲しく思ったんだろう。
でも、違うんだよ、梓……。
私が責めたいのは唯じゃない。私自身なんだ。
唯なんかよりずっとずっと馬鹿な私の方なんだよ……。

私は続ける。
ひょっとすると、これを言うと皆に軽蔑されて、
もう顔も合わせられなくなるかもしれないけど、言わないわけにもいかなかった。
言いたかったんだ、どんなに軽蔑されたって。
皆に……、嫌われたって……。


「分かってるよ、梓。
唯は馬鹿だけど、馬鹿な奴だけど、まっすぐな奴だ。
まっすぐに私達を考えてくれる馬鹿で、いい奴だ。大好きな仲間だ。
失いたくない仲間だよ……。

馬鹿なのは……、もっと馬鹿なのは私だ……。
私なんだよ……」


「律……先輩……?」


梓が私を気遣って手を伸ばそうとする。
私はムギの肩から手を離して、梓のその手を避けた。
梓は傷付いた表情を見せたけど、でも、今の私には触れてほしくなかった。
こんな最低な奴を気遣う必要なんてないんだ……。
梓は私なんかより、皆を支えててあげてほしいんだ……。

私は壁際に寄って、背中を壁にくっ付けながらその場に座り込んだ。
もう立っていられる気力も無かった。
だけど、それでも、言葉だけはどうにか皆に届ける。


「皆、聞いてくれ……。
唯を追い詰めたのは唯自身だけど、そのきっかけを作ったのは私なんだ……。
私なんだよ……。
唯が体調を崩す前、このホテルの周辺を一人で探ってただろ?
あれは私のせいなんだ……。
私のために、唯は一生懸命になってくれたんだよ……。
私なんかのために……。
逃げてばかりの私なんかのために……。

唯の奴……、きっと考えたんだ。捜しながら考えてたんだ。
自分が誰かの迷惑になってるんじゃないかって。
このままでいいのかって。
それで少しずつ自分を追い詰めて体調を崩して、
ベッドで看病されるうちに自分が頭を大怪我をした事にも、
この世界が自分の夢だって事にも気付いて、それで……。
それで……!」


叫びながら、唯の方に視線を向ける。
唯は……、赤い顔をして、低い唸り声を上げ続けている。
自分で自分を追い詰めて、自分から死に至ろうとしている。
私達のために……、死のうとしている……。

これは……、何なんだ……?
私は唯と傍に居たいと願っただけなのに、どうしてこんな事になっちゃうんだ……?
私は唯を失いたくなかった。大切な仲間を失いたくなかった。
唯達とずっと一緒で演奏して、笑っていたかった。
ずっと……、一緒に……。
その願いが間違ってたと言うんだろうか?
願っちゃ……いけなかったんだろうか……?

それは分からないけど、一つだけ分かってる事がある。
私が唯を追い詰めてしまったって事だ。
私がピックを捨てたせいで、過去を捨てようとしたせいで、
私は私よりも唯を傷付けてしまったんだ。
そうして、私はまた唯を失いそうになってしまっている。
それも一度目とは違って、他の誰でもなく私のせいで……。
私の……せいで……。

嫌だ……!
そんな嫌だよ……!
私が皆から嫌われるのは自業自得だけど、唯には死んでほしくない!
生きててほしい!
元の世界の事は関係無い!
もう唯を失いたくないんだ!
そのためには何だってしてやる! 何だって……!

だけど……、私に何が出来る……?
今度こそ唯のために何かをしたいのに、それを思い付けない。
何も思い付けない。
肝心な時に……、何も出来ない……。
ちっく……しょー……。


「律……」


澪が呟きながら歩き寄って来る。
私は唯の顔から視線を逸らさなかったけど、それはよく分かった。
澪の足音が響いてるんだ。それくらいは分かる。
澪が近付いて来る。
でも、私は澪の表情を知る事は出来ない。
澪の顔に視線を向ける事が出来ない。
私は嫌われてしまっただろう。
軽蔑されてしまっただろう。
これ以上はもう皆の傍に居られないだろう。

