斬新、というか、奇抜な考え方だなとは思う。
けどまあそもそも――女子高だから少しは珍しくないってだけで――世間的には同性のカップルなんて、それ自体が奇抜だ。今更二人の関係にツッコミを入れるのも野暮だと思う。
人の好き好きに口は出さない。
本人達がそれでいいっていうんなら、傍から見れば変わっているようなことにも、あえて異を唱えたりはしない。
「――梓」
……はず、なんだけどな。
そんな意に反して、私は身を乗り出して梓を覗き込む。
過ぎた干渉はしたくない。
でも。
……でも、流石にちょっと、そのまま聞き流せることじゃなかった。
「梓はさあ……それで、いいの?」
「えっ」
きょとんとした顔で梓はこちらを見やる。
……この感じは、ひょっとするとひょっとして。“気付いていない”のかな。
「それ……今までと変わらない、じゃん」
私がそう言った途端――梓の表情が固まった。
……やっぱり。
やっぱり、そこには意識いってなかったな。
――これは、私の個人的な恋愛観だけど。
付き合うことを約束するってことは、そこで二人の関係を一新することなんだと思う。
今まで育ててきた恋心、それは胸の内にしまっておいて、そしてゼロからまた新しく、二人で愛情を育んでいく。いわゆる共同作業ってやつ。
恋仲になるっていうのは、意識を共有することだ。二人でひとつの愛情を共有することもそう。
それは、今までひとりでやってきたことを、今度は二人でおこなうっていう……言わば、変化だ。それも、けっこう大きな。
そんな変化にはっきりと区切りをつけるために、心機一転するために、人は告白の言葉に約束を選ぶんだと思う。
――梓たちの場合、その区切りがどうも曖昧だ。
付き合わなくてもいい、っていうのは律先輩の考えで、梓はそういうのもいいなって賛同したんだそうだけど。
……梓、本当に約束なしで、はっきり区切りをつけずに、やっていけるの?
「……い、いいのっ。今までと変わらなくても、私達の気持ちが変わるわけじゃないし、もし付き合えたらしてみたいなって思ってたことも、今のまま、でも……できるし……」
明らかにうろたえた調子で、梓が言う。
恐らく。
気持ちの切り替えが曖昧な状態で関係を続けていったら……どこかで不安になるときが、きっとくるんじゃないかと思う。
それは多分、一緒にいるのがほとんど当たり前みたいになったとき。
そんなとき一度でも、本当に自分は相手のことが好きなのかとか、相手は自分のことが好きなのかとか……互いの好意を疑うようなことを、一度でもしてしまったら。
すぐにでも約束が欲しくなるだろうけど、その頃には良くも悪くも関係は成熟してしまっている。そこで約束したって、手遅れだ。
「梓、そのことはさ……もう一回、考えたほうがいいと思う」
だから、私は見過ごせない。人の好き好きにだって、文句を言う。
大切な親友のためだ。大切な親友の――大切な恋。
私はそれを応援したい。梓が心に決めた相手、律先輩とはできる限り上手くいってほしい。
私は梓へ手を伸ばす。
その手を握るために。梓の恋に、添えるために。
……でも。
「――ちょっと、トイレ」
私の手は届かなかった。
梓は小さな声で早口に呟くと、席を立って小走りで教室を出て行ってしまう。
……上手くいかないな。
いつの間にか倒れていたペットボトルが転がって、指先にちょこんとぶつかった。
昇降口で梓と会う。
一緒に帰るのは、一日ぶりか。たった一日、だけどなんだか、ずいぶん間が空いたような気もする。
最近じゃ一緒に帰るのが当たり前になってたんだな。別に、ここで合流しようだとか、そもそも一緒に帰ろうだとかを約束しているわけじゃないんだけど。
……約束、か。
最初は、何の取り決めもないのに下駄箱に向かうタイミングがたまたま同じで、結果的に一緒に帰れることに、バカみたいな言い方だけど、運命めいたものを感じなくもなかった。
だから、なのかな……?
