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勝手知ったる家の中、律は唯達と連れ立って澪の部屋を目指して歩く。
心は逸るが、澪の家族に遠慮して静かに足を運んだ。
澪の家族に見つかったところで、特に揉める事はないだろう。
夜に律と澪が互いの家を行き来する事など、珍しくはない。
その内容が秘め事であった時でさえ、黙認されてきているのだ。
乱交を疑われさえしなければ、唯達の存在は逆に健全だとさえ思われそうだった。
ただ、深夜の唐突な訪問という引け目が、律を自然と忍び足にさせていた。
遅々とした歩調であっても、所詮は家の中の移動である。
程なくして、律は澪の部屋の前まで辿り着いた。
澪と対面した時、何から言葉を切り出そうか。
今更になって、決めていない事に気付く。
夜中に来た非礼をまずは詫びるのか、それとも誕生日会に来てくれなかった理由をいきなり糾すのか。
ドアに向けて伸ばした手を止めて、律は硬直してしまった。
「りっちゃん?」
動かない律を促すように、唯が不審そうな声音で囁いてきた。
その声に追い立てられるように、律は右手でドアノブを握った。
埒の明かない思考に時を浪費するよりも、澪に会ってしまえばいい。
そうすれば仮に自分が何も話せずとも、澪が会話をリードしてくれるはずだ。
律の辿った思考は、責める相手に甘えるという自家撞着だった。
結局、律は澪なしでは生きていけないという事なのだ。
律は自己嫌悪に陥りつつも、手早く左手でドアをノックした。
そして、返事を待たずに右手でドアを開いた。
部屋の明かりが示していた通り、澪は室内に居た。
開いたドアに反応して、椅子に座った澪の首が律へと振り向けられる。
艶のある長く真っ直ぐな黒髪が、動きに呼応して滑らかに揺れた。
直後、澪の端正な顔立ちが瞳に飛び込んできて、律は懐かしさとともに見惚れてしまった。
前に会ってから、二日と経っていないのに。
律が見入っている中、澪の口がゆっくりと動いた。
「律、すぐに開けたらノックの意味がないだろ?
まぁ、それは今回は不問にしてあげる。
別件で、お前を詰問しないといけないからな」
澪の眦が吊り上って、律を睥睨してきた。
射竦められて身を縮ませる律に、容赦のない低く尖った澪の怒声が向けられる。
「遅いぞ、律。いつまで待たせるんだ」
途端、律は弾かれたように、澪の脚へと抱き付いていた。
萎縮も畏怖も、一瞬で彼方だ。
”待たせる”という言葉が、律の衝動を駆り立てている。
「馬鹿澪っ。待ってたのは私の方だよっ。
どうして、誕生日会に来てくれなかったの?
澪に祝って欲しかったのに」
律は脚に縋ったまま、澪の顔を見上げながら喚いた。
言葉を募らせるうちに、澪の顔が霞んでゆく。
どうしても、溢れ出る涙を留める事ができない。
「律、深夜だぞ?叫んだら迷惑だ」
怒声から一転、澪は静かな声で窘めてきた。
直後、後方からドアの閉まる音が聞こえてくる。
唯達の誰かが、澪の家人に配慮してドアを閉めたのだろう。
「だって、澪が来てくれなくて、悲しかったんだもん。
寂しがりっちゃんだもん。どうして、来てくれなかったの?」
律は声を静めて、もう一度問いを繰り返した。
声こそ抑えているが、胸中の激情は未だ滾ったままだ。
「それを聞きたいのは、こっちの方なんだけどな。
でもその前に、まずは涙を拭けよ」
澪が足を律の顔に宛がい、履いている靴下で擦ってきた。
澪も声からは怒気が消えているが、胸中では未だに怒りが燻っているのだろう。
ハンカチではなく足に履いたままの靴下で、律の涙を拭っている。
屈辱的な仕打ちながらも、律は抵抗する気になれなかった。
熾烈に匂う澪の足に、律の発情が促されてしまったのだ。
