唯「ねえ憂、やっぱりお引越ししない?」
お姉ちゃんは今夜もまた、そんな風に言った。
お茶碗を左手に、わたしの作った晩ご飯を口もとに留めて、困ったような笑顔をしている。
憂「わたしもしたいけど、お引越しするお金がないでしょ?」
唯「うんうん……そうなんだけどさ」
止めていた箸を動かして、野菜炒めを口に入れる。
せわしく動く口から、おいしいという言葉は漏れない。
かわりにお米を噛んで、
それも飲みこんでしまってからお姉ちゃんは口を開いた。
唯「じゃあ、お金が入ったらお引っ越しする?」
憂「……でも、繰り返してばかりでもいいことないと思うよ」
私たち二人がまた一緒に暮らすようになってから、もう引っ越しは四度もしている。
そのたびにもちろんお金はかかるし、転居の手続きに追われてしまう。
今住んでいるマンションも大体は無関心だけれど、
ふたり厄介なおばさんコンビがいて、限界かなと思っていた。
その矢先のお姉ちゃんの提案。
私は頷きたかったけれど、現実的な問題が阻みすぎる。
憂「このままここで暮らそう? せめて1年はもたないと」
唯「うーん……」
憂「会社でなにかあったの?」
お姉ちゃんが引っ越しを言い出すときには、いつも会社の仲間や友達に、
結婚をしないのかとか、この歳で姉妹で暮らしているなんて変だとか言われた時。
そうして私も同じことを言われていないかと不安に駆られて、
毎晩帰ってきては引っ越しをしよう引っ越しをしようと繰り返す。
唯「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
憂「じゃあどうしてなの?」
唯「……なんとなく、ね」
こんな風にごまかすのも、いつものこと。
分かっているから、私も追求しないで食事の続きをする。
唯「……へへっ」
お姉ちゃんが、少し悲しそうに笑う。
どうしてそんな顔で笑ったのかはわからなかったけれど、
きっと私が原因なんだろうな、とは思った。
わたしたちは、姉妹ふたりで暮らしている。
そしてほんとうは、引き出しにしまいこんだおそろいの指輪のように
とてもとても小さな輪の中で、結婚をしている。
私たちの結婚は、ごく少数の人達にしか伝えていない。
片手で数えられるほどしかいない、信頼できる人達だけだ。
まずは純ちゃん。
お姉ちゃんに恋してしまったことを初めて相談した相手だ。
おのずと経過は知れてしまうし、もちろん私からきちんと話した。
次に澪さん。
お姉ちゃんが第二に信頼を置く人で、
「律は口が軽いから伝えるな」と忠告してくれたのも澪さんだ。
それが正しいかどうかは分からないけれど、その言葉を信じて律さんには内緒でいる。
紬さんと梓ちゃんも、お姉ちゃんと私の信頼に応えてくれている。
そして最後に、和ちゃん。
厳しいだけじゃなくて優しい人だから、
わたしたちのことを分かってもらえるか不安で、結局伝えるのが最後になってしまった。
和ちゃんは私たちの関係について一通り聞くと、ため息を吐いた。
和「それを聞いて、私はなんて言ったらいいの?」
私たちの家の窓から夕暮れにそまった空を見て、
和ちゃんはそこに雲を浮かべるようにつぶやいた。
唯「……和ちゃんが思ったことを言っていいよ」
どんなことを言われるだろう。
気持ち悪いと言われてしまうのかもしれない。
十年の付き合いがあっても、和ちゃんが思うことは変わらないだろうと思った。
お姉ちゃんも萎縮しながら、手指を置き直して言った。
和「そうね……」
和ちゃんは眼鏡に軽く触れて、また私たちのほうを向いた。
どうしてそんなに考えたりするんだろう。
優しい言葉を選ばなくたっていい。
できれば、知ってる誰かに、初めて現実を投げつけられたいと思った。
和「……そういえば、ひとつ不安なんだけど」
唯「な、なに和ちゃん?」
和「ふたりが付き合っても、私とは今まで通り友達でいてくれるわよね?」
私は思わず顔を上げた。
へたをすれば私たち以上に不安そうな顔をした和ちゃんと目が合って、
わたしとお姉ちゃんは同時に吹きだしてしまった。
和「なにがおかしいのよ……」
憂「だって和ちゃん、あははっ」
和ちゃんは、私たち姉妹のことよりも先に、
和ちゃんも入れた私たち三人のことを一番に気にしていた。
そのことが和ちゃんらしくなくて、おかしくて、うれしくて、
それほど和ちゃんは私たちのことを想ってくれているんだと感じた。
唯「和ちゃーん!」
憂「和ちゃんっ!」
和「ちょっ……」
和ちゃんに抱きついたのは私のほうが早かった。
お姉ちゃんが背中から私を抱いていたから。
そのことに何だか奇妙な感覚をおぼえながら、私はじんわり涙が出てくるのをおさえられなかった。
唯「てーい!」
和「はうっ……もう、ほんとにあなたたちは」
私とお姉ちゃんで力を合わせて和ちゃんを床に押しつぶした。
これはもう六年も前のことだけれど、和ちゃんとの関係は今も変わらない。