学年も違う私達が、ほとんど毎日一緒に帰れるなんて偶然、それを嬉しく思ってしまって。
だから私は、梓との間に約束なんて要らないって、そんなふうに錯覚してしまったんだろうか――?
目を力いっぱい閉じて頭を振る。
違う違う!
まだ、私の思い違いだって決まったわけじゃない。
澪と喧嘩してから、一晩考えた。
澪の言うように、梓が私の考えを全て肯定してくれるみたいな、主体性を欠いた状態であることは……正直、ないとも言い切れない。
それは、梓が私を慕ってくれているという証拠でもあるわけだから、その気持ちは嬉しい。嬉しいけど反面、あまり信じたくはない。
隣を歩く梓を見る。
聞いてやらないといけないな。梓の考えも。
そうだ、大切な人の気持ちをちゃんと考えるっていうのは、そういうことでもあるんだ。私には、梓自身の考えを尊重する義務がある。
繋いだ手に意識を向けた。
私が何も言わなければ、梓は自分の本意に向き合うことに気付かないままでいるだろう。
……私が気付かせてやらないと。
そのきっかけを奪ってしまったかもしれない私が、今一度ちゃんと、梓に自分の真意と向き合う機会を与えてやらないと。
そういえば、今日の梓はやけに物静かだ。いつもなら二人での帰り道、何気ない話題でも会話が途切れたことがないくらいなのに。
私から話しかけていないせいもあるか?それにしたって、こんな日はちょっと珍しい。
……体調でも悪いのか?
それとも考え事?
梓の横顔は晴れない。
「梓、どうかしたか?」
覗き込む。
梓は目の前に現れた私の顔にはっとして……。
「……っ」
顔を伏せた。
――直感する。
前髪にほとんど隠れてしまった表情の隙間に、しかしきつく結んだ唇が見えた。
悩み事か。
梓は今、悩んでいるんだ。
悩み事を抱えているときの梓は、どこか塞ぎこんだ様子で、そのくせ「何でもないです」とか言って人にそれを打ち明けることをしない。
遠慮がちのは、そりゃもう癖みたいなものになってるんだろうけど……それでも遠慮なんてしてほしくない。そんな関係でいたくない。
手を差し伸べる。
それに梓は、一人で抱えた悩みを一人で大きくしていって……ある日、ふっと心を決壊させちゃうんだ。
そんな不器用も可愛いけどさ。
でも、できることなら悩みなんてささっと解決して、梓には笑っていてほしい。
だから、私を頼ってくれ、梓。
一人で悩ませたりなんて、させたくないんだ。
「あず――」
伸ばした手で髪に触れようとした――その刹那。
まるで、その手を払うかのように。
梓は腕を開いたかと思った瞬間とびついてきて――私は梓に抱き締められた。
「え、あ……えーと、梓……?」
驚いた。
普段は自分から抱き着いてきたりなんて絶対しないのに……何があったんだ、梓?
落ち着かせてやろうと頭を撫でようにも、梓は私の腕ごと全身を抱き込んでしまっている。身動きが取れない。
それどころか、梓は私の身体にまわした腕にどんどん力を込め、いっそう身体を密着させてくる。
膝もつま先もぶつかってしまうくらいのゼロ距離。目と鼻の先には、梓の頭。髪から漂うのだろうか、鼻孔をくすぐるような香りに……今は意識を向けないようにして。
努めて冷静に、梓を落ち着かせるにはどうすればいいか考えて、その小さい姿を見る。
――梓は、震えていた。
その震えは断続的で、これだけ近寄っていてもすぐには分からないくらい小さいもの。
……なにが、梓をこんなに不安にさせた?
震えが小さくても分かる。身体を密着させなきゃ気付かないような小さい震えでも、その不安は些細なものじゃない。昨日会えなかったことに寂しさを感じただとか、そんな可愛いものじゃ断じてない。
何があった。
どうしたんだよ、梓。
……まさか、約束のことか?
ひょっとすると、梓は昨日のうちになにかがきっかけで自分の本意に気付いて、それがやっぱり、私とちゃんと付き合いたいっていう気持ちで、でも私の手前その本音を言い出せずに……?
