「律先輩……、私、皆さんの役に立ちたいんです……。
皆さんに必要にされたんです。
もっともっと傍に居たいんです……」


「いや、でも、急に……、何で……。
私にキスしようとなんて、どうしていきなり……。
傍に居るとか必要にされたいとか、それならもっと他に何か……」


「だって……、律先輩……。
一緒にお風呂に入った日、律先輩、私にキスしようとしてたじゃないですか……。
私の事を抱き締めようとしてたじゃないですか……。
ですから、私は……」


気付かれていた!
私は一瞬で自分の頭が真っ白になるのを感じた。
気付かれてないと思ってた。
私の逃避を……、梓に甘える事で逃げようとしてた事を、気付かれてないと思いたかった。
実際、梓は私の逃避に気付いてないよう思えた。
だけど、梓は私のしようとしてた事に気付いていたんだ。

身体が震え、嫌な汗を掻いて、
息が止まりそうなほど緊張している自分に気付く。
梓の真意が掴めない。全然掴めない。
私がしようとしてた事に気付いて、
それでも私の傍に居ようとする梓の想いが……。
全然、分からないから……。
私は……、震え続けてしまっている。


「梓、あれは……、あ……あれは……」


上手く言葉に出来ない。
上手く説明出来ない。
あの時、私がどうしてあんな事をしようとしたのか、自分でもはっきりとは分かってないんだ。
私は梓の温かさが愛おしかった。
優しさを求めたかった。
寂しさを紛らわせたかった。
それは間違いなく、言い訳しようの無い事実だ。

でも、それだけで同性の後輩を……、
梓を抱き締めたいと思うようになるものなんだろうか?
梓の事は好きだと思う。
小さくて可愛らしくて、私の事をずっと見てくれてる。
支えてくれて、引っ張ってくれてる。
梓が大好きで大切な後輩なのは間違いない。
ひょっとしたら、それはただの後輩に対して向ける感情じゃなくて……?


「律先輩、私……」


梓が顔を赤く染めたままで続ける。
その声色からは嫌悪感は全然感じられなかった。
むしろ嬉しそうに、優しい声色で囁いてくれていた。


「私、嬉しかったんです……。
あの日、お風呂の中で律先輩が私を抱き締めようとしてる事に気付いて、
最初はびっくりしたんですけど……、どうしたらいいのか分からなかったんですけど……。
でも……、やっぱり嬉しかったんです。
何の役にも立ててなかった私ですけど、何も出来なかった私ですけど、
律先輩が……私の事を大切に思ってくれてるって思うと、凄く嬉しくて……。
だから、私……、私も律先輩と……」


そこから先は聞けなかった。
そこから先の言葉を口にするには、梓も自分自身の想いが固まってないんだろう。
私だって固まってなかった。
自分の想いを完全に受け止めるには、まだまだ早過ぎる。
でも、梓と寄り添って、支え合って生きていくって想像は私を嬉しくさせた。
きっとそれは幸せな事だろう。
梓と抱き締め合ったり、キス……したりして生きていくのは、とても幸せな事なんだ。
私だって、幸せになりたい……。
だから、私は上半身を起こして、私の上に乗る梓を胸の中に抱き留めたんだ。


「梓……。
私はさ……、梓の事が好きだよ……。
梓と傍に居るのは楽しいし、面白いし、嬉しい。
私の想いを受け止めようとしてくれてるのも、涙が出そうなくらいに嬉しいんだよ……。
だから、さ……」


「私も……です、律先輩……。
私、律先輩の傍に居られると、嬉しくて、落ち着けるんです。
今だって、律先輩の腕の中に居ると……、私、落ち着けて安心出来て……。
ですから……」


私は胸の中に抱き留めていた梓を解放して、至近距離で見つめ合う。
あと拳一つの距離ほど近付けば二人の唇が重なる距離。
まだ私は震えてる。
梓も多分、緊張で震えてる。
でも、私達の唇が重なれば、この震えは止まるはずだ。
そうして、私達は手だけじゃなく、想いだけじゃなく、心と身体でも繋がれるようになるだろう。
梓が口を開き、少し遅れて私も口を開く。
お互いの想いをほとんど同時に言葉にして、お互いの気持ちを確認し合った。


「もう一度抱き締めて下さい、律先輩」


「もうやめよう、梓」


瞬間、梓の大きな瞳が更に見開かれた。
何が起きてるのか分からないって表情だった。
赤かった頬は若干青ざめてるようにも見えた。
梓のそんな表情を見るのは辛かったし、こんな風にしか言えない自分が悔しかった。
だけど、今これを言葉にしなきゃ、私達はもっと辛くて悲しい想いをする。
そう思ったから、私は梓に言ったんだ。


