梓が自信の無い様子で呟く。
当然だ。自分の笑顔に自信がある奴なんてそうは居ないだろう。
そもそも笑顔なんて自分で見えないものなのに、
自分で自信を持てる奴の方がどうかしてると思う。
私は梓の笑顔が大好きだ。
でも、それを上手く言葉に出来る自信は無い。
どんなに伝えようとしたって、情けないけど私なんかの言葉じゃ届けられないと思う。
だから、私はポケットの中に入れていた物を、梓に差し出したんだ。


「これ……は……?」


それを手に取った梓が大きな目を見開いて呟く。
梓が知らない梓の魅力。
梓が知らない梓の笑顔。
私の大好きな梓が詰まった、その写真……。
その写真の中には、幸せな梓の笑顔が溢れていた。


「憶えてるだろ……?
教室でライブをする前に、純ちゃんに撮られた写真だよ。
あの日、ポケットに入れてたおかげでさ、写真も一緒に転移してたんだよ」


「あの時……の……」


呟きながら、食い入るように梓がその写真に視線を下ろす。
屋上で梓を見つけた後、
一瞬だけ部屋に戻って制服のポケットから取り出した写真。
上手く言葉に出来ない、上手く想いを伝えられない私だから、
せめてこの写真で想いを伝えられればと思ったんだ。


「いい笑顔……だろ?」


私は写真を見つめる梓に囁く。
梓がこの写真を見て何を思ってるのかは分からない。
滅多に見る事の無い自分の笑顔に対して、どう感じてるのかは分からない。
この写真を初めて見た時の私と同じみたいに、予想外な自分の表情に戸惑っているのかもしれない。
でも、きっと分かってくれてもいるはずだ。
写真の中の梓の笑顔が、とても幸せそうだって事に。
幸せそうな理由は、勿論一緒に写ってるのが私だからってだけじゃない。
ちょっと残念だけど、それだけが理由じゃない。
私はそれを梓に伝えようと思って、口を開いた。


「幸せそうな写真だろ?
照れ臭いけど、梓だけじゃなくて、私も幸せそうに笑ってると思うよ。
この写真がこんな幸せそうな写真になったのは、
撮られてる私達が幸せだからってだけじゃなくてさ……、
きっとさ、撮ってくれた人も幸せだったからだと思うんだ」


「純……」


「いや、純ちゃんだけじゃないな。
周りに居た皆も楽しかったから、幸せだったから、こんな写真が撮れたんだよ。
私は……、そう思う」


「憂……、和先輩……」


呟きながら、また梓の瞳から涙が溢れ始めた。
だけど、きっとその涙は今までとは少し違ってる涙だ。
悲しさや辛さは勿論込められてる。
でも、嬉しさや喜びもきっと混じってる涙だと思う。
そう……信じたい。


「うっ、うっく……、うううううう……っ!」


ボロボロと梓の涙が流れ続ける。
止まらない涙。
止められない涙。
そして、きっと止めなくていい涙。
私は梓の頭の上に手を置いて、軽く撫でた。
思う存分、泣かせてやりたかった。


「泣いていいよ。
もっと泣いてくれ、梓。
その後でどれだけ私を怒ってくれたって構わない。
でも、私達が大好きなおまえの笑顔だけは、憶えておいてほしいよ。
これから先、その笑顔を私に向ける事が無くても、それだけは憶えておいてほしいんだ。
そのためにさ……、この先、笑顔になるためにさ……、今だけは泣いててくれ……」


伝えられた、と思った。
嘘ばかり吐いて逃げていた私がやっと伝えられた本当の想い……。
それで梓に嫌われたって構わなかった。
いや、構わなくはないけど、それでも嘘を吐き続けるよりはずっとよかった。
もう私は嘘を吐いて自分を誤魔化したくないんだから……。

不意に。
梓の涙が止まった。
あれだけ流していた涙が止まった。
一瞬、私は不安になった。
私の言葉と想いが届かなかったのか、
届ける事が出来なかったのか、そう思うと震えだしそうなくらい怖くなった。

