黄昏時。
誰も居ない部屋で、律がおもむろにケースからディスクを取り出す。
再生機に挿入した後、リモコンを操作しながらディスプレイに視線を向ける。
画面が暗転して数秒の後、律の見覚えのある場所の映像がディスプレイに映る。
小さく声を上げそうになりつつ、律はその声を押し留めてモニターから少し離れた場所に腰を下ろす。
更に十数秒。
同じ場面を流し続けるのかと律が錯覚し掛けた瞬間、彼女の後ろ姿が画面に映る。
秋山澪。
絹のように繊細な長い黒髪を持つ律の幼馴染み。
彼女は慌てた様子であらかじめ用意されていた椅子に座ると、
画面の方向、つまり、この映像を記録しているビデオカメラに視線を向ける。
「あっ……、えっと……」
澪は口を開くが、その言葉は続かない。
視線を散漫とさせていて、焦点も定まっていない。
頬どころか顔面全体を朱色に染めているようにも見える。
元より人の目も機械の目も苦手とする気質の彼女だ。
映像の中の彼女の行動は、ある意味で自明の理だったのかもしれない。
しかし、彼女は自らの右の手のひらに左手の人差し指で何かを書くと、それを呑み込んだ。
映像からでは詳しく確認出来ないが、
恐らく『人』という文字を書いたのだろうと律は判断する。
それは同級生の唯に教えられて以来、何度も繰り返して来た澪の癖だった。
普段の癖を行う事で多少は緊張も紛れたのだろう。
まだもう少し顔を紅潮させながらも、澪は再びビデオカメラに視線を向けて口を開いた。
「よう、律……。
いきなりこんな映像を見せられて困ってると思うけど、どうか少しだけ付き合ってほしい。
あの、さ……。
本当は映像じゃなくて、手紙で伝えようと思ってたんだよな。
律にしか見られないとは言っても、映像に録画されるのは全然慣れてないし……。
記録として残るのもちょっと恥ずかしいしさ……。
でも、さ……。
手紙にしようと思ってボールペンを握っても、言葉が出て来なかったんだ。
普段歌詞を書いてるくせに変だって思うかもしれないけど、
律に送る手紙だけは、どんなに悩んでも、どんなに頑張っても書けなかったんだよ。
パパとママ、唯やムギ、梓達に送る手紙は苦戦しながらも書けたのにな……。
律とは長い付き合いで、ずっと傍に居たから、上手く言葉が浮かんで来ないのかもしれない。
それこそさ、下手すると一緒に居た時間はパパやママよりも長いんじゃないか?
……って、それは言い過ぎかもしれないけど、
とにかく、私は律にそれくらい伝えたい事があって、
でも、手紙じゃ伝えられない言葉がたくさんあって……。
だから、苦手だけど、おまえのメッセージを映像に残す事にしたんだ。
乙女趣味なんて言わないでくれよ?
私だって精一杯考えた結果がこれなんだからさ」
画面の中の澪が軽く微笑む。
その後、少しだけ椅子から立ち上がり、腕で周囲を示してみせる。
「それはそうと、律。
この場所に見覚えあるだろ?
いくら忘れっぽい律でも忘れてないよな?
そう、私達の軽音部の部室だよ……、ってもう私達の軽音部じゃないか。
もう名前も知らない後輩達の部になっちゃってるんだもんな……。
そうそう、聞いて驚け、律。
軽音部さ、まだ存続してるらしいんだよ。
律が思いつきで始めた部なのに、まだ残ってるなんて凄い事だよな……。
私達の軽音部が凄かったから……、って言うよりは梓の頑張りのおかげみたいだけどな。
梓、自分が卒業した後も軽音部がちゃんと続いていくように、後輩をしっかり育ててたらしい。
さわ子先生が梓の頑張り、褒めてたよ。
「あんた達と違って、後の事まで考えてるいい部長だった」ってさ。
ははっ、ちょっと耳が痛いな。
今日はさ、さわ子先生に無理を聞いてもらって、部室に入れてもらったんだよ。
私とおまえの思い出は色々あるけど、
その中でも一番心の中に残ってるのは、高校時代の軽音部の部活だって思うからさ。
一番思い出深いこの場所で……、メッセージを残したかったんだよな……。
懐かしいよな。
律が文芸部に入ろうとしてた私を引き込んで、
合唱部に入ろうとしてたムギまで無理矢理入部させて、
お菓子に釣られた唯をがっちり捕まえて、後輩に梓が入部して来て……。
楽しかった……。
うん……、すっごく楽しかったよな……。
酷い失敗をしたり、喧嘩をしたり、辛い事や悲しい事もあるにはあったけど……。
でも……、それ以上にすっごく嬉しかったし、すっごく楽しかった!
唯が笑わせてくれた。
ムギが笑っていてくれた。
梓が私達を支えてくれた。
律が……、傍に居てくれた……!
