予定の焼き肉屋に到着すると、
 既に純ちゃんと和ちゃんと紬さん、そして何故かさわ子先生まで来ていた。

 神出鬼没と言うより、嗅覚がすさまじいのかもしれない。

 それにしてももう35歳くらいのはずだけれど、
 焼き肉なんて食べて胃腸は大丈夫なんだろうか。

純「憂、あんたすごく失礼なこと考えてる顔してるよ」

 それから少し待ち、梓ちゃんが駆けつけた。

 結局律さんが最後である。
 もしかしたら全員が集まるまで、どこかで待機、あるいは監視しているのかもしれない。

 お祭り好きの律さんのことだ、夜の待ち合わせに遅刻することは考えにくい。
 朝だったら平気で寝坊するし、昼も昼寝ですっぽかすことは多いけれど。

純「憂……」

憂「なあに?」

純「……いや、なんでも」

 もう全員集まった。
 ただの遅刻でないのなら、そろそろ律さんは現れるはずだ。

梓「律先輩遅いね」

 焼き肉屋さんの壁際にしゃがみこんで、梓ちゃんが気だるそうに言う。
 今日も仕事だったのだろうか。

憂「うん……寝てるってことはないと思うけど」

梓「へえ、なんで?」

憂「今日、病院に寄ってそのまま来るらしいから」

梓「病院? またなんで律先輩が」

憂「えっと……」

 その理由は、私から梓ちゃんに話すべきではないだろう。
 律さんと澪さんの問題を伝え聞いたからといって、
 それをべらべら言いふらすのは間違っても私のような者がとる行動ではない。