でも、そうじゃなかったのはすぐに分かった。
梓はしゃくりあげる声をどうにか堪えながら、私に言ったんだ。


「律先輩……。
私……、これから、泣きます……。
今まで我慢してた分、泣けなかった分……、声の限りに泣こうと思います。
純や憂、和先輩の事と向き合うためにも……、私、涙が涸れるくらい泣きます。
その後で、律先輩に思いっ切り文句を言ってみせるためにも……」


「そうか……。
ああ……、泣いてくれよ、梓。
おまえの文句、覚悟しとく。覚悟して、待ってる。
だから、泣いてくれよ、思い切り」


「律先輩」


「……どうした?」


「私、これから、泣きます……。
泣きますけど……、一つだけ条件があります。
条件を……出させて下さい……」


「条件……?」


「泣いて下さい、律先輩も」


「私……も……?」


訊ねながら、私は気付いてしまった。
最後の最後、気付かない振りをしてた自分の胸の痛みに気付いてしまった。
締め付けられるみたいに、痛い。胸が、心が、痛い。
そうだ……。
これが私が自分に吐いていた最後の嘘なんだ……。
私……、泣きたかったんだ。
ずっとずっと……、泣きたかったんだ……。


「あ……ず……」


何かを言おうとしたけど、言葉にならなかった。
もう少し、一瞬でも気を抜けば、自分が泣き出してしまうって事だけはよく分かった。
不意に、梓が私の頭に手を置いた。
今までとは逆に、梓が私の頭を撫でてくれて……。
梓の方も涙を堪えながら、それでも言った。


「泣きましょうよ、律先輩も……。
ずっと我慢してた分、泣きましょう……?
泣いたってどうなるわけじゃありませんけど……、
でも、今だけは……一緒……一緒に……」


その言葉が終わるより先に、梓の瞳からまた大きな粒の涙が零れた。
我慢していた分、今までよりずっとずっと大粒の涙だった。
声を上げて、泣き出し始める。


「うわああああああああっ!」


大声で泣く梓。
何の計算も、想いもなく、ただ自分の感情のままに泣いている。
ひたすらに大声で泣いている。

梓の言う通り、泣いたってどうなるわけじゃない。
救われるわけじゃないし、元気になれるわけでもない。
そんな事は私だって分かってる。
でも、涙を堪えてたって、強くなれるわけじゃない。
泣かない事が前に進むって事でもないんだ。
だから、私も今はもう泣こうと思う……。
最後の嘘から、私と梓を解放しよう……。
もう……、嘘は終わりだ……。
溢れ出す涙を、止められない……。


「う……くっ……。
ううううううううううう……っ!
あああああああああああああっ!」


一斉に溢れ出す私の涙。
馬鹿みたいに後から後から溢れ出ては止まらない。
梓と二人で大声で涙を流して、色んな感情を吐き出す。
ロンドンの街が、私達の涙で染まっていく。

でも、それでいいんだって、私は泣きながら思った。
泣く事は弱さかもしれないけど、泣かない事も強さじゃない。
それを梓と話してやっと分かった気がしたから、私は大声で泣くんだ。
今度こそ前に進むために。
未来も過去も現在も、全てを背負って前に進むために。
もう逃げだしたりするもんかって、それだけは強く誓いながら……。
私達はいつまでもいつまでも大声で泣き続けた。




どれくらい泣いてたんだろう。
本当に涙が涸れるくらいに泣いて、私達はようやく泣き止んだ。
思う存分泣いたと思う。
泣けたと思う。
かなり朝も早い時間に外に飛び出して来たはずなのに、
気が付けば太陽はかなり高い場所で私と梓を照らしていた。
梓と二人して泣き腫らした目で、太陽を見上げてみる。

空は青かった。
太陽も眩しかった。
例え唯の夢の世界だとしても、世界はとても綺麗だった。
いや、唯の夢の中だからこそ、かもしれない。
唯はとても多くの物を大切にしている。
一番をいくつも持ってる。
きっと唯の中では、何もかもが輝いてるんだ。
辛い事、悲しい事、苦しい事、全部含めて眩しいくらいに光ってるんだろう。
思い出っていう名前の宝物として。

