和ちゃんの家は診療所の裏手にある。
 医者の住む家にしては小さめだけれど、これから稼いで増築していくと話していた。

 古い作りのインターフォンを鳴らすと、入っていいわよと声がした。

 不用心だと思いながら、玄関のドアを開けて上がらせてもらった。

和「いらっしゃい、二人とも」

 中は几帳面な和ちゃんらしくよく整頓されている。
 掃除も行き届いているみたいだ。

唯「和ちゃん髪伸びたねー」

和「そうかしら? ……まあ、そうかもしれないわね」

 昔は襟までだった髪は今は肩まで伸びている。
 和ちゃんはちょっと鬱陶しそうに、首にかかる髪を払った。

憂「いやなら切っちゃえばいいのに」

和「このほうが都合いいのよ。患者もうちを選んでくれるし、まあ男うけもね……」

唯「和ちゃん、30までにはなんとかしようね」

和「いいのよ別に……やっていけるし……」

 部屋を再度見渡すと、片付いているというよりうら寂しい感じがした。

 食事を取って寝るための家なのかもしれない。
 リラックスするための場所じゃないから、物が増えないのだ。

憂「ま、和ちゃんは結婚しなくても大丈夫だよね」

和「稼ぎは十分にあるからね。……でも心のケアが欲しいわ」

唯「さわちゃんと同じこと言ってるよ、和ちゃん」

和「……さっきの、35歳まで猶予くれないかしら」

唯「あわてなくてもいいんだってば。心のケアなら私がするよ?」

和「そうね、ありがたいわ」

 和ちゃんが小さく笑って、眼鏡を置いた。

和「それで、今日はどうしたの?」

憂「和ちゃんが電話したんじゃん」

和「そうだけど、私はただ二人の顔を見たかっただけよ」

和「うちに来たいって言ったのはあなたたちでしょう?」

 確かにそうだ。
 まだ興奮が収まっていないのかもしれない。思考が冷静じゃないと感じた。

唯「そうそう、実は大事な話があるんだ」

和「一体どうしたのよ、会社まで休んで」

 和ちゃんはティーポットから、二つのカップに紅茶を注ぐ。
 湯気が高く昇り、重なる。

 私たちは仲良く並んだカップの前に座り、
 ひと口もらってから和ちゃんの目を見た。

憂「これから言うこと、他の誰にも言わないでね?」

和「なによ。結婚の次はなに、子供でもできたっていうの?」

 和ちゃんがくすくす笑う。
 ちょっと無神経だと思った。

憂「違うよ。……お姉ちゃん、見せてあげて」

唯「うん。和ちゃん、驚いちゃだめよ」

 お姉ちゃんがバッグの奥から、大事そうに紙封筒に入れた一枚のくじ券を取り出す。
 和ちゃんが手を伸ばし、それを受け取った。

和「宝くじじゃない。大事な話ってこれ?」

唯「うん。それ、いくらに替えられると思う?」

和「……いくらって言われても。いくらなの?」

唯「これぐらいです」

 お姉ちゃんが人差し指を立てる。

和「……100万?」

唯「安い安い」

和「……じゃあ、1000万ね?」

唯「もうひと声!」

 和ちゃんの顔が引きつった。
 驚きと喜びのまじる私たちとは違って、驚きと畏怖の表情だ。

和「嘘でしょ、1億!?」

憂「嘘じゃないよ。番号調べる?」

和「……そうね。唯のことだし、見間違っててもおかしくないわ」

 和ちゃんはポケットから小さなパソコンを出して、机の上で開いた。
 立ち上げると同時に左手で眼鏡を振ってうでを伸ばし、耳に掛ける。

和「芳文社KR宝くじ、ね」

 インターネットを開き、和ちゃんはすぐに検索ワードを打ち込む。
 小型化のために設計された六列のキーボードに私はまだ慣れないけれど、
 和ちゃんのタイピングは早かった。

和「……確かに、2等1億円みたいね」

 しばらくして、諦めたように和ちゃんは言った。

唯「現実を受け入れなさい、真鍋君」

和「なんで唯はそんなに冷静なのよ……」

 まったくだ、と私は頷いた。
 特にお姉ちゃんは、これから性別を変えようなんて考えているのに、
 どうしていつも通りのお姉ちゃんでいられるんだろう。

唯「だって、浮かれてる場合じゃないからね」

 そんなことを考えていた私の頭に、お姉ちゃんの声が届く。

 そうだ。今日はそのために和ちゃんの家を訪ねたんだった。

和「どういうこと? ……いえ、確かに浮かれてはいけないけれど」

唯「和ちゃん、私ね。宝くじが当たったら、したいことがあったんだ」

 お姉ちゃんはもしかしたら、最初からそのつもりで宝くじを買ったのかもしれない。
 毎日が辛くて、ちらちらと覗く蔑視の目から逃れたくて、一縷の望みをかけて10枚の宝くじを買った。

