◎
転調。
『天使にふれたよ!』を演奏し終わった瞬間、
誰からというわけでもなく、全員が同時に一つの曲を演奏し始めていた。
示し合わせたわけじゃないし、その予兆があったわけでもない。
ただ皆が皆、その曲を演奏したいって考えてたんだと思う。
届けたかったんだ。
私達の演奏を。
私達の想いを。
私達だけじゃなく、元の世界に居るはずの皆にも。
皆で同時に演奏を始めたのは『U&I』。
唯が風邪で寝込んでいた憂ちゃんに向けて作詞した曲。
大切な妹に贈る、唯の想いを歌に込めた曲だ。
自分で作詞しただけあって、相当な思い入れがあるんだろう。
とても真剣な表情で、唯がギターを弾きながら大きな声で歌い始めていた。
いい曲、いい歌声だと思った。
だけど、憂ちゃんにはちょっと悪いけど、
私は憂ちゃんのためだけに『U&I』を演奏してるわけじゃなかった。
憂ちゃんに対する想いも勿論込められてる。
でも、それだけじゃない。
和に、純ちゃんに、聡に、家族に、さわちゃんに……。
多くの人への想いを込めて、精一杯に演奏する。
『私』から多くの大切な『君』に向けて、想いをドラムに叩き付ける。
傍に居るのが当たり前だと思っていた皆に向けて、
今まで傍に居てくれた感謝を込めて、
もう一度再会するって決心を込めて、皆の想いを込めて演奏し続ける。
気が付けば、唯の瞳から涙が流れていた。
でも、その歌声は止まらない。
唯の想いは涙に負けない。
涙なんかに言葉や願いを止めさせない。
強い想いを込めて、唯は涙を流しながらも歌い続ける。
いつの間にか私も顔に熱い物が流れてる事に気付いていた。
とめどなく流れる熱い涙が私の涙腺から溢れ出す。
私だけじゃない。
隣に居るムギも泣いていたし、その背中を見ただけで澪や梓が涙を流してる事が分かった。
それでも、皆、演奏を止めない。止めてやらない。
涙なんかに私達の想いを邪魔させるわけにはいかないんだ。
不意にムギが震える声で歌声を唯の歌声を重ね始めた。
二人の声が響き、重なり、決心を強くしていく。
必ず元の世界に戻って、今の気持ちを皆に伝えてみせるんだって。
今は遠い世界に居たって、必ず再会してみせるんだって。
そう誓う。
曲も中盤に差し掛かった頃、澪が唯の使うスタンドマイクに顔を寄せた。
二人で顔を並べて、一つのマイクに想いをぶつける。
泣き虫な澪、泣き虫な唯が、涙に負けずに歌う。
歌う。
想いを言葉に変え、世界に響かせる。
世界に、自分に、皆に、想いを届けてみせるために。
最後に私と梓が三人の歌声に声を重ねていた。
メインボーカルを務めた事が無い私達だ。
正直言って、曲の完成度を下げる行為のような気がしないでもなかった。
でも、歌わずにはいられなかったし、
唯達は涙を流しながらも笑顔で私達の歌声を迎えてくれた。
そういう事を許してくれる仲間達が居て、本当に嬉しくて、また涙が溢れた。
だけど、当然、歌声を止める事はしない。
下手糞でぐしゃぐしゃな歌声をこの夢の世界に刻み付ける。
五人の歌声が重なる。
バラバラで、音程もずれてて、鳴き声混じりの酷い歌で……。
本当に笑っちゃうくらい酷い演奏だったけど……。
でも、歌詞だけは間違えなかったし、
五人の強い想いは真実で、酷い出来ながら旋律としては決して悪くなかった。
最低だけど、最高の音楽になっていったと思う。
これが私達の想いと決意。
これまで私達を支えてくれた人に向けた、想いの結晶なんだ。
皆、ありがとう……!
軽音部の皆も、元の世界に居るはずの皆も、
私達が一緒に居られたのは、当たり前のようで当たり前じゃない奇蹟だったんだ。
ありふれているけれど、決して無駄にしちゃいけない奇蹟だったんだ。
だから、私と……、皆と傍に居てくれた全ての人にありがとう……!
私達、唯を連れて戻るから……、
どんなに辛い事が待っていたとしても、皆が居る世界に戻るから……!