「えっ……? えっ……?
律……先輩? あの……、今、何て……?
だって、その……えっと……」


梓が視線を散漫にさせて、言葉を何度も途切れさせながら呟く。
その呟きは自分に言い聞かせてるみたいでもあった。
そんな事があるはずがない、今のは聞き間違いなんだって。
きっと梓はそう思ってるんだろうと思う。
冗談だ、って言ってやれれば、私もどれだけ楽になれるだろう。
梓をどれだけ安心させてやれるだろう。
でも、私はそうは言わない事にしたんだ。
梓の事が大切だから……、梓の事が大好きだからだ。
私はまだ自分の身体が震えてる事に気付きながらも、どうにか梓から視線を逸らさない。
まっすぐに梓の泣き出しそうな瞳を見つめる。


「もうやめようって言ったんだ、梓。
梓が傍に居てくれると嬉しいし、正直、今でも抱き締めたい気持ちは残ってる。
二人でずっと一緒に居れば、安心出来るし、幸せになれるんだろう……。
だけど……、これ以上の事はよくないって思うんだよ。
これ以上は……、駄目なんだ……」


「どう……してっ? どうして……っ?
だって、だって、律先輩、あの日、私……、私を……っ!
嬉しかった……。嬉しかったのに……っ!」


梓の表情がまた崩れる。
また涙を流し始めながらも、その言葉が止まる事は無い。
信じていた全てに裏切られた気分になってるんだろうと思う。
私に裏切られたとも考えているのかもしれない。
だけど、私は梓を裏切りたくないらこそ、自分が胸が痛いのを感じたって続けるんだ。


「梓……、おまえの言う通りだよ。
私はおまえと一緒に風呂に入った時、おまえを抱き締めようと思った。
抱き締めてキスをすれば、安心出来ると思った。
安心させてやれるって思った。
でも、それは出来なかった。
私の勝手な暴走と下心でおまえを傷付けたくなかったからだ。
いや、多分、怖かったからでもあると思うよ。
おまえとそんな関係になってしまったら、私達はもう二度と戻れなくなる。
皆で笑い合ってた頃には戻れなくなるって思ったから……、
あの日、おまえにキスしなかった事に、後悔はしてないんだ……」


「そんな……、そんなのって……ないですよ……っ!
私、嬉しかったのに……、戻れなくたって構わなかったのに……っ!
どうしてそんな……、今更……っ!」


梓の大粒の涙が止まらない。
自分でも自分が何を言ってるのか分かってないのかもしれない。
そう思えるくらい、梓は自分の心を曝け出していた。
この世界に来て以来感じていた辛さや寂しさや悲しさや怒りや、
そういう感情を受け入れてくれるはずの私に拒絶されてしまったんだ。
やっと安心出来るはずだったのに、
幸せになれるはずだったのに、それを私が台無しにしてしまったんだ。
梓の涙と怒りはもっともだと思う。
私だって自分がやられていたら、怒って、泣き出していたかもしれない。
でも、私には傍に居るだけじゃなく、突き放してくれる仲間が居た。
殴ってくれる澪が居た。
叱ってくれるムギが居た。
辛い決心をしてくれる唯が居た。
だから、今度は私が梓にそうしなきゃいけない時なんだ。


「ごめんな、梓……。
あの日、私が弱くて、おまえに頼ろうとして、本当に悪かった……。
そんな事しちゃいけなかったのに、私は……」


「いいんですよ!
律先輩の気持ち、私、嬉しかった!
嬉しかった……んですから、だから、私……、
もう戻れなくたって……、構わないですから……っ!
そんな事より……、一人になりたくない……。
一人になる事の方が怖いから……、
だから……、抱き締めて……、抱き締めて……下さい……っ!」


「梓……っ!」


私が低い声で呼ぶと、梓の肩が大きく震えた。
怯えた表情で私の顔を見つめている。
私自身に怯えてるっていうより、私に嫌われたんじゃないかって怯えてるみたいだ。
さっき、一人になりたくないって梓は言った。
それが梓の偽りのない本音なんだろうと思う。
元々、私達が高校を卒業する時、一人きりになる事を本気で怖がってた子なんだ。
誰よりも、孤独を怖がってるんだ、梓は。
だから、今日、もう誰とも離れないために私達の手首を包帯で結んだんだ。
今だって、自分を必要と思われたくて、
私の歪んでいた想いを受け入れようとしてくれてるんだろう。


