「梓、好きだ」
先輩は、振り返りざまにそう言った。
「私、梓のことが……好きなんだ」
私にちゃんと、伝わるように。
それとも、勇気を振り絞っての言葉だったから?
何であれ。
先輩は、ゆっくりと、繰り返して言った。
私の事が、好きだと。
それが、律先輩が私にくれた、告白の言葉だった。
昼休み。
いつもの三人で机を囲み、お昼ごはんを食べる。
購買で買ってきたらしい菓子パンをかじる純は、脚を組んで浅く椅子に腰かけている。
憂のお弁当は、いつも手が込んでいて美味しそうだ。おそらくは憂自身のお手製なんだろうな。
私の手元には、お母さんの作ってくれたお弁当。それと、食後にと買っておいたペットボトル入りの紅茶。
「あ、梓。またそれ買ってる」
純が私のほうを見て笑った。
「梓ちゃん、それよく飲んでるよね」
憂も私の手元に視線を落として言う。
「甘くないから食後には丁度良くって。なんか知らない間に、お昼の後にこれ飲むのが習慣になっちゃったみたい」
「へえ」、「そうなんだ」、相槌が続く。
他愛のない会話。
たいていは純が話題を見つけてきて始まる、私達の雑談。
憂が相槌を挟んだり、純の言い分に同調したり。私が純の悪ふざけを諌めたり、それを聞かずに純が新たな話題をねじこんできたり。
昼休みはいつも賑やかだった。
そんな会話のさなか。
純が言った。
「ねえ、梓って、律先輩と付き合ってるの?」
「――え」
言葉に、詰まった。
「そ、そうなの、梓ちゃん?」
驚きを隠せないような憂の声が、耳を左から右へ通り抜ける。
固まった私に首を傾げて純が、
「あれ、違うの」
飄々と訊く。
「え、えーっと……」
明確な返事を出せない。
どう、なんだろう。
困惑した。
私と律先輩は、今、どういう関係なんだろう?
律先輩の告白の言葉を聞いたとき、私は数秒――いや、もっと長い時間だろうか――立ち竦んでしまって、しばらく声を出せずにいた。
先輩はそんな私を、最初はおそるおそるといった感じでじっと見つめ――しばらくしてはっと視線を少し泳がせ、それでもやっぱり意を決したようにもう一度私の顔を見て……と思ったら今度は、何かに縋るような表情を浮かべたりして……。不安の色を隠せずに狼狽していた。
私の感情は、そんな律先輩の仕草に突き動かされた。いや、私の気持ちは最初から決まっていたんだ、あとはそれが、律先輩の仕草をきっかけに口からこぼれ落ちただけ。
伝えなきゃ。
伝えたい。
私の返事、私の気持ちを。
「私も、好き、です……。律先輩のこと、好きです……!」
――律先輩が好き。大好き。
それは、ずっと前から暖めていた私の気持ち。理屈や理由を考えるより先に、胸のなかでいっぱいになっていた、私の全部。
はっとする。
私はこたえた。
――何に?
律先輩の告白に。
――告白って?
私への告白。
――つまり、どういうこと?
つまり、それは――。
駆け出した。
考えが言葉になってまとまるのを待たずに、私は律先輩に駆け寄っていた。
ふわ、と、優しい温もりに包まれる。
先輩は、私を抱きしめてくれた。
「……梓」
一呼吸あってから、安心したような先輩の声。優しい声。
「はい、律先輩」
暖かさを感じながら応えた。
「ありがとうな、梓」
頭を撫でてくれる手の感覚に、心地良さを覚えて。
「……はい」
私はそのとき、思ったんだ。
今、すごく、幸せなんだって。
好きな人と、結ばれたんだ、って。
歯切れの悪い私を、純は「ま、いいや」と笑い、早々と話題を切り替えて次の授業のことを話し始めた。
結局、純には照れ隠しだと思われたみたいだった。憂も追及はしないでくれている。
私から報告するまで待ってくれるんだろう。純の最初の質問こそ、多少野暮な勘繰りと言っていいのだろうが、ともあれ私はいい友達を得た。
二人の雑談をよそに、私は考える。
私と律先輩の関係について。
好き合ってる同士であることは……自分で言うのも気恥ずかしいが、間違いない。
じゃあ、付き合ってるっていうこと?私と律先輩は、恋人同士っていうこと?
……それが私にも疑問だった。
律先輩から“付き合ってくれ”とは言われていない。私からそう言ったわけでもない。それは、世間一般的には付き合っていることにはならない……と思う。
普通であれば告白の言葉と同時に、あるいは告白の前後に、交際を申し出る言葉を言うものなんだろうけど。私達には、告白の場面においてそれが無かった。
……でも、だからといって付き合っていない、と断言するのも……抵抗がある。お互い、相手に恋愛感情という意味での好意を伝え合ったんだ。結ばれた仲ではある。
じゃあ、なんで私が純の質問に答えられなかったかというと。
私と律先輩が、「付き合うこと」を約束していないからだ。
――それは、二人で歩く帰り道でのこと。
意を決して言ったんだ。
「私、梓の事が……好きなんだ」
私のこんな言葉を、梓はどう思うんだろう?
