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ホテルの屋上から梓の姿を見かけたビルに駆け寄る。
私は息を整えて汗を払うと、心を落ち着かせるために二回深呼吸をする。
それから、気配を悟られないように、
梓が座り込んでいるはずのビルの側面をそっと覗き込んだ。


「あっ……」


思わず声を出しそうになってしまったけど、どうにか喉の奥にその言葉を仕舞い込む。
梓はそこに座っていた。
膝を抱え込んで、泣きこそはしていないけど、悲しそうな表情を浮かべていた。
梓を悲しませてしまったのは多分、私だ。
胸の中にある漠然とした不安を上手く伝えられなかった私の責任だと思う。
だけど、その漠然とした不安は、曖昧なだけに間違ってないはずだった。
私も唯も本能的に感じてる不安……。
上手く伝えられないし、理に適ってない気もするけど、
やっぱり梓のした事は、私達がしてきた事は間違ってたって感じたんだ。
私はそれをこれから梓に伝えなきゃいけないんだ。


「梓」


梓が座っている側に身体を出して、座り込んでいる梓に呼び掛ける。
また逃げられるかもしれないって不安もあったけど、
でも、私は梓を無理矢理捕まえるような事はしたくなかった。
信じたかった。
梓だって私のさっき言おうとした事を心の何処かで分かってるはずなんだって。
それを認めたくないからこそ、逃げ出してしまったんだって。


「律……先輩……?
どう……して……?」


梓が驚いた顔になって私に訊ねる。
多分、私が梓の前に姿を現した事を驚いてるんじゃなくて、
私がほとんど音もなく現れたって事に驚いてるんだと思う。
確かに今までの私だったら、当てもなく駆け回って疲れ果てた姿で梓をどうにか見つけ出していたはずだ。
だけど、今回はそうならなかった。
そうならないために、そうしないために、私は屋上から梓を捜したんだから。
逃げ回る梓とそれを追い掛ける私って関係じゃなくて、
お互いに真正面から対等な二人として話をしたかったからだ。


「隣……、いいか……?」


私が穏やかに言った事に面食らったんだろう。
梓はとても複雑そうな顔を浮かべてたけど、しばらくしてから軽く頷いた。
追い掛けられるようなら逃げるつもりだったのかもしれないけど、
こうやって静かに言葉を掛けられるなんて思ってなかったんだろうな。
それも私に。
自分で言うのも何だけど、私自身もかなりそう思う。

そういや、梓が入部届を出しに来た時、
私は「確保」って言いながら梓を捕まえたんだっけ。
何だか懐かしくなって、嬉しくなって、
同時に胸が痛くなったけど、私はその沢山の想いを受け入れる事にした。
悲しさや辛さや痛さ……、
そういう物も全部ひっくるめて梓に想いを伝えたいからだ。

私はゆっくりと梓の左隣にまで歩み寄って、静かに腰を下ろす。
梓はその私の動きから目を逸らさなかった。
何かを言おうとしながら、何も言葉が浮かんで来なかったのかもしれない。
私も何も言わなかった。
話を始めるにしても、もう少しだけ梓と二人でこの世界の空気を感じてたかったんだと思う。

二人とも何も言葉を出さない。
肩を並べて、膝を抱えて、顔を向けて、視線を合わせる。
私達五人以外誰も居ない、夢のようで、多分、実際にも夢なんだろう世界を感じる。
五人で傍に居たかったから辿り着けた、辿り着いてしまった世界を。

ふと、静かに風が吹いた。
少しだけ涼しさを感じる軽い風だった。
瞬間、梓は少しだけ全身を震わせたみたいだった。
肌寒さを感じたわけじゃないと思う。
生き物の姿が消えてしまった風と、和達の姿が消えてしまった風を思い出したんだろう。
私達以外の物を消し去って行く風。
あの一陣の強い風の事を。

正直言うと、私だってまだ怖くて震えそうになる。
また誰かを失ってしまうなんて、考えたくもない。
まだまだ皆と傍で笑い合っていたいのに、あの風は私達から色んな物を奪い去って行く。
夢みたいに、何もかも消し去ってしまう。
ビニール紐を結んで来るべきだったかと、一瞬後悔しそうになる。
でも、私はそれをすぐに振り払った。
私はもうそういう物に頼るのをやめなきゃいけないんだ。


