「そういや久しぶりだな、澪と一緒に帰るの」
「……そうだな」
確かに律と二人で下校するのは久しぶりだ。ここ最近はずっと、律は梓と二人で下校していた。律の幼馴染みとして、梓の先輩として、そんな二人の関係に寂しさを感じなくもないが、まさか二人の間に割って入ることも出来まい。
それに、寂しさ以上に、二人が恋仲になったことは単純に嬉しかったんだ。祝福すべきであるし、そうしたいと勿論思う。
だから私は見守ろう。唯とムギと三人で、二人の良き理解者として。律と梓の恋を見守ろう。
……そうしたいと、思っていた。
「……なあ、律」
――だけど、
「ん?」
「……話があるんだ」
だけど、私は見過ごせなかった。
「なに?また歌詞書いたとか?」
「そうじゃない。梓のことだよ」
今の二人の関係を。律と梓、ふたりのことを。
「律、本当に梓のこと――好きなんだよな?」
「……なんだよ。急にどうした?」
「……いいから答えてくれ。梓のこと好きだって気持ち、本当だよな?……梓のこと、大切に思ってるよな?」
消えた私の影と足音に、先を歩いていた律が振り返る。
私を見て数度、大袈裟に瞬きをしてみせた律は、
「だあ、信用ねーなー……。当たり前だろ、ちゃあんと好きだし、大切だって。嘘なんかついてどうするんだよ」
息をこぼしてうなだれた。なにをそんなに疑っているんだ、とでも言いたげな調子だ。そのまま踵を返そうとする。
……待て、まだ話は終わってない。そんな答えじゃ、私は納得できない。
思わず一歩前に出た。
「じゃあ、あれも……本気で言ってるのか、律」
呼び止める。
あれって?と律が私に向き直る。
……言わなきゃいけない。
それは、言わずにいたら私が後悔するからじゃない。私のために言うんじゃない。
律と梓のために、言う必要があるんだ。
「そうする必要はないから付き合わなくてもいい、って、それが律の考えだろ……」
律が首肯する。
「そんなの――間違ってる。おかしいよ、律」
お互い好き合ってはいるけど、付き合ってはいない。
付き合うことを約束する必要はない。
それが律の考えで、約束で梓を拘束したくないという、律なりの優しさであるらしい。
――違う。そんなの、本当は優しさなんかじゃない。
私は、律の優しさ否定する。
「梓のことが好きなら、大切に思ってるなら、“付き合おう”って、言ってあげなきゃいけないんだよ……約束は必要なんだ、律」
正面に立つ律から、私は目線を逸らさない。目線の先に立つ律は、驚きに頬をひきつらせていた。
当然だ。私は今、律の考えを踏みにじるようなことを言った。
罪悪感に苛まれてか、心臓が跳ねる。
それでも、私は否定し続ける。律の優しさを。
……まやかしの優しさを。
「あ……い、いや、あのな澪?よく考えてみろよ、別に付き合うだ付き合わないだってのがなくてもさ――」
ああ、知っているよ、律の考えはよく知っている。
付き合う、だなんて約束を交わさなくても恋人同士らしいことはできるし、お互いに好きな気持ちは変わらない。そう言うんだろう、律は。
違うんだ、律。
「そんな曖昧な関係じゃ、お互いずっと好きなままじゃいられないんだよ。このまま付き合うって約束をしないなら梓とは……長くは続かないぞ」
「な、なーに言ってんだ澪……そんなことあるかよ。私はずっと好きだよ、約束なんかなくったって、それは変わったりしないって」
受け流すみたいに律が言う。
待てよ……だから、そうじゃないんだ、律。気持ちや想いは、それだけじゃ維持できないのがなんで分からないんだ。
「変わるよ、変わっちゃうんだよ、律。分からなくなるんだ。付き合ってるって事実がないと、相手が本当に自分のことを好きなのかとかが不安になって……自分の気持ちが分からなくなるんだ」
一切の約束なしに続けていられる関係なんて、あるはずない。それは律と梓、二人だって例外じゃないはずだ。
「なんだよそれ。確認しなきゃ分かんなくなるようなら、元々その程度の気持ちってことだろ。私の想いはそんなふうに弱くないぞ」
律の想いは、か。
……よく言えたものだ、そんな台詞を。
「お前の想いはそうかもしれないよ。――でも、梓はどうなんだ」
律の想いがどうかは問題じゃない。
肝心なのは梓の気持ちだ。
律、お前はそれを、ちゃんと考えてやれてるのか。
「……どういうことだよ」
……やれやれ、澪の心配性め。
そんなに私じゃ不安か。そんなに、私には梓を任せられないっていうのか?