澪の黒い靴下に鼻を擦り付けて、律は恥辱に満ちた蹂躙を受け入れた。
そうして匂いを吸い込み、心地好い脳の痺れに酔った。
気付けば、律の手が自身の性器へと伸びていた。
律は澪を糾すという目的を思い出し、性器を弄りたい衝動に抗った。
ここで自慰にまで至ってしまえば、律は完全に陥落してしまう。
だが、昂ぶった性欲は、今にも律の意地を易々と突破しそうだった。
堕ちる、律がそう思った時。
間近の床に軽い金属音が響いて、律を正気に返らせた。
咄嗟に音のした方へと目を向けると、ヘアピンが落ちていた。
この室内でヘアピンをしている者など、一人しか居ない。
「ねぇ、澪ちゃん。さっきから、何をやってるのかなぁ?」
律がヘアピンを視認した直後、凄みの篭った唯の声が後方から聞こえてきた。
普段とは違うその声音に、律は恐る恐る振り向いて唯を見遣る。
律の予想通り、唯の髪からヘアピンが外れていた。
額に散る前髪と細めた目が相俟って、唯に畏怖の雰囲気を添えている。
「律が泣いているから、涙を拭いてやっていたんだよ。
それはそうと、危ないから物を投げるな」
唯の姿に恐怖していないのか、澪の声は落ち着いていた。
寧ろ、挑発的にさえ聞こえる。
「足で?」
一歩踏み出した唯を、紬が手で制して言う。
「待って、唯ちゃん。
ねぇ、澪ちゃん。りっちゃんが遅いって、どういう事?
二人はここで会う約束でもしていたの?」
「してないよ。ただ、律は私に誕生日を祝って欲しいんだろ?
なら、律の方から私の部屋に来るのが筋だ」
澪の態度は堂々としていた。
返答の内容と併せて、律から見てさえ傲慢に映る。
律にはそれが、本心を隠しているが故の強気に思えてならない。
「私達は今日、律先輩の部屋で誕生日会をやっていました。
それに来れば良かったんじゃないですか?
用事があるって聞いてましたが、今の素振りじゃとてもそうは見えません」
澪の対応が腹に据えかねているのか、梓の声は刺々しかった。
それでも澪の余裕は崩れない。
「今のやり取りで用事の内容も分かるだろ?
律の誕生日を祝う事が用事だよ。
律は私に祝って欲しくて必ず来る、そう確信していたからな」
「それが用事って……。私達と重複した内容じゃないですか。
だったら」
「もういいよ、あずにゃん」
唯が遮ったが、梓は構わず続けていた。
「だったら、私達と一緒に、律先輩を祝えば良かったじゃないですかっ。
どうして約束すらしていないのに、部屋に篭って律先輩を待っていたんですかっ。
私達は、仲間じゃないんですかっ?」
「仲間だよ。でも律の誕生日くらい、二人きりで過ごしたかった」
澪の自信に満ちていた声は一転して、寂しげな雰囲気を帯びた。
律は澪の怒りの原因も、誕生日会に来なかった理由も理解した。
澪は律以上に意地を張って、恋人の来訪をただ待っていたのだ。
その事を思うと、澪が堪らなく愛おしく思えてくる。
と、同時に、律の頭に罪悪感が擡げた。
自分は恋人の気持ちを斟酌する事なく、皆とパーティーに興じていた。
挙句、澪に怒りの念すら抱いたのだ。
澪に対する申し訳のなさが押し寄せて、律は言葉を失くした。
「やっぱり、ね。
気付いたのが今さっきだったから、そんな配慮もできなかったよ。
それじゃ、誕生日会には来たくないよね。
私達が浅慮だった」
律が言葉を発せぬうちに、唯が溜息とともに言った。
ヘアピンを投げた時から、梓を遮るまでの間に唯は勘付いたのだろう。
直感に優れた唯ならば、その間の澪の発言は十分な推測材料となったはずだ。
紬と梓が申し訳なさそうに目を伏せる中、
唯は手を伸ばせば触れる距離まで澪に近付いていた。
そして律を一瞥してから、唯は澪に向けて言う。
「でもね、りっちゃんは、とっても悲しそうにしていたよ?