――――
私がお皿洗いをしている間に、お姉ちゃんがお風呂に入る。
そのあとに私がお風呂に入る。
ここでお姉ちゃんが汗と疲れを落としたんだなって思いながら、
ここで私も一緒に汗と疲れを落とせることを嬉しく思いながら。
そうして綺麗になってからお風呂を上がって体を拭いて部屋に戻ると、
お姉ちゃんが薄着のままお酒を飲んでいる。
ほとんど毎日のことだ。
酎ハイだったりカクテルだったり、お姉ちゃんは缶をグラスにあけて飲む。
唯「お、憂。飲む?」
こういうとき、お姉ちゃんのグラスの横に氷を入れたグラスが置かれている場合もある。
これも、ほとんど毎日のことだ。
憂「もらおうかな」
パジャマを羽織る。
前を留めるのだけど、普通に留めるよりひとつ下のボタンまでしか留めない。
これが、オッケーのサインだ。
お姉ちゃんの横に座り、グラスに私の好きなオレンジの酎ハイを注いでもらった。
その間に、お姉ちゃんがちらりと胸元を見る。
唯「ふふ、では乾杯」
憂「乾杯」
にこりと笑ったお姉ちゃんと、グラスをぶつける。
笑ったほっぺたが赤くなっている。
お姉ちゃんは既に少し酔っているみたいだ。
唯「ふぁ。ぷはー」
グラスの半分ほど一気に飲んで、お姉ちゃんは息を天井に向けて吐く。
外だったらこういうふうには振舞わない。
私だけに見せる、お姉ちゃんの無防備な飲みっぷり。
だらしないかもしれないけれど、これがもとでお姉ちゃんを嫌いになるなんてことはありえない。
私は、こんなお姉ちゃんを好きになったんだから。
わたしも酎ハイを飲んでいく。
お姉ちゃんの方に余裕があれば、このまましばらく飲んで談笑する。
でもなければ、だいたいは一缶飲み終わればすぐお姉ちゃんがくちびるにすがりつく。
お姉ちゃんが特に切羽詰まっていると、
お風呂から上がった途端にお酒を口移しされて、そのまま居間でことを始めてしまう。
今日は余裕があるみたいで、
お姉ちゃんは私が軽く酔いを感じ始めてもまだ飛びついてこなかった。
憂「はあー。まわってきたー」
卓にあごを乗っけてへたれる。
お姉ちゃんの手が私の後ろ頭をわしゃわしゃ撫でる。
大学に入って、お姉ちゃんとまた一緒に住むようになったときから、
髪をポニーテールにするのはやめた。
むすんでいない髪をお姉ちゃんに掻き撫でられ、ほぐされるのがとても心地よいからだ。
唯「うーいー」
お姉ちゃんが一緒になって卓にあごを乗せて、頬をすり寄せた。
熱い皮膚の温度。速く感じる呼吸。
ふらついた声は、私の胸もゆさぶるようだった。
唯「ねえ、憂。もしさぁ……」
憂「うん?」
寄り添った体温にぼんやりしながら、お姉ちゃんに返事をする。
このまま眠っても気持ちいいけれど、
ボタンを開けている以上、激しい愛撫で起こされるに違いない。
甘ったるい気持ちで、そんなことを思っていた。
唯「もし、わたしたちのどっちかが男の子だったら、どうしてたのかなあ?」
お姉ちゃんの声はアルコールのせいで揺れていた。
けれど真芯があって、そこだけは真剣味を帯びている。
憂「……お姉ちゃん、お酒足りてないんじゃない?」
私は体を起こすと、グラスを掴んだ手を口元に運んだ。
半分ほど残っていた酎ハイを口に流し込むと、少しだけ飲みこんだ。
憂「ん」
唯「……へへ、ごめん」
お姉ちゃんは笑いながら起き上がると、
私の目をじっと見つめ、それから目を閉じ、くちびるを近づけてきた。
私もじわりと歩み寄って、くちびるを合わせる。
力の抜けた柔らかいキスだった。
お姉ちゃんの首に抱き着くよう腕を回しながら、舌を押し込んでいく。
唯「んっ……」
小さな声を漏らすとともに、お姉ちゃんがわたしの舌を吸いはじめる。
舌を橋にして、酎ハイがお姉ちゃんの口に渡っていく。
おいしいかな。
喉の動く音がして、また舌が吸われる。
今度はだんだん舌が渇いていった。
酎ハイはもうみんな飲ませきってしまった。
唯「んむ」
お姉ちゃんもそれを感じ取ったのか、くちびるを一旦離した。
かといってキスをやめるつもりもないみたいで、顔はずっと私を見つめたままだ。
あまり濃くないけれど、アルコールの匂いのする息は、
お姉ちゃんの瞳の色と同じで、熱くて湿っぽく感じた。
唯「憂……お姉ちゃんのこと、犯して」
熱い熱い体をくっつけ、至近距離から私を見つめて、
お姉ちゃんはそう懇願するように言った。
憂「……わかった」
普段はお姉ちゃんが私の身体をさわってばかりいるけれど、
ごくたまに、お姉ちゃんが私に行為を求める場合もある。
そういう時は、私も慣れないなりに精いっぱいお姉ちゃんを気持ち良くする。
そのくらいしかできないのだから。
座卓から引きずり出すようにお姉ちゃんの身体を強く抱きしめる。
くちびるを重ねて舌を忍ばすと、お姉ちゃんが高い声でかすかに鳴いた。
最終更新:2012年08月23日 00:25