怖かった。だけど。
だけど、言わずにはいられなかった。
言わなきゃどうにかなってしまいそうなくらい――私の胸のなかは梓のことでいっぱいだった。
それは、ずっと前から暖めてきた私の気持ち。
私は梓に、自分の気持ちを告白した。
暮れていく陽で紅く染まった空の下、ふたりで橋を渡る。
部活のないその日、私は梓を誘って帰り道を一緒に歩いていた。
「律先輩、今日は他の先輩がた、一緒じゃないんですか?」
「ああ。ちょっと残って勉強してく、ってさ。真面目だよなー」
「……先輩、ちょっとは見習ったほうがいいですよ」
「あーんだとぉー?」
いつもの帰り道、いつもの会話。
いつも通りに生意気を言う後輩に、いつも通りの反応を寄越す私。
肩を組むようにして軽くのしかかると、驚いたように、それでいて少し楽しげに梓は声をあげた。
そんな見慣れた反応に安堵して、苦笑がこぼれる。
背中をぽん、と押して腕を解いてやると、やはり少し楽しそうに、梓は「もう……」と頬を膨らませていた。
私はそのまま、梓の数歩前に出た。
ふ、と、会話が途切れる。
私は立ち止まった。空気の流れが止まるのが分かる。
背後から感じる、こちらを窺っている梓の気配に心のなかで手を合わせ、
――ちょっとだけ。心の準備するからさ、ちょっとだけ待ってくれ。
深呼吸。
よし、言う。言うんだ。
高鳴る胸に、拳を握る。
「――梓、」
最初は名前を呼ぼうと決めていた。
『梓、好きだ』
それは、
『私、梓のことが……好きなんだ』
それは、とても簡素な告白だった。
私の名前を呼んで、自分の気持ちを伝えて。
私はそれでも嬉しかった。
大好きな先輩が、私のことを好きだと言ってくれた。
その意味する所は、両想いであるという事実。たったそれだけで私は満たされたし、これ以上の幸せなんてないと信じて疑わなかった。
その時は、確かに。
……でも、純に言われたことが、今は気にかかる。
付き合っているのか、いないのか。
ひょっとして、今の私と律先輩は、すごく曖昧な関係なんじゃないだろうか?
律先輩はきっと……告白の言葉を事前に考えていたはずだ。切り出し方はどうしよう、とか、どんな言い方をすれば上手く伝えられるか、とか、そういう試行錯誤を経てあの告白の言葉を選んだんだと思う。先輩はそういう人だ。
そんな先輩の告白の言葉は一言一句違わずに憶えている。
だから、だからこそ分からない、先輩の真意。
――律先輩、どうして「付き合ってくれ」って言わなかったんですか?
その言葉が欲しいわけじゃない。
ただ、先輩の考えが知りたい。
「付き合う」って?
「恋人」って?
先輩はどう考えているんだろう。
告白の日から数日。
あれから私と律先輩は、ほとんど毎日一緒に下校するようになった。
昇降口で先輩に会って。
名前を呼ばれて、駆け寄って。
二人で並んで下校する。
一緒にいられる時間が増えたのは単純に嬉しい。
学校にいる間、さすがにお互いの教室を行ったり来たりするようなことはしづらいから、こんな風に二人きりでいられる帰り道でのひとときは大切にしたかった。
いつもよりゆっくり歩くことを意識してしまって、なんだか可笑しい。
「だーいぶ涼しくなってきたな」
「はい。そろそろ秋も終わりですね。……そういえば律先輩、少し気になるんですけど」
「ん、なに?」
「律先輩って、冬はおでこ、寒くないんですか?」
「……なんだ、そりゃ。別にそんなに寒くないって。私にゃ髪くくってる梓の襟足のほうが、見てて寒いけどなー」
「私はマフラーしますから。もう少し寒くなったら」
ちら、と横目で先輩を見る。
「そっか」と呟いた律先輩の口から零れた吐息は白く染まっていた。目の前で白くなる自分の吐息を見つめて、「おおっ」と小さく声をあげて笑うその姿が微笑ましい。
……律先輩の考え。
訊くべきだろうか。私は迷っていた。
漠然とした言い方、訊いてもいいのだろうか、という疑念。
――不安だった。
私が先輩に告白の意図を尋ねることで、私達の関係がどこかしら変わってしまうんじゃないだろうかという、そんな不安。
律先輩が考えに考えて選んだ告白の言葉。それに「なぜ?」を投げかけるのは、無神経なんじゃないだろうか。
少し……いや、少しばかりじゃない。訊くのは怖い。
私達の今の関係をつくってくれたのは律先輩だ。
先輩が私に告白してくれて、それで始まった恋仲なんだ。
そんな関係を、私の疑問が、ともすれば些細な疑問が変えてしまうのかもしれない。そう思うと怖い。
……私は、臆病だ。
最終更新:2012年10月10日 23:34