憂「よくわからないけど、病院なんだって。澪さんが言ってたから」

梓「ふぅん……まあ転んだとかだろうけど」

憂「そうかな?」

 苦笑して、もう少し待つ。
 しかし五分しても律さんは来なくて、澪さんが心配して電話をすることにした。

 わざわざ少し離れたのは、変化した律さんの声をみんなに聞かせないためだろう。

 私はさりげなく、お姉ちゃんのそばに行った。
 会話が他のみんなに漏れないように、顔を近づけて耳打ちするように言う。

憂「律さん、やっぱり……怖いのかな」

唯「うん……今までのりっちゃんじゃないんだもんね」

 お姉ちゃんは俯く。

 その言い方にはかげりがあった。
 たぶんお姉ちゃん自身も律さんが変わってしまったことを悲しんでいるのだと思う。

憂「お姉ちゃんは平気?」

唯「平気って?」

憂「性転換して、いろんな人との関わり方が変わっちゃうの。怖くない?」

唯「うーむ」

 お姉ちゃんは顔を上げ、澪さんの方を見た。
 電話はまだ続いているみたいで、澪さんは呆れたふうに腰に手を置いている。

唯「……いっそ、リセットしちゃうのがいいかもね」

憂「……え?」

唯「どうせ遠くに住むんだよ。だったら人間関係ぜんぶ洗い流したほうがいいかもって」

唯「それに、憂がいたら、私にはそれで十分だし」

憂「私だってそうだよ。だけど」

 お姉ちゃんの言っていることは、なにかおかしくないだろうか。

 繁華街に流れるぬるい夜風とともに、そんな感情が歩く。

憂「……いやだな」

 とにかく、こうして集まった場で、みんなと縁を切ることなんて考えられない。
 わがままは承知で、首を振った。

憂「お姉ちゃんだけじゃ嫌ってことじゃないけど、でも」

唯「憂」

 お姉ちゃんが私の目を射抜き、言葉を遮った。

唯「生き方を変えるっていうのは、それぐらいのことだと思うよ」

憂「……うん」

 結局、頷いてしまう。
 胸の奥にもやもやを抱えたまま、私はお姉ちゃんを信じるしかなかった。

 澪さんがぱちっと携帯を閉じる音がした。

澪「あと3分くらいで着くそうだけど、待てる?」

 お姉ちゃんが時計を見る。
 予約はしてあるけれど、まだ遅れて問題はない。

唯「うん、平気だよ」

 お姉ちゃんが頷く。

澪「にしても……」

 澪さんは私たちを見て、頬を緩める。

澪「近いな、二人とも」

唯「エヘヘ」

 つられてお姉ちゃんも笑った、その瞬間だった。
 澪さんの後ろから、見覚えのある顔がすっと現れた。

憂「あっ」

 輝かしいお日様のような色をした瞳。
 高い鼻立ちに、いたずらっぽく笑っている口元。
 輪郭は少し尖ったけれど、顔のパーツはほとんど変わっていない。

律「……いっても、私はもっと近くにいるぞ」

 律さんがささやくと、澪さんの顔がぐわっと歪んで、

澪「いゃああああああっ!?」

 ちょっと蒸し暑いほどの街に、冬の海風みたいな高い悲鳴が上がった。

 その悲鳴でみんなも振り向いた。
 後ろの方から、強い警戒心が放たれているのを感じた。

純「み、澪先輩!」

 明るい茶髪も、髪型はともかくそのままなのに、
 前情報が無いとそんなに律さんだと気付けないものだろうか。

 純ちゃんが駆けだして、澪さんの肩を抱いてこっちに連れてくる。
 あわあわ言いながら連れていかれる澪さんも澪さんだと思った。

律「いや、あの」

 でも確かに、だぼっとした服を着た律さんの姿は男性に見える。

 澪さんはまた少し背が高くなったというのに、
 さっきの律さんは背伸びした様子もなく、澪さんの背後から顔を出した。

 いくぶんか、澪さんに並ぶかそれ以上にまで背が高くなったのだ。

 すっかり変わって、男性にしか見えない律さんがおろおろ歩み寄ってくる。

純「近づかないで!」

律「ちょっ」

梓「そうですよ、このチカン!」

律「お前わかってて言ってるだろ?」

 そろそろ止めよう。

憂「もしかして、律さん?」

 みんながいっぺんに私の方を見た。

律「……やっと気付いてくれたか」

唯「りっちゃんなの?」

 お姉ちゃんも私の演技に乗る。
 澪さんが事前に伝えてくれなかったらどうなっていたんだろう。

律「ああ、わたしだ……うんっ」

 喋りにくそうな声だ。
 やっぱり途中で咳ばらいが出る。

律「……おれだ。田井中律

 律さんはそう言い直した。
 喧しい街の中、ここだけ静かなように感じた。

律「あぁでも、りっちゃんでいいぞ。今は」

唯「う、うん」

 お姉ちゃんも曖昧に頷く。

 顔を見た一瞬は何も違和感がなかったのに、
 律さんを見るほど、律さんが喋るほど、言葉にしがたい気持ちが胸の中でうずくまる。

紬「……ねぇ、いったんお店に入らない?」

 紬さんが提案する。
 外で解決しようとするには、この問題は大きすぎる。

 私たちはひとまず、焼き肉屋さんにそろって入ることにした。

律「澪、立てって」

澪「ああ、ぁ……」

 律さんに手を取られて、うずくまっていた澪さんがむりやり引っ張り上げられる。

 こうして律さんが澪さんを引っ張っていくのは昔からよく見られた光景だけれど、
 いま、なんとなく違和感があったのはどうしてだろうか。

 律さんはきっと、私たちの前では女性らしく振舞っていたのだろう。
 たとえ男性的な行動を取る時でさえも、自分が女の子であることを意識していたのかもしれない。
 さっきの律さんの手の取り方が、本当の律さんの手の取り方なんだろうか。