唯が居たから、私は高校生活が心の底から楽しかった。
あいつが傍で笑ってくれるだけで、
何もかも上手く行ってなくても、それでいいかもしれないって思えた。
だから、私達は唯を失いたくなかった。
しがみ付いてでも、唯と生きる日常を守りたかったんだと思う。
そうして起こった奇蹟が今の私達が置かれてる現状で、
それがよかったのか悪かったのかはまだ分からないし、これから皆で話し合っていくべき事だろう。


「すっごく泣いちゃいましたね……」


まだ目の端を少し濡らしながら、不意に梓が軽く微笑んだ。
散々泣いてしまった自分を少し恥ずかしく思ってるんだろう。
頬をちょっとだけ赤く染めていた。
でも、それを言うなら私だって同じ立場だった。
私も少しだけ恥ずかしさを感じながら、小さく笑ってみせる。


「そうだな……。
すっげー泣いちゃたよな……」


言って、梓と瞳を合わせて、また二人で笑う。
恥ずかしさは確かにある。
悲しさや辛さが全部無くなったわけでもない。
それでも、ひどくすっきりした気分なのは確かだった。
私も、多分、梓も。

私達はずっと自分の心に嘘を吐いていた。
和達の事を忘れて、思い出を捨てて、
未来だけ見なきゃいけないって自分に言い聞かせてた。
そうしなきゃ、この世界で生きてく事なんて出来ない。
それこそが自分達に出来る唯一の事だと思ってた。思い込もうとしてた。
でも、それは違ったんだな、って今は思う。
結局、私達は怖かったんだ。
和達の事を思い出すのが、怖かったんだ。
皆の安全を考えるためとは言え、私と梓は和達の事を見捨てた。
私達はそれを思い出したくなかったんだ。
だから、和達の事自体を忘れようとしちゃってたんだと思う。

だけど、そうした所で自分の中の罪悪感から目を逸らせるわけじゃなかった。
何としても和達を忘れようとしない唯達の姿を見て、動揺して、
自分の選択肢を疑って、自分と同じ道を選んだ唯一の仲間に頼る事しか出来なくなった。
だからこそ、私は風呂場の中で梓を求めようとした。
だからこそ、梓は慕っている唯じゃなくて私と自分の手首を結んだんだ。
同じ道を選んだ相手だから、自分を認めてくれるんじゃないかって下心を持って……。

酷い話だと思う。
その方が和達を見捨てた事よりも、和達に対してずっとずっと酷い仕打ちじゃないか。
忘れ去ってしまった方がいいなんて、そんな事が許されるはずがない。
私達が楽に生きるためには、和達の事を忘れた方がよかったんだろう。
それなら、簡単に、気楽に、幸福に生きていける。
私はそんな単純で最低な道を選ぼうとしてた。
結局、逃げようとしてただけだったんだ。

でも、もう……、逃げたくない。
自分の気持ちに嘘を吐きたくないんだ。
苦しくたって、悲しくたって、今度こそ自分の気持ちとまっすぐに向き合おうと思う。
そう思う事が出来たのは、梓も含めた皆のおかげだ。


「あっ、そういえばすみません……!
私、ずっと律先輩に馬乗りになってて……!」


急に梓がそう言って頭を下げると、私の腰の上から身体を退けた。
そのまま身を翻すみたいにして、私の右隣に腰を下ろして肩を並べた。
そういえば、ずっと梓にマウントポジションを取られたままだったな。
我ながら無茶な体勢で泣いてたもんだよ……。
でも、腰が痛くなってるわけでもなかったし、嫌な気分でもなかった。
こう言うのも変なんだけど、身体を重ねて梓の悲しみや震えを感じる事で、
私の悲しみは私だけの物じゃないんだって感じられた気がする。
皆、辛くて、悲しんでて、それでも必死に生きてるんだって。
それこそ実際に梓と肌を重ねて、キスをしたりするよりも、深く感じられたと思う。