勿論、それはまだずっと先の事だろう。
唯を元の世界で目覚めさせる方法の糸口すら掴めてない。
そんな事が出来るのかって事すら分かってない。
でも、いつかは必ず戻る。戻ってみせるから……!
だからこそ、せめて今は願うんだ。
当たり前じゃない当たり前をくれた全ての人への感謝の気持ち……。
他の誰でもなく、私達が今抱えている皆への想いを……。
この気持ちはずっとずっと忘れない。
だから……!
想いよ、
届け……!
◎
演奏が終わる。
音楽の余波が夢のロンドンに溶け込んでいく。
心が、反響する。
皆して涙を拭い、少し太陽が傾き始めた空を見上げる。
空は綺麗で輝いていた。
唯の夢の中の空で、本当の空とは違ってるんだろうけど、
凄く綺麗で、輝いていて、何だか嬉しくなってくるくらいだった。
多分、この空は唯が世界をこんなに綺麗な物だって思ってるって事だから。
辛い事があっても、苦しい事があっても、
今、元の世界の自分が病院のベッドで眠り続けてても、唯は世界を綺麗だと思ってるんだ。
多くの物を、何もかも全部を一番にしちゃう困った奴だから、
そんな厄介で無茶苦茶で素敵な奴だから、私達は嬉しくなっちゃうんだ。
「想い……、皆に届いたかなあ……」
唯が目尻の涙を拭いながら呟く。
きっと憂ちゃんや和や純ちゃん……、それだけじゃなくて、
元の世界の唯と関わりのある全ての人の事について考えてるんだろう。
大切な人達、大切な世界の事について、考えてるんはずだ。
私達の演奏、私達の歌、届けたい思い……。
それらがさっきの演奏で元の世界の皆に届けられていたら、どんなに素敵だろう。
私は少しだけ苦笑して、唯の独り言みたいな呟きに応えてやった。
「馬ー鹿。届いてるわけないだろ、唯」
「ええー……。それ言っちゃ台無しだよ、りっちゃん……」
恨めし気な視線を私に向けて、唯が頬を膨らませる。
確かに台無しだったかもしれないけど、私達はこんな所で立ち止まってるわけにはいかないんだ。
唯もそれは分かってたみたいで、すぐに軽く微笑み直した。
私はドラムの椅子から立ち上がり、唯の傍に近付いてからその首に腕を回してやる。
「私だってさ、この歌が元の世界の皆に届いたらいいなって思ってるんだぞ?
でもさ、そんな一方的に押し付けちゃっても、元の世界の憂ちゃん達に迷惑だよ。
私達は憂ちゃん達が居ない場所で勝手に歌っただけなんだからな。
そんな歌が憂ちゃん達に届くわけないだろ?
例えるなら、寝てる時に見る夢の中で会った知り合いに、
「この前、夢の中で君と会ったけど、あの夢面白かったよね」って、現実で訊ねるみたいなもんだよ。
そんな事言われたって、どんな反応しろってんだよ……。
確か小学生の頃にそういう事訊いて来た同級生が居た気がするが……。
とにかく、こんな五人だけで演奏した曲を誰かに届かせようってのは、無茶な話だよ」
「うーん……。
それを言われちゃうと弱いなあ……」
私の腕の中で私に視線を向けながら、唯が苦笑する。
唯だって分かってるんだ。
夢の中で演奏したって、届けたい想いを皆に届けられるはずがないって。
そんなの当たり前だ。妙な期待をしたって、遠い所に居る人に想いなんて届くはずがないんだ。
分かり切った事だ。私も唯も澪もムギも梓もそんな事は分かり切ってる。
「ですけど……、だからこそ……」
梓が私達に近寄りながら力強く言った。
心の底からそう思ってる……。
そう感じさせられる強い気持ちのこもった言葉だった。
「元の世界で届けなきゃいけないんですよね、私達の演奏を。
憂に、純に、和先輩に、届けたい皆の前で、直接。
今度こそ私達の想いを届けるために。
今の想いを絶対に忘れずに……」
言った後、気障過ぎたと思ったのか、梓が頬を赤く染めて笑った。
確かに気障だけど、それでよかったし、梓の言ってる事は間違ってなかった。
私達はこの想いを届けなきゃいけない。
この夢の世界じゃなくて、元の世界で。
想いを、届かせるんだ、今度こそ。
そのためにも、私達は唯と一緒に元の世界に戻るんだ。
でも、それはまだずっと先の話だと思うから……、だから……。
「忘れちゃ……いけないんだよな」
澪が梓の言葉を継ぐみたいに口を開いた。