「律先輩……、あの……」


梓が私の腰に視線を向けながら不安そうに声を出した。
私の腰にビニール紐が結ばれてない理由を訊きたいんだろう。
でも、それ以上の言葉を躊躇ってるみたいだった。
私がビニール紐を結んでないのは、
梓が急に飛び出したのを追い掛ける事になったから、
紐を結んでる時間が無かったからじゃないか、って思ってるに違いない。
私はその梓の不安には、軽く首を横に振って応じてやる事にした。


「ビニール紐はさ……、結ばなかったんだよ、梓」


「すみません……。
私が……、飛び出しちゃったから……」


「いや、勘違いしないでくれ、梓。
結べなかったんじゃなくて、結ばなかったんだ。
もうビニール紐を結ぶのはやめる事にしたんだよ」


「え……っ?」


梓が大きな瞳を更に見開く。
私の言葉を信じられなかったんだろうし、信じたくなかったんだろう。
そりゃそうだろうなって思う。
折角梓が考えてくれた私達が傍に居られる方法を、私の方から拒絶したようなもんだからな。
梓が驚いて、辛そうな表情になるのも当然だった。


「でも……、でも、それじゃ……。
もしまたあの風が吹いたら、皆さんが……、皆さんがバラバラになっちゃうじゃないですか。
離れ離れに……なっちゃうじゃ……ない……ですか……。
そんなの……、そんなの……って……」


梓の声がまた震え始める。
ホテルの部屋の中で泣き出した時と同じ、悲しみのこもった声だった。
私はまた梓を悲しませてしまったんだろう。
自分が見捨てられてしまったような気分にさせてしまったのかもしれない。
私だってそんな梓の声を聞くのは辛かったけど、伝えないわけにもいかなかった。
この先、この世界で何が起こったとしても、私は最後まで皆と仲間で居たいんだって事を。


「聞いてくれ、梓。
これは私だけじゃなくて、唯も同じ気持ちなんだ。
私達はもうビニール紐とか、包帯とか、
約束……とか……、
そういう物に……、頼るのをやめようって思ったんだよ……。
だからさ、今、唯は部屋で私達を待っててくれてるんだ」


「唯……先輩も……?
どうして……っ? どうしてなんですか……っ?
約束……したじゃないですか……。
『ずっと永遠に一緒だよ』って、歌で……贈ってくれたじゃないですか。
なのに……、なのに……っ!」


梓は声を荒げ始めていた。
トレードマークのツインテールが悲しみで震えているのが分かる。
悲しんで、辛くて、怒ってもいるのかもしれない。
だけど、『永遠に一緒』って言葉は、私達の嘘の無い想いだった。
私は梓と……、皆と永遠に一緒に居たい。
仲間であり続けたい。
でも、それは永遠に一緒に居るって事とは違うんだ。
似てるようで違うんだ、それは。

私はそれを梓に上手く伝えられなかった。
これからも、上手く伝えられないかもしれない。
嫌われる事になるかもしれない。
でも、伝えるんだ、私は。
どんな事になったって、本当の気持ちを伝えるんだって決めたんだから……!


「あず……」


「律先輩……っ!」


梓に声を掛けようと瞬間、不意に大声を出した梓が私に飛び掛かって来た。
あまりの勢いに、私はバランスを崩して、その場に全身で横たわってしまった。
その私の身体の上に梓が乗っていて、俗に言うマウントポジションになっている。
殴り掛かられるのか、って一瞬思ったけど、そうじゃなかった。
雫が私の顔に零れて来て、気付いた。
梓が泣いてるんだって。

梓は大粒の涙を流しながら、
全身を震わせて悲痛な叫びを私に向ける。


「私……、私、何か間違った事、しちゃいましたか……っ?
先輩達に嫌われるような失敗……しちゃったんです……か……?
包帯で私達の手首を繋いだ……から?
ひっく……、それとも……、何の役にも立ててないから……?
この世界に来て……、誰の役にも……立ててないから……ですか……?
役立たず……なのは自分でも分かってます……。
でも……っ!」


