そして日曜日の朝。
目覚めとともに、口の中で乾いた愛液の味が復活する。
まだ眠っているお姉ちゃんを起こさないよう、そっとベッドを降りてお風呂場に向かう。
憂「……へへ」
お姉ちゃんに愛された体にシャワーを当て、しみこんで取れないものを感じる。
歯磨きもして部屋に戻り、着替えてエプロンをつける。
憂「ん?」
それを終えたところで、ベッドの方から携帯のバイブレーションが聞こえてきた。
ベッドのほうへ向かうと、震えていたのは私の携帯の方だった。
唯「ういー、出てー……」
お姉ちゃんが寝ぼけた口調で言っている。
ギターをやっていたころと一緒で、お姉ちゃんは燃え尽きるまで頑張ってしまう性分だ。
そこまで疲れるなら回数を減らそうかと提言したこともあったけれど、
お姉ちゃんはそれだけは勘弁してと泣きついてきた。
そうしていつも一生懸命だから、疲れ果てたお姉ちゃんを起こすのは大変なのだ。
携帯を開くと、澪さんからの着信だった。
少し意外だったけれど、通話ボタンを押して電話に出る。
憂「もしもし、澪さん?」
澪「おはよう、憂ちゃん。休みの朝からごめんね」
いつも通り落ちついた澪さんの声がする。
大人になって一段と綺麗になった澪さんだけれど、
結婚できないのは未だに克服されない人見知りのせいだろう。
最近では意図的に男性を避け始めたようにさえ見えて、
もしかしたら梓ちゃんと同じ、仕事一辺倒の人種かもしれないと思い始めている。
憂「いいですよ、起きてましたから」
澪「そっか。実はちょっと話があるんだけど……いま唯はどうしてる?」
憂「お姉ちゃんですか?」
ベッドを見ると、お姉ちゃんはまたすやすやと眠りはじめていた。
憂「寝てるみたいですけど。起こします?」
澪「いや、そのままで。今日のことなんだけど……」
もしかして都合が悪くなってしまったんだろうか。
でも、せっかく呼び集めたから今日は決行して、
また澪さん含めてみんなを呼べばいいか、と考える。
けれど澪さんが次に言ったのは、そうではなかった。
澪「今日みんなで集まる前に、二人きりで会える? 場所はどこでもいいから」
憂「……えっ?」
澪「二人きりで、相談したいことがあるんだ」
澪さんは、二人きりというところを強調した。
まともなものさしを使わせてもらうなら、
既婚の女性と二人きりで会うというと、少し危険な匂いがしてくるものだ。
澪さんは、私に敢えてその危険性をちらつかせている。
仕方なく二人きりになってしまう、その上で会えないかと言っている。
考えにくいことだけれど、もし澪さんがその気だとしたら、こういう風には言わないだろう。
それに、澪さんは裏をかけるような人でもない。
憂「かまいませんけど……じゃあ、どこにします?」
澪「近くに、公園があるだろ。その向かいにマックスバーガーあるから、そこで」
憂「何時ごろ……」
澪「2時間前がいいな。5時半ぐらいで」
憂「わかりました。……それで、このことは内緒にしたほうがいいんですか?」
澪「いや、私と会うって言ってくれて構わないよ。人妻を連れ出すわけだしさ」
澪さんはらしくないことを言って、小さく笑った。
澪「それじゃ、5時半。待ってるよ」
憂「あ、はい。わかりました」
澪「じゃあまた。切るよ」
少しして、通話終了の電子音がする。
携帯を耳からおろして、私はぼーっと佇んだ。
唯「憂、澪ちゃんと会うの?」
憂「あっ」
いつの間にか、お姉ちゃんが起きていたみたいだ。
突然声をかけられて、携帯を取り落としそうになる。
唯「憂への電話だったんだね」
憂「うん、相談があるって……」
唯「なんだろうね。私じゃなくて憂に相談なんて」
憂「さあ……聞いてみないことにはわからないよ」
澪さんから電話が来るだけでも意外だったのに、
その上、何の相談かなんて分かるはずもない。
唯「……ふむ。催涙スプレーでも買って、持っていく?」
憂「そこまでしたくないな……」
唯「冗談だよ。澪ちゃんにも、いくら当たったかは伝えてないし」