 やりたいことは、性転換手術だけだったのかもしれない。
 お姉ちゃんの言い方は、そんなふうに感じさせた。

和「やりたいこと……?」

唯「うん。……和ちゃん、性転換手術って知ってるよね?」

 ぱちん、と音を立てて和ちゃんがパソコンを閉じる。
 そのまま、ゆっくりと手をカップに持っていき、ひと口紅茶を飲んだ。

和「性別適合手術のことね。それを受けたいっていうの?」

唯「そう。今の私たちは、世間的に見て夫婦じゃないから。だから、変わりたい」

 脚をきゅっと閉じて、お姉ちゃんは真剣な目で和ちゃんの方を見つめている。

和「憂は?」

憂「私は……」

 和ちゃんは性別適合手術と言った。
 それが性転換手術の正しい名前なんだろう。

 性別をあるべき形に適合させる手術。
 私たちが女同士で愛し合っていることを考えると、
 たしかにお姉ちゃんか私の性別を適合させた方がいい、と思う。

 あるべきは、男性と女性の愛なのだから。

憂「お姉ちゃんが受けたいっていうなら、和ちゃんの説明きいて、考えようかなとは思う」

和「そう。……じゃあ、まずはあらかた説明するわ」

 和ちゃんはあっさりとそう言った。
 性転換手術を受けたいと言ったお姉ちゃんに驚くこともない。

 きっと不思議でもなんでもないことなんだ。

和「性別適合手術……SRSと略すのだけど、その方法を説明するわ」

唯「うん。お願いね和ちゃん」

和「まず想像はつくと思うけど、胸も性器も全部切除することになるわ」

和「乳腺に、お腹の子宮、卵管、卵巣、膣内壁ね。それを取ったら、穴の口をふさいじゃうの」

唯「う、うん」

 分かってはいたけれど痛い話だ。
 子宮を取るなんて、想像するだけで生理痛がする。

和「そして、ここからが大変よ。唯、腕出して」

唯「腕?」

 和ちゃんはお姉ちゃんの差し出した左腕の手首をつかみ、
 肘の付け根から少し離れた場所から手首に向かい、つーっと指先で長方形をなぞった。

 長さはおよそ前腕の半分ほど、幅は腕の裏側ほぼ全部を覆うような、大きな長方形。

和「今描いた四角形くらいの大きさで腕の組織を切り出して、お股につけるのよ」

唯「腕が? ……そんなに?」

 お姉ちゃんは和ちゃんがなぞった長方形を見つめて、呆然とつぶやいた。

和「ええ。術後、切り取った場所が完全に回復することは少ないけれど、日常生活に支障はないわ」

唯「ぎ、ギターは?」

和「弾けるわよ。傷は残るけれど、動きに大きな問題はないの」

唯「そっか……よかった」

 和ちゃんは小さく頷いて、説明を続けた。

和「それで作ったオチンチンは、クリトリスと尿道のところにくっつけるの」

和「クリトリスと神経を繋いで、尿道はオチンチンの管と繋げるわけ」

唯「うんうん」

和「そしたらまた、今度は太ももから皮膚を切り取るの。陰嚢を作るために」

唯「……どのぐらい?」

和「そうね……このパソコンぐらいかしら」

 机の上に閉じられていたポケットサイズのパソコン。
 小さいと言ってもそれはパソコンとしての話で、皮膚を切り取るのとは比較してはいけない。

憂「お姉ちゃん……」

 腕に関しては、組織を切り取ると言っていた。
 皮膚と言わなかったのは、よほど深く切り取るからだろう。

 男性器を作るためには皮だけでなく、もっと諸々が必要になるのだ。
 そして、それを作ろうとすれば、お姉ちゃんの体をどんどん痛めつけることになる。
 大きな傷をつけるから、傷痕もそれだけ大きく残る。

 それに、エピテーゼとかいうので隠しても、見る人が見れば分かってしまうだろう。
 性転換したという事実は気付かれてはいけない。
 前腕という目立つ場所にある以上、人目につかせないわけにもいかない。