本当に楽しい部活だったって……、私は今でも思う……!
これからだって、ずっと……!
だから、だ……から……」
瞬間、澪の瞳から一筋の涙が流れ出す。
澪自身も戸惑ったらしく、目元を手のひらで押さえるがその涙は止まらない。
堰を切ったかの如く、両目から涙が止め処無く溢れ出る。
肩を震わせ、澪の呻き声が軽音部部室内に響く。
ディスプレイを見ている律の肩も震え始める。
目尻を涙に濡らし、何度も瞬きをして、瞼を震わせる。
それでも、拳を握り、ディスプレイから目を逸らさない。
ただ、画面の中の澪の姿を見つめる。
見守る。
数分ほど経っただろうか。
目尻を拭い、目元を赤く染めながらも、澪は再び真正面を見つめた。
胸を張って、とまではいかないまでも、彼女にしては気丈な素振りで。
「ごめんな、律……。
泣くつもりなんか無かったのに、やっぱりちょっと……さ。
昔の事を思い出すと、懐かしくて辛くなっちゃって……、涙が止まらなくなっちゃうよ……。
でも、自分でも変だって思うけど、泣ける私が嬉しい。
まだ泣く事が出来る自分が嬉しいんだよな。
そう思えるのは、きっと律のおかげなんだよ。
うん……。
私の身体がこんな事になって、余命も僅かだって言われてさ、
自暴自棄になりそうだった私の傍に、それでも皆は居てくれただろ?
唯もムギも梓も……、憂ちゃんも純ちゃんも忙しい間を縫ってお見舞いに来てくれた。
その中でも一番私の傍に居てくれたのはおまえだったよな、律。
手術前、律は怖くて眠れない私の手を握り続けててくれた。
手術後、たくさんの患部を摘出して、お腹の中がほとんど空っぽになった私の頭を撫でてくれた。
激痛で叫び声を上げる私の傍に居てくれた。
激痛に耐えられなくて暴れる私の爪が当たって頬から出血しながらも、私を抱き締めてくれた。
おかげで私は絶望せずに今まで生きて来られたんだ。
余命を宣告された日から一ヶ月過ぎた今だって……さ。
律にはどれだけ感謝しても……、本当に感謝し切れないよ。
あ、変な事考えるなよ、律。
この映像は遺書の代わりってわけじゃないぞ?
これはただのおまえに対するメッセージなんだ。
遺書のつもりなんて全然無いし、私だってまだまだ生きてやるつもりなんだからな。
でも、何が起こるかなんて、誰にも分からないだろ?
この病気に負けるつもりは無いけど、ひょっとしたら他の要因で死ぬ事もあるかもしれない。
交通事故や災害は必ず起こるし、もしかしたら隕石が私の頭にだけ当たるって事も無いとは限らない。
どんな要因でいつ自分が死ぬかなんて、誰にも分からないんだ。
だから、私はこのメッセージを律に残そうって思ったんだよな。
私……、私さ……、この病気になって思った事があるんだよ。
神様はその人が乗り越えられる試練しか与えないってよく言うだろ?
残念だけど、私はそう思ってないんだ。
乗り越えられる試練だけ与える神様って何者なんだよ、ってのもあるけど、
どうやったって乗り越えられない状況に陥った人だって沢山居たはずだよ。
私だって、乗り越えるしかないから、どうにか乗り越えようとしてるだけだしな。
この状況を乗り越えられたかどうか……、
これから乗り越えられるのかどうか……、それは私には分からない。
私自身で判断出来る事でもないと思うよ。
大体、試練を与える神様自体、存在しないはずだって思ってる。
私がこの病気になったのは、単に人より少し運が悪かっただけだよ。
だけど、私は人より少しだけ運が良かったとも思ってるんだ。
私が少しだけ人より運が良いって思える理由……、
それは勿論、皆と……、律と出会う事が出来たからだよ。
私は偶然、たまたま、運良く律と知り合う事が出来て、
律は私の傍に居てくれて、離れないで居てくれて、その……親友……ってやつになれたと思う。
今さ、それがどれだけ凄い奇蹟だろうって、噛み締めてる所なんだ。
考えてみるとさ、言葉遣いだけじゃなく、
私は色んな所が律から影響されてる気がするんだ。
音楽とか、お菓子が好きな所とか、もっと細かい点でも……。
正直言って、律と出会わなかった自分の事なんて、想像も出来ないよ。
ちょっと照れ臭いけど、律はそれだけ私にとって大きな存在なんだと思う。
そんなにも大きな存在に出会えるなんて……、本当に奇蹟だよ……。
多分、誰にでも訪れてる……、だけど、誰もが見逃しがちな奇蹟……。
私……、絶対に律との思い出は忘れない。
忘れたくない。
忘れて……やらない……。
でも、もし……、もしさ……。
この先、私が死んだら、律は私の事を忘れてほしい。
……って言おうかとも思ってたけど、ははっ、やめた。
ちょっと口にしてみて思ったけど、この言葉って卑怯だよな。
こんな事言われて、忘れられるわけないじゃないか。
むしろ自分を忘れさせないために言ってるようにしか思えないよ。
でも、だからって、私の事を忘れないでほしい、ってのも何か違うよな。
それもそれで卑怯な言葉な気がするしな。
だから、私は律に対して、私の事は何も言わない事にするよ。
私との思い出は律の好きにしてくれて構わない。
律はいつも適当でいい加減な奴だけど、
意外とその選択は結構的確な事が多かったから、おまえに任せれば大丈夫だと思うんだ。
私、こう見えて律の事、結構信頼してるんだからな?