その澪の表情は柔らかい笑顔だった。
ずっと弱かったはずの澪が、もう私達の中心で皆を支えてくれている。
ちょっと寂しくはあるけど、凄く嬉しい事でもあった。
皆、変わっていくんだ。
現実の世界でも、この夢の中の世界でも、少しずつ確実に変わっていく。
その変化を少しでもいい方向に向けられたら、私も嬉しい。
多分、澪はこの世界でいい方向に変われたんだろう。
私も澪みたいにいい方向に変わっていかなきゃな……。
そのためにも、私は皆と話しておかなきゃいけない事がある。
そう強く思った。
私の考えに気付いたのか、澪が私と視線を合わせてから静かに頷いた。
こいつは妙な所で私の考えを感じ取っちゃう事があるんだよな。
きっと私の小さな決心を認めてくれたんだろう。
私がその話を切り出しやすいように澪が話を変えてくれる。
「私も元の世界に戻るために、精一杯考えるよ。
今更言うのも変なんだけど、この世界が本当に夢の世界なのかどうか確信は持ててないんだよな。
あくまでその可能性が高いってだけだからさ……。
だから、私、この世界についてもっと調べて、元の世界に戻る方法を考える。
もしこの世界が本当に唯のサヴァン能力の発現だったら、
その制御方法についても唯と一緒に探して行こうと思うんだ。
だからさ……、元の世界に戻れる日まで、私、忘れないよ。
皆でこうして演奏した事、あんまりいい出来じゃなかったけど演奏出来た事、
和達や元の世界の皆に届けたかった想いの事……、絶対に忘れない。
想いを届かせたいって事だけは、忘れないよ、ずっと……」
結局の話、私達に出来る事はそれだけなんだろうな、って私は思った。
この世界に永遠は無い。
約束で相手を縛る事も出来ない。
大切な人と傍に居続ける事が正しいわけでもない。
誰かを縛り付ける事だけは絶対にしちゃいけない。
そんな中で私達に出来る事は、想いを心の中にずっと持ち続ける事だけだ。
皆の事を憶えていて、また会いたい、想いを届けたい、って強く思い続ける事だけなんだ。
言うほど簡単な事じゃないのはよく分かってる。
卒業から四ヶ月、梓とたったそれだけの時間離れていただけで、私は不安で仕方が無かった。
絆を信じようとしながらも信じ切れなくて、
多分、それもきっかけとして、私達はこの世界に迷い込んだ。
強がりながらも弱い私の事だ。これからも何度も不安になるだろうな。
でも、この世界にずっと居て、こんな私にもやっと一つだけ分かった事がある。
想いを強制て心を縛って繋いだって安心出来なかったし、全然嬉しくなかった。
皆が傍に居るのに、寂しくて辛かった。
もうそんな気持ちにさせちゃいけないんだ、私自身も、皆も。
だから、その想いだけは胸に抱いて、これから前に進んで行こうと思う。
あの一陣の風が吹いたって、その想いだけは絶対に……。
「あの風……、結局何だったのかな……?」
不意にムギが首を傾げながら呟いた。
これまでみたいに風を怖がってるって感じじゃなくて、純粋に疑問に思ってるだけみたいだった。
言われてみれば、私としてもそれは大いに疑問だった。
この世界が唯の夢だとしたら、あの風自体には何の意味も無い事になる。
大体、あの一陣の風が吹いた時には唯は元気だったはずだし……。
私と梓がムギに続いて首を捻ってみると、澪がその疑問に応じてくれた。
「あの風は多分、初期設定ってやつなんじゃないかな」
「初期設定?」
私が訊ねると、澪は大きく頷いた。
一息吸ってから、少し自信無い様子で続ける。
「これもこの世界が唯の夢だったらって前提の話なんだけどさ、
あの夏休みの日にさ、とても強い風が吹いたのは皆憶えてるだろ?
それくらい印象に残る強い風だったんだよ、私にとっても、唯にとっても。
でも、それは単なる強い風だった。
私達をこの世界に連れてくる原因の風ってわけじゃない、単なる印象深い風だったんだ。
その後、何が原因かは分からないけど、私達は大怪我をする事になった。
それで唯が私達をサヴァン能力で自分の夢の中に引き込む事になったわけだけど、
唯はそのきっかけとなる現象をあの風っていう設定にしたんじゃないかって思うんだ。
病院にお見舞いに来てた私達が、何の前触れも無く唯の夢に入り込むなんて不自然過ぎるだろ?