私は隣に座る梓の頭に手を置いて、撫でながら言ってやる。


「いいよ、梓。
別に腰とかが痛くなってるわけじゃないから気にすんなって。
それより……、その……、ありがと……な」


梓に感謝したい気持ちは間違いなくあった。
でも、それをどう表現していいのか分からなくて、曖昧な言葉になってしまった。
梓に私のこの想いはちゃんと伝えられたんだろうか?
何故か心臓が鼓動するのを感じながら梓に視線を向けてみると、
梓は妙なジト目を私に向けながら、ちょっと上擦った声を出した。


「ありがとう……って、私、感謝される覚えはないんですけど……。
ま、まさか律先輩、全身を圧迫されて喜ぶような人だったんですか?
趣味は人それぞれですからいいと思いますけど……、
でも、私にはちょっとそういう趣味は無くて……、ぷっ」


「何の話をしてるんだ、中野ー!」


鼻で笑われてしまった私はつい反射的に梓の首に手を回していた。
私の得意技のチョークスリーパーの体勢だ。
よし、このまま締め上げて……。


「痛っ!」


瞬間、梓から苦痛の声が漏れた。
チョークスリーパーに苦しんでるわけじゃなくて、
私の腕が梓の身体に触れた事自体に痛みを感じているような声だった。
しまった、と私は後悔した。
久々に反射的にやっちゃってたけど、そう言えば梓は……。


「悪い、梓!
おまえ、まだ日焼けが……」


言いながら、私は梓の首に回した腕を慌てて放そうとする。
でも、私の腕は梓の手のひらに柔らかく掴まれた。
放さなくてもいいって事なんだろうか?
私は自分の胸が何故か高鳴るのを感じながら、梓に訊ねてみる。


「……いいのか?
日焼け……、まだ痛いんだろ……?」


その私の言葉を聞いても、梓はしばらく何も言わなかった。
目を瞑って、少しだけ微笑んでいるみたいだった。
十秒くらい経っただろうか。
梓は目を瞑ったままで静かに口を開いた。


「いいんですよ、律先輩。
確かにまだ痛いんですけど……、それでもいいかもって思うんです。
私、今、律先輩に触られてる所がヒリヒリ痛いです。
でも、その分、律先輩の存在を感じられるんです。
私、それが何だか嬉しくて……」


「嬉しい……?」


「はい、嬉しいんです。
私、思うんですよ。それは身体だけじゃなくて、心の痛みもそうなんじゃないかって。
純達、お父さん、お母さん、わかばガールズの皆……、皆の事を思い出すと胸が痛いです。
また泣き出したくなるくらい、とても胸が痛くなります。
今まではその痛さが怖いだけでした。
でも……、律先輩に色んな事を教えて頂けて、思ったんです。
この胸の痛みも、辛さも悲しさも、まだ私の心の中に皆が残ってくれてるって証拠なんだって。
皆が傍に居てくれてるって事なんだって。
ですから……」


そう言って、梓が私の腕の中で微笑む。
清々しいくらいの笑顔。
それは無理をしているわけでも、強がってるわけでもない、心の底からの笑顔に見えた。
痛みも、苦しみも、心の中に皆が残ってる証拠……か。
その考えが正しいかどうかは、私にもはっきりとは言えない。
だけど、痛みから目を逸らして生きるよりは、ずっといい事のような気がした。

腕の中の梓と至近距離で視線が合う。
流石に気障過ぎたと思ったのか、梓がまた頬を赤く染めた。
一つ咳払いをすると、普段通り、
でも、凄く久し振りに生意気な口調になった。


「大体、律先輩は普段大雑把なのに、妙な所で気を遣い過ぎなんですよ!」


「えー、何だよ、いきなりー!」


「思い出してみて下さいよ、律先輩。
私が日焼けしてから、律先輩、私にどれくらいくっ付きました?
私にプロレス技を掛けなくなって、どれくらい経つと思ってるんです?」


「いや……、えっと……、どれくらいだったっけ……?」


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最終更新:2012年07月10日 21:46