思わず逃げ出したくなる。
でも、逃げられない。逃げたくない。
最終的には皆の傍に居られなくなってしまうとしても、
今は皆の考えや想いを私にぶつけられるべき時なんだ。
皆は私にぶつけるべきなんだ、怒りや、悲しみや、苦しみを……。
どんなに辛くたって、私はそれを受け止めなきゃいけないんだ……。
私はそれだけの事をしてしまったんだから……。


「ごめん……、皆……」


喉の奥から声をどうにか絞り出す。
私は謝らなきゃいけない。
謝りたい。
何も出来てない私。
足手纏いにしかなっていない私。
和達を見捨ててしまった私。
唯を追い詰めてしまった私。
こんな私なんだ。
謝らなきゃ……、謝る事しか……、私には……出来ない……。


「ごめん……、本当にごめん……。
足手纏いにしかなってなくて、何も出来なくて……、悪かった……。
何を言ってくれたって構わない。
どんなに責めてくれたっていい。
皆の前から居なくなれって言うなら、居なくなる。
消えるよ……。

でも、せめて唯の体調がもう少しよくなるまでは、居させてほしい……。
唯のために何でもする……。
何か……させてほしい……。
だから……っ!」


謝りながら、いつの間にか私の目の前に来ていた澪の顔に視線を向ける。
怖かったけど、視線を逸らし続けているわけにもいかなかった。
本気で謝るには、真正面から相手を見つめるしかない。
まっすぐに見つめて、謝り続けるしかないんだ。
それが私に出来る事なんだと思う。


「律……」


また澪が呟く。
私はそう呟く澪の表情を見つめて、初めて気が付いた。
澪が顔しそうな顔をしている事に。
凄く悲しそうな顔をしている事に。
私は……、また澪を傷付けてしまったのか……?
傷付けるつもりは無かった。もう傷付けたくなかった。
ただ謝りたかった。
皆に謝りたかっただけなのに……。
なのに、私はまた……?
心臓が強く鼓動し始めた事に気付く。
また……、私は間違えちゃったのか……?

瞬間、悲しそうな顔のままで澪が腕を振り上げた。
勢いよく振り上げて、拳を握り締めて……、
その拳が勢いよく私の脳天に振り下ろされる。


「……っ!」


脳天に鈍い痛みを感じて、思わず小さく呻いてしまう。
かなりの痛みを感じながら、
そういえば澪に殴られるのも久し振りだ、って、
何故かそんな間抜けな事を考えてしまっていた。
本当に久し振りに殴られた気がする。
でも、殴ってくれて構わなかった。
何度でも殴ってくれていい。
私はそれだけの事をしてしまったんだから。
皆には私を殴る権利があるんだ。

だけど……、澪がそれ以上拳骨を落とす事は無かった。
ただ悲しそうな表情で私を見つめるだけで、続く拳骨は来なかった。
澪の表情を見て、不意に気付いた。
そうだった……。
澪とは何度も喧嘩したけど、何度も殴られたけど……、
澪は本気で怒った時だけには、私を殴らないんだ。
殴らずに、怒るんだ、澪は。
私を殴るのは恥ずかしがってる時や突っ込みの時……、
そして……、私に何かを気付かせる時に殴るんだよ、澪は……。


「み……お……」


私は呆気に取られながら呟く。
澪は私に何かを気付かせようとしている。
何かを……。
それが何なのかはまだ分からない。
ただ、澪が私に大切な何かを気付かせようとしてるって事だけは分かった。

数秒くらい、沈黙が流れる。
それからやっと、澪が小さく口を開いた。


「……もういいよな?」


それだけ呟く。
澪が何を言ってるのか、
ムギも梓も分かってなかったみたいだったけど、私には分かった。
私だけには分かった。
もういい、って澪は言ったんだ。
十分苦しんだんだから、律はもう苦しまなくてもいい。
……なんて甘っちょろい事を言ったわけじゃない。
澪はそんなに甘い奴じゃない。
『もういいよな?』ってのは、『もう甘えなくてもいいよな?』って意味なんだ。


