そんな私のことを知ってか知らずか、
ムギ先輩は私に近づき、正面から抱きしめました。
そっと触れるような、やさしい抱擁。
紬「いや?」
梓「……いいえ」
ムギ先輩からはいつもと少し違う匂いがしました。
優しい匂い。だけど高揚感のある匂い。
梓「レモンの香りですか?」
紬「不正解。たちばなの香水をつけてきたの」
梓「たちばな、ですか」
紬「そう。これは気持ちを高ぶらせる匂い」
ムギ先輩はそう言うと私をじっと見つめました。
真剣な眼差し。その眼差しの意味を私は知っています。
紬「いや、かな?」
私がゆっくり首を横に振ると、ムギ先輩の唇が近づいてきました。
そのまま私たちの唇は繋がりました。
優しく触れるだけのキス。
紬「ごめんなさい」
梓「なんでムギ先輩が謝るんですか」
紬「悪いことをしたと思っているから」
梓「そんな。悪いことだなんて」
紬「ごめんなさい」
梓「謝らないでください」
この時の私には、なぜムギ先輩が謝ったのかわかりませんでした。
その日のデートはこれで終わりましたから。
それから半年の月日が経ちましたが、
あの日別れてから、ムギ先輩とは一度も会っていません。
ムギ先輩が突然海外に留学してしまったからです。
―――
唯「ふぅむ。そんなことがあったんだ」
梓「はい。唯先輩はどう思います?」
唯「うーん。ムギちゃんも難儀な子だねぇ」
梓「難儀な子って……」
唯「でもまぁ仕方ないかな」
梓「えっ」
唯「ムギちゃんにはムギちゃんの事情があるんだから」
梓「それじゃあいいんですか! ムギ先輩がいなくなっても!!」
唯「ムギちゃんはいなくならないよ」
梓「へっ」
唯「絶対に戻ってくるよ」
唯「ムギちゃんは仲間だもん」
梓「その根拠のない自信はどこから来るんですか…」
唯「絆、かなぁ」
梓「ドヤ顔で言わないでください!」
梓「ねぇ、唯先輩」
唯「なんだい、あずにゃんくん」
梓「ムギ先輩のこと、好きですか?」
唯「うん。大好きだよ。あずにゃんは?」
梓「……わかりません」
唯「ふぅん。あずにゃん、恋してるんだね」
梓「恋ですか?」
唯「うん。愛じゃなくて恋」
梓「そうなんでしょうか……」
唯「そうだよ」
梓「ねぇ、唯先輩」
唯「なんだい、中野君」
梓「ムギ先輩を迎えに行こうと思います」
唯「それがいいよ」
◆ハンバーガーショップ
梓「いらっしゃいませ…………」
梓「いらっしゃいませ…………」
梓「いらっしゃいませ…………」
梓「いらっしゃいませ…………」
梓「いらっしゃいませ…………」
………………………・・・・・
店長「中野さん、もう上がっていいよ」
ムギ先輩が働いていたファーストフード店で、私はバイトしています。
バイトが終わる頃にはくたくたくなってしまいます。
かってムギ先輩は17kgのキーボードを持って通学していました。
バイト先にもキーボードを持ったまま立ち寄っていたそうです。
物凄い筋力です。
私には目標があります。
バイトでお金を稼いで、ムギ先輩の留学先であるフィンランドに行くのです。
ネットで調べたところ、航空券だけで10万円前後。
全く手がかりがないので、滞在期間は最低一週間くらい。
そう考えると、20万円近くのお金が必要になってしまいます。
もう16万円貯まっていて、次のバイト代で20万円を超える予定です。
◆飛行機
私は今空の上にいます。
雲の中に入ると上下左右に激しく揺れて、意外と怖いものなのだと知りました。
先輩たちに加え、憂、純の5人が空港まで見送りにきてくれました。
律先輩は「絶対連れ戻してこい。部長命令だ」なんて言ってたけど、
そもそも私はムギ先輩に会うことができるのでしょうか?
ムギ先輩の実家に何度もあたり、ムギ先輩の留学先を調べようと試みましたが、
結局、フィンランドという情報以外は手に入りませんでした。
仮に会えたとしても……、
私に何ができるのでしょう?
