澪「成長したら、絶対に男か女、どちらかの性別に割り振られなきゃいけないんだ」
澪「男か女、それしかない。たとえ男性器の半分と女性器の半分が、それぞれ自分のオマタについていても」
澪「どれほど迷ったって、決めなければいけないんだ」
憂「……えっと」
何か言わなければ。
そう思ううちに、また澪さんが口を開く。
澪「……こういうふうに、体でさえ、性別は完全に決まってないことがある」
澪「男性が一割で女性が九割の人もいれば、男性が五割、女性も五割という人がいる」
澪「前者はまだいい。けれど、後者は困るよな」
澪「自分はどちらでもないのに、どちらかに性別を決めないといけないんだ」
憂「はい……そうですね」
気圧されて、うつろな言葉しか出ない。
澪「この、性別の割合の話……これはさ、体だけじゃなく、心にだって言えることだと思うんだ」
憂「心……」
澪「両性具有はなかなかいないものだけど、心の性別が崩れている人はたくさんいると思う」
澪さんはすっと小さく、落ちつけるように呼吸をした。
澪「心の中で、自分は女の子だと思っているし、体も女の子だ」
澪「だけど時々、男性を見習ったような振る舞いもしてしまう」
澪「そういう人の心は、よく見ると、女性が八割で、男性が二割くらいあったりするんだ」
憂「二割が男性の心、ですか」
澪「そう。ただそのぐらいなら、女性として生きる上で問題はないよ」
澪「けど、この割合がどんどん均質化されると分からない。女性が四割で、男性が六割なら?」
憂「えっと……」
澪「律もそうなんだ。律の場合、女性が四割五分、男性が五割五分ってところか」
澪さんが座席に掛け直す。
それから襟を直して、後ろ髪を整えた。
澪「だから律も悩んで……けどやっぱり、GIDだって認めたんだ」
憂「……そうだったんですね」
私はまた、紅茶の紙コップを手にし、口もとへ運んだ。
澪さんも紙コップに手を伸ばしたけれど、その表面の感触を撫でただけで、飲みはしなかった。
きっと今、澪さんの体は熱くなっているだろう。
私が律さんの悩みを、理解できなかったから。
憂「……ごめんなさい」
澪「いいんだ、大丈夫だよ……なかなか分からないだろうとは思うから」
澪「わかってくれただけいいよ、ぜんぜん」
憂「……それはわかりましたけど」
私はそろそろと、アップルパイに手を伸ばした。
良い具合の温かさになっていた。
包みを開き、パイを引き出しながら私は言った。
憂「でも、どうしてそれが、私に相談しなきゃならないことだったんですか?」
澪「ああ……そっちを先に言った方がよかったか」
澪さんはきょとんとした顔をして、
それから照れ臭そうに唇のはじっこで尖った歯を見せた。
澪「実は……なんだけど……えっと」
さっきまでの表情と一変して、澪さんの顔に喜の感情があふれだす。
信じられないくらいニコニコ笑いながら、頬を赤くして、えへえへ呻いている。
澪「へへ、その、律さ、男になるから、さ。……そしたら私をお嫁さんにしてくれるんだって」
憂「……」
サクサクのアップルパイの生地を歯で破ると、
ほどよい温度に落ちついた林檎の甘煮があふれてくる。
砂糖の甘さと林檎の甘酸っぱさが舌に乗り、口いっぱいに広がった。
これがまた、鼻に残った紅茶の香りとよく合う。
そのまま二口目にかぶりつき、生地の食感と一緒に咀嚼して楽しむ。
憂「ところで」
口を動かしながら、途切れに喋る。
憂「いつから、付き合ってたんですか?」
そう問われると、澪さんは深く頷いた。
澪「ずっと秘密にしてたけど、唯やムギや、憂ちゃんなんかと出会う前から、私たちはそうだったんだ」
澪「そもそも律がGIDを告白したのも、私にその、好きだって言うためだったらしい」
すると、澪さん達は私たちよりも早くから禁断の関係になっていたことになる。
カチコチに緊張しながら、姉妹で付き合ったことの報告にいく私たちとは何だったのか。
憂「どうして今まで、結婚を……」
澪「憂ちゃんたちみたいな選択をしようと考えたことはあった。つまり、事実婚だな」
心がずきりと痛む。
結婚式を開き、一緒に暮らしていても、決して法的には結婚が認められていない。
それが私たちの結婚、いわゆる事実婚だ。
憂「なのに、しなかったんですか?」
澪「そうだな……」