「すみません、律先輩……。
私……、私……、変な事を、でも……、でも……っ!
私……っ、この気持ちは本当で……」


梓が震えた声で呟く。
心底怯えた表情で、戸惑っている。
一人になりたくなくて誰かを受け入れようとして、
その結果、自分を失くした上に一人になってしまうっていう矛盾。
私も同じだった。
私だって一人になりたくなかった。
和達を失って、それ以上誰かを失う事になりたくなくて、私は私の想いを殺した。
そうする事でしか、皆と一緒に居られる方法が無いと勘違いしてた。
でも、そんな事をしたって、余計皆に心配を掛けてしまっただけだった。
もうそういう事はやめないといけないんだ、私も、梓も。
私は手を伸ばして、流れる梓の涙を一滴拭った。


「謝るのは私の方だよ、梓。
私だって一人になりたくないし、皆といつまでも一緒に居たいよ。
出来る事なら、永遠に皆の傍に居たい。
でも、さ……、私、思ったんだよ。
唯が体調を崩して、この世界の事について深く考えて、思ったんだ。
梓が私達の手首を包帯で結んでくれたからでもあるかもな。

とにかく、思ったんだ。
『一緒に居る』って事と、『一緒に居たい』って思う事は似てるようで違うんだって。
違うんだよ、この二つは絶対に……」


「『居る』事と……、『居たい』って思う事……?」


「私達が卒業する前の事を思い出してくれ。
私達はいつも部室に集まってた。
それは部活だからでもあるけど、それだけの意味じゃなかったはずだよ。
部活する予定じゃない日でも、誰が呼んだわけでもないのに、
自然と五人が集まっちゃった事も何度もあっただろ……?
口にこそ出さなかったけどさ、私、それが嬉しかったんだよ。
皆が皆と『一緒に居たい』って思ってくれてるんだって思える事が、凄く嬉しかったんだ。

でも……、でもな……、『一緒に居る』って事とそれは違うと思うんだ。
『一緒に居なきゃ』って、誰かや自分に強制されるなんて、
そういうのは嫌だって思うし、悲しい事だと思うんだよ……」


そうだ。
それが私の違和感だったんだ。
皆と一緒に居れば安心出来るし、幸せになれるし、笑顔で居られる。
それはとても嬉しい事だけど……、でも、それに頼り切ってちゃいけなかったんだ。
軽音部で活動して、私達は音楽を繋いだ。
手を繋いだ。
想いを繋いだ。
でも、心までは繋ぎたくない。繋いじゃ駄目なんだって思った。
その事を梓に手首を包帯で繋がれる事で気付けた気がする。
私達は手を繋いでるんじゃなくて、心を繋いでたんじゃないかって。

閉ざされた世界。
和はこの世界の事をそう呼んでいた。
確かにこの世界は閉ざされてる。外の世界に干渉出来ないって意味で閉ざされてる。
でも、そういえば和はこうも言っていたはずだ。
「閉ざされてるのは世界の方じゃなくて、もしかして……」と。
閉ざされているのは唯の夢で、同時に私達の心でもあったんだ。
皆が傍に居なきゃ不安で仕方が無くなってた私達の心の方なんだ。
閉ざされた心。
それがきっと私達がこの唯の夢に迷い込んだ本当の理由なんだろう。

私達はお互いを繋ぎ止めてた。
五人で居なきゃ不安だった。
いつの間にか、お互いが傍に居る事を無意識の内に強制していた気がする。
離れていたって大丈夫だなんて言葉は嘘だ。
傍に居なきゃ……、一緒に居なきゃ……、不安な気持ちは決して消えない。
皆にいつか忘れられてしまいそうで怖い。忘れてしまいそうで怖い。
それが自然な感情なんだと思う。

でも、だからって……、傍に居れば、ただそれでいいわけじゃなかった。
強制して、心まで繋ぎ止めて、無理矢理に傍に居てもらって、
安心するためだけに傍に居て、絆を再確認し合うなんて、悲しいじゃないか。
私達の想いの全てを否定してしまうみたいじゃないか。

私が梓にキスしようとしてたのだってそうだ。
私は安心したかった。傍に居て梓の体温を感じたかった。
同時に私は自分の体温で梓の心を繋ぎ止めようとしちゃってんだ。
梓は優しいから、私達の事を思ってくれてるから、
身体で繋がれば、ずっと一緒に居られると考えてたんだと思う。
しなくてよかった。
躊躇ってよかった。
もしも梓が私を受け入れてくれていたら、
私はどれだけ後悔しても後悔し切れなくなっていた。
元の二人に戻れなくなってた。
傍で笑い合えてた二人には、もう二度と……。