いや、まあ、突然人が消えちゃう事自体が不自然って言われたら、その通りなんだけど……。
でも、少なくとも、病院で前触れも無く人が消えちゃうよりは、
私達がライブ当日に待ち合わせをしてた時に、謎の強い風が吹いて人が消えたって方が自然だろ?
少なくとも唯はそう考えたんだと思う。
『強い風が吹いて生き物の姿が消えてしまった世界』。
それがこの唯の夢の初期設定だったんだよ」
「なるほどな……。
私達がこの夢の世界に適応しやすいように、
その設定を私達の記憶に植え込んでたわけか。
澪の言う通り、病室でいきなり生き物が消えちゃうより、
強い風のせいで生き物が消えたって話の方が少しは自然だもんな。
それで、その時間設定がライブの後じゃなくて、ライブ前だったのはきっと……」
私はそれ以上の事は言わなかった。
言わなくたって、私も唯も皆も分かってた。
わかばガールズとのライブの成否は私もまだ思い出せてないけど、
とにかく唯はもう一度私達とライブをやりたかったんだろうって事は。
私だって唯ともう一度ライブをしたかったし、
今ライブをやってやれたわけだけど、やっぱり少し違っている気がしていた。
ライブをやるなら、私達が揃うなら、それは元の世界で。
どんなに辛い事が待ってたって、私達は現実の世界で歩いていきたいんだ。
梓との事を考えるのも、元の世界の方がお互いにいいと思うしな。
私は唯の首に回していた腕を放して、レジャーシートの中央に立った。
一つ深呼吸をして、皆と一度ずつ瞳を合わせる。
澪の凛々しい瞳。
唯の照れたような瞳。
ムギのまっすぐな瞳。
梓の何処か潤んだ瞳。
全員の瞳を目に、脳に、胸に、心に焼き付ける。
忘れない……、どんな事があっても……。
私は拳を握り締めると、皆に向けて宣言するように言ってみせた。
「なあ、皆。
私さ……、皆に聞いてほしい事があるんだ。
この世界やあの風の正体は今の所は澪の考え通りの物でいいって私は思う。
元の世界に戻る方法もこれから皆で探したい。
でも、私、思うんだよ。
多分……、いや、きっと、元の世界に戻る前にあの風が……」
瞬間。
私の言葉が止まった。
風が。
強い風が吹いたからだ。
ひどく強い、目も開けてられないくらいの強い一陣の風。
私も含め、皆が一陣の風に体勢を崩される。
それでも、目だけは閉じない。
見開いていてやる。
もう目を閉じる事は……、
目を逸らす事はしてやらない。
一陣の風は数秒吹いていただろうか。
気が付けば、私の瞳はこれまで目にしていた風景とは全く違う物を捉えていた。
風以外に何の前触れも無かった。
まるで映画の場面転換みたいに、私は……、
私達はロンドンとは全く違う場所に転移させられていた。
転移させられた場所には今回も見覚えがあった。
日本風の建物が周囲に見える長い橋の中央。
ここは確か……。
修学旅行、猿山を見に行く前に通った京都……?
いや、京都だ。
私はまた一陣の風に弄ばれ、
予想もしていなかった場所に転移させられてしまったんだ。
覚悟はしていた事だったけど、
胸に強い不安を感じた私は急いで周囲を見渡した。
四人の姿はすぐに見つかった。
当たり前だ。
すぐ傍に居るんだ、探すまでもない。
だけど、皆、動揺を隠し切れてなかった。
分かってはいた事なんだろうけど、頭で分かる事と心で分かる事とは全然違う。
私だって自分自身が胸の鼓動で息苦しくなるのを感じていた。
やっぱり、そうだ。
一陣の風は止まらない。
唯の意思とは関係なく、これからも無作為に無規則に吹き荒れる。
いつかは必ず私達を引き裂く。
あの風には、きっと抵抗しても無駄なんだろう。
あの風の前では私達は単なる無力な存在でしかない……。
と。
唯がその場に両膝を着いて崩れ落ちた。
両手を着いて、一陣の風の余波のある京都の空に視線を向ける。
最終更新:2012年07月10日 22:07