私まで不安になってくる。嫌な予感が胸をよぎる。まさかとは思いつつも……他に梓が抱える懸念事なんて、今はそれくらいしか思いつかない。
「……約束の、ことか?」
ふ、と、疑念が口から漏れた。
――梓の身体が小さく跳ねる。
……そう、なのか。
全身から血の気が引くような気がした。梓に抱き締められていなかったら、その場に倒れ込んでしまいそうなくらい。
……やっぱり、やっぱり梓も、約束が欲しいのか?
私は、梓に自分の考えを押しつけていたのか?
私は、間違っていたのか……?
「――律先輩」
か細い声で、縋るような調子で、梓が呟く。
今度は私の身体が跳ねた。
――嫌だ、聞きたくない!
梓は今から、私の考えを否定するんだ。
澪にそうされるのとはわけが違う――ずっと一緒に、同じ気持ちでいられたらいいなって思ってた相手に、それを否定されるんだ。
そんなの、耐えられない。
逃げ出したい気持ちが全身を走る。
やろうと思えば、梓の腕を振りほどくくらい簡単だろう……でも、そんなこと、できるわけない。
そんなことをして、私に拒絶された梓はどうなる?私に裏切られた梓はどうなる?
……くそ、じゃあ私はどうすればいい……?
頭の中がぐるぐるする。混乱に吐き気すら覚える。
それでも梓は、私に縋る。
――縋るように、私を否定する。
「先輩――キス、してください」
どうしてだ、どうしてだよ、梓……!
それは、梓がいま求めているそれは、ただの結果じゃないか……。
約束の代わりに、キスをしたっていう事実を求めているだけじゃないか!
そんな目的でしていいものじゃないだろう、そんなキスで、不安が晴れたりなんてするもんか!
違う、梓のやっていることは、それは間違っている……!
……止めなきゃ!
ここでキスをしたら、私達はもう元通りの関係には戻れない。約束の代わりのキス、そんなの、結局不要に私達を縛りつけるだけなんだ――!
「待て、梓……!」
私は梓を身体から引きはがして、その肩に手を置いた。
――その表情に、心臓がどくんと爆ぜる。
「……ごめん、な、さい……」
それは、涙。
梓の頬を、涙が伝っていた。
「……なんで、謝るんだよ……」
違う。
そんな言葉がほしいんじゃない。
いいんだ。謝らなくても。
……分かっていたんだろう、梓。
そのキスが、私達の関係を壊してしまうものであることを。
分かっていながら、行動に移してしまったんだろう。
それがもどかしくて、自分が嫌になって、泣いてしまったんだろう。
そんなの、どうして責められる。無理に決まってる。
――話をさせてくれ。梓と話がしたい。
約束がほしい、それが梓の本当の気持ちだっていうんなら、私はできる限りその気持ちを汲んでやりたい。
梓の気持ちに、応えてやるんだ。
二人でその不安を晴らそう。
今なら間に合う、私達の関係は……まだ壊れてもいなければ、これから育てていくものなんだ!
だから、梓。
そんなふうに、後ずさりするのはやめてくれよ。
逃げなくてもいいんだ。
逃げなくたって、いいのに……。
――けれど、梓は踵を返して、走って行ってしまう。
虚空に涙の雫を残して、私の手からするりと抜けていってしまう。
想いは届かない。
それは、私達の間に約束がないからなんだろうか。私の馬鹿げた思い違いが、梓を巻き込んでしまったせいなんだろうか。
……これで、終わり?
嫌だ、そんなの、嫌だ……。
梓と二人で確かめた。何より大切なのは、好きだっていう想いなんだって。
私の想いはまだ冷めていない。冷めるどころか、いっそう強く募るばかりだ。
だからまだ、諦められない。ここでお終いなんて、絶対にごめんだ。
……それでも、唇が強張る。泣きたい気持ちでいっぱいになる。
梓。
私のこと、嫌いになったかな……?
もうダメだって、思っちゃったかな……?
ああ、そうか。
こんな不安も――約束がないから、生まれてしまうのか。
最終更新:2012年10月10日 23:39