律さんに連れられて外に出ると、生温かい夜気が身を包んだ。
律「吸う?」
箱から一本飛び出た煙草を向けられたけれど、むろん断った。
お姉ちゃん曰く、
唯『お酒は一晩で終わりだけど、煙草は一生、体に残るんだよ』
とのことだ。
あと、お口が臭くなるらしい。
お姉ちゃんにキスを嫌がられるようなことがあったらと思うと、
煙草なんてとても吸いたいとは思えない。
憂「お姉ちゃんに怒られちゃうので」
律「束縛されてんの?」
律さんは煙草を向けたまま呆けた。
憂「違います。吸わないようにお姉ちゃんと決めたんです」
律「ふうん……」
おもしろくなさそうに鼻の奥で唄って、
律さんは焼き肉屋さんの壁に寄りかかり、煙草を取り出して咥えた。
黙って立っているのも不安だったので、私は質問を返してみた。
憂「律さんは、どうして煙草を?」
律「ん? あぁ……」
ライターを取り出しながら、律さんは私の方を見る。
変わっていないその瞳が、なんとなく怖かった。
律「声がな……変わってくれるかと思ったんだ。ぜんぜんそんなことなかったけど」
律「今はただ、ハマっちまった」
そう言って律さんは煙草に火をつけた。
細い煙がのぼって、すぐにかき消された。
憂「そうなんですか……」
ふと、マックスバーガーで澪さんと交わした会話を思い出した。
律さんも悩んだのだと、澪さんは何度か強調していた。
そんな律さんに比べて、わたしは何か悩んできたのだろうか。
律さんと澪さんの結婚に、お気楽だと怒れるほど苦しんできたのだろうか。
私こそ、結婚を重たいものに思いすぎていたのかもしれない。
二人にとっては、結婚はひとつの通過点でしかないかもしれないのに。
結婚をすれば終わりでもない。
それを私たちも、律さん達も良く分かっている。
だからこそ、律さん達にとって結婚は軽いものだったのだ。
これからが辛いことをよくわかっているから。
それを、私は――
律「憂ちゃんはさ、澪から私のこと聞いてたんだよな」
憂「あ……あ、はい。お姉ちゃんにも、実は教えちゃってたんですけど」
律「んーまぁ、別にいいさ。……それで、どう思った?」
律さんは紫煙を吐くと、おかしな質問をした。
憂「あの、どうって……」
律「私たちのカップルって、やっぱり変じゃないかなって」
憂「……変なわけないですよ。変なカップルなんてありませんから」
私は首を振った。
吐き気がよみがえってきそうだった。
律「……だよな」
再び、律さんの口から煙草のけむりが吐かれた。
律「あのさ。こんな俺に言われても嬉しくないだろうけどさ……」
律「私には、唯と憂ちゃんの夫婦はずっと幸せに見えていたんだ」
見えもしない星空で星を探しているらしく、律さんは空を向いてきょろきょろしていた。
憂「私たちが幸せ……ですか」
律「ああ。愛し合って、一緒にいられて、形はどうあれ結婚してて」
律さんの手元から、長い煙がのぼっていた。
律「どんな生活してるか知らないけどさ……」
律「憂ちゃんはもっと、自分たちが幸せだってことに気付いていいと思うぜ」
律さんはそのまま、半分ほど残った煙草を地面に投げて踏み潰す。
律「たとえば二人きりだったり私たちしかいない時くらい、」
律「『お姉ちゃん』じゃなくて『あなた』だとか『妻です』だとか言ってやれ」
憂「……」
律「幸せなくせに、不幸なことばかり考えるなよ。いつか本当に……」
溜め息をつき、律さんは潰れた吸いがらを拾い上げた。
土のついたそれを携帯灰皿に仕舞いこんで、
律さんは悪戯を見つかった犬のような目で私を見た。
律「んじゃ、戻るか」
憂「……はい」
胃のあたりが、きりきり痛む。
空腹のせいではないだろう。
きっとこれは、罪悪感が私をしめつけているのだ。
憂「あの……ごめんなさい」
私は律さんの背中に頭を下げた。
律「憂ちゃんが悪いんじゃないさ」
立ち止まった律さんが、どんな表情でそう言ったかはわからない。
だけれど、その声色だけで、
おそらく律さんがお姉ちゃんの思惑を感じ取っているであろうことは
なんとなく勘付いたのだった。
律さんの後に続いて私たちの座敷に戻ると、
お姉ちゃんが隣に梓ちゃんを座らせて熱いお肉を「あーん」させようとしていた。
26歳と25歳の姿である。
梓ちゃんは私たちが戻ってきたことで、さらに抵抗を強めたものの、
最後にはやけどを怖がってか、おとなしくロースを押し込まれて涙目になっていた。
律「お、浮気か唯?」
唯「なに言ってんのりっちゃん?」
梓「おひゃくはらこと言あらいでくだはい!」
律「どわっ、食ったままキレんな!」
梓ちゃんは席を立って、律さんに食ってかかろうとする。
せめて飲みこんでからにすればいいのにと思うけれど、
梓ちゃんからすればこんなことでも我慢がきかないんだろう。
憂「変わらないね、梓ちゃんは」
梓「むぁくそとあーい!」