 お姉ちゃんの体をぼろぼろにしてまで、やる価値のある手術ではないと思った。

 いや、ぼろぼろになるだけならまだいい。
 もしお姉ちゃんの体が、手術の負担に耐えられなかったら。

憂「やめておこうよ。お金は別のことに使おう?」


 お姉ちゃんは答えず、和ちゃんが掲げた白いノートPCと、自分の脚を見比べていた。

 すっと息を吸ってから、しばらく。
 やっと私のほうを向いてくれたけれど、暗い顔をしていた。

唯「……憂。私はね、このぐらい覚悟の上だよ」

憂「……」

 今度は私が答えられなかった。
 私がお姉ちゃんのことを止めたりして良いんだろうか。

唯「これを最後に傷つかなくて済むなら、いくらでも傷つくつもり」

 お姉ちゃんは毎日外に出て働いてきた。
 私よりよほど傷ついてきたと思う。

唯「いつまでも……きっと、これからはもっとつらくなる人生は、歩めない」

唯「たとえ、憂と一緒でも……ごめん、無理だよ」

 そんなお姉ちゃんが弱音を吐いてしまっていて、
 それでもなお私はお姉ちゃんに頑張れ、と言うつもりだろうか。

憂「……ごめん、ひどいこと言った」

唯「ううん、いいの。ごめんね憂、弱いお姉ちゃんで」

 弱くなんかない。
 お姉ちゃんはずっと、一人で戦ってきたんだ。
 私が一人で戦わせてしまったんだ。

 それなのに、きちんと自分の手で、戦いを終わらせようとしている。

 もう、なにも言えなかった。

唯「ごめんね、わかって」

憂「うん……」

唯「ありがと、憂」

 お姉ちゃんの左手が頭に乗る。
 この手ももしかしたら、まともに動かなくなってしまうかもしれない。

 でもそうなっても、私がお姉ちゃんを助けていけばいい。
 夫婦なのだから、当たり前のことだ。

和「……続けていいかしら?」

唯「うん」

憂「お願い、和ちゃん」

和「それで……そう、太ももから取った皮膚を陰嚢として、陰唇のあったあたりにつけるの」

和「その中にシリコン製のボールを2つ入れて閉じれば手術は終わりね」

唯「もう終わりなんだ」

和「ええ。あとはしばらく入院して手術痕の治療だけして退院よ」

唯「ふむ……」

 お姉ちゃんは二、三度頷いてから俯いた。

和「今すぐ決めろとは言わないし、もちろんこんな所で手術なんてできないからね?」

唯「あ、うん。それはわかってるよ」

和「まあ一応、大学病院の先生に紹介状書くぐらいはできるから。決断出来たら言ってね」

唯「……うん」

 そしてお姉ちゃんはしばらく黙りこくった。

 いくら今の体がいやで、変えなくてはならないと分かっていても、
 いままで長くつきあってきた体だ。

 手術をして性転換しようと言っても、考える時間は欲しくなってしまうだろう。

 なにもすぐに答えを出す必要はない。
 お金も時間もまだまだたっぷりある。
 お金に関しては、まだ受け取ってすらいないのだけれど。

憂「お姉ちゃん、今考えるのはよさない? せっかく和ちゃんの前だしさ」

唯「……そうだね」

 お姉ちゃんは机の上に置きっぱなしにしていたくじ券を大事にしまうと、
 冷め始めた紅茶に口をつけた。

憂「そうそう和ちゃん、宝くじ当たったから」

憂「今度、軽音部とかのみんなで集まって、焼き肉屋さんにでも行こうと思うんだけど」

和「もしかして、おごろうってつもり?」

唯「だって1億円だよ、和ちゃん。お医者さんでもなかなか稼げないよ?」

和「7年……いや、5年あれば1年で1億くらい稼げるわ」

唯「うわっ、ずるいよ」

和「勉強してきた甲斐があるってものね」

唯「うぅむ」

 不満そうに唸っても、和ちゃんの言い分が正しいだろう。
 むしろ将来のために勉強するべきは私たちだったけれど、その努力ができなかった。

 そのつけで、宝くじなんかに頼らないといけなくなってしまったのだ。
 宝くじといえば公的な印象はするけれど、結局ギャンブルには違いないのに。

和「とにかく、宝くじ2等で浮かれてる程度で私におごろうなんてやめなさい」

唯「……でも、みんなとも久しぶりに会うんだから、和ちゃんも一緒に来てよ?」

和「木曜か、日曜ならね。予定が合えば、どこでも行くわ」

唯「そういう風に組むよ、ご安心を」

 私は冷めきった紅茶を口にした。
 こんなふうに紅茶を出せる人を、私は多く知らない。


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最終更新:2012年08月23日 00:32