ため息と苦笑いが同時にこぼれそうになる。
「梓の気持ちは律と同じなのかってことだよ。梓は、約束がなくても律のことを好きなままでいられるのか?」
梓の気持ち、だって?決まってんだろ。
あのとき――私がなんで約束をしなかったのかって梓に話したとき、私と梓の気持ちは完全に通じ合った。私の気持ちだけ一方通行なはずがない。
「好きなままでいてくれるって信じてるよ。梓は私の考えを受け入れてくれた。受け入れて、私と想いを通わせてくれた。だから、私と梓の気持ちはおんなじだ」
……まあ、澪の気持ちも分からないわけじゃないけどさ。
見ていて危なっかしいのかもな、私は。
普段から頼りないところを見せてばっかりだしな。ついこの間だって、梓に余計な心配をかけさせた。いくら幼馴染みだからって、そりゃ無条件に信頼はできないのは分かる。
信じてくれ、なんて……言いにくい。
でも、
「信じてくれよ、澪」
私は言う。
確かに私は頼りないヤツだよ。
けどさ、それでも、もう大丈夫なんだ。梓のことでなら、梓のためなら、私はちゃんと、しっかりする。
だから、頼むよ。私と梓のことは、静かに見守っていてくれないか――
「――信じられるわけ、ないだろ」
……それだっていうのに。
澪は、静かに、そして力強く。
私の懇願を跳ね除けるように、言った。
……なんだよ。
なんでそんなに、私を否定するんだ。だから、私の何がそんなに不満なんだ?
なんでそんなに、確信めいたふうに否定できるんだ?
「……どうしてだよ、澪」
声が震えた。
くそ、なんでこんな、不安な気持ちにならなきゃいけない。
「お前が本当は、梓のことを考えてやれてないからだ」
梓の気持ち?何度目だ、その言葉。
……馬鹿にするな。言うまでもない、そんなの。
「その辺にしとけよ、澪……いくらなんでも、そろそろ怒るぞ」
「――怒ってるのは私のほうだ!なんで、なんでお前はそうやって……自分のことしか考えられないんだ!」
……澪が、叫んだ。
その言葉は、私への蔑み。
――ああ、ちくしょう。限界だ。ふざけるな。
「難癖つけるのもいい加減にしとけよ、澪……!誰が自分のことしか考えられないって?私は梓のことはちゃんと考えてる、何度も言わせるな!」
「それが間違ってるって言ってるんだ!約束は要らないとか付き合う必要はないとか、そんなの梓の気持ちじゃない!」
「梓は私の考えを受け止めてくれたんだ!それが梓の気持ちじゃないならなんだっていうんだよ!」
「梓の真意じゃないんだよ、それは!今の梓は好意が通い合ったことに舞い上がってるだけなんだ!律の言うことなら、全部正しいって思えちゃうんだよ!」
「――じゃあ、私が梓の気持ちをあおったっていうのか?!」
叫んで、瞬間。思わず息を呑んだ。
鈍い衝撃を、とてつもない速さで後頭部に叩きつけられたような、そんな錯覚に全身がおののく。
……ふざけるな。
……ふざけるな、ふざけるな!
そんなつもりで梓と話をしたんじゃない。言いくるめてやろうだなんて、そんなこと考えたりしてない!
「そんなこと、するわけ……!」
そんなこと、するわけないのに。
……ああ、でも、どうしてだ。
声に力が入らない。震える喉を抑えられない。
「……結果的にはそういうことだろ。律に自覚があったかどうかなんて問題じゃない。事実としてお前は――梓に自分の考えを押しつけたんだ」
……押しつけた?私が?そんな、そんな馬鹿な。
あるはずない、そんなこと!
気味の悪い浮遊感が、全身を漂う。
梓の考え。気持ち。
ひょっとして私は、梓がそれを見つける機会を奪ってしまったのか?
そんなことない。
……そう思いたい。
自分の考えを押しつけたりなんて、もちろんしていない。
でも、梓の自発的な考えは……聞いていなかった。
だから、梓の真意は分からない……。
約束は要らないと、そう言ってくれたのは、一時の感情によるものだったのかもしれない。
もしかすると、梓はまだ自覚していないだけで――本当は私との約束を望んでいるのかもしれない。
……本当に、そうか?
梓、約束なんて、欲しいか?