えっ、と思った。
梓の事をずっと考えていたはずなのに、間抜けな私はそれに気付けてなかった。
まさか、梓が自分の事を役立たずだと考えているだなんて、想像もしてなかった。
だって、梓は皆を支えててくれたじゃないか。
梓が居たから、私は道を踏み外さずに済んだんだ。
梓が居たから、崖っぷちギリギリで立ち直れたんだ。
それは全部梓が居たおかげなのに、役立たずだなんてどうして……。

と。
不意に私は澪の言葉を思い出した。
「律の元気な姿を見てると、勇気が湧いて来るんだ」って言葉。
「律の元気な姿を見るのは、本当に嬉しかったんだよ」って澪は言ってくれた。
私にその自覚は無かった。自覚が無かったから、不安だった。
でも、それで皆に勇気を分けてあげられてるんだったら、嬉しいと思えたんだ。


同じだ。
梓は私と同じなんだ。
私と同じで、ずっと不安を胸に抱えてたんだ。
自分が何の役にも立ててないって思って、ずっと怖がってたんだ。
私達は本当に似た者同士だったんだ。
自分に自信が持てなくて、誰からも必要とされてないって思えて、私も梓も怖かったんだ。
だから、梓は今泣いてるんだ……。

梓は涙を流し続ける。
身体を傾けて私の身体に顔を寄せ、その小さな手を私の背中に強く回す。
梓の強い震えが私の身体に直接伝わって、梓の心の震えまで感じられるみたいだった。
同時に、私自身の胸の強い痛みを感じる。


「捨てないで……下さい……」


梓が吐き出すような言葉を口にした。
それは梓の不安の全てがこもった言葉。
梓が心の中に抱え続けていた不安の言葉だった。
一度言葉にしてしまった事で止まらなくったのか、
心の枷から解き放たれたかのように、隠されていた言葉を梓が告白し続ける。


「捨てないで下さい……。
見捨てないで……下さい……。
私……、皆さんの役に立ってない事は……、分かってます……。
何の役にも……立ててません。
でも、皆さんの傍に……、傍に居させてほしいんです……。
頑張ります……、ひっく、もっと頑張ります……から……っ!
見捨て……ないで……、
一人に……、しないでよぉ……!」


強く梓に抱き締められる。
抱き締められながら、私は自分を責めてやりたい気分に胸が支配される。
私は……、梓は強い子だって思ってた。
この世界で私達を支えてくれてる梓は強い子なんだって。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
自分が梓に何もしてやれてなくて、それが悔しくて、
でも梓は誰の手助けも必要じゃなさそうに強く振る舞っていたから、
それで梓は大丈夫なんだって勝手に思い込もうとしてたんだ。
本当は……、小さなことで傷付く繊細な後輩だって、
涙脆くて寂しがりな後輩なんだって、分かっていたはずなのに……。


「梓……、ごめん……、ごめんな……。
私、何も気付けてやれてなかった。
おまえがそんなに苦しんでる事に、全然気付けてやれてなかった。
元部長なのに……、部長なのに……、何も気付けてなかった。
本当に……ごめん……」


私は自分の無力に悔しさを感じながら、それでもどうにか言葉を絞り出した。
本当に私は無力だ。
伝えたい事を上手く伝えられないばかりか、梓の考えも上手く理解出来てない。
本当に……、何やってんだよ……。
でも、そこで立ち止まるわけにはいかなかった。
私は梓に想いを伝えなきゃいけない。
梓は大切な後輩なんだって。
何の役にも立ててない事なんてない頼れる後輩で、
皆が梓の事を大好きだって思ってるんだって、それだけは絶対に。
私は自分の胸が張り裂けそうになってる事に気付きながらも、それをどうにか言葉にしてみせる。


「梓……、おまえは頼れる後輩だよ。
皆を支えてくれて、私を支えてくれて、本当に感謝してる。
こう言うのも変なんだけどさ……、私はおまえが居たからこの世界でも生きてられたんだ。
憂ちゃんも純ちゃんも和も消えて、三人の事を思い出すのも怖くなったけど……、
おまえが傍で支えてくれたから、元気をくれたからどうにか立ち直れたんだ。
ロンドンに転移させられたすぐ後だって、おまえが傍に居てくれたから落ち着けたんだ。
それだけは間違いなく本当なんだよ。
それを直接おまえ言葉で届けられてなくて……、悪かった。