澪さんはちょっと目を伏せた。
澪「こう言うと二人にはあれかもしれないけど、やっぱりそれは結婚じゃないように思ったんだ」
澪「唯や憂ちゃんが姉妹を装ったように、私たちも友達を装うんじゃないかって」
憂「それは……ですけど」
私たち女同士や、近親間での結婚が認められるはずはない。
それに外面では姉妹を装ったとしても、私たちしかいないときにはきちんと夫婦でいる。
それでも私たちは、婚姻関係を結んでいると言えないのだろうか。
憂「澪さんは、事実婚じゃ不満だったんですね」
澪「不満というより……不安だったのかもしれない」
憂「不安ですか?」
澪さんはコーヒーを飲みきってしまった。
澪「結婚っていうのは、社会的に承認される行為だと思うんだ。愛の結実じゃなくて」
憂「……」
澪「法的に手続きをとり、私たちが愛し合っていることを国家に認めて、許してもらうわけだ」
澪「だけど同性同士では今のところ、それは認められない。国が認めないことは、社会も大抵拒絶する」
空になった紙コップを指で回しながら、澪さんはため息をつく。
澪「きっと私たちが女同士のまま結婚しても、唯たちは認めてくれるし、祝福してくれる」
まるで居たたまれず視線をそらすように、私はごく浅く頷いた。
澪「けど、私たちはそんな小さな輪の中で暮らしてはいない。他のつきあいがある」
澪「その中には当然、私たちの結婚を拒絶する人がいるはずだ。……だから、結婚は出来なかった」
憂「たったそれだけの不安で……?」
内心、臆病がすぎるのではないかと思った。
私とお姉ちゃんのように愛し合えていないから、そんなことに怯えるのではないか、とさえ。
憂「それで、律さんが性転換を……性別適合をして男性になったら、すぐ結婚するんですか?」
澪「……そうだな。憂ちゃんからしたら、ちょっとひどいかもしれない」
澪「性別にとらわれすぎてないか、なんて言われても仕方ないよな」
かたん、と音がする。
澪さんが弄んでいた紙コップをテーブルに置いたようだった。
澪「けど、結婚になるべく不安は残したくなかったんだ」
そしてそのコップが徐々にひしゃげて、潰れていく。
澪「……普通の人たちみたいに、ひとまえで夫婦ですって、言いたかったんだ」
澪「想い合って愛し合って結婚するのに、そのことを内緒にしなきゃいけないなんて、いやだったから……」
憂「……その気持ちは、十分わかります」
私は少し落ちついて、紅茶を飲むことにした。
澪さんはなにも、私たちの結婚を否定するわけではない。
ただ澪さん達にとって、事実婚が結婚たりえなかった。それだけのことだ。
憂「考え方の違いですね。私は気持ちの上で通じあっていれば、認められなくても構いません」
憂「そもそも、私たちはどんな手段を取っても結婚を認められることなんてできませんけど」
愚痴っぽくなって、またアップルパイで口をふさぐ。
澪「そうだな……律がGIDじゃないとしたら、私たちも同じ手段をとらざるをえなかったと思う」
澪「だとしたら結ばれることを諦めていたかって、そんなことはないと思うけどさ」
冷めかけているアップルパイを、残り一気に食べてしまった。
飲みこみ、紅茶を少し飲んでから口を開く。
憂「相談事って、澪さんと律さんの結婚の是非とかですか?」
澪「違う。そこで悩むくらいなら、律と結婚する資格なんかないと思う」
憂「じゃあ……」
澪「たいしたことじゃないんだ。相談というのも変なくらい」
くす、と澪さんが笑った。
なぜかその笑顔が、やけに久しぶりに感じる。
澪「同じように家庭に入る者として、唯との結婚生活についてちょっと聞きたいんだ」
憂「おね……唯とのですか?」
澪「……うん」
すぐ近くを、見かけたことのある中年の男性が通っていった。
澪「今の人、知ってるの?」
憂「見たことあるだけですけど……」
澪「……ごめん、うかつだった。家から離れた店の方がよかったな」
憂「構いませんよ、どうせしばらくしたら越しますし」
澪「また引っ越すのか?」
憂「今度は遠いところに。お金ならありますから」
澪「……そっか。やっぱり、周りの目って厳しいの?」
憂「疑ってかかる人は、1人2人は必ずいます。まあ、たしかに偽ってますから」
澪「気にする人は気にするんだな……」