やや身長差の広がった律さんに頬を片手で掴まれ、
あぶあぶ言っている梓ちゃんの横をすりぬけた。
唯「おかえり、うい」
お姉ちゃんがぽんぽんと梓ちゃんの座っていた座布団を叩いた。
私は元通りに、お姉ちゃんの隣に腰を下ろす。
唯「りっちゃんと何話してたの?」
憂「えっ?」
お姉ちゃんの質問は至極当然だった。
別に律さんと内緒話をしたわけでもない。
なのに、その答えに詰まってしまったのはどうしてだろう。
憂「あ、えっと……ここじゃ、ちょっと。だから」
唯「……うん」
律さんだって、わざわざ私を外に連れ出して話したことなのだから、
この場で大きな声で話されては嫌がるかもしれない。
後で話せば、それで済むのだ。
私はほとんど空っぽになってしまった胃袋を再度埋めるため、網の上のお肉に箸を伸ばした。
唯「……あ、憂、あーんってしてあげるよ」
憂「い、いいよ恥ずかしいから」
唯「そーお? じゃ、あとで口移しね」
――――
そのあと。
宴会はお酒が入ってからにわかに盛り上がり始め、
日付が変わってからお開きになった。
酔い潰れてしまった律さん、梓ちゃん、純ちゃんのためにタクシーを呼んで、
律さんには澪さんが、梓ちゃんには山中先生が付き添った。
かろうじて意識のあった純ちゃんは一人でタクシーに乗りこんでいたけれど、少し心配だ。
後できちんと帰れたか、電話をしておこうと思う。
唯「……さて。帰りましょっか」
和「そうね」
皆さんを乗せたタクシーが行ってから、お姉ちゃんが言った。
残ったのは私とお姉ちゃんと、和ちゃんだ。
いちおう終電はまだ行っていないから、来た時と同じに電車で帰るつもりだ。
お姉ちゃんと和ちゃんの間を歩いて、駅に向かう。
憂「……」
家に帰ってから、あの話は切り出そう。
ちょっと胸焼けするような感覚を抱えたまま、
私はほろ酔いのお姉ちゃんたちの話を聞いていた。
唯「はあぁー、なんか疲れちぃ」
憂「お姉ちゃん、しっかり歩いて」
唯「ねー憂ぃ、今日和ちゃん家泊まろうよー」
和「あら、続きやる?」
お姉ちゃんの突拍子もない提案に、和ちゃんも乗る。
私も賛成したいところだけれど、ひとつ気になった。
憂「和ちゃん、明日の仕事は……?」
和「平気よ、そんなに飲まないから」
この藪医者こわい。
唯「まぁイザってときは和ちゃんも養ってあげるから!」
憂「いや、そこまでの余裕ないのわかってるよね?」
唯「冗談だよぉ。憂はばかだなぁ、そんなにチューしてほしいの? ん?」
憂「和ちゃん、私たちもタクシー呼んだ方がいいんじゃないかな?」
和「いっそ私の診療所に入院させるべきだと思うわ」
唯「ねえ、冗談なんだけど」
それからお姉ちゃんは少しおとなしくなって、
電車に乗っている間は私におぶさるように後ろから抱きついているだけだった。
なし崩しに和ちゃんの最寄り駅で降りて、和ちゃんの診療所の裏にある家に向かう。
和「少し待ってて」
相変わらず荒涼とした和ちゃんの家に上がると、和ちゃんは奥に入っていく。
冷蔵庫にお酒でも蓄えてあるんだろうか。
唯「ねー、憂」
通された部屋で並んでソファに掛けていると、お姉ちゃんがすり寄ってきた。
憂「なーに?」
まだ焼き肉の匂いが抜けきらない、茶色の髪を撫でてあげる。
お姉ちゃんは私にぎゅっと抱きつくと、潤んだ瞳で私を見上げた。
唯「私ね……びっくりしちゃった」
憂「……律さんのこと?」
唯「そう、りっちゃんの……」
お姉ちゃんの抱きしめる力が強くなる。
離さない、と聞こえるような気がした。
唯「ぜんぜん気付かなかったのは、私のせいだけど」
唯「……信用されてないんだなって思っちゃった」
憂「お姉ちゃん……」
律さんたちは、私たちと出会う前から付き合っていた。
そして今日までずっと、そのことを二人だけで隠してきた。
憂「……でも、それは私たちだって」
唯「分かってるよ。だけど……きっと、知ってたはずだし」
憂「それに律さんたちは、今日きちんと話してくれたよ?」
唯「……うん」
憂「信用されてるよ。大丈夫……」
お姉ちゃんの頭を撫でて、きりきりする胸の痛みを我慢する。
律さん達は、ただ内緒にしていたかっただけ。
お姉ちゃんを信用していないなんてことはないはずだ。
唯「……悔しいよ」
ぽつりとお姉ちゃんは言った。
憂「……よしよし」
宝くじに当たって以来、お姉ちゃんに甘えられるのは初めてかもしれない。
私は丁寧にお姉ちゃんの髪をほぐしてあげた。
唯「うい、私ね」
和「お待たせ、二人とも」
お姉ちゃんが言いかけた時、和ちゃんがお酒の瓶とグラスを持って戻ってきた。
和「……うちでおっぱじめたりしないでよね」
唯「しないよっ」
お姉ちゃんは私から離れると、和ちゃんに舌を出した。
何を言いかけたのだろうか。
胸から下に残った温もりのせいで、私は訊くことができなかった。
最終更新:2012年08月23日 00:48