翌朝、お姉ちゃんの髪をとかして送り出す。
このあたりはずっと変わらない。
お姉ちゃんも、大学一年生のとき一人暮らしをして、自分のことは自分でできるようになったけれど、
私に任せる方が楽だし、落ちつくらしい。
お弁当だって私が作るし、朝は私が起こす。
エッチをしてお姉ちゃんの気持ちがやわらぐなら、何度だってする。
私にできることはなんだってする。
お姉ちゃんに身も心もささげて、全部の労力をお姉ちゃんのためにつかう。
唯「そじゃ、いってきまーす」
それはお姉ちゃんも同じだ。
お姉ちゃんを笑顔にするために私が頑張るように、
お姉ちゃんも私を笑顔にするために頑張ってくれる。
憂「いってらっしゃい、お姉ちゃん」
そして今日も私たちは笑顔のまま、玄関を境界にして離れた。
憂「……さて」
子供のいない私たちには、もう掃除と買い物ぐらいしかすることがない。
昼まで時間をかけて、丁寧にお掃除をすることにした。
大まかな掃除を済ませ、細かい掃除に移る。
掃除機をかけただけでは取りきれない塵は、ぞうきんで拭きとる。
そのための雑巾を、ぎゅっと絞っているときのことだった。
インターフォンが、突然の来客を告げた。
憂「……」
こんな朝から、誰が来るとも聞いていない。
スリッパを脱ぎ、足音を消してそっとドアの覗き窓に近づく。
鍵はかけているから、いきなり開けられる心配はないはずだ。
床の鳴る音が、外に聞こえていないだろうか。
心臓が血液を送る音が焦りと不安を生む。
息を止めて、小さな穴を覗きこんだ。
唯「ういっ、開けて」
そこには何故か、お姉ちゃんがいた。
仕事に行ったときの格好のまま、少し髪は乱れたふうだけれど。
唯「いるでしょ憂、早く開けてよ!」
憂「あっ、うん」
考えることはあったけれど、まずはお姉ちゃんを家に入れるのが先だった。
左手で鍵を開けると、すぐさまドアが開かれた。
唯「ははっ」
変なリズムで息を吐きながら、お姉ちゃんが押し入る。
右手には、丸めた新聞が握られていた。
憂「お姉ちゃん、仕事は?」
唯「いーの、そんなの」
にやにやと悪そうな笑顔で、お姉ちゃんは新聞を広げ始めた。
が、急に覗き窓を睨むと、ヒールを脱いで居間に歩いていく。
憂「お姉ちゃん?」
ついていくと、座卓に新聞が広げられて、その上に小さな紙封筒も置かれていた。
唯「ここだよ、憂」
お姉ちゃんが指差した新聞の箇所を見ると、
そこにはなにやら数字が太字でたくさん並んでいた。
憂「芳文社KR宝くじ……当籤番号」
唯「確かめてみて」
お姉ちゃんが紙封筒から10枚のくじを出して、見えるように並べてくれた。
こんなの、いつの間に買ったんだろう。
聞いた覚えはない。けれど、今はそれよりも。
憂「26組165542……」
ざっと見渡す。
9等すら外れていた。
憂「39組248313……」
組番号から違う。
すぐ次に目を移した。
憂「16組484291……」
違う。次も違う。
焦燥が耳の奥でドクドクと鳴る。
不安ではなく、期待が指を速めた。
そして、次の宝くじを手にする。
37組913869番。
ふとお姉ちゃんの視線を感じて、顔を上げる。
うれしさをこらえきれないような、満面の笑顔。
憂「……」
こめかみに垂れた汗を拭い、当籤番号と比べる。
1等、2億円は……さすがに違った。
前後賞ももちろん違う。
次に、2等。
2等の当籤番号は、37組913869番。
憂「……あれ?」
もう一度、宝くじを見直す。
書かれたナンバーは、37組913869番。
憂「9138……69」
紛らわしいところも、きちんと合っている。