憂「といっても引っ越すほどのことはないと思いますけど……お姉ちゃんが心配性で」
澪「けど、今度はそういう心配がないところに引っ越すんだよな?」
憂「そうですね。家も買っちゃいますから、もう越せないかと」
それだけでなく、お姉ちゃんは性転換をするし、
きっとこれからはそういう心配にあてられることはないはずだ。
澪さんの言うように国家に認められた結婚ではないけれど、
少なくとも男性と女性に見えてくれれば、疑われることはないし、
夫婦として周囲から見てもらえるだろう。
憂「……そういえば、律さんって」
澪「ん?」
憂「性別適合手術……は受けるんですか?」
澪「いや、それはまだ無理だ。お金がないしさ」
うらやましいよ、と澪さんは潰れた紙コップを倒した。
澪「今はまだホルモン注射を受けてるだけだけど……結構変わったよ。会ったらびっくりする」
憂「……それって皆さんには」
澪「知らせてない。まあ、久々の再会にはサプライズが必要だからな」
澪さんはいたずらっぽく笑う。
その笑顔が、ちょっと記憶をゆさぶった。
憂「……って、律さんが言ったんですね」
澪「ん、あはは。そうだよ」
昔よく会っていた頃とは違って、男性になりつつある律さんの体。
あの快活な笑顔は、性転換によって奪われていないのだろうか。
そんな不安が一瞬よぎり、去った。
性転換ではなく、性別適合だ。
間違えていたものが本来の容器にはまるのだから、良いところが変わってしまうはずはない。
軽くなった紅茶の紙コップを持ち、飲みほした。
澪「そろそろ、出た方がいいんじゃないか?」
澪さんが腕時計を見て言う。
憂「そうですね。行きましょうか」
私はトレイを持って立ち上がると、紙コップや包装を捨てた。
それから澪さんと駅へ向かい、お姉ちゃんと合流する。
唯「澪ちゃん、またきれいになったねぇ~」
お姉ちゃんはそう笑っていた。
澪さんは、お姉ちゃんの頭の中にある澪さんと同じ変化の仕方をしているのだろう。
では、人為的にその変化の方向をねじまげた律さんに会ったら、
お姉ちゃんはどんなふうに思うのだろう。
驚くだけで済むのだろうか。
憂「あの、澪さん」
電車に揺られながら、私は尋ねた。
憂「今日は律さんと一緒には行かないんですか?」
このまま何も伝えずに、お姉ちゃんと律さんを会わせるのはよくないと思った。
お姉ちゃんの手術のことは、正直まだみんなには話したくない。
けれど律さんがその話題を出した場合、というか出さざるを得ないだろう。
そのときにお姉ちゃんが同調して話しだしてしまう可能性はある。
どこかで隙を見て、お姉ちゃんにだけはこっそり伝えておきたいのだ。
澪「ああ、律は先生のところに行く予定があったから」
唯「先生? さわちゃん?」
澪「ちがうちがう、お医者さんだ」
そう聞いて、お姉ちゃんは目を丸くした。
唯「りっちゃん病気なの?」
その表現は、いちおう、通念上は間違っていない。
けれど澪さんは首を振った。
澪「そうじゃない。栄養剤をもらいにいってるって感じだな」
サプライズを隠すためにそう言っているのか、
それとも性同一性障害は病気ではないと考えているのか。
澪さんのすました顔からは読み取れなかった。
唯「りっちゃん、電話した時も声おかしかったし……ちゃんと検査したほうがいいんじゃないかなぁ」
憂「そうですよ。仕事も大変なんですし、体壊したら大変ですよ?」
澪「律に何かあったら私が支えるから大丈夫だよ」
唯「ワァオ」
やはり、澪さんの前でさとられることなくお姉ちゃんに伝えるのは無理がありそうだ。
途中でトイレに寄って、そこで伝えてしまおう。
律さん達は迷い、よく考えて、
私たちにサプライズ的に発表することを決めたのかもしれない。
けれど、今の私たちも繊細だ。
律さん達に崩されるわけにはいかない。
憂「お姉ちゃん、ちょっと」
目的の駅に着いて電車を降りると、お姉ちゃんをトイレに連れ込んだ。
そして律さんが性同一性障害であること、
ホルモンの投与を受けて外見などが変わっているであろうこと、
なによりお姉ちゃんが性転換手術を受けようとしていることを内緒にすることを伝えた。
唯「……わかった」
お姉ちゃんはそれほど驚いたふうでもなく、ただゆっくりと頷いてくれた。
最終更新:2012年08月23日 00:41