◆フィンランド
フィンランドについたのは夜遅くになってからでした。
その日はホテルを探し、チェックインし、そのまま眠りました。
翌日は朝早くから「琴吹家」を探し始めました。
梓「Sorry,I want to......」
通行人1「Sorry,I can't speak English」
梓「Sorry.......」
通行人2「I don't know cotton wiki.」
梓「No,cotton wiki!! KOTOBUKI!」
通行人2「God wiki? I don't know such a.....」
梓「――――――――――――」
――――――――
―――――
―――
―
「琴吹家」探しは前途多難を極めました。
まず英語の通じない人が意外に多い。
フィンランドはフィンランド語が公用語なのですが、
ガイドブックには英語もある程度通じると書かれていました。
しかし実際現地の人に話しかけてみると、
「英語はしゃべれない」と英語で返されることが多いのです。
そして英語が通じる人が相手でも「琴吹」という名前を伝えるのが意外と難しいのです。
街の人、観光案内所、果ては大使館まで回りましたが、
結局ムギ先輩の手がかりが全く手に入らないまま、
滞在予定7日間のうち6日までも費やしてしまいました。
7日目。夕方。今日の最終便はもう出てしまいました。
ホテルに泊まるお金もありません。
でも、何の収穫もないままでは帰れません。
野宿する覚悟で探索を継続している途中、
何かの役に立つかと思い、空港でレンタルした携帯電話が鳴りました。
表示されていた番号は……。
唯「もしもし、あずにゃん?」
梓「…………唯先輩ですか?」
唯「おー、あずにゃんだ。ムギちゃんにはもう会えたかな?」
梓「それがさっぱり……」
唯「そんなあずにゃんに朗報だよ。実はムギちゃんから暑中見舞いがきたのです」
唯「なんと『送り主』の住所入りだよっ! 今から言うからメモしてね」
唯「――――――――」
唯「じゃあ、あずにゃん頑張るんだよ!」
梓「はい。ありがとうございます」
梓「ヘイ、タクシー」
◆琴吹家(inフィンランド)
タクシーに乗って琴吹邸に来ることができました。
まるでお城みたいな大きなお屋敷でした。
インターホンを押すのを躊躇っていると、後ろから声をかけられました。
紬「梓ちゃん…なの?」
そこには半年前と変わらないムギ先輩がいました。
ムギ先輩に逢えた。その事実を認識した瞬間、
私の心に色々な感情が湧き上がり、涙が溢れてしまいました。
梓「ムギ先輩…ムギ先輩…ムギ先輩!」
紬「…梓ちゃん。もう泣いちゃって…」
梓「…ごめんなさい。もう逢えないかと思っていたから……」
紬「とりあえず私の部屋でお話しましょ」
梓「……はい」
紬「ダージリンで良かったかな?」
梓「はい」
ムギ先輩は手早く私のためにお茶をいれてくれました。
あの頃と全く変わらない手際良さで。
梓「ムギ先輩……」
紬「なぁに?」
梓「私……」
紬「……」
梓「……」
私は言葉に詰まってしまいました。
心の中はいろんな感情で一杯なのに、
一つも言葉になってくれませんでした。
紬「梓ちゃん。私、また賭けをしていたの」
梓「賭け?」
紬「そう。賭け」
紬「私はこれから『琴吹』の人形にならなければならない」
梓「琴吹…」
紬「結婚相手も決まっているの」
紬「もう何度も会っているわ」
梓「……」
紬「このまま行けば、私はその人と結婚して、家を継ぐことになる」
梓「……」
紬「その道を捨てるためには全部を捨てなきゃならない」
梓「全部」
紬「うん。全部」
紬「だからね。私は問わないといけない」
紬「梓ちゃん。あなたはどうしてここに来たの?」
紬「同情? それとも……」
梓「私は……」
梓「同情がないとは言いません」
梓「でも、決して同情だけじゃありません」
紬「じゃあ友情?」
梓「もちろん友情もあると思います」
梓「でもそれだけでもありません」
紬「それじゃあ……恋?」
梓「恋……なんでしょうか」
紬「梓ちゃんは私が欲しい?」
梓「……わかりません」
紬「じゃあきっと恋じゃないわ」
梓「違います」
紬「なんで違うって言えるの?」
梓「……ムギ先輩のことが頭から離れないからです」
梓「私、駄目なんです。キスしたあの日から」
梓「ごはん食べてても」
梓「憂や純としゃべってても」
梓「軽音部で練習してても」
梓「唯先輩に抱きつかれても」
梓「何をしてたって」
梓「ムギ先輩のことが頭から全然離れてくれません」
梓「後になってから『ごめんなさい』の意味がわかりました」
梓「ムギ先輩は本当に酷い人です。人でなしです」
紬「ごめんなさい」
梓「謝るなんて酷いです」
梓「謝るぐらいなら……戻ってきてください」
梓「軽音部のみんなも待ってます」
梓「私だって!」
紬「それはできないの」
梓「どうしてですか?」
紬「梓ちゃんが『好きだ』って言ってくれたら、日本に帰る」
紬「言ってくれなかったら、帰らない」
紬「そう決めてたから」
梓「……」
梓「……ムギ先輩の」
梓「ムギ先輩自身の気持ちはどうなるんですか?」
紬「私の?」
梓「ムギ先輩は、軽音部でみんなと過ごしたいと思わないんですか?」
梓「……私と、一緒にいたいって思わないんですか?」
紬「思わないわけない!」
梓「だったら!」
紬「全部を捨てるのはそんなに簡単なことじゃないの!」
紬「お世話になった人もたくさんいるわ」
紬「御父様や御母様のことだって、嫌いなわけじゃない」
紬「それを全部捨てる理由にはならない」
梓「……私が『好きだ』って言ったら、理由になるんですか?」
紬「うん」
ムギ先輩の中で、自分の存在がどれだけ大きいのか。
それを思い知らされました。
「好きです」と言ってしまうのは簡単です。
でも、今そう言ってしまったら、ムギ先輩の私の関係が嘘になってしまう。
だから私には言えませんでした。
最終更新:2012年09月05日 19:57