 わたしにはわからない。

 もしかしたら今の違和感は、律さんが男の演技をしているせいなのかもしれない。
 もちろん、ただ私が本当の律さんを知らなかっただけかもしれない。

 確かなのは、私には律さんや澪さんを悪く言うことなんてできないということ。

 いや、悪く言ってはいけないのだ。
 そうすれば私はまた、お姉ちゃんを苦しめることになってしまうのだから。


 奥の座敷に通され、二つの七輪が埋め込まれた卓をみんなで囲んだ。

 私の右隣はお姉ちゃん、左隣に澪さんが座り、その隣には律さんが腰を下ろした。
 前には梓ちゃん、純ちゃん、和ちゃんに紬さん、少し詰めてさわ子先生が座る。

 すでに卓にはやたら高いお肉が並んでいたけれど、
 純ちゃん以外はいくつも並んだ皿に目を向ける気はないようだった。

唯「いったん、さ……りっちゃんから、みんなに説明してよ」

唯「ごはん食べるのは、それからにしよう?」

律「よし、わかった」

 律さんが頷く。
 そして、すっと立ち上がった。

律「まあ、見ての通り私は……俺は、男なんだ」

 また言い間違えて、律さんは指をまごつかせた。

律「性同一性障害って、たぶん知ってると思うけど、それだったんだ」

 みんなは黙って律さんの顔を見つめていた。
 なんと言っていいのか分からないのは当然だろう。私は一対一でさえ何も言えなかった。

律「今のところ、正確には男の体にはなれてないけど……その、なんだ」

 律さんはそんなみんなの顔を順繰りに見ていって、ふっと笑った。

律「どうやらそれなりに男に見えるみたいで、嬉しかったよ」

律「さて……」

澪「待て、律」

 それだけ言って座ろうとした律さんを、澪さんが制する。
 一緒に立ちあがった二人は、やっぱり同じくらいの背丈になっていた。

澪「それからなんだけど。私と律はつきあっているんだ」

 毅然とした顔で、澪さんが言う。
 さわ子先生だけが、少し表情を歪めた。

 ここにいるみんなは、ほとんどが私とお姉ちゃんの件でそういうことには免疫がある。

 おそらく私たちがみんなにこの関係を内緒にしていたら、
 澪さんはここでカミングアウトすることはできなかっただろうと思った。

澪「性転換が認められたら、正式に籍を入れるつもりでいるけど……」

澪「もうどこかの二人みたいに、気持ちとしては結婚するつもりだ」

律「ああ、そうそう。そういうわけだから、よろしくな」

 二人は軽い感じに言った。

 私は正直なところ、心の底で苛立った。

 澪さんは、本来の結婚とは社会的に認められる行為だと言った。
 ならば、国に認められた結婚だったら、こんなふうに軽い気持ちでしていいというのか。

 たとえ男性と女性の姿や性別であっても、普通はもっと覚悟があって、慎重になる。

 深く考えていないふりをしているだけかもしれない。
 それでも、反感をおぼえてしまうのは仕方がなかった。
 せめて心の内だけにとどめて、細く息を吐いた。

憂「……はい、わかりました」

律「ん、よろしく」

唯「りっちゃんでいいんだよね?」

律「ああ。唯の呼びたい呼び方でいいよ」

唯「じゃありっちゃん座ろう? みんなもいいよね?」

 お姉ちゃんがテーブルの向かいにいるみんなの顔を見ていく。

 純ちゃんはお肉からちらっと顔を上げる。
 梓ちゃんは、そんな純ちゃんの胸のあたりに目をやりながら、小さく頷く。
 紬さんと和ちゃんは、憮然とした表情のまま、手指をむず痒そうに動かす。
 さわ子先生は腕組みをして、深く頷いた。

和「……まあ、仕方ないわよね」

 やがて和ちゃんがぼそりと言った。

 仕方ない。
 律さんは生まれ方を間違ってしまった。
 もとは男性なのだから、まるで同性愛のように見えるけれど、気にしても仕方のないこと。
 糾弾することはできない、ということだ。

紬「……うん、それがほんとのりっちゃんなら、私たちは気にしないから」

 紬さんは悲しそうな目で笑った。

 それでようやく、律さんと澪さんはこの場にいることを許されて、
 ゆったりと座布団の上にお尻を落ちつけることになった。

純「さ、じゃあ、焼きましょうか」

 待ってましたと言わんばかりに純ちゃんがトングを手にした。

唯「だね! いっぱい食べていいよ!」

 そして私たちは、初めて会うような律さんが醸す違和感をせめてごまかせるように、
 初めて食べるような高い高いお肉を網に乗せては炭火で焼き、胃袋におさめていった。


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最終更新:2012年08月23日 00:43