あんなの、あったってお互い縛られて窮屈なだけじゃないか。
「……なんでそんなに、約束にこだわるんだよ」
思いが呟きになって、外へこぼれた。
頭から煙が出そうだ。
約束の必要性。
今はもう、それがなんだか……分からない。自分の考えに、自信がもてない。
「……なあ、律。例えば梓と手を繋ぐと……安心するだろ」
――応えたのは、澪だった。
澪は、約束は必要だと、そう言った。
澪にはわかっているのだろうか?約束の必要性が。
私の首は、縦に小さく傾く。
「それと同じことなんだよ。約束はお互いの心を繋ぐんだ。一緒にいられないときでも、交わした約束があるから、好きだっていう気持ちを思い出して安心できるんだよ」
……安心。不安に押しつぶされそうな私の心に、その言葉が強く響いた。
私は、梓を一度不安にさせた。
これから先、梓を不安がらせないようにしたいとは思うけれど……そうできる、と断言できるような根拠を、今の私は持っていない。また私が至らなくて、梓を不安にさせることがあるような気がしてならない。
でも、約束をすることで、ひとつ。私は梓に、安心を与えてあげられるかもしれない……?
「だから私は、約束は必要だと思う。律、お前と梓の間にもそれが必要かどうか……もう一回よく考えてくれ」
澪はそう言って、私の横をすり抜けて去る。
私はその場に立ち尽くしたまま。
……間違っているのか、私は?
私は梓に、自分の考えを押しつけてしまったのか?
――――
相も変わらず梓ときたら、食後に紅茶は欠かさないらしい。
……よく考えたら、軽音部でも毎日のように紅茶は飲んでるんだよな?それもとびきり上等なやつを。
なのにペットボトル入りの、自販機でもコンビニでも買えるような、どこにでもある紅茶をなんで好んで飲むんだろうか。
紅茶そのものに飽きたり、そうじゃないにしても安物は飲めないくらいに舌が肥えてたりはしないのかな。……謎だ。
――けど。
ま、人の好き好きに口出しはするまい。
梓がそれでいいっていうんなら、いいんだろう。私がとやかく言わなくてもいいことだ。
「……でね。憂、純」
その梓が口を開いた。ペットボトルのキャップを閉め、机の端に置いてひと呼吸。
「私と律先輩のことなんだけど、さ」
……きたか。
思わず表情が緩む。憂も微笑みで以て、梓に相槌を返した。
ついこの間、私が二人の関係を訊いたとき、梓が返答に逡巡したことを思い出す。
内心、地雷を踏んだかと思ったものだ。いや、事実あれはちょっと地雷だったんだろうな、軽々しく他人の領域に踏みこみがちなのは私の悪い癖だ。
表面上なんでもないふうに装ったけど、心のなかでは反省した。こういうのは、本人達からの報告を待つのが礼儀みたいなものなんだろう。
……で、そうやって少し待って、そして今だ。
梓が律先輩とのことについて話そうとしてくれている。
待つのも礼儀なら、然るべきときにそれを聞いてやるのもまた礼儀だろう。
私は悪戯っぽく笑って、続きを促した。
「うん、少し前にね、律先輩から好きだって言ってもらって、私も好きですって応えて……。だから、好き合ってる同士、とでも言えばいいのかな……」
梓は視線を手元に落として少し口ごもる。
まあ、改めて言うのは恥ずかしいんだろうな。にしたって少し、煮え切らない感じもするけど。
それもまた微笑ましい、か。いいんじゃない、初々しくてさ。
「――まあ、ね。付き合ってはいないんだけど」
「……へっ?」
……梓は努めてなんでもないふうに言って、頬を掻いた。
ちょっと待った、その発言、なんでもないってことはなくない……?
一見矛盾しているかのような梓の言葉に、私と憂は首を傾げた。梓は「まあそうなるよね」とでも言うようにへらっと笑い、補足を入れる。
曰く。
付き合っていようがいまいが、お互いに好きなら一番肝心なのはその気持ちで、約束なんかなくっても恋人らしいことなんていくらでもできる、だからわざわざ付き合おうなんて言う必要はない――
改めて言うのも恥ずかしいな、と、梓は小さく咳払いをしてみせた。
……いや、いやいや。
そりゃまた随分と斬新な発想だ。煮え切らない切り出し方をしたのはそういうことだったのか。
「そっかあ。おめでとう、梓ちゃん」
憂が言う。梓はそんな言葉に、いっそう濃く照れ笑いを浮かべていた。
最終更新:2012年10月10日 23:38