あのときの――告白の直後の――律先輩の表情を思い出す。
 決意を込めた表情と、不安を露わにした表情とを、代わる代わる浮かべていた律先輩。

 先輩も怖かったんだ。自分の言葉が、現状を変えてしまうかもしれないということが。

 ――それでも、律先輩は口にした。私に好きだと言ってくれた。


 ぐ、と、拳を握る。


 ……今度は、私が先輩の勇気に応える番だ。臆病なままでは、いられない。

 迷った。
 迷ったけれど、ここで私が怖がってばかりでは律先輩の勇気を裏切ることになる。

 想いを、好意を受け止めるっていうのは、真正面から相手と向き合うことなんだと思う。
 なら、私は大好きな先輩のために――私達ふたり自身のために――逃げたりしてはいけないんだ。

 それに、相手に疑問を抱いたまま、それを隠して続ける関係なんて。
 そんなの、誰だって嫌だ。私だって、律先輩だってそのはずだ。

 怖いと思う気持ちは消えないけれど、私は先輩に訊かなきゃいけない。それは、私なりに考えて出した結論。

 口を開けて、軽く息を吸う。

 冷たい空気に身が締まるのを感じて声を出した。

「先輩」

「うん?どした」

 歩みを止めた私に、律先輩が首を傾ける。

「……気になってることが、あるんですけど」

「……ん」

 返事をして、先輩も脚を止めた。真剣に話をしたいという私の気持ちを汲んでくれてだろうか。その表情は穏やかだ。

「気を悪くしたらごめんなさい。でも、私、どうしても訊いておきたくって」

「うん。……話してみ」

 穏やかな表情はそのままに、律先輩が言う。
 その表情にどこかで少しだけ。安堵を感じて、




「……どうして、どうしてあのとき、“付き合ってくれ”って、言わなかったんですか……?」


 胸の内を正直に。
 律先輩に告げた。


「……」


 先輩の顔を見るのは少し怖かった。私の言葉に失望しているかもしれない。……怒っているかもしれない。呆れているかも。
 分からない。だから怖い。

 でも、目線を落としちゃダメだ。律先輩の顔を、目を、表情を、じっと見つめる。あのとき、先輩だってそうしたように。
 大事なことは、相手の顔を見て話さなきゃいけないと、先輩がそうしたように。

 自分の目線に意識を向ける。


 ――先輩は、少しだけ目を丸くして。驚いた表情を浮かべていた。


「――ごめんな、梓」



 ふ、と。先輩は表情を崩して。

「り、律先輩……?」

「余計な心配させちゃったな。だから、ごめん」

 律先輩は……あろうことか、私に謝罪の言葉を告げた。


 どきん、と、心臓が跳ねる。

 謝罪されるだなんて、そんなこと一切予想していなかった。その言葉は、むしろこっちが用意していたくらいなのに。

 ――え?ど、どうして?

 混乱する。

 予期せぬ先輩の反応に、咄嗟に考えがまとまらない。


 律先輩の言葉、その真意は?

 怒ってる?
 失望してる?
 呆れてる?
 それとも、もしかしたら……?