私は梓の頬に自分の手のひらを軽く触れさせた。
まだ日焼けしている梓の頬。
子供みたいに体温が高くて、手のひらに心地良い。
二人の体温を感じ合う。
とても嬉しくて安心出来たけど、これ以上の事はしちゃいけないって思った。
私はまた涙をこらえている梓に向けて、呟いた。
少しだけ自分に言い聞かせるみたいに。


「ごめんな、梓……。
今まで上手く言えなくて……、言葉に出来なくて……。
でも、これが今の私の本当の気持ちなんだよ。
梓が私の気持ちを受け入れようとしてくれたのは嬉しい。
すっごく嬉しい。

でも……、皆のおかげで気付けたんだよ。
そういうのはしちゃいけないし、したくない事なんだってさ。
勿論、それを教えてくれたのは梓でもあるんだ。
梓は私と一緒に居てくれた。私の馬鹿げた想いにも向き合ってくれた。
ずっと私や皆を支えててくれただろ?
私達はそんな梓の事が大切だって思ったんだ。
私はもうそんな梓の笑顔を奪いたくないんだ。
今、私達がキスなんかしたら、梓は後で絶対に後悔する。
前みたいに笑えなくなる。
だから……」


私の言葉が終わるより先に、また梓の瞳から涙が一筋流れた。
身体を小刻みに震わせて、流れる涙を自分で拭いながら呟く。


「ずるい……、ずるいです、律先輩……。
わた……私……、後悔して……も……ううっ、構わ……構わないのに……。
律先輩の気持ち……、私、嫌じゃ……なかったのに……」


「ごめん……、ごめんな、梓……。
でも、今は駄目だ。駄目だと思う。
これは私の我儘だ。怒ってくれたって構わない。
これまで自分の気持ちから逃げてて、上手く言えなかった私の責任だ。
どんなに責められたって仕方ないと思う。
だけど、それだけは……、それだけはしちゃいけないんだ……」


私は絞り出すように言葉を吐き出す。
辛い言葉。胸が強く痛む言葉。
声に出す度に心が削り取られていくみたいだ。
辛い……、叫びたくなるくらい辛い……。
それでも、ここだけは譲るわけにはいかなかった。
私は梓の笑顔が好きだから。
何の迷いもなく傍に居たいと思えていた梓の笑顔が好きだから。
私は、譲らない。


「ずるい……、ずるいです……っ!」


呟きながら、梓が私の胸に両拳を交互に振り下ろし始める。
何度も何度も私の胸を叩く。
でも、その拳には力が入ってなかった。
軽く置くみたいな速度で、私の胸に言葉の代わりに想いを叩き付けていた。
私はその梓の拳を受け続ける。
避けたりなんてしない。
私は今度こそ、梓とまっすぐに向き合うんだから……!

梓が私の胸を叩きながら言葉を続ける。


「嫌い……、嫌いです……。
律先輩なんて……、大っ嫌いです……っ!」


「……ああ」


「自分勝手で、大雑把で、いい加減で……、
練習しないし、お菓子ばっかり食べてるし、変な事ばっかり思い付くし……、
ううっ……、本当に嫌な……、嫌な先輩です……っ!」


「……ああ」


「大雑把でいい加減なのに……、
自分の事しか考えてないように見えるのに……、
それなのに……、最後の……最後には……、
私の事……や……、先輩方の事をちゃんと……考えてて、
先の事もしっかり考えてて……、うううううっ、ひっく……。
そんな……そんな所……、本当に……本当に大っ嫌いっ!」


「……ああ」


「ずるい……、ずるいよう……。
律先輩ったら……、最後の最後で逃げ出さなくて……、
私にも逃げるのを……許してくれなくて……。
私の……後悔なんか……、私……、気にしない……しないのに……っ!
どうして、律先輩は……そんなに……っ!」


「……ああ」


「だけど……、だけど、私……。
そんな……、そんな律先輩が……。
わた……、私……」


梓の言葉と拳が止まる。
涙も止まりこそしなかったけど、少しだけ落ち着いたみたいだった。
一息だけ吐いて、私は梓に正直な想いをもう一度伝える。


「梓。
私はおまえの笑顔が好きなんだ。
私の悪ふざけに苦笑してくれるおまえの笑顔が好きだ。
演奏が終わった後、満足そうに微笑んでくれるおまえの笑顔が好きだ。
部室で見せてくれるおまえの笑顔が大好きだ!
私は……、その笑顔を失くしたくないんだよ……。
今、私達がここで慰め合ったら……、
おまえのそんな笑顔が二度と見れなくなると思うんだよ……」


「私の……笑顔……?
でも、私の笑顔……なんて……」


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最終更新:2012年07月10日 21:44