………。
……。
…。
でさ……、この際だから、最後に律に伝えておきたい事があるんだ。
言おう言おうと思ってて、ずっと言えなかった言葉がさ……。
私のずっと隠してた事……。
私さ、その……、律が……」
澪の言葉が途切れる。
表情をこれまで以上に紅潮させる。
恐らくは何度も何度も手のひらに『人』の字を書いては呑み込む。
それから五度ほど深呼吸をした後、
傍目から分かるくらいに全身を震わせながら、視線を画面の真正面に向けた。
大きく口を開く。
「私、律の事、好きだ!
好きだ!
大好きなんだ!
傍に居てくれて嬉しかった!
一緒に居てくれて楽しかった!
ずっとずっと言えなかったけど、本当に本気で大好きなんだ!
……ははっ。
あははっ、やっと言えた。
やっと言えたよ、律……。
ごめんな、ずっと言えなくて……。
照れ臭かったし、怖かったんだ……。
私なんかに好きだって思われてるのが嫌だ、って言われるのが怖かったんだよ……。
それでずっと……、言い出せなかったんだよな……。
あ、「録画でかよ」って突っ込まないでくれよ、律。
これが私の精一杯なんだよ。
律の事が好き過ぎて、大事過ぎて、言葉に出来なかったんだ。
これだけでも、上出来だって思ってくれると、嬉しい。
でも、律は何度も私の事を好きだって言ってくれたのに、
叩いてばかりでまともに返事が出来なくて本当にごめんな……。
勇気が……、持てなくてさ……。
でも……、ふふっ、変な感じだよ。
私の心臓、凄い速度で動いてるんだ。
こんな身体になっても、余命が短いって言われても、
まだ律の事を好きだっていう事の方にドキドキしてるんだ。
不思議で、何だか楽しくて、嬉しい気分なんだよ。
まだ私……、生きてるんだよな……。
なあ、律……。
だから、ここで宣言したい事があるんだ。
完治……は無理だろうけど、
私の身体がもう少しだけよくなったら、律の事が大好きだって自分の口から伝えるよ。
照れずにちゃんと聞いてくれよな。私も精一杯伝えてみせるからさ。
そうなったらこの録画したディスクを律に見せる事もなくなるけど、そっちの方がいい事だもんな。
そうなったら、いいよな……。
……それじゃあ、こんな所で私からのメッセージは終わりだよ、律。
願わくはこのディスクを律に見られるのがずっとずっと先の話でありますように。
無駄に……なりますように……。
うん……。
じゃあな、律!
お腹出して寝るのは身体に悪いからやめろよ!
偏食もやめるようにな!
いつまでも唯達と仲良くしてくれよ!」
ゆっくりと立ち上がる澪。
ビデオカメラの死角に入ったのだろう。
画面の中から澪の姿が消えた。
しかし、録画された映像は、それから一分以上、そのままの状態で流れ続けた。
澪が停止ボタンを押す事を躊躇っているのは、律にも即座に理解出来た。
まだ別れたくない。
そう考えているのだ。律も、恐らくは澪も。
更に一分ほど経過する。
このまま終わらないでほしい。
律がそう考え始めた頃、消え入りそうな澪の声が響いた。
「ありがとう」
それが最後の言葉、最後の映像だった。
それっきり画面は暗転し、それ以上映像が進む事は無くなった。
終わったのだ、澪の律への最後のメッセージは。
途端、律が肩を震わせ始める。
その場に蹲り、大声で泣き声を上げる。
震える唇を動かす。
誰に当てたわけでもない言葉、
だが、澪に伝えたかった言葉を呻くように口にする。
その後、長い間、律の泣き声と震えは止まる事は無かった。
黄昏時が終わり、宵が更けても、律はその場で泣き続けていた。
最後の一滴が落ちるまで、
もう少し胸の痛みが治まるまで、
律の澪に向けた涙は続くのだ。
以上であります。
ありがとうございました。
最終更新:2012年09月28日 21:07