そうだな……。
私は……、甘えていた……。
甘えていたんだ、皆に……。
私は皆に謝りたかった。皆に責められたかった。
あらゆる事に役立たずの自分を自分自身が許せなくて、
辛くて……、一人で抱えてるのが怖くて……、謝りたかったんだ。
和達を見捨ててしまった事も、唯を追い詰めてしまった事も、謝りたかった。
それで、皆に責められて罪悪感を抱く事で、逆に楽になりたかったんだよな……。
誰かに罰される事で、抱えていた物を軽く出来るって勘違いしてたんだ……。

分かるよ……。
今なら、分かる。
だから、澪は殴ってくれたんだ。
甘えていた私の甘えを果たさせてくれるために。
一発だけ……、殴ってくれたんだ……。
でも、もう甘えは許されない。


「ありがとう、澪……」


『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』と私は口にしていた。
口に出来た。
澪に『ありがとう』なんて、どれくらいぶりに言うんだろう……。
でも、本当にありがとう、澪。
最後の最後で、本当にギリギリの崖っぷちで、私は間違えずに済んだんだ……。
私の想いを分かってくれたのか、澪は少しだけ微笑んでくれた。


「これで最後だからな?
これ以上妙な事ばかり言ってると、もう二度と殴ってやらないからな?
覚悟しとけよ?」


「ああ……、十分甘えさせてもらったよ、澪……。
ありがと……な」


私が言うと、澪が私に方に手を差し出してくれた。
その手を握って、私は立ち上がる。
何とか、立ち上がる。
今度こそ。

ムギと梓の顔に視線を向けてみたけど、二人とも私と澪の間に、
どんな想いのやりとりがあったのか分かってないみたいで、
不思議そうな表情で私達の事を見つめているみたいだった。
そりゃ……、そうかもな……。
こんな短い会話で想いが分かり合えるなんて、
長い付き合いの幼馴染みにしか出来ない事だと我ながら思う。
その善し悪しは別として、今は純粋に大切な幼馴染みの澪が傍に居る事を感謝したい。


「あの……ね……?」


不思議そうな表情をしながらも、ムギが私に向けて話し始める。
私はムギにまっすぐ視線を向けて、続きの言葉を待つ。


「私……、りっちゃんの事、責めないよ……。
りっちゃんは何も出来てないって言ってたけど、そんな事無いと思うし……。
それにね……、謝るのは私の方だと思う……。
謝らないで、りっちゃん……。
前に変な事訊いちゃって、りっちゃんを迷わせちゃったのは私だから……。
だから……、ごめんね、りっ……」


「ストップ」


私はムギの言葉を止める。
前に変な事訊いたっていうのは、ムギが寂しがっていた時の事だろう。
自分がただ一人残されちゃうんじゃないかって、ムギが不安に思ってた時の事だ。
あの時、私はムギにはっきりした言葉を届けられなかった。
はっきりと伝えてあげるべきだった。
それを後悔する事は出来たけど、今は後悔よりもするべき事がある。
だから、私はムギに伝えるんだ、自分の正直な想いを。


「そこからは私に先に言わせてくれないか?
私……、甘えてたんだと思う……。
私を責めてたのは……、私自身だったんだよ……。
澪に殴られてから気付くなんて間抜け過ぎるけどさ……。
まったく……、責められて楽になりたいなんて、甘え過ぎだよなー……。
本当の意味で馬鹿だよ、本当に……。

だからさ……、今度こそ後悔しないように言うよ。
ムギは私の大切な仲間なんだ。
大切な仲間だから、居なくなった和達よりも優先して守りたかったんだ。
それを口に出せなかったのは、私が弱かったからだよ。
自分の決心を信じられる意志の強さが私には足りなかったんだ……。
だから、言い出すと切りは無いけど、一度だけ謝らせてほしい。
思っていた事をちゃんと伝えられなくて……、ごめんな……」


「ううん……、私の方こそ……。
私の方こそもっと自分の気持ちを伝えればよかったよね……。
りっちゃんに何もかも抱えてもらう事になっちゃってて、ごめんね……」


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最終更新:2012年07月09日 23:58