唯「それに、澪ちゃんだもん。そんな大胆な行動に出ないって」
お姉ちゃんは口元を薄めて笑い、またベッドに倒れ込んだ。
憂「……そろそろ朝ご飯作るから、いつまでも寝てないでねお姉ちゃん」
唯「んー」
気のない返事をして、お姉ちゃんはまどろみ始めた。
それを横目に卵を割り、目玉焼きを二つ焼く。
その隣にベーコンを並べ、オーブントースターに食パンを二枚入れた。
お姉ちゃんが寝息を立て始める。
喉をかするような深い寝息。
聞いていると、私まで安心できる。
あとで、お昼寝がしたいと思った。
ゆっくり休んだお姉ちゃんは眠れないかもしれないから、
膝枕をして欲しい、なんていうのは贅沢だろうか。
結局、日中はお姉ちゃんと一緒にごろごろして、
ぼーっと熱いキスをかわしたり、冷たいアイスを食べさせあって過ごした。
少し摂生しないと、体重が大変なことになりそうだ。
今日焼き肉を食べたら、一駅歩いて帰ることにしよう。
そして、やがて澪さんとの約束で家を出なければならない時間になり、
支度をして最低限のお金だけ持って、ひとり家を出た。
冷えた夕方の空気を吸いながら、澪さんが指定したマックスバーガーへと歩く。
学校帰りに寄り道をしている女子高生の集団が入っていって、少し躊躇したくなった。
澪さんはどうしてこんな所でお話をしようと思ったのだろう。
騒がしいしプライバシーはないし、
せっかく二人きりで話をするならもっと別のところがある気がする。
もちろん、澪さんにもいろいろ都合があるのだろうけど。
アップルパイと紅茶を頼んで、二階の座席で澪さんを待つ。
連絡は入っていないから、私の方が先に来てしまったのだろう。
一応メールを入れておくと、すぐに返信があって、澪さんも間もなく到着するようだった。
憂「ふう……」
紅茶を飲み、一息つく。
制服を着た少女たちが席から見えて、ふと懐かしくなる。
階段を上がってくる高い足音がして見上げると、人目を引く長い黒髪が目に入った。
マックスバーガーには子供向けに、おもちゃが一緒になったバーガーセットがあるけれど、
さすがにそれは頼まなかったみたいだ。
一杯のホットコーヒーだけトレイに乗せて、澪さんの目が私を探す。
手を振ろうとしたと同時に見つかったようで、悠々とこちらに歩いてきた。
お姉ちゃんから浮気するわけではないけれど、やっぱり綺麗だと思った。
澪「ごめんね、急に呼び出して」
憂「大丈夫ですよ、時間なら余ってますし」
澪「唯も、仕事やめたんだっけ?」
憂「一時的にですけど。また仕事を始めないと、いずれ尽きちゃいますし」
澪「そうだよな。分かってるならいいんだけど」
澪さんが肩の力を抜いた。
コーヒーの蓋を開けて、砂糖とフレッシュを流し込む。
ふで先のように持ったマドラーをくるくる回して、微笑んだ。
憂「それで、お話って……」
指先が止まる。
茶色に濁ったコーヒーが、渦を作っていた。
澪「相談っていうか……本当は、こうなる前に憂ちゃんとお話がしたかったんだけど」
憂「こうなる、ってどういうことですか?」
澪「宝くじ。当たっただろ」
憂「はい、それは……まあ」
宝くじが当たる前に相談がしたかった。
一体、どういうことを澪さんが考えているのか分からなかった。
憂「……どうしてですか?」
澪「憂ちゃんに聞きたいことがあるんだ。ずっと前から聞きたいとは思ってたけど……」
澪「つい最近、聞かなきゃならないことに変わったんだ」
頷きながら、紅茶を飲む。
アップルパイの包装に触れるが、まだ熱くて食べられそうにない。
澪「えっと……ごめん、まだ何から話そうか、迷ってるんだ」
憂「時間もそうたくさんあるわけではないですから、何からでも話してください」
澪「うん……そうだな、それじゃあ、律の話からするよ」
憂「律さん?」
どうして突然、律さんの話なんだろう。
律さんには、いちおう私たちのことは伏せてある。
もちろん、澪さんからこっそり伝え聞いているとは思うけれど。