声に出しても確認して、二度、目でまた確認する。
2等の当籤金額は、1億円。
唯「どう、憂?」
憂「……えっと、ゆ、夢じゃないよね」
唯「わたしだって夢かと思ったけど……違うってわかるでしょ?」
わかる。
空気に含まれる現実性が、明らかに夢とは違う。
憂「夢じゃないんだ……」
唯「当たったんだよ、憂。1億!」
お姉ちゃんが言うと、そのことが実感をともなった気がした。
憂「……ど、どうしよう」
唯「うん、どうしようかねえ」
現実に、1億円を手にした。
まず考えてしまうのは、やっぱりその使い道だ。
唯「まずは、みんなを呼んで高級焼き肉に行きたいね」
憂「旅行も行きたいな。新婚旅行も行けてないし」
唯「うんうん。……まだ100万いかないかなっ」
憂「すごいねぇ、1億円ってどう使ったらいいんだろう」
ふわふわ浮いた気持ちだった。
現実なのに、現実のことを何もかも忘れられるような気持ち。
もしかして、1億円があれば。
唯「……ねえ憂」
お姉ちゃんが声を低くして私の耳に口を寄せる。
会社から着信がきているのか、携帯電話が震えている音がした。
唯「そしたら私、男の人の体が欲しいな」
携帯電話はしつこく唸っている。
ベランダの向こうを、通学途中の高校生が自転車で駆け抜けていく。
車輪の音が去った時、バイブレーションはもう止まっていた。
憂「……それって、その」
知っている。
なのに、名前が出てこない。出したくない。
唯「そうだよ。性転換手術、受けようと思うの」
憂「……」
耳もとで、聞きたくなかったその名前はざわついた。
性転換。
お姉ちゃんが、男の人の体になること。
唯「そしたら私が男で、憂が女の子で……お引越したら、誰の目にも夫婦に見えるようになるから」
いまの私たちは確かに結婚しているけれど、
それでも外から見れば仲のいい姉妹が同居しているにすぎない。
いつか男の人と結婚するだろうと、両親にさえ思われている。
私たちの関係を疑っているそぶりは見せるけれど、核心に踏み込まれたことはない。
それはお母さんたちの心が、私たちの関係を認めようとしていないからだ。
と、私たちは思っている。
認めてくれるなら、早く真偽を確認したくなるはずだ。
憂「でも、それでも私たちは兄妹で結婚してるってことにならない?」
唯「私たちが姉妹だったことは隠したらいいよ。遠いところに引っ越してさ……」
憂「……そっか。まだまだお金は余るもんね」
性転換手術にどれだけのお金がかかるかは分からないけれど、
1億円ぜんぶ持っていかれるほどではないと思う。
遠くの土地に小さな家を買えるくらいは残るんじゃないだろうか。
唯「だから……いい?」
お姉ちゃんが、私の目を見つめる。
憂「性転換って、さ」
所在ない手を、お姉ちゃんの肩に触れさす。
指先でお姉ちゃんの身体を撫でて、ふくらみに手を添えた。
憂「これも……」
その手を、そのままお腹の方に動かして、手のひらを当てる。
憂「これも……なくなっちゃうんだよね」
唯「……うん、そうだよ」
お姉ちゃんは真剣な目で頷く。
憂「ここだって、そうなんだよね」
スカートの上から、お姉ちゃんの性器に手をやった。
私が昨夜、指を挿れ、舌を這わせた場所。
お姉ちゃんへの気持ちをいちばん激しく伝えられる敏感な場所だ。
憂「女の子の体じゃなくなるんだよね」
唯「うん。おちんちんをつけるから……」
憂「……そこまでする必要あるかな?」
あそこなんて、普段外から見えることはない。
男の人のふりをするにしたって、公共の場で裸になることはほとんどない。
おちんちんを付けなくても、男の人になりきるのは不可能でない気がする。