それだけじゃない、心配もしてた。
澪ちゃんが意地を張らずに、りっちゃんに素直な思いを話していたら。
りっちゃんは、あんなに寂しそうな思いをせずに済んだんだ。
その事だけは、ケジメを付けさせて」
直後、唯が澪の頬を張り、甲高い打擲音が響く。
「澪っ」
律は咄嗟に叫ぶと、庇うように澪の前に立った。
「いいんだ、律。唯、確かにお前が言う通り、律には寂しい思いをさせたよ。
その分、今から可愛がる。存分に祝うよ」
律の肩に手を置きながら、澪が言った。
頬を張られた直後だというのに、何故か澪の声は晴れている。
「じゃあ、私達はお邪魔だね。
もう帰るから、りっちゃんを送り届けるのは澪ちゃんの役目ね」
唯は律の足を指差してきた。
つられて視線を向けた澪の口から、驚いたような声が上がった。
「どうしたんだよ、律。傷だらけじゃないか」
「澪ちゃんを想うあまり、裸足で駆けて来たんだよ」
唯が説明した途端、律は澪に抱き寄せられていた。
「ごめん、ごめんな、律」
「みーおー」
律の口から、意図せずして愛おしげな鳴き声が漏れていた。
本当は、謝らなくていいと言うつもりだった。
「帰りも裸足じゃつらいだろうから、澪ちゃん、よろしくね」
唯はそれが言いたかったのだろう。指を一本立てている。
「分かってるよ」
澪は理解を示すように、律を抱え上げてきた。
右腕が首の後ろに回され、左腕は両膝の裏に添えられている。
その姿勢に、思わず律の頬も朱に染まった。
「これで帰るの?」
「ああ、明日の朝、だけどな。
それまでは、可愛がらせて、愛しい愛しい私の律」
「澪……」
”私の律”という言葉が嬉しくて、律は瞳を潤ませた。
見つめ合う二人を冷やかすように、唯が言う。
「見せ付けてくれちゃって。じゃあ私達も帰るね。
さ、愛の巣から撤退するよー、あずにゃん、ムギちゃん」
帰宅を促されても、梓は動こうとはしなかった。
責めるような声音を、唯に向けている。
「あの、ビンタは、やり過ぎだったのでは?
謝った方がいいんじゃ」
「いいんだよ、梓。その、唯」
澪が恐縮そうに、梓を宥めていた。
だがその後に続けようとした言葉は、当の唯によって遮られた。
「澪ちゃん、言っておくけど、謝ったら殺すからね。
お礼を言っても殺す」
唯の口から飛び出た物騒な言葉に、律は顔を強張らせた。
ただ、言葉を返す澪の頬には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「こっちこそ、律に手を出したら殺すからな」
「うん、それでいいんだよ」
唯は満足そうに頷いた。
物騒なやり取りにも関わらず、澪と唯の間には友好的な雰囲気が漂っている。
「じゃあ、帰りますか。唯先輩ももう、気が済みましたよね?」
確認するように言ってから、梓はドアノブに手を掛けた。
対する唯は、手を上げて制している。
「あ、それなんだけどね。りっちゃん、お部屋借りてていい?
ちょっと、慰撫の時間が必要だろうから、皆でパーティーの続きをやるの」
「そんな、悪いですよ」
梓が遠慮したが、唯は取り合わなかった。
「あずにゃんもムギちゃんも、まだ気が済んでないでしょ?
忘れ物だってあるし。
それにほら、ケーキも残ってる」
「あ」
梓が気付いたように、短く声を上げた。
「私は構わないよ。あ、でも、ケーキ、私の分も残しておいてね」
唯達になら、不在の部屋を使わせても心配はない。
それだけの信頼を彼女達にも寄せていた。
最終更新:2012年08月28日 00:31