そういう立場だから、澪さんから律さんの話をはっきり聞いたり、
律さんが私たちのことを話しているのを見たりといったことは今までない。
その律さんのことを、私に相談しなければならない。
なぜか胸騒ぎのするような状況だった。
憂「律さんが……何か」
澪「律、GIDなんだ」
私の言葉をひっくり返すように、澪さんは勢いをつけて言った。
そうでもしなければ言えないことだったのかもしれない。
けれど私には、その三字のアルファベットが何を示すのか分からなかった。
憂「……ごめんなさい、その、GIDって何ですか?」
澪「それは……あのだな」
澪さんは口ごもったけれど、数度頷いて、また私を見た。
私も視線をそらさずに、澪さんと向き合う。
澪「GIDっていうのは、性同一性障害のことなんだ」
それだけ言って、澪さんはコーヒーを口元に持っていった。
憂「……あれですか」
性同一性障害。
身体の性別と精神の性別が一致しないとかいうやつだ。
体は男性なのに心は女性だとか、
逆に体は女性なのに心は男性ということも無論ある、らしい。
律さんが、それだというのだろうか。
確かに律さんの振舞いは、男性らしいと言えばそう思えなくもない。
憂「でも、律さんが……その、GID?」
そう言われてしまうと、違和感がおこる。
お姉ちゃんから聞いてきた律さんのお話や、私の見た印象では、
性同一性障害という風にはとても見えなかった。
むしろあんなふうに振舞っていながら、
女の子らしいところもあるのだと認識していた。
澪「律も、そのことで結構悩んでいたな」
澪さんがぽつりと言った。
澪「律は子供のころから、自分の性に疑問を持っていたらしいんだ」
澪「それこそ私に知り合う前から……いや」
澪さんは軽く首を振った。
その様が少し、暗そうに見えた。
澪「律は子供ながらによく考えていたんだ。女の子の体でありながら、心はそうでない、気がする」
澪「そんな自分を、正したいと思って、律は私に話しかけたって……そう言っていた」
憂「……はあ」
わたしは、ぼんやり頷くことしかできない。
澪「律はずっと女の子であろうとした。中学の時、GIDを告白されて、理解を求められたよ」
澪「私はもちろん分かったけれど、内心は信じられなかったんだ」
憂「律さんがGIDだってこと……ですか?」
澪「うん。律は十分女の子らしかったと思う。今でも、律は女の子らしさを残してると思う」
憂「だったら、そのGIDでは……」
澪「でも。何も言わずに信じていたら、今度はこういう風に言われたんだ」
澪「私は本当に、性同一性障害者なのか? って」
澪さんは瞼を降ろし、長い吐息をついた。
澪「律も悩んだんだ」
私を制するように言う。
ごくりと唾を飲みこむと、胸が苦しくなるようだった。
澪「……私も一緒に悩んでいたけど、高校に上がったころ、私はある小説を読んだんだ」
澪「そこに答えが載ってたんだ」
憂「答え……ですか」
その結果としてさっきの告白があったのだから、
律さんはやっぱりだと見ていいのだろう。
澪「……憂ちゃんは、両性具有って知ってる?」
憂「両性具有……あの、いわゆる」
昔にお姉ちゃんと調べたことがある。
女の子の体におちんちんが生えているだとか、男の子の体に女性器があるだとか。
まっとうに言うなら、男性器と女性器の一部や全部が両方備わった体の状態を言ったはずだ。
言ってしまえば、どちらでもない性別。
憂「そうですね……一応、知ってます」
澪さんはこくりと頷く。
澪「両性具有が生まれた場合、本人が成長してから、自分の性別を決めることができるんだ」
憂「へぇ……」
それまで性別を決めないでおくのは不便だろうけれど、
そのせいで起こる不都合を考えると、誰かが勝手に決めてしまうよりいいかもしれない。
澪「……本人の意志を尊重していて良いね、って思った?」
憂「え?」
一瞬、澪さんが何を言ったか分からなかった。
最終更新:2012年08月23日 00:40