唯「憂。私たちが普通に暮らすには、油断しちゃいけないんだよ?」
お姉ちゃんはふとベランダのほうを見て、窓のそばにかけていくと、
レースのカーテンの上にさらに厚手のカーテンを閉めてとじた。
部屋が薄暗くなる。
唯「誰が私たちを疑ってるか分からない。夜の声を聞いてるかもしれない」
唯「そんな時に私たちが男女の夫婦だって証明するには、これがいちばん便利なんだよ」
お姉ちゃんはまた私のほうに歩いてきた。
唯「性転換手術を受けて、戸籍の性別も変えるの」
唯「指輪だって付けて出かけられるよ。ねぇ、憂」
薄闇の中にいるお姉ちゃんの瞳は、いつもより暗く見えた。
憂「……」
これしかないんだ。
私たちが偏見を逃れる方法は、これがいちばんなんだ。
姉妹じゃなく兄妹になって、顔の似た夫婦のふりをする。
そのためにお姉ちゃんは今の身体を傷つけて、男の人の体にすげかえる。
ふりさえできなかった夫婦になれるし、疑われることもぐっと少なくなる。
憂「……じゃあ、」
言いかけた途端、私のエプロンに入っていた携帯が鳴りだした。
唯「出ていいよ」
憂「う、うん」
言い止めるきっかけができてよかったと思った。
私は携帯を取り出して画面を開く。
憂「和ちゃんだ」
唯「えっ、和ちゃん?」
急いで通話ボタンを押して、受話器を耳に当てる。
憂「もしもし、和ちゃん?」
和『憂。久しぶりね』
憂「そんなことないよ。ほんの半年ぶりぐらいじゃん」
正直、懐かしい声だと感じたけれど、それは黙っていた。
唯「和ちゃん、どうしたの?」
和『あら、唯もいるの? 仕事は?』
憂「うん、実は……ちょっと」
唯「もしかしてさっきの電話、和ちゃんだったの?」
和『ええ。よくも無視してくれたわね』
和ちゃんが電話の向こうで眼鏡を外す音がした。
唯「わざとじゃないの……許して?」
和『なにぶりっこやってるのよ。仕事はどうしたの?』
唯「んーと、それは……和ちゃん、今一人?」
いきなり理由を説明しては、和ちゃんが驚いて声を出してしまうかもしれない。
「えーっ、宝くじで1億円当たった!?」なんて大声で言われる可能性も捨てきれない。
和ちゃんはけっこうベタな人間だ。
和『ええ、家で一人よ。休診日だし』
和ちゃんが答えると、お姉ちゃんも安心したみたいだった。
唯「そしたらー……今から憂と和ちゃんの家行っていい?」
和『かまわないわよ。紅茶でも用意しておくわ』
長い話になるだろう。
和ちゃんの家に押しかけたほうが、ことの証明もしやすい。
唯「ありがと。憂もいいよね?」
憂「うん。和ちゃん、1時間くらいで着くからね」
和『ええ、待ってるわ』
憂「それじゃね」
電話を切り、お姉ちゃんの顔を見る。
唯「和ちゃんに、このこと相談してみようと思うよ」
憂「……性転換のこと?」
お姉ちゃんはこくりと頷く。
和ちゃんは、いわゆる開業医だ。
診療所はまだ3年目だけれど、それなりに繁盛していると聞く。
さすがに小さな診療所で性転換手術なんてしないだろうけど、知識はあるとみていい。
憂「そうだね。訊いてみよっか」
私も結局頷いてしまった。
体が変わったところで心が変わるわけじゃない。
お姉ちゃんはお姉ちゃんのままでいてくれるはずだ。
だったら私は、お姉ちゃんが男の人の体になってもいいと思った。
私が間違っているのだとしたら、和ちゃんがきっと止めてくれる。
そのときは私もお姉ちゃんを止めようと思った。
唯「じゃ私、化粧落としてくるよ」
憂「うん。じゃあ……着替え用意するね」
唯「ん、ありがと憂」
最終更新:2012年08月23日 00:30