昨日、私が自分で言ってた事ですまないけど、頼むよ……。
自分で自分を役立たずなんて言わないでくれ……。
私も唯も澪もムギも、梓に支えられてるんだ。
梓が居たから、頑張って来れたんだ。
おまえがそう思ってくれてるみたいに、私だってずっとおまえの傍に居たいよ。
だから……」


言っていて、私は昨日の自分の情けなさに気付いていた。
何だか自惚れみたいで恥ずかしくて、
これまで真面目に考えた事はなかったけど、私は皆から大切に思われてるんだろう。
皆は私を大切に思ってくれてるんだろう。
だからこそ、私はとんでもない事をしてしまったって気付いた。
大切に思ってくれてる人の前で自分を否定するなんて、
どれだけ皆を傷付けてしまう行為だったんだろう。
どれだけ皆の想いを踏み躙ってしまったんだろう。
私はそれにやっとの事で気付けた。
自分に自信が無いのは仕方が無い事としても、
それで自分を否定してしまったら、皆の想いすら否定してしまう事になるんだって。


「律先輩……」


梓が私の胸で囁く。
まだ震えてはいたけど、その震えは少しだけ弱まっている気がした。
分かってもらえたんだろうか?
肝心な事が何も言えてなかった私の想いは少しでも届いたんだろうか?
梓の事が大好きだって想いは、届いたんだろうか?

数秒、二人して黙り込んで、
もう少し梓の震えが治まった頃、梓がまた小さく口を開いた。
声はもう震えてなかった。


「私……、お役に立ててましたか……?」


「ああ……、心配するな。
十分だよ。十分、おまえは私達を支えてくれてたよ。
役立たずだなんて、そんな事無い。
おまえが居てくれたおかげで、私達は元気に過ごせたんだ」


「本当……ですか……?」


「本当だ。嘘なんか言うかよ。
一緒に居てくれて安心出来たし、嬉しかった。
だから、おまえとはこれからどうするかって話を……」


「律先輩」


私の言葉が梓の声に遮られる。
その声は震えてなかったけど、妙に力のこもった声だった。
気が付けば、さっきよりも強く背中に回された腕に力を入れられてるみたいだった。
私は少し緊張しながら、梓に訊ねてみる。


「どうしたんだ、梓……?」


「私……、皆さんの傍に居て……、いいんですか……?」


「ああ、当然だ。
傍に居たいっておまえが思ってくれるんなら、私だって嬉しいよ。
私だって、皆だって、おまえの傍に居たいんだ。
離れ離れになんて、なりたくないよ。
一緒に居たいって思ってる」


「ありがとう……ございます。
私……、律先輩にそう言って頂けて嬉しいです。
本当に嬉しいです……けど……、
私、もっと皆さんのお役に立ちたいんです。
お役に立てたら……、って思うんです」


「別にそんなに気負う必要は無いぞ、梓。
おまえはそのままのおまえでいいんだ。
でも、まあ……、何かをしたいって言うんなら、止めないよ。
私だって出来る限り皆の役に立ちたいって思ってるのは、おまえと一緒なんだしさ」


「ありがとうございます、律先輩……。
それじゃあ……」


言い終わってから、梓が私の背中から腕を離して顔を上げた。
結構久し振りに見た梓の表情はもう曇ってはいなかったけど、何故か頬を赤く染めていた。
少しの間、二人で見つめ合う。
何だか照れ臭いな、って私がそう思ったのと同じ頃、急に梓が目を閉じた。
目を閉じた梓は自分の唇をそのまま私の唇に重ねようと近付け……。
瞬間。
驚いた私はその梓の両肩を自分の両手で掴んだ。


「ちょ……っ。えっ……? 何だ?
梓、ちょっと……、急に何を……、えっ……?」


心臓が激しく鼓動するのを感じながら、
私は自分でも何を言ってるのか分からない言葉を口にしていた。
何なんだ?
梓の唇が私に近付いて来た……?
私とキス……しようとしてたのか?
何で? どうして?
どうして梓は急に私にキスしようとしてるんだ……?

私の目の前に居る梓が寂しそうに大きな目を開いて、寂しそうに口を開いた。
次の瞬間、これまで梓の想いは何も分かってなかった私だけど、
その私がそれ以上に想像しようと思ってすら出来てなかった言葉が梓の口から出されていた。


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最終更新:2012年07月10日 21:40