「――大丈夫。梓は悪くなんかないよ」

 ――混乱に揺さぶられる頭が、ふと暖かく支えられた。

「え……」

 それは、律先輩の手。

 優しく髪に触れる先輩の手が、混乱でどこかへ行ってしまいそうになっていた私の意識を引き戻してくれていた。


「梓の疑問ももっともだ。言葉足らずだったな、私」

 私の髪を撫でる先輩にされるがまま、身を寄せる。

「い、いえっ、そんなことは……」

「あーるーのっ。現に梓、混乱しちゃったじゃん」

「……うぅ」

 ……確かに、先輩の告白が元で私は色々なことを考えた。
 でもそれを先輩のせいだ、とは言いたくない。
 それに、

「それでも……自分が悪かったなんて、そんなこと、言って欲しくないです……」

「そりゃ、お互い様だ。梓だって、私に変な申し訳なさとか、感じてたろ?」

「……すいません」

「だー、謝んなって。……分かった、どっちが悪いとか、そういうのはやめにしよう。水掛け論だ」

 先輩の顔を仰ぎ見る。その表情は、優しく、諭すような苦笑。

 甘えたくなる優しさだ。すべてを委ねてしまいたくなる、そんな優しい表情。

「答えるよ、梓の疑問に。そうだな、何から話すか……ちょっと長くなるけど、いいか?」

「……はい」

 ……知らないうちに混乱はどこかへ去っていて。
 私は先輩の優しさに、自分の気持ちを委ね、小さな安らぎを覚えていた。

「よし、じゃあちょっと……コンビニ寄ろうぜ。あったかい飲み物でも買ってさ、んで話そう。梓、いつもの紅茶でいい?」

「……考えてたんだ。梓に告白するとき、何て言おうか。どんな言葉が、私達に必要か」

 乾いた音にオレンジ色のキャップが捻られる。容器を傾けて紅茶を一口、先輩はほっと息を吐いて話し始めた。

「どんな言葉が、必要……?」

 うん、と、律先輩は短く返事をする。

 胸のうちにあった不安はなくなったものの、未だに律先輩の真意は分からないままだ。
 でも、先輩は私の疑問に答えると言ってくれた。
 ならば私はそれに向き合おう。そうすることが疑問を晴らすことに繋がるはずだ。
 先輩の言葉に耳を傾ける。


「――なあ、梓。恋人同士って、どうやったらなれると思う?」

「……それは、」

 それはつまり、好き合う二人が恋人同士になるには何が必要か、ということ。恋人同士になるための条件を、律先輩は問うている。

 考える。
 先輩の告白に無かったもの、それは――



「……約束」

 ぼそり、と呟いた。

 ――約束。恋人として付き合うことを、お互いに承諾すること。二人の間で、自分たちは恋人であると取り決めること。

「そ。契約、なんていってもいいかもな。恋人ってやつになるなら、二人がそのことを合意した証に約束を交わす必要がある」

「それが……“付き合う”っていうことなんですね」

 再び、律先輩の首肯。

「ま、簡単に言えば、世間一般じゃ恋人になるには『付き合って下さい』『はい』みたいな口約束が必要ってこった」

「でも、先輩はそれを……」

 ……私に求めなかった。

「ああ。だから梓を困らせた。思えばあの場で、ちゃんと説明するべきだったんだよな。だからごめん――、っとと、謝るのはナシなんだってば」

「……聞かせてくれますか。あのとき、約束の言葉を言わなかった理由。今からでも」





「……ああ。私はべつに――梓と恋人同士にならなくても、いいんじゃないかって思ってるんだ」


 少しだけ肩が跳ねた。
 それは、先輩の言葉に不安が振り返して身体が反応したからじゃない。

 柔らかな感覚。
 私の左手を包む、律先輩の右手の温度。

 それはまるで、恋人がするみたいな――

「も一個、質問。“恋人同士らしいこと”って、どんなだと思う?」

 ……え?

 とんとん、と軽い感触が左手に伝わる。
 目線を落とせば見えるのは……軽く私の手を叩く、律先輩の人差し指。

 ……分かっててやってるんだろうか、この人は。

「……今みたいな、ですよ」

「うん?」

「ですから、今みたいに、手を繋いだり……」

「うん」

 続きを促すような相槌だ。

「ふ、二人でどこかにでかけたり、……抱き合ったり、……き……キス、したり……」

 ……口に出すと、なんとも恥ずかしい。

「も、もう!からかわないで下さいよ……!」

「あは、悪い悪い。……でもその通りだよ。好きだっていう気持ちを行動だとか態度だとかで表現するの、それが恋人同士ってやつなんだよな」


 ……と。

 再び左手に感じる、とんとん、という感触。

「――できるだろ?」

 目線を落とした先に――私と律先輩の手。

 はっと息を呑んだ私に律先輩は微笑んで、


「恋人同士にならなくても――約束を交わさなくても、私達はお互いに想いを表現し合えるんだ。お互いを好きなままで、いられるんだよ」


「……そっか」

 呟く。

 ……思えば、ただの口約束に、私はなぜ執着してしまっていたんだろう。
 恋人同士じゃなきゃできないこと、なんて、そんなのあって無いようなものじゃないか。

 手首を返して、私は律先輩の手を握り返す。

 ようやく分かった、律先輩の考え。

 それは、なんだかとっても素敵なことだと思った。

 なにひとつ約束を交わさずとも、好き合う二人は好き合う二人のままでいられる。
 言葉でつくった約束に縛られない関係。それは、きっと、何より強い絆で結ばれている。

 ――二人の間に通じ合う好意という、何より純粋な絆。

「だから私は、梓に“付き合ってくれ”とは言わなかったんだ。約束で縛りつけたくなかった。そんなことしなくても、私はずっと梓のことが好きだし、」


「――私も」

 握った手に力がこもる。

 それは、二人で一緒にこめた力。二人で一緒にこめた想い。

 誓いじゃなくて、約束じゃなくて、そこにあるのは好きという想いだけ。

 付き合っていなくても、恋人同士じゃなくても、想いは確かにそこにある。


「私も、好きです。大好きです、律先輩」


 必要なのは、何より大切なのは、その想い。


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最